インターネットと「空気」のアヤシイ関係。2007年10月05日 03時00分58秒

はてぶで「あとで追記」とか書いちゃったので。。。

90年代、ゆるやかに閉塞しつつあった日本に風穴を開けたのは、明らかにインターネットでした。インターネットにそれが可能だったのは、大胆に言い切れば、それが空気読まなくていい社会だったからです。だって匿名だし仮想人格なんですから、空気なんて無視して好きなようにやって構わない。少なくとも、年齢や社会的立場を越えて、つまり社会が我々に要求してくる「空気」を一切無視して率直に意見を述べ合うことで、初期のネット社会は成立し、だからこそそこには集合知が存在し得た。各自が空気を無視して率直にネットの一部として機能し合うことが、当時言われた「ネチケット」の本質ではなかったかと私は思っています。

おいらはまず不思議に思うのは、 jo_30 さんは空気なんて気にせず好きなように自分の書きたいことを書けばいいと思っているようなのですが、 その割には未だ旬の去りきれていない空気嫁競争論についてこうして書いているということです。

これといって何らかの書きたいテーマがあって書いているブログであるようには見えないので、 特に意識して今このタイミングで空気について語っているわけではないのだとは思うのですが (ブログタイトルが示す通り、人の心について書くのがメインということであれば、 空気というのもテーマのひとつとしてむしろ奮い立たせるものであったかもしれません)、 かといって、今このタイミングで無かったならば、 あるいは周囲が空気のことについてこれほど関心を示しているような状況で無かったならば、 jo_30 さんも取り立てて空気について記事を起こすということも無かったのではないか、とも思うのです。 んなことないですかね? おいら空気読めてます?

90年代のインターネットはお終いのほうぐらいしか体験していないのですが、 そもそも何らかの意見を言い合う議論の場というのが掲示板ぐらいしかなかったような気がします。 強いて言えば、メルマガを中心に言論活動を繰り広げようとしていたサイバッチなどのミニコミや、 竹林正行のようなインチキくさいのが一部で話題に上がったりとか、 東芝クレーマー事件をはじめとした告発サイトブームがあったりとか。 告発サイトなどに見られたようなホームページを主体とした言論も、 それが議論として発展するといったような流れはあくまで掲示板サイトが主体で行われていて、 ネット全体の中で議論が波紋を呼ぶ、というよりは、 あくまでその話題が盛り上がっているサイトに集まってきたコミューンの中で議論が完結する、 という形のほうが多かったように思います。

竹林の盗作疑惑や東芝クレーマー事件がネット全体の話題として扱われた背景には、 当時のミニコミやインターネット系の雑誌で話題として紹介されるといったイベントがあります。 もちろん、2ちゃんねるなどの集合型掲示板サイトでの盛り上がりというのもあるにはありますが、 それを差し引いても、当時のミニコミや雑誌の影響力は、相対的に見れば今よりずっと高かったように思います。 裏を返せば、今のように検索サイトやソーシャルブックマークサイトなどの、 話題が集中するような仕組みが当時は掲示板サイトぐらいしかなかったということで、 すなわち今ほど何らかの空気が蔓延する土壌が、そもそもインターネット上に培われていなかった、 とも言えるのではないかと思います。

2000年初頭に入ると、今度はテキストサイトブームとなり、侍魂みたいなのがめちゃめちゃ流行ったりしました。 このころは、何らかの話題で議論を花開かせる、というよりは、 とにかく「痛い自分」をひけらかすことによって笑いと共感を得る、といった類のテキストが好まれていたようにも思います。 これこそは、まさに「空気」がインターネット上での人々の活動を支配することの 典型的事例であったのではないかとさえ思います。 彼らは彼らなりに、ネット上での自由な創作活動を謳歌していましたが、その風潮を支配していたのは、 紛れもなく、「痛い面白さを追求する空気」であったことは間違いありません。

昨今、ブログを中心として行われているような議論というのは、本当に、 ブログというツールが普及してからやっと根付いた文化であるように思います。 個人的には、掲示板は、ブログほどには、議論に向いたツールであるとは思えません。 掲示板は、そのサイトに集まってくる人々が形成する、半分閉じたようなコミュニティの中で、やり取りが行われます。 そのため、先着順で発言が優先され、初期の段階で概ね場の空気が固着してしまいがちです。 ブログの場合、tb を飛ばしあったりリンクしあったりしながら、話をいくらでも継続させられるので、 空気が安定しなくなります。場所も一箇所のサイトで閉じていないので、 新たな見解を持つ人間が、あとからあとからどんどん沸いて出てきては、全体の空気をかき回し続けてくれます。

Web2.0 で集合愚というと、残念ながら連想してしまいがちなのはやっぱり Wikipedia だったりするわけですが、 個人的にはこれは空気の問題というよりは、運用とシステムの問題であるように思います。 スラッシュドットなんかにも言えてしまうのですが (オーマイニュースもかな?)、 運営方針としてコミュニティに求めるものの理想の高さに、運用もシステムも追いついていない、 ということは少なからずあるようにも思います。 これはネットに限ったことではなくて、現実社会にも言えることではないかと思います。 電凸にせよいじめにせよ、閉鎖的なコミュニティ領域が内部の空気を陰湿なものへと固着させやすくしていることが、 要因のひとつとして考えられるのではないかと思われます。 ブログのような、領域が曖昧で解放的なコミュニティによって形成されていれば、空気はより流動的になります。 学校に関して言えば、聖域化をやめ、地域との連携を深め、他校との交流の機会を増やし、 警察による介入を容易にし、クラブ活動を学外に設置するなどの施策で、いじめは確実に弱体化します (クラス分けを廃するのも効果的ですが、友達を作れない生徒が続出する可能性はあります)。

もちろん、国単位でもネット全体でも空気というのはある程度固着するものではあります。 そのような、大きな単位での空気が固着してしまうのをなるべく防ぐためには、逆に、 小さい単位のコミュニティを密接なものにする必要があるのではないかと思います。 それは、地域かもしれないし、民族かもしれないし、宗教かもしれません。 母校であるとか、職業であるとかいったような繋がりもあり得るかもしれません。 ネット上でも同じで、ブログ界隈で一方的な流れになっている話題に対し、 とある掲示板に集まっていたコミュニティが、それに対立する見解について集中的に議論し、 資料を集めた結果、後者の流れが爆発し、ブログ界隈全体の空気を一変させたという事例も無いではありません。 「ほっとけない」ホワイトバンドなんかはその典型例でしょう。 あれが売られ始めたころ、なんだかよく分からないまま、賛同し、 購入したホワイトバンドを手首にはめて見せて、その写真をブログに載せて喜ぶブロガーが大半でした。

もちろん、何らかの空気、すなわち論調が世間を支配するときに、その空気を覆すことが、 常に善であるとは限りませんが、一方で、空気を揺るがしあう機会が増えることによって、 その議論がより活性化し、より深い知識がより広い社会に浸透していくようになっているのであれば、 そのような社会はより成熟しやすくなるのは確かだと思います。

結論としては、ひとつの方法論のみを奨励するのではなく、さまざまなツールを残し、活用し続けることが大切だ、 といったところでしょうか。匿名というのも、あくまでその方法論のひとつに過ぎないのではないかと思います。

ちなみに、「ネチケット」というのはネットを構成する技術的な仕様・特性上、 それをやられると困るからやめてね、という類の約束事のことを言うのであって、 ネット上でのコミュニケーションに関するマナーのことではないんじゃないかと思います。 例えば、メールを書くときに半角カナは使わないでくれとか (当時の UNIX の日本語処理系でいろいろと不具合が出ちゃうため)、 Outlook Express 4 は使うなとか (スレッドが切れちゃうため)、 一部のブラウザでしかまともに表示できないような Web ページにするなとか。 最近だと Web に関して言えばアクセシビリティにもうるさくなって、 フレームの使用は避けようとか a タグの target 属性はやめようとかってのもネチケットに含まれるのかしら?