褒めるということ。2007年03月19日 22時07分52秒

なんつーか、このエントリーにはてなで 3桁台後半ものブクマがくっつく意味わからん。そりゃいいこと言ってるけどありふれた言葉じゃないの。ブックマークって後々参考になるかもしれない情報を押さえておくために使うものなんじゃないの? ソーシャルなら知の共有にもなる。ってまぁ、別にいいんだけどさぁ。

それでもっと悪いのは、ダメな大人の真似をして、自分のことは棚に上げて、人の粗探しばかりする人がいることだ。そうすると利口に見えると思っているかもしれないけど、そんなことしている暇があったら自分で何かやれ。

あら捜しするのと褒めるのとでは、褒めることの方が難しいように思う。これは芸術方面では昔からよく言われていることだけれども、ミスってのは誰が見ても明らかなものであることが多いし、素人目には分かりづらいことでも、多少その方面に知識のある人が言葉を添えれば理解しやすいものになることが多い。

でも、物事の「良い部分」を見極めるには、まず自分の中で「良い」ということがどういうことなのかというのがある程度以上定義付けできていなければならない。それはつまるところ、「関心の方向性」ということだ。例えば音楽一つを取ってみても、メロディアスであることに関心を示す人もいれば、リズミカルであることに関心を示す人もいる。メロディはメロディでもゆったりとした緩慢なメロディを評価する人もいれば、動きの激しい軽快なメロディや、力強く情熱的なメロディを好む人もいる。ダンスのステップを踏むのに都合のよい音楽に夢中になる人もいれば、展開のめまぐるしい物語のような音楽にのめりこむ人もいる。それらの複数を好む人もいるし、どれか一つしかしっくり来ない人もいる。

価値観は人それぞれだし、それでよいのだ。でも、その当たり前のことを、認めたがらない風潮が、この国には確かに少なからずあるとは思う。だからこそ、他人とは違う価値観を表明してしまう為に浴びせられるかもしれない、否定の言葉を恐れる。人を褒めることが何故しづらいのかといえば、そういう部分の「同調圧力」にあるんじゃないかと、おいらは思う。

なによりそれ以前に、自分の興味の方向性について、自身に確信を抱いていない人って、少なからずいらっさるんじゃ無いかと思う。そういう人はそもそも、物事に対して、それらの何を褒めるべきか、何を見習うべきかを感じ取ることができない。似たようなものを並べて比較させても、それらのどの部分にどういった差異を見出すべきかがわからない。誰かが数値化してあげないと比較できないのだ。でも、誰かが数値化したものだけを比較して評価したところで、その誰かが行っている数値化という作業自体が特定の興味の方向性に沿った価値観に基づいている。結果として、自己の心象が他者の価値観に支配された状態となり、批評の言葉もその誰かに言わされている言葉であるということに自分で気がついていない、ということが起こる。

人を褒めるとはすなわち、自分の言葉で物事を評価するということでもあるのだ。これは一般論を基準に見つけ出すことのできる「粗」を批判することよりはるかに難しい作業だ。だけど、物事をたくさん見聞きして、その中からいくつかでも、これは評価に値するのではないかと思えるものを見つけ出す、ということを繰り返していくうちに、それが転じて自分は何に対してどういう形で興味を抱いているのか、ということが、少しずつ見えていくようになるんじゃないかと思う。それはすなわち、自分は何をしたくて生きている人間なのかということを見極める為の作業なのである。

よーするに、自己の感性を磨く為の方法としては、ブラックリスト方式は効率が悪いっちゅーことだ罠。とりあえず手当たり次第ホワイトリストを増やしまくってみて、その中からしっくり来るものだけを絞り込んで選んでいけばいいんじゃないかと思う。そうこうしていくうちに、どんなに bad な物事であっても、それが自身の興味の方向性へと昇華するようなアイデアに転じていくことができるようになったならば、君も立派な変態だ。w

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