共通前提とオタク考2008年01月01日 04時28分55秒

引用先の記事から、個人的に気になったいくつかの論点を抽出し、書いてみようと思います。 ちなみに、内容はタイトルほどにはまとまらないものになると思います (^_^;

1. 職場の人間同士で「仕事以外のことを話題に雑談する」ことの難しさとその方法

おいらはソフトウェア開発の仕事に従事しているわけですが、サービス業とはいえ、やはり開発を行う以上、 機密保持は重視されます。 ある程度まともな会社であれば、新人研修なり OJT なりで、「外で仕事の話はするな」 と指導されるはずです。

しかしこれが実際には非常に難しい。職場の仲間内で誘い合わせて昼飯とか食いにいくと、 そこで行われる会話の 9割は仕事の話になってしまう。 それも、仕事に対する取り組みがまじめな人ほど、そういう傾向は高いように思います (逆に、もとよりソフトウェア開発になんて興味ないのにコの業界に入ってきちゃったような人ほど、 仕事以外の話題を拾ってくるのがうまかったり、仕事の話題に乗らなかったりする人は多いように思う)。 雰囲気的にも和むため、仕事中には切り出しにくい技術的な疑問点や、 何に手こずっているのかを打ち明ける場としても機能するため、 周囲の耳さえ気にしなければ、むしろ有用ですらあったりもします。

しかし機密漏洩で顧客に迷惑をかけるわけにもいかないので、なるべく外では仕事の話は控えなければならないわけです。 そこで別な話題を考えるわけですが、これが意外に難しい。 何故難しいかといえば、共通の話題を提供するための共通前提として機能するはずの、 テレビを見たり音楽を聴いたりするほどの暇が、僕らには存在しないからです。

で、そういう集団が仕事以外の話題で雑談するためにどうするかというと、 各人の興味対象を把握しておき、言いだしっぺは他の誰かの興味対象について「質問する」 ことで会話を開始させる、という形式が多いように思います。

たとえば、A さんはサッカー大好きだとします。 B さんと C さんと D さんは A さんほどサッカーに興味はないものの、 サッカーが食べ物じゃなくてスポーツだということと、 国際試合ではヨーロッパと南米が強いことぐらいは知っているものとします。 このとき、A さん以外は特定のチームや選手や試合のことについて熱く語ることはできませんが、 例えば今日行われる日本代表の国際試合について、 A さんに語らせることはできるのです。 このとき、熱く語る A さんを談話の中心的プレゼンターとして据え置き、 B さん C さん D さんは、話題が途切れないように、 話の流れに乗りながら質問を繰り返していけばよいだけになります。 そして、そうしたやり取りの中で出てきたキーワードの中から、 自身の興味対象となる話題に話を持っていけそうであれば、 そのタイミングで話題を切り替え、A さんからプレゼンタージャックしてしまっても良いでしょう。

サッカーの話がウイイレの話になり、Wii でウイイレ出したらどうなるんだろう、って辺りから Wii Fit の話題に流れ、気がついたら話題の中心はおいらのおなかの出っ張り具合になっていた、 なんてのはよくある展開です。

……冗談です、とは言い切れないところが苦しいですが……本当にそんな会話をしたような気もしないような気も……。

2. 興味対象の違う人間同士が集まって、まったく違うテーマの入り乱れた雑談を成立する方法

これはおいらの仲間内での話。個人的な古くからの (とも限らないか) お友達には、 じつはコンピュータに詳しい人がほとんどいません (いや、一人、二人居たんだけど最近交流薄くて…;_;/)。 専門分野というかお仕事的には、一人は薬学で研究とか工場で品質管理とか、 もう一人は化学系で洗剤とかの営業やってたんだけど今はどっちかって言うと事務仕事、 もう一人は専攻は歴史とか (だっけ?) だったんだけど、電気屋で販売を経て今では営業職、 もう一人は銀行系プログラマーの後事務職、もう一人はゲームクリエーター、それからえっと、、、まぁそんな感じ。

それから趣味の興味対象もいろいろと入り乱れていて、エロゲー好きは確かに多いんだけど、 90年代 (Windows95 前後) しかしらない (しかも元々うんずユーザーの) おいらに、 90年代からずっと突っ走り続けている現役のオーソリティw、 90年代を知らないが現役バリバリの若手など、それに嗜好もいろいろと入り乱れていたりなので、 ある特定のソフトが全員の共通前提となるケースは極めて稀って言うかほとんどない。 アニメやドラマやお笑い、格闘とかも見る人見ない人結構分かれるし、 スポーツの趣味もサッカー派と野球派でくっきり分かれてる (ちなみにおいらは今はやきうだけど 90年代はぜんぜん観てなかったっつか興味なかったから古い話を出されるとぜんぜんついていけなくなる ^_^;)。

で、そういう集団がうん 10年位腐れ縁を続けていたりするわけなんだけれども、 雑談していると、ある特定の話題についてもより大きな概念へと話題を広げていけることで、 会話を維持し続けられることに気がつく。 例えば薬学な奴と化け学で営業やってた奴の二人が、 専門も同じということで化け学話に花を咲かせるパターンが多いんだけれども、 そこから仕事の段取り、進め方という観点で話が広がって、その辺からだんだんと全員が会話に加わってくる、 というパターンは多い。そうなると、別業種での常識・非常識の違いとかも見えてきて、 新たな発見やひらめきが得られることも少なくない。

もちろん、テレビ番組やニュースが話題になることもあるし、スポーツが話題になることもある。 ネットでの話題やネット上で書いたことがそのまま話題に上がることも結構ある。 なんにしても、雑談の入り口は必ずしも最初から全員参加ということはないって言うか、 むしろ最初から全員参加であることのほうが少ないと思う。 でも、みんな大人なので、「必ずしも全員が会話に参加する必要は無い」こともわきまえてるので、 その辺のことを気にすることってあんまない気がする。いや、もしかしたら気にしてる人もいるのかも知れんけど。

3. 「オタク」の意味と、そこから脱すべき理由

もちろんその作品が好き、というのは大いにあるのですが、それと並列するかのように「その作品で誰かと共有したい」という思いが湧き上がることがあります。

オタクでも、話題にできることを優先する人がいて、そういう人たちはアッパーになりやすいのではないでしょうか。

興味があるから見るというよりも、オタク同士でワイワイやるために見る、みたいな。そして、ヌルオタめとy_arimさんにdisられる、みたいな。

ていうか、個人的にはそういうのを「オタク」というのだと思ってました。

「オタク」って言葉は本来ネガティブな意味合いで使われる、いわゆる「差別用語」だったわけです。 もちろん、言葉の意味なんてのは新語であればあるほど意味は変遷し、便利に使われてしまうものだったりするわけで、 特定の言葉の意味にかたくなにこだわったところで大した意味はないのですが。

しかし、自分の興味を優先させる人間というのは割とうまい表現だとは思うのですが、 それよりも更にゆるい表現、例えば「趣味を追及する人」とか、「マニアックな趣味を持っている人」といった意味で使われてしまうと、 それじゃあ俺らの少年時代にそんなオタクたちが差別されてきた経緯が納得できなくなってしまう。

そこでおいらは、「オタク」という言葉には、趣味人という以外に、 その人間の性格的な特徴が盛り込まれていると考えるべきなのではないか? と思い至りました。 そうして得られたひとつの結論が、「興味対象の外にあるコミュニティへの姿勢」です。

おいらの持論では、「オタク」は発明家にも芸術家にもなれません。 より詳細に書くと、専門知識には優れているけどそれ以外のことに興味を示さない人よりも、 いろんなことに興味を抱くけど今は特定の知識についてまだ掘り下げ始めていない人の方が、 発明家や芸術家になる可能性は高いと思っています。

どういうことか。いくつか例を挙げてみましょう。

例えばある映画好きが、自分でも映画を作りたい、と考えたとします。 しかし彼には人生経験が乏しく、また、映画以外の事柄には何にも興味を抱いていないとします。 そして、映画好き仲間以外のコミュニティにはあまり積極的にはコミットメントしない人だったとします。 その場合、彼は、映画好き仲間の間では喜ばれるような作品を作ることはできますが、 他の多くの一般人を巻き込んだムーブメントまではなかなか起こせない可能性が高いのではないかと思います。

しかし (ここからが重要)、それでも彼は満足してしまうのです。 何故なら、彼の視界に唯一存在するコミュニティ、即ち、映画好き仲間の間では、喜ばれているからです。

彼が製作する映画が世間一般のより多くの人々にも喜ばれるようになるには、 彼自身が世間一般のより多くの人々の形成するコミュニティにコミットメントする必要がどうしてもあります。 そうしなければ、彼がどういった作品が喜ばれるのかを知る機会もなければ、 彼が多くの人には喜ばれない作品しか作れないという意味では無能な人材であることを自覚する機会さえ、得られないからです。

当然、こういったことは、映画以外にもさまざまなことについて言えてしまいます。 ソフトウェア開発についてももちろん言えることで、 オタクはプログラミング技術そのものにしか興味を示さないため、そもそも自分が何を作りたいのかすらわからなかったりします。 そういう人が「とりあえず何か作ってみたい」と思って作り始めるものというのは、 大概、オリジナリティのない、既存のものの作り直しだったりします。 しかし、多くの場合、彼らはそれでも満足してしまいます。 何故なら、ネット上にはその程度のサービスやソフトウェアでも面白がれるオタクがいっぱいいるからです。 はてなブックマークの「これはひどい」タグを拾っただけの、だまされた感の強いマッシュアップサイト 「これはひどい」みたいなのや、 Twitter のリアルタイム配信サイト? 的な「Fuwatter」みたいな、 一見面白そうなんだけど、実際何に使えばいいのかもよく分からないサイトが作られ、 そのたびに瞬間的にはてブされまくったりして話題になりながら、 あっという間に忘れ去られていったりというサイクルが繰り返されているのも、 プログラミング好き仲間を増やすことには一役買っているのでしょうが、それだけで満足されてしまうと、 長く使われ続けるようなプログラムやサービスというのはなかなか生まれてこないんじゃないかと思わなくもなく。。。

最近のアニメ・漫画界隈にも言えることですね。ていうかこっちはあからさまに酷い。 あるときから「大人が楽しむアニメだってあったっていいじゃないか」みたいな風潮が芽生え始めて、 それが後の漫画やアニメの製作姿勢に影響しているようですが、 それが行き過ぎてしまったがために、「大人も楽しむ」どころか、 「一部の大人しか楽しめない」アニメや漫画ばかりが量産され、 結果、子供のアニメ・漫画離れが加速し、テレビからも見放されて 往年の名作による懐古狙いに走られたりするわけで。。。 じゃあイマドキの子供は本質的に漫画やアニメに興味がないのかというと、 ジブリの宮崎映画の堅調振りなどを見ればそんなことはないのでしょう。 結局はオタクの馴れ合い的な製作姿勢が、サブカルをつまらなくしてしまっているのではないかと思わざるを得ない。

もちろん、オタクになることがまずいのかというと、そんなことは決してないとは思います。 しかし、一方で、多くの人に認められるような職業人になるための本当の早道は、 実はオタクから入ることでは無いのではないかと、最近になって富に思うのです。 何故なら、多くの場合、何らかの特定の問題に対して解決しようという意識が学習・研究につながるときのモチベーションの方が、 好きで特定の分野を学習してきた人が何の問題意識も持たずに何かを作り始めたときのモチベーションよりも、 圧倒的に高いということが多いからです。

打ち明けたい想いを、歌にする。多くの人に知って欲しいことを、映画にする。 最高に美しいと思ったものを、写真に収める。夢に出たモヤモヤした不思議な光景を、みんなに見てもらいたくて、絵に描き写す。 表現ってのは、そもそもそういう、表現したいものを具現化する行為であったはず。 オタクである限り、表現そのものが目的化してしまっている限り、そもそも自分が何を表現したいのかすら、見つけることができない。

PC 上で日本語で自由に文章を書きたいから、漢字変換プログラムを開発する。 広大な Web 空間から価値ある情報を見つけ出したいから、検索サイトを開発する。 ネット上で音声データを手軽にやり取りしたいから、MP3 などの高度な圧縮技術を開発する。 無料のエロいムービーを、騙しリンクに惑わされることなく手軽に閲覧しまくりたいから、 YourAVHost を開発する。 まぁ、最後のはエロい人限定ですが (^_^;、多くの人に認められ、使われ続けている技術って、 やっぱりコンピュータやネットやプログラミングという枠に囚われないところで抱いた問題意識を解決することによって、 その問題からの開放を「便利だ」と思える多くの人々の共感にこそ、支えられているのだと思うのですよ。

これは仕事においても言える大切なことで、 自分が今やっている仕事が、どういう問題を解決するものであるか、 どういう欲求に応えるものであるかを明確に理解しているっていうのは、 モチベーションにも大きく関わってくると思うのです。 こういう意識って、オタクでいる限りはなかなか気付けないし、養えないものなんじゃないかと思います。 だから、激務に揉まれて疲労が蓄積していくうちに、自分が何のためにそんな仕事をしているのかが分からなくなり、 あっという間に心身ともに燃え尽きてしまう。 自問自答の堂々巡りが、嫌な病魔を引き寄せてしまう。 (この辺、何時ぞやのid:fromdusktildawn さめの記事に対するおいらの回答のひとつにもなっています)

問題意識を養うには、興味の範囲や行動範囲を広く持ち、 普段から多くの物事に対して真剣にものを考えてみるということが必要になります。 考える、っていう作業は、ある意味とてもネガティブな作業で、 時には考えてしまったらノイローゼになっちまうんじゃないかと思うくらいに嫌な物事だってあります。 そういう物事からの現実逃避の為の手段として、自分の好きな分野に没入するという行為を繰り返すと、 オタクになってしまうわけなのですが、そうした状態が長く続くような人生は、 激しくもったいないと思います。 現実から目を背けず、むしろ現実を直視し、思考トレーニングを積むことによって、 物事に対する問題意識を培うことが、結果として、その人の「好き」をより効果的に生かす機会を与えることになるのです。 むしろ、行動に値する問題の視点が明確になれば、その解決手段に選択したツールを自然に「好き」になれるはずです。 「好き」はむしろ、後付けでも構わないはずなんです!!

というわけで、ここまで徹底的に「オタク」という概念を否定しまくったわけなのですが、 それでも個人的には、心底オタク気質な人間にたまに出会って、 その人の興味の対象について見境もなく延々クドクド熱く語られてしまったりすると、 そういう人はうざいなぁとは思いつつも、でもなんだか微笑ましく思えてしまったりして、 どうしても嫌いにはなれなかったりもします。何でなんでしょうね? まぁ、自分も多分にそういうタイプの人間だからなんでしょうが。。。

4. チームワークとコミュニケーションの違い考

個人的には最も書いてみたかった部分はすでに書き尽くしてしまったので、あとは蛇足です。w

個人の高い能力が注目される特殊部隊だが、実体は徹頭徹尾組織であり、チームである。組織にとってマイナスとなるような個性は徹底して排除される。戦場においても彼ら特殊部隊はバディと呼ぶペアがおり、最低でもふたり単位で行動する。そして必要に応じてチームをつくる。

学生は、訓練期間中2人1組のバディで行動する。特殊部隊系には共通するパターンで、米海軍特殊部隊Navy Sealsの有資格者も「必ずバディと2人1組で行動する」といっていた。

なるほど、「個人」どうしが組んで「バディ」をつくり、バディを集めて「チーム」とする。

これが、「個人」を集めて「チーム」を作ると、「1対1の会話だと話せるが、3人以上のグループになったとたん黙り込む」ような人たちがチームに溶け込めなくなるのでは。

部活とかサークルのような組織では、溶け込めない人に「空気読め」「自己責任」「忌ね」と言っていればいいけど、軍隊でそんなこと言ってたらたぶんチームが全滅する。

軍隊が要求する「チームワーク」と、仕事において要求される「チームワーク」ってのが、 本質的に異なるものである可能性も高いので、一概には言えないのですが。。。

個人的には、「チームワーク」と「コミュニケーション」はまったくの別物であり、 衝突しない概念だと思っています。 共通の話題などなくても、あるいはチームのメンバーの誰かと誰かが激しく仲たがいしているような状況であっても、 こなすべき仕事に対する責任感、即ちプロとしての意識が十分に備わっていて、 十分に訓練されているのであれば、それらがチームワークに支障をきたす原因となる可能性は、 極めて低いのではないでしょうか。

コミュニケーションがチームワークに支障をきたすケースがあるとすれば、 それは仕事に対する考え方に齟齬が発生し、各自が各々の考え方に意固地になっている場合、 ぐらいでしょうか。 その場合、リーダー格の人間が意識合わせを十分に行い、メンバーを納得させる、 いわゆる「根回し」という作業が必要になります。 でもこれも、本質的にはコミュニケーションが原因なのではなくて、 能力差や経験の差、そしてその仕事の専門分野に対する取り組みの差が原因であると見るべきであって、 少なくとも「3人以上になると会話に入れなくなる」みたいな心境が直接関係するような話では無いように思えます。

軍隊の場合は「チームワーク」以上に「信頼」(逆恨みとかで仲間同士が殺し合いを始めないこと) が重要になってくる、と言われればそれは激しく理解できるのですが。。。

5. 共通前提は作り出すもの? それとも見つけるもの?

とりあえず、“オタク”とは自分の興味を優先させる人間のことだ、と定義しておく。本当は、自分の興味のあることなんて、オタクだろうがそうでなかろうが、一人一人が全部バラバラなんだと思う。

でもそれだとグループになったときに共通の話題がなくなってしまうので、人は「これが話題になる」という空気(コンセンサス、最大公約数)を作り出すのだ。

そうして、話題になるものを押さえておきさえすれば、大人数のグループでもスムーズに雑談ができるようになる。

自分の興味を優先する人は、そういう空気をないがしろにするので「偏っている」とか言われるのだろう。先ほど書いたように「自分の知っている話題のときは口を出すが、興味の無いこととなると黙り込む」わけだから。

「空気」という言葉が出てきたところで、先日の宮台さんの記事を思い出しました。 曰く、「共通前提の崩壊が、空気を感じにくい状況を作り出している。そして、空気を感じにくいからこそ、 「空気嫁」という奇妙な命令が発せられる」と。 昔は世代ごとに確固たる共通前提が存在していたから、そこに漂う空気も安定していた。 それがいつごろからか、共通前提がテレビに代表されるようなメディアに依存するようになり、 ネットの登場によってメディア依存の共通前提が崩壊してしまったために、 そこに漂う空気が非常に不安定になってしまった。 よーするに何を信じればよいのか分からない状況に、多くの人が不安を抱いているわけなんですね。

…テキトーに距離置いて生ぬるく信頼しておけば大抵は万事解決なんですけどね本当は。

で、話は 1. と 2. で書いたことのまとめになるわけなのですが、 「空気嫁」ってのはよーするに、こういうイマドキの状況において、 誰かがこさえてきた知識や物事から共通前提を無理やり作り出し、 それを共有することで安心できるんだからそれを受け入れようよ、という暗黙の圧力であり、 でも大人の対話ってどっちかっていうとそういうスタイルに頼るよりは、 個々の興味の対象を包括するような、より大きな概念に共通前提を見つけ出すことによって、 会話を成立させるという方法で解決しているんだと思うし、 実際それで大概は解決できるんじゃないかと思うのですよ。

そして、結果的にはもともと興味の対象ではなかった物事についてもヒアリングすることで、 自身の興味の対象を広げていくことが、後々自分の仕事とすることに大いに役立つ可能性も、 意識しておいて絶対に損は無いと思う。 コミュニケーションを目的に流行を追いかけるばかりの人生ももったいないけど、 好きなことがひとつしかない人生も、やっぱり相当もったいない。 みんなが個々を尊重しあえて、その上で好きなことを増やせるような生き方を、 おいらもできる限り実践していきたいと思う。

…書いているうちに新年になっちゃったから、これは今年の抱負ってことにしておくかな。 あけおめことよろっと。