コミュニケーション疲労と心の距離2007年03月22日 11時40分02秒

mixi 疲れとかよく言われてるけどその辺に関する考察。

結論から言うと、コミュニティにおいて何らかの問題を共有している場合、そのコミュニティに参加する人のストレスは以下のように算出することができる (但し、かなり単純化している)。

コミュニケーション疲労度 = 問題の重大さ / (親交度 * 心の距離)

ここでよく誤解されがちなのは、親交度と心の距離との間に、反比例的な相関性がある、とする迷信である。人との付き合い方にある程度慣れている人であれば、親交の深い友人や家族などとも、心の距離を程よくとるようになる。そしてその結果として、コミュニケーションはより円滑となり、そして親交度はより深まることとなる。この論理が理解できないまま大人になってしまう人が、最近増えてきているのではないか、という疑念がある。

そもそも、「心の距離をとる」とは、どういうことを意味するのか? そこにまず誤解があるんじゃないかと思う。ありがちな誤解としては、「心の距離をとる = よそよそしく振舞う」という捉え方だが、これは日本人的事なかれ主義をベースとした社交的論理であり、必ずしもすべてのケースにおいて正しいわけではない。意味合いとして当てはまる、最もしっくり来る言葉は、「心の距離をとる = 相手の行動を許す」ということではないかと思う。逆にいえば、心の距離が近ければ近いほど、相手を許せなくなる、という論理である。

いくつか例を挙げてみよう。

休日に友達同士で誘い合わせてどこかへ遊びに行くことになった。行き先は何でもいいんだが、例えば、、、映画を観に行く、とでもしよう。映画は 13:15 から始まるが、昼飯も済ませておきたいし、移動の時間もあるし、ある程度時間に余裕を持たせておきたいというのもあるので、自分たちの住んでいる地元の駅に 10:00 集合ということにした。

ところが、待ち合わせをしていた友達のひとりが朝寝坊をしてしまい、約束の時間になっても来ないので電話をしてみたら、「ゴメン、今起きた。着替えてすぐ行くから待ってて~」などと言い出した。仲間達はみな、「しょーがねーなぁ」と苦笑いしながら、その寝坊介を待つことにした。

まぁ、実際の彼らの対応の仕方は他にもいろいろとあるだろうし、それ自体はその場のケースバイケースで動けばいいんだろうなぁとは思う。先に現地へ行くだけ行っちゃうっていう手もあるし、開演にも間に合わなければ先にチケットを買って中に入ってしまうっていう手もある。昼飯を食べる時間もあるのだから、この寝坊介君も今回のケースでは最低映画には間に合うだろう。だがそんなことはまぁどうでもいい。

問題は、この寝坊介君を、仲間達が許せるかどうか、という点に尽きる。ここで、この寝坊介君に対する不快感がより高い人ほど、心の距離は短いということが言える。

まずこの前提条件が分からない人は、とりあえず乳幼児と母親の関係を思い出してみて欲しい。

乳児は母親との一体感が強く、母親に対する心の距離は非常に短い。従って、ちょっとした事でも簡単に不快感を表し、泣きじゃくる。乳が出ないと泣き、おしめが濡れると泣き、抱き方が悪いと泣き、そして目を離すだけでも泣いたりする。

幼児は少しはマシになるが、それでも親に対する依存度は極めて高い。自分の願いが聞き入れられないと駄々をこねる甘えん坊さん。転ぶとすぐ泣き出すのも、側にいる親がなだめてくれることを期待しているからだ。

しかし成長してゆくに連れ、子どもはだんだん、親には依存しなくなってゆく。わがままも減り、泣くこともなくなり、逆に何かを手伝ったり、人によっては家族のためにできることをいろいろと考えるようになったりする。そうしてやがては自立し、人によっては親元を離れて生活するようになったりする。

そうやって親子は歳を負うごとに心の距離を離してゆくわけだが、だからといって親子の絆がそれによって同時に無くなってしまうわけではない。むしろ、正しいプロセスを踏んで着実に心の距離を離して行ったほうが、絆は返って深まっていたりすることの方が多い。

先ほどの友達同士のケースに戻ろう。心の距離の短い付き合いを求める人に問いたいのだが、もし、君がこの寝坊介君だったとして、自分のことを許せない友達がこの中にもしいたとしたら、君ならどう思うだろうか?

僕は寝坊なんかしない、と答えた人は、考えが浅いと指摘しておく。君は寝坊しないよう「気をつける」ことはできるが、それを以って絶対に寝坊しないでいられることを保証できるわけではない。例えば目覚まし時計の電池が切れてしまうことだってあるし、突然壊れてしまうことだってある。それに、明日の映画が楽しみで仕方がなくて、興奮して眠れなくなってしまうかもしれない。

ミステイクは寝坊だけに限った話では無いだろう。例えばインフルエンザに感染してしまったとしたらどうだろう? 映画は諦めざるを得ないだろうね。でも、それすらも許せないという友達がいたとしたら? 「健康管理ぐらいしっかりしろよ、ヲレは友達と約束するときは、絶対に風邪なんか引かないようにするぞ」なんつってね。

そういう付き合いは、非常に疲れる。そして、そういう付き合いの仕方を理由に、「俺達は本当に仲のいい友達だ」ということを証明しようとしているのだとしたら、それは恐らく、うまく行かないだろうとおいらは思う。

本当に親交の深い交友関係であるならば、こういう場面で個人を許せる余裕があるものだ。自分が何かミスをやらかして仲間達に迷惑をかけることがあったとしても、彼らはきっと許してくれる。その、「許してもらえる」っていう部分を信じているからこそ、安心して友達づきあいを続けられるのである。許すという事はすなわち、気にしないと言うことでもあり、それはある程度の心の距離がとられた状態である、ということの証明である。すなわち、心の距離が適切な長さを保っている方が、友達づきあいの親交度は深まるのである。

「許す」ということは、何もミステイクに限ったことではない。二つ目の例を示そう。

友達同士でおしゃべりをしていて、あるミュージシャンの話題になった。大抵の子はそのミュージシャンに対して否定的で、けなすようなことを言い合って笑っていたが、一人の子が、実はそのミュージシャンの大ファンであり、そんなことは無い、彼の音楽はとてもいいじゃないか、と反論した。

この反論はミステイクではない。が、この場にいた仲間達の何人かは、不快感を表すかもしれない言葉でもある。この反論が、実際にできるかどうか、そして、こうした反論に対して、どのように受け止めることができるかどうかでも、親交の度合いというのは見えてくる。

まず、反論できない、反論を許さないような空気のある友達づきあいというのは、論外である。君たちは友達でもなんでもないから、むなしい友達ごっこはやめて、もっと自分の没頭できる何かを探すことに時間をかけた方がいいよ、とおいらならアドバイスする。自分の言いたいことも言い合えないような仲なんてのは、友達ではない。

しかし一方で、この反論を許さない空気こそ、心の距離が短いことの証左でもある。何故なら、相手が自分と同じ意見・心境であることを、相手に期待し、望んでいるからだ。だから、その期待を裏切るような意見に出くわすと、その意見を口にする相手そのものが許せず、反発する。「どうしてそんなことを言うの?」ってことになる。で、そうやって嫌われるのが恐いから、誰も反論できなくなる。何で恐くなるのかといえば、自分がそれを許せないのと同様、相手もきっと、それを許してはくれないだろうという「不信」があるから。

さて、実際に反論を受けたとして、それに対する反応の仕方についても考えてみよう。ここで、徹底的に言い合いとなり、いや、俺はあいつらの音楽は糞だと思う、そんなことは無い、彼らの音楽は最高だ、と論争になったとする。彼らの親交度と心の距離は、どういう状態だといえるだろうか。

もしもその論争の後でも、彼らの友達づきあいとしての関係に対して影響が無いならば、彼らの親交度はかなり高いといえるし、同時に心の距離も十分な余裕があるといえる。彼らは、いくつかのことについて意見を違え、それで言い合いになるようなことが例えあったとしても、その程度で絆が失われることは無いことを知っているし、信じているからである。

それでは、この反論に対して、とりあえずその場は理解を示してみる、という対応についてはどうだろうか。

本当にその場にいる全員の気が変わり、そのミュージシャンのことを評価するようになったのだとすれば、それは単に反論した人間の説得力が優れていたという話になる。それはそれでアリだし、議論の種類によっては、最終的に全員の同意事項が形成されるというのはいいことでもあるのでまぁいいのだが、そういうことばかりでも無いだろう。とりあえずその場限りで理解したフリをし、事なきを得ようという「事なかれ主義の発動」が起こっているのだとすれば、その友達の親交度は決して高いとはいえないかもしれない。心の距離についても同様であり、内心で不快感を沸々とさせている可能性もある。そうなっちゃう人というのは友達付き合いでどんどん疲弊していくことになるし、その一方で常に何とも言えない「寂しさ」を抱き続けることになる。

もちろん、反論が適当に受け流されることがあったからといって、必ずしも親交が浅いわけでも距離のとり方が下手なわけでもない。論じている物事自体がその友達の間では取るに足らないことであったり、あるいは既に同意事項として、「あるミュージシャンを好む奴もいれば、嫌う奴もいて当然だ」という認識があったりするならば、そうか、お前は好きなんだ、ヘェ、で完了でもまったく問題ない。

しかし、いつも仲良くニコニコやって、いがみ合うことがまったく無いのが「良い友達づきあい」なんだと言う前提のもと、おっかなびっくり友達づきあいを演じているのだとしたら、それは悲しくも虚しいことだ。もっともっと、本気でモノを言い合えるようでなければ、本物の仲間を得たということにはならないのだ。

では、友達同士、本気でモノを言い合えるようになるには、何をどう、気をつければよいのか。実際には何かを意識して気をつける必要は無いはずなんだが、敢えて言うならば、自分の意見を持ち、反論すべきは反論するよう心がけること、なんじゃないかと思う。そして、相手を言い負かそうとするのではなく、相手の話もしっかり聞き入れて、常に自分の考えの正当性も疑ってみること。何はともあれ、誠意ある対話のできる人間は、どんな考え方の持ち主であれ、それなりに人に好かれるものだと思う。

しかしそう考えてみると、実は論理的思考に長けている人間ほど、人とのコミュニケーションにも長けているものなんじゃないかと思えてくる。論理的思考に長けているならば、発言と、発言した人とを、完全に切り分けて考えることができるはずだからだ。そういう人は、意見を違える相手を、意見を違えるからという理由で嫌うことはあまり無い。俺は右翼だしあんたはどー見ても左翼だけど、それはそれとして、飯はうまいし酒もうまい。こんないい店知ってるあんたとは仲良くなっておきたいねぇ。みたいな。(めちゃくちゃな例えだなw)