Wii リモコンを振っても反応しなくなった場合の対処法 ― 2007年03月19日 11時31分54秒
仕事しに行っている某友人の代わりに任天堂の Wii サポートセンターに問い合わせてみたところ、タメになる情報がいただけたのでメモっておきまふ。
症状
- Wii スポーツのテニスでラケットを振る動作や、野球でバットを振る動作などが反応しなくなってしまった。
- メニュー画面等でカーソルを動かしたり、ボタン操作したりすることはできる。
原因
- 振る動作は、Wii リモコンに内蔵されている「モーションセンサー」によって実現している。
- モーションセンサーは振り子式になっており、この振り子が片側に詰まってしまう場合がある。
回避または修復方法
- リモコンを片手に持ち、もう一方の手に (野球のメガホンを叩く要領で) 5、6 回叩きつけると、振り子の詰まりが抜けて直る場合がある。
手元に実機がないので未だ試していません。後でその友人に伝えて試してもらおうかしら。
はてなブックマークの編集でフォームに内容が受け継がれません。 ― 2007年03月19日 19時31分08秒
3/19 のメンテナンス後、既に登録されているブックマークを編集しようとして、鉛筆アイコンをクリックして遷移するページに表示されるフォームの
エントリー情報
のタイトル
欄コメント
欄
各欄に表示されるはずの編集中のテキストが表示されず、空になってしまいます。ご確認ください。>はてなの中の人
直ったみたいです。早っw
褒めるということ。 ― 2007年03月19日 22時07分52秒
なんつーか、このエントリーにはてなで 3桁台後半ものブクマがくっつく意味わからん。そりゃいいこと言ってるけどありふれた言葉じゃないの。ブックマークって後々参考になるかもしれない情報を押さえておくために使うものなんじゃないの? ソーシャルなら知の共有にもなる。ってまぁ、別にいいんだけどさぁ。
それでもっと悪いのは、ダメな大人の真似をして、自分のことは棚に上げて、人の粗探しばかりする人がいることだ。そうすると利口に見えると思っているかもしれないけど、そんなことしている暇があったら自分で何かやれ。
あら捜しするのと褒めるのとでは、褒めることの方が難しいように思う。これは芸術方面では昔からよく言われていることだけれども、ミスってのは誰が見ても明らかなものであることが多いし、素人目には分かりづらいことでも、多少その方面に知識のある人が言葉を添えれば理解しやすいものになることが多い。
でも、物事の「良い部分」を見極めるには、まず自分の中で「良い」ということがどういうことなのかというのがある程度以上定義付けできていなければならない。それはつまるところ、「関心の方向性」ということだ。例えば音楽一つを取ってみても、メロディアスであることに関心を示す人もいれば、リズミカルであることに関心を示す人もいる。メロディはメロディでもゆったりとした緩慢なメロディを評価する人もいれば、動きの激しい軽快なメロディや、力強く情熱的なメロディを好む人もいる。ダンスのステップを踏むのに都合のよい音楽に夢中になる人もいれば、展開のめまぐるしい物語のような音楽にのめりこむ人もいる。それらの複数を好む人もいるし、どれか一つしかしっくり来ない人もいる。
価値観は人それぞれだし、それでよいのだ。でも、その当たり前のことを、認めたがらない風潮が、この国には確かに少なからずあるとは思う。だからこそ、他人とは違う価値観を表明してしまう為に浴びせられるかもしれない、否定の言葉を恐れる。人を褒めることが何故しづらいのかといえば、そういう部分の「同調圧力」にあるんじゃないかと、おいらは思う。
なによりそれ以前に、自分の興味の方向性について、自身に確信を抱いていない人って、少なからずいらっさるんじゃ無いかと思う。そういう人はそもそも、物事に対して、それらの何を褒めるべきか、何を見習うべきかを感じ取ることができない。似たようなものを並べて比較させても、それらのどの部分にどういった差異を見出すべきかがわからない。誰かが数値化してあげないと比較できないのだ。でも、誰かが数値化したものだけを比較して評価したところで、その誰かが行っている数値化という作業自体が特定の興味の方向性に沿った価値観に基づいている。結果として、自己の心象が他者の価値観に支配された状態となり、批評の言葉もその誰かに言わされている言葉であるということに自分で気がついていない、ということが起こる。
人を褒めるとはすなわち、自分の言葉で物事を評価するということでもあるのだ。これは一般論を基準に見つけ出すことのできる「粗」を批判することよりはるかに難しい作業だ。だけど、物事をたくさん見聞きして、その中からいくつかでも、これは評価に値するのではないかと思えるものを見つけ出す、ということを繰り返していくうちに、それが転じて自分は何に対してどういう形で興味を抱いているのか、ということが、少しずつ見えていくようになるんじゃないかと思う。それはすなわち、自分は何をしたくて生きている人間なのかということを見極める為の作業なのである。
よーするに、自己の感性を磨く為の方法としては、ブラックリスト方式は効率が悪いっちゅーことだ罠。とりあえず手当たり次第ホワイトリストを増やしまくってみて、その中からしっくり来るものだけを絞り込んで選んでいけばいいんじゃないかと思う。そうこうしていくうちに、どんなに bad な物事であっても、それが自身の興味の方向性へと昇華するようなアイデアに転じていくことができるようになったならば、君も立派な変態だ。w
さくらインターネット共有鯖のMySQL ― 2007年03月20日 14時28分39秒
さくらのレンタルサーバーの、スタンダードプラン以上で使用できる MySQL の制限事項に関するメモ。っつーか愚痴。
- 利用できるデータベースは 1つだけ。それもアカウント名と同名で固定。
- ユーザーの追加は不可 (
GRANT
を実行する権限が無い)。さくら的には安全側に倒しているつもりなんだろうけど、これはデータベースに対するすべてのアクセスが可能なユーザーのパスワードが書かれたファイルをネットワーク上に置かなければならないことを意味する。
。。。つーか、DB 設計考え直さないとなぁ (*sigh*)。
読み逃げ ― 2007年03月21日 00時20分13秒
- 「mixi読み逃げ」ってダメなの? (ITmedia)
一応断っておこう。おいらは「まだ」mixi 会員になっていない。だから mixi のシステムに関する誤解があるかもしれない。その点についてはご指摘いただければと思う。
キモになるのは「マイミク」という機能なんではないかと思う。
「マイミクの1人に、自分の日記を読み逃げされている。いったい何を考えているのか」――先週末、ユーザーが質問・回答するサイト「OKWave」に投稿されたこんな質問が、ネット上で話題になった。回答には「確かに失礼で常識がない人ですね」「そんな人はアクセス禁止にしてしまいしょう」など、「読み逃げは非常識・失礼」とする立場からの意見が多く寄せられた。
この質問記事におけるやり取りにおいては、「読み逃げ」に対する強い違和感の表明といえそうなのは Lupinus という方一人だけ。全体を通してみると、mixi 内の文脈においては「まともな感覚」であると言えるのではないかと思う。
そのことは、質問内容の以下の部分からも読み取れる。
それなのにそのマイミクは、
'日記にコメントが少なくて寂しい~。素通りは悲しいからやめてね♪’と自分の日記には書いています。
そしてほぼ毎日自分の日記を書いています。
彼女は自分が読み逃げをしているという意識はゼロかと思いますが、どんな考え方なんでしょうか?
自分にしか興味がないのか、自分の伝説をよく書いています。
ミクシィで悩みたくはないし、このマイミクのように他人に興味がない人とは、
お付き合いできそうにないと思っています。
ちなみに Lupinus 氏の疑問に対する回答は、不十分というか言葉足らずなんではないかと思う。
マイミクシィという機能について誤解があったら失礼なのですが、こいつは確か、こんな機能だったような気がするのですが。。。
- 友達認定したユーザーをリストアップする機能。
- マイミクに登録したユーザーだけが閲覧可能な日記を書くことが可能。
どこかから聞いた話によると、
- 見知らぬ人から「お友達になって欲しい」(=マイミクに登録して欲しい) と言い寄られ、(そういうもんなんだと思って) ついついマイミクに登録してしまう。
- 1 で登録した人がマイミク向け日記を読むだけ読んで何にも反応してこない。
- 1 で登録した人の狙いがよく分からない。キモチワルイ。
。。。みたいなことが結構あるんだそうで、なるほど、そりゃあ確かに気持ち悪いと思われてしまっても仕方ないかなと思う。
でもそれって、本質的には「読み逃げだから」気持ち悪いわけではなくて、理由はもうちょっと別のところにあるはずなんだけれども、「読み逃げ」っていう部分だけがマナー違反として切り取られて一人歩きしてしまって、現在に至る。って言う感じなんじゃないかとおいら的には思うわけだ。
そうなんだとしたら OKWave で質問のやり取りをしていた人たちはまだ「まとも」だと思う。彼らは mixi という道具を利用して、新たなコミュニケーションの輪を広げようと努力していた人々だ。そして彼らなりに考えて得た処世術が、その場で披露されているわけだ。逆に mixi 日記やプロフィールにとりあえず「読み逃げ禁止」とか書いちゃっている人は、何故それを禁止しなければならないのかについて一考を案じているのかどうかで、まともなのか思考停止なのかは分かれるところだと思う。
一方で、通常の Web サイトやブログなどしか基準にみれずにはてぶや 2ちゃんねるで不快感を表明しているだけの連中はそれこそほぼ確実に思考停止なんじゃないかと思う。そういう状況に至ってしまうまでの「何故」を考察できないようでは、この一件から得られるものは何も無いんじゃないか? そういう意味では件の記事は単なる煽り記事でしかなく、価値は薄いと言わざるを得ない。
元来、mixi が持て囃された一番の理由は、招待制とし、実名を公開しあうことによって、旧友との再開の場を得られる点にあったのではないかと思う。だからこそ、マイミクのような機能がありがたがられたのではないか? それは本来、新たに友達になれるかもしれない人を登録するためのものではなく、既に知り合っている、気を許している仲である人をピックアップする為のものなのではないかと思う。だからこそ、そういう仲の人になら見せられる日記も書きたい、というニーズが生きてくるわけだし、交流を再び深める為の場としてうまく機能してきたのではないのか?
「読み逃げ禁止」騒動を通して、mixi 運営の本来の原点から、随分と路線がずれてきてしまっているかもしれない実態について、いろいろと透けて見えてくるものがあるのではないかと思う。その視点は、mixi 株主にとってはあんまり利益にならないかもしれないが、mixi 運営に携わる人間や mixi をまともに利用するユーザー達にとっては、それなりに利益になる話になるのではないかと思う。
単に「読み逃げ禁止」としてしまう前に、もう一度、マイミクの利用のあり方、更にはネットを介したコミュニケーションのあり方について、ご一考案じてみてはいかがかと思う。
なんか OKWave の質問記事が削除されてるんだが (-_-; 。かなり信憑性の高い「ネタだ」っつー意見もちらほら。
。。。やっぱり一次情報はちゃんと隅々まで見ないとダメだなー。
まぁでも「読み逃げ禁止」って記述自体は実際あるみたいだし、そういう意味では一応問題提起ぐらいにはなってるようだから、まったく無意味な議論とも思わないけどね。
コミュニケーション疲労と心の距離 ― 2007年03月22日 11時40分02秒
mixi 疲れとかよく言われてるけどその辺に関する考察。
結論から言うと、コミュニティにおいて何らかの問題を共有している場合、そのコミュニティに参加する人のストレスは以下のように算出することができる (但し、かなり単純化している)。
コミュニケーション疲労度 = 問題の重大さ / (親交度 * 心の距離)
ここでよく誤解されがちなのは、親交度と心の距離との間に、反比例的な相関性がある、とする迷信である。人との付き合い方にある程度慣れている人であれば、親交の深い友人や家族などとも、心の距離を程よくとるようになる。そしてその結果として、コミュニケーションはより円滑となり、そして親交度はより深まることとなる。この論理が理解できないまま大人になってしまう人が、最近増えてきているのではないか、という疑念がある。
そもそも、「心の距離をとる」とは、どういうことを意味するのか? そこにまず誤解があるんじゃないかと思う。ありがちな誤解としては、「心の距離をとる = よそよそしく振舞う」という捉え方だが、これは日本人的事なかれ主義をベースとした社交的論理であり、必ずしもすべてのケースにおいて正しいわけではない。意味合いとして当てはまる、最もしっくり来る言葉は、「心の距離をとる = 相手の行動を許す」ということではないかと思う。逆にいえば、心の距離が近ければ近いほど、相手を許せなくなる、という論理である。
いくつか例を挙げてみよう。
休日に友達同士で誘い合わせてどこかへ遊びに行くことになった。行き先は何でもいいんだが、例えば、、、映画を観に行く、とでもしよう。映画は 13:15 から始まるが、昼飯も済ませておきたいし、移動の時間もあるし、ある程度時間に余裕を持たせておきたいというのもあるので、自分たちの住んでいる地元の駅に 10:00 集合ということにした。
ところが、待ち合わせをしていた友達のひとりが朝寝坊をしてしまい、約束の時間になっても来ないので電話をしてみたら、「ゴメン、今起きた。着替えてすぐ行くから待ってて~」などと言い出した。仲間達はみな、「しょーがねーなぁ」と苦笑いしながら、その寝坊介を待つことにした。
まぁ、実際の彼らの対応の仕方は他にもいろいろとあるだろうし、それ自体はその場のケースバイケースで動けばいいんだろうなぁとは思う。先に現地へ行くだけ行っちゃうっていう手もあるし、開演にも間に合わなければ先にチケットを買って中に入ってしまうっていう手もある。昼飯を食べる時間もあるのだから、この寝坊介君も今回のケースでは最低映画には間に合うだろう。だがそんなことはまぁどうでもいい。
問題は、この寝坊介君を、仲間達が許せるかどうか、という点に尽きる。ここで、この寝坊介君に対する不快感がより高い人ほど、心の距離は短いということが言える。
まずこの前提条件が分からない人は、とりあえず乳幼児と母親の関係を思い出してみて欲しい。
乳児は母親との一体感が強く、母親に対する心の距離は非常に短い。従って、ちょっとした事でも簡単に不快感を表し、泣きじゃくる。乳が出ないと泣き、おしめが濡れると泣き、抱き方が悪いと泣き、そして目を離すだけでも泣いたりする。
幼児は少しはマシになるが、それでも親に対する依存度は極めて高い。自分の願いが聞き入れられないと駄々をこねる甘えん坊さん。転ぶとすぐ泣き出すのも、側にいる親がなだめてくれることを期待しているからだ。
しかし成長してゆくに連れ、子どもはだんだん、親には依存しなくなってゆく。わがままも減り、泣くこともなくなり、逆に何かを手伝ったり、人によっては家族のためにできることをいろいろと考えるようになったりする。そうしてやがては自立し、人によっては親元を離れて生活するようになったりする。
そうやって親子は歳を負うごとに心の距離を離してゆくわけだが、だからといって親子の絆がそれによって同時に無くなってしまうわけではない。むしろ、正しいプロセスを踏んで着実に心の距離を離して行ったほうが、絆は返って深まっていたりすることの方が多い。
先ほどの友達同士のケースに戻ろう。心の距離の短い付き合いを求める人に問いたいのだが、もし、君がこの寝坊介君だったとして、自分のことを許せない友達がこの中にもしいたとしたら、君ならどう思うだろうか?
僕は寝坊なんかしない、と答えた人は、考えが浅いと指摘しておく。君は寝坊しないよう「気をつける」ことはできるが、それを以って絶対に寝坊しないでいられることを保証できるわけではない。例えば目覚まし時計の電池が切れてしまうことだってあるし、突然壊れてしまうことだってある。それに、明日の映画が楽しみで仕方がなくて、興奮して眠れなくなってしまうかもしれない。
ミステイクは寝坊だけに限った話では無いだろう。例えばインフルエンザに感染してしまったとしたらどうだろう? 映画は諦めざるを得ないだろうね。でも、それすらも許せないという友達がいたとしたら? 「健康管理ぐらいしっかりしろよ、ヲレは友達と約束するときは、絶対に風邪なんか引かないようにするぞ」なんつってね。
そういう付き合いは、非常に疲れる。そして、そういう付き合いの仕方を理由に、「俺達は本当に仲のいい友達だ」ということを証明しようとしているのだとしたら、それは恐らく、うまく行かないだろうとおいらは思う。
本当に親交の深い交友関係であるならば、こういう場面で個人を許せる余裕があるものだ。自分が何かミスをやらかして仲間達に迷惑をかけることがあったとしても、彼らはきっと許してくれる。その、「許してもらえる」っていう部分を信じているからこそ、安心して友達づきあいを続けられるのである。許すという事はすなわち、気にしないと言うことでもあり、それはある程度の心の距離がとられた状態である、ということの証明である。すなわち、心の距離が適切な長さを保っている方が、友達づきあいの親交度は深まるのである。
「許す」ということは、何もミステイクに限ったことではない。二つ目の例を示そう。
友達同士でおしゃべりをしていて、あるミュージシャンの話題になった。大抵の子はそのミュージシャンに対して否定的で、けなすようなことを言い合って笑っていたが、一人の子が、実はそのミュージシャンの大ファンであり、そんなことは無い、彼の音楽はとてもいいじゃないか、と反論した。
この反論はミステイクではない。が、この場にいた仲間達の何人かは、不快感を表すかもしれない言葉でもある。この反論が、実際にできるかどうか、そして、こうした反論に対して、どのように受け止めることができるかどうかでも、親交の度合いというのは見えてくる。
まず、反論できない、反論を許さないような空気のある友達づきあいというのは、論外である。君たちは友達でもなんでもないから、むなしい友達ごっこはやめて、もっと自分の没頭できる何かを探すことに時間をかけた方がいいよ、とおいらならアドバイスする。自分の言いたいことも言い合えないような仲なんてのは、友達ではない。
しかし一方で、この反論を許さない空気こそ、心の距離が短いことの証左でもある。何故なら、相手が自分と同じ意見・心境であることを、相手に期待し、望んでいるからだ。だから、その期待を裏切るような意見に出くわすと、その意見を口にする相手そのものが許せず、反発する。「どうしてそんなことを言うの?」ってことになる。で、そうやって嫌われるのが恐いから、誰も反論できなくなる。何で恐くなるのかといえば、自分がそれを許せないのと同様、相手もきっと、それを許してはくれないだろうという「不信」があるから。
さて、実際に反論を受けたとして、それに対する反応の仕方についても考えてみよう。ここで、徹底的に言い合いとなり、いや、俺はあいつらの音楽は糞だと思う、そんなことは無い、彼らの音楽は最高だ、と論争になったとする。彼らの親交度と心の距離は、どういう状態だといえるだろうか。
もしもその論争の後でも、彼らの友達づきあいとしての関係に対して影響が無いならば、彼らの親交度はかなり高いといえるし、同時に心の距離も十分な余裕があるといえる。彼らは、いくつかのことについて意見を違え、それで言い合いになるようなことが例えあったとしても、その程度で絆が失われることは無いことを知っているし、信じているからである。
それでは、この反論に対して、とりあえずその場は理解を示してみる、という対応についてはどうだろうか。
本当にその場にいる全員の気が変わり、そのミュージシャンのことを評価するようになったのだとすれば、それは単に反論した人間の説得力が優れていたという話になる。それはそれでアリだし、議論の種類によっては、最終的に全員の同意事項が形成されるというのはいいことでもあるのでまぁいいのだが、そういうことばかりでも無いだろう。とりあえずその場限りで理解したフリをし、事なきを得ようという「事なかれ主義の発動」が起こっているのだとすれば、その友達の親交度は決して高いとはいえないかもしれない。心の距離についても同様であり、内心で不快感を沸々とさせている可能性もある。そうなっちゃう人というのは友達付き合いでどんどん疲弊していくことになるし、その一方で常に何とも言えない「寂しさ」を抱き続けることになる。
もちろん、反論が適当に受け流されることがあったからといって、必ずしも親交が浅いわけでも距離のとり方が下手なわけでもない。論じている物事自体がその友達の間では取るに足らないことであったり、あるいは既に同意事項として、「あるミュージシャンを好む奴もいれば、嫌う奴もいて当然だ」という認識があったりするならば、そうか、お前は好きなんだ、ヘェ、で完了でもまったく問題ない。
しかし、いつも仲良くニコニコやって、いがみ合うことがまったく無いのが「良い友達づきあい」なんだと言う前提のもと、おっかなびっくり友達づきあいを演じているのだとしたら、それは悲しくも虚しいことだ。もっともっと、本気でモノを言い合えるようでなければ、本物の仲間を得たということにはならないのだ。
では、友達同士、本気でモノを言い合えるようになるには、何をどう、気をつければよいのか。実際には何かを意識して気をつける必要は無いはずなんだが、敢えて言うならば、自分の意見を持ち、反論すべきは反論するよう心がけること、なんじゃないかと思う。そして、相手を言い負かそうとするのではなく、相手の話もしっかり聞き入れて、常に自分の考えの正当性も疑ってみること。何はともあれ、誠意ある対話のできる人間は、どんな考え方の持ち主であれ、それなりに人に好かれるものだと思う。
しかしそう考えてみると、実は論理的思考に長けている人間ほど、人とのコミュニケーションにも長けているものなんじゃないかと思えてくる。論理的思考に長けているならば、発言と、発言した人とを、完全に切り分けて考えることができるはずだからだ。そういう人は、意見を違える相手を、意見を違えるからという理由で嫌うことはあまり無い。俺は右翼だしあんたはどー見ても左翼だけど、それはそれとして、飯はうまいし酒もうまい。こんないい店知ってるあんたとは仲良くなっておきたいねぇ。みたいな。(めちゃくちゃな例えだなw)
直感的作業はすべてに応用可能か? ― 2007年03月26日 12時24分22秒
- 論理的思考の放棄 (登 大遊@筑波大学情報学類の SoftEther VPN 日記 さま)
- 論理的思考の放棄2 (同上)
個人的には、この文章にはあんまり言及しない方が良いのではないかと思っています。が、敢えて言及したくなってしまうのは、コメント欄での、氏と他者とのやり取りがあまりにも噛み合っていないから。でも、ここでおいらが茶々を入れてみたところで、一般人には一定の理解を示されたとしても、そうじゃない人にはやっぱり「いや、そういうことじゃないんだけど。。。」と言葉を濁されてしまうんじゃないかという気がする。それだけ、感覚的な違いっていうのは、言葉にするのが難しいってことなんじゃないかな。
例えばおいらなんかは、最初にこの文章を読んだとき、それはすなわち「ネイティブであれ」ってことなのかと思った。日本人が日本語を習得するのに論理的である必要はまったく無いし、アメリカ人にとっての英語も同様。家庭的な事情で幼いころから英語に触れたり日本語にふれたりしていた人は自然とバイリンガルになったりするし、更にいろんな言語に触れていればトライリンガルになったりすることもある。で、そういう感覚で、「プログラミングで会話できる」ようになること、それも、単に C 言語だとかいった方言に囚われずに、技術を自然に会話できることが重要になってくる、みたいな考え方。
でも、そういうのって、あくまで習慣的修練をある程度積んだ上で身につく感覚なんであって、応用可能とは言えないし、氏が云わんとしていることとはずれているような気がする。氏はあくまで、こうした感覚はプログラミング以外のことにも応用可能であることを言及しているし、そしてそれは、方法を伝えることさえできれば自身以外でも習得可能なことであるように (少なくとも氏自身は) 考えている。だとしたら、そこに習慣的修練が必要という話が割り込んでくるのはあり得ない話だ。
作曲を例示して理解を示そうという方もいらっさるようだが、実際のところ、音楽についても同様のことが言えてしまう。理論を無視して (あるいはいちいち考慮せずに) 直感だけでメロディーやリズムやハーモニーを捻出できるのも、実際にはそれまでに幼い頃からの音楽に対する姿勢を保ち続けてきたことによる基礎的な発想回路が身についているから。そもそも音楽にそれほど造詣の深くない人が作曲をやろうとすると、どうしても (自身にとって) 卑近な曲を参考とせざるを得ないのに対し、発想回路が出来上がっている人は直感的に親しみのある基礎の幅が広く、それに対して自身の感覚を織り込むことに抵抗感が無いから、オリジナルらしいオリジナルを割りとあっさりでっち上げることができてしまう。それをできない人が「もう音楽に新しい領域は無い」とか言っちゃうのは、古い「論理」に固執しちゃってるからなんじゃないかと思う。そもそも音楽の「ジャンル」なんて、後付の結果論でしかないのよ。
そういう意味では、論理って、間違いは無いんだけど、新しい領域に踏み込むことも許しにくくしてしまうような、保守的な考え方なんだと思う。芸術の世界では論理はあくまで「基礎」であり、その基礎から踏み外すことを繰り返してきたのがその発展の歴史でもある。
歴史的に見れば似たようなことが科学の世界にも言える、っていうか科学の世界の方がそういう面はむしろ多い気もするんだけれども、技術の世界ではどうなんだろう? そもそもソフトウェアが解決すべき問題の多くは「人間の直感的な悩み、不便」であり、それに対して直感で気付き、直感的に解決策を見出し、直感的に対処するというのは割と自然なことであるように思う。そしてそれらの仕事の正当性を説明するのに、論理は利用されるのではないかと。。。
でもそういう風に考えた場合の「直感」って、もとの話題とは随分と論点がずれているものであるようにも思うのよね。そもそもこの話題における「直感」 (元々の言葉をそのまま引用するなら正確には「論理的思考の放棄」なんだけど) というのはあくまで作業に対する方法論なのであって、「その場で論理的に考えて作業するよりも、直感に任せて作業をした方が能率上がるよ」という話なワケだ。で、多くの人が「それができるようになるには結構な修練が必要じゃね?」と突っ込んでいるわけだが、それらに対して氏は米欄で明確に、”単純な経験量・向き不向きの差” ではありません
と反論している。何よりかにより、最初から彼はその方法をプログラミング以外のあらゆる方面で適用可能であるように書いているわけだ。
ただ、従来において、多くの仕事・作業を修練するに際して、「習うより慣れろ」という言葉が使われてきた。そして、その「慣れる」という感覚に至るのにあまり時間のかからない人を、一般に「器用な人」とか、「要領のいい人」とか呼んできたわけだ。そういう面はプログラマーという仕事についても言えると思うんだけど、その辺の理屈があんまり理解されないのも、やっぱりプログラミングという作業が人々に与える印象によるのかなぁとも思う。
はっきり言って、教科書や参考書やテキストやライブラリを一生懸命読んで勉強するより、それらに書いてあるサンプルやらなにやらを、実際に手を動かしてタイプしてこんぴたで動かしてみて、更に改造を加えて動きの違いを調べてみたり、ってことをやってみたほうが、圧倒的に飲み込みは早くなる。逆にこの「試してみる」って部分を怠って、ブログとかで「こういう方法もあるよー」とか書くだけで終わらせちゃうと、それらの方法論の実践的な価値を誤解したまま、口だけ達者になってしまったりする。サニタイズ云々の話じゃないけどw。
結論として言えば、おいらも正直、登氏の言いたいことはまだ全然分からない。分からないことは正直に分からない、ととりあえず表明しておこうと思う。今後のご説明に期待したい。
インクレディブル・マシーン ― 2007年03月27日 23時31分43秒
NDS でインクレディブル・マシーンが出たら絶対買うんだけどなぁ、とかふと思った。権利関係とかでいろいろと無理なら「ピタゴラスイッチゲーム」とかでもいいやw
つか、シムシティDS はいつになったら店頭復帰するんじゃ。。。
どんどんボロくなってゆくおいらの Let's Note ― 2007年03月29日 12時22分19秒
アダプタ取り付け口が筐体内部に引っ込んでしまったのを直す為に再び解体したら、こんどは LCD を閉じただけではスタンバイモードにならなくなってしまった。まだまだ普通に動いてくれるしこれからもずっと使い続けていきたいんだが、物理的なメカニックがどんどん壊れていくなぁ。。。一度修理にでも出した方がいいのかしら? (T-T)/
ふーか成長しちゃったなぁ ― 2007年03月30日 08時30分38秒
。。。と思ったら、今日で卒業か。
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