社会問題アレルギーと「バカ」の定義 ― 2008年08月01日 08時07分07秒
どこに tb 飛ばすでもなく一言二言。。。
「個人で解決するべき問題を、社会の問題として他人に転嫁する奴はバカだ」という言説がある。なるほど、その通りの文脈で話が発生しているならば、それは確かに馬鹿馬鹿しい行動だと思う。
一方で、身近に起こっていること、あるいは自分自身の身に降りかかっていることであっても、目下彼らの (あるいは自身の) 災厄そのものを問題視する (あるいはその解決を目指す) のではなく (あるいはそれとは別に)、そうした物事に類似する問題が、ある枠内における社会全般に一定量以上共通して存在する問題なのではないかと仮説を出し、その仮説に基づいて調査・行動を深めていくという活動があり得る。それは学術研究レベルでは大いに行われている活動であり、あるいはジャーナリズムとして、あるいは個人・団体の活動家として、あるいは国家政府、シンクタンク、企業によるビジネスリサーチ等々、様々なレイヤーで行われている活動である。
そうした活動の鼻緒として書かれた仮説に対し、「それはあんたの問題なんだからあんたで解決しろ」ということしかできないのだとしたら、彼には決定的に社会学のセンスも、それどころか商売のセンスもないということになるのではないか。
プログラマーが、プライベートで書いたプログラムを一般に公開するのはなぜか。自分のために役に立ったプログラムが、世間の役に立つ可能性を鑑みるからなんじゃないのか? 自分のことを自分事として解決するのがスマートなら、そうやって配布されたプログラムを検索して拾ってインストールするという行為は「バカがやること」だということになるんじゃないのか? 金を出してまでソフトを買う奴は大馬鹿者だというのか? そもそもあなたが作ったプログラムは、他のどのコードにも依存しない物なのか? ライブラリは? 言語は? システムコールは? コンピュータで感じた問題は、すべてマシン語で書いて解決すべきなのか?
あなたが「バカ」だといった人々は、そうやって本来自分事として消化されるべき知識を、社会に還元するという活動だ。そしてそうした活動を通して、社会はお互いを支え合っているのだということに、今一度立ち返るべきではないか。そんなことにも気づけないようでは、あなたこそ「単なるバカ」に堕落することになる。
社会問題としての「非モテ」考 ― 2008年08月02日 22時35分43秒
前回の記事は本当にどこにも tb 飛ばさなかったので、誰にも見かけられないままひっそりと沈んでいくんじゃないかと、別に不安になる必要のないことで不安になってしまい、気弱にもついったに URL を載せるなんて恥ずかしい真似をしていたりしたおいらだったわけでつがw、そんなおいらの思いとは裏腹に、過去最高のブクマ数を稼ぐという結果に、少々驚きを隠せません。あの件、みんなそんなに気に障っていたのか。(^_^;
んで、その中で一つ、おいらにとってとても耳の痛い指摘をしてくださった方がいらっさいました。
uumin3 「非モテ」だって社会問題として考えれば侮蔑しなくても…とちょっと思わないでもなかったり。⇒http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20070516#p3 (非モテ論議と格差社会論議は意外に似ている)
これはまさしく先日のこちらのエントリの事を指しているのではないかと思う。一応、差別的な思考であった点については後日のエントリで言い訳させていただいた通りで、誠に反省至極なのであります。
今回のエントリはその、「非モテ」を自称されている方々にとっては、傷に塩を塗り込む物かも知れません。
「モテ」と「非モテ」、特殊なのはどちらか?
で、「非モテ」という言葉について再考してみたいのですが、これが差別的なレッテルとして用いられるに至る以前に、そもそも「モテない」という状態に陥っている人々を十把一絡げに括りたいという意志があったのかどうかという点が、何気に争点になるのではないかと思いました。というのも、これはおいら個人の価値観に過ぎないのかも知れないのですが、そもそも「モテない」という状態よりも、「モテる」という状態の方が、実は特別な状態であると言えるのではないかと思っているからです。
モテるってのは、よーするに「人気があって、ちやほやされる」状態のことを指すわけですが、異性に限らず特定の集団にモテている人がいる場合、その理由として、その人に特別な魅力が備わっているから、ということが言えるのではないでしょうか。dankogai や Matz が一部の (特に Web 系の) プログラマーにモテているのは、彼らがその道に携わる者として、特別な成果を上げ、特別な信念を持ち、それらが特別な魅力を発揮しているからでしょう。
その一方で、モテている人が観測されるときに、その人がモテている理由を理解できない人や、その人の発揮する魅力にそれほどの魅力というか価値を感じない人にとっては、逆に妬みの対象となることが多いのではないでしょうか。子ども社会など、民度が十分に高くない社会においては、ある集団にモテている人間が、そこに接する別の集団からは陰湿ないじめに遭っている、というのはよくあることであるように思います。
モテる人間に対する偏見や差別がそれほど問題視されない理由として、彼らをもてはやす集団の存在が彼の心の支えとなり、救いとなっているという現実、あるいは (実際には救われていないのだとして、それでも) そう見られてしまいがちな現実、というのがあるのかも知れません。元より大衆の嫉妬心が、それを問題視させまいとする空気を醸成している可能性も、少しは鑑みた方がいいのかも知れません。
「モテる」という状態は能動的か?
そんなわけで、実際には「モテない」というのは極めてありふれた状態であり、本来であればそこにレッテルを醸成する余地はないはずでした。多くの人々はモテないなりに個別に交流を見出し、そうした中で個別に深い絆を醸成しながら、社会との繋がりを確立していたわけです。
しかしその一方で、「モテる」という状態を目指すことを奨励する言説も、古くからありました。たとえばそれは、アパレルや化粧品などの方面から多く発信されていました。異性にモテるという承認欲求を促すことが、彼らの商売に繋がっていたからです。
こうしたビジネスは、情報発信の主導権がテレビと出版にあった時代においては効果を発揮しました。きらびやかな芸能界は劇場に足を運ばずとも、お茶の間で見せつけられる物となり、かっこよさへの羨望が、若い子たちの間で共通前提として普及していたからです。そうした前提があってこそ、時代のカリスマが、様々なファッションを作り出していきました。六本木黒服文化、イタカジ、渋谷系、ガングロ、ルーソー、それからえーっと、何だっけ…?
実際にはそういった流行に乗らずともモテちゃっていた人はそれなりにいたし、必死に流行を追ってもやっぱりモテない人はいっぱいいました。しかしその一方で、モテてなかった人が運良く何らかの関係性に恵まれることがあったときに、そうした光景を目にした人々によって、流行を追うことの重要性が信じられるようになっていった、という経緯はあったのかも知れません。
いずれにせよ、「モテる」というのは単なる状態であり、形容詞的に用いられるべき可能動詞です。本来モテようとしてモテることができる訳ではなく、そのための確立された方法論が存在するわけでもありません。実際にモテている人からしてみれば、自分の意志とは無関係に「モテちゃっている」訳で、それはそれで必要以上の関係性が構築されていってしまうことによるリスクの増大という、割と無視できない苦労と同居するものです。
交流のハードル
他者との関係性を構築「できない」人々の存在が問題視されるようになったのは、割と最近のことではないでしょうか。それまでは、そういう人々が存在するという現実について、あまり直視されなかったように思います (直視できない人、直視したがらない人は、今でも恐らくいっぱいいます)。関係性を構築できない要因は様々ですが、その機会が学校や職場に拘束されることで制限されている可能性や、心身障害、精神疾患などにより、能力的に、あるいは社会的に構築が困難になっている可能性、更には家庭内での虐待やネグレクト、学校や職場でのいじめに起因するケースなどが注目されています。
一方で、他者との関係性を構築することへの心理的なハードルが、かつてより上がっている可能性についても、議論する必要があるかも知れません。
例えば核家族化の浸透、それを追うように、共働きが浸透していったこと、それから、かつては「9時から 5時まで」だった労働時間の常識が、休憩時間をカウントしない「実働 8時間」とフレックスタイム制の普及により、都市部の中小企業を中心に「10時から 7時、さらに残業」という常識へとシフトしていったという背景もあり、保護者が忙しすぎて子どもやその教育に関心を持てないという状態が醸成されていってしまいました (モンスターペアレントが問題視されるようになった背景の本質も、ここにあると考えていますが、これについては別の機会で)。
この結果、親同士、家庭同士の交流の機会が、かつてより少なくなっていき、「幼なじみ」という状況が作られる可能性も、子ども同士では解決しきれない揉め事への関与の機会も、子どもたちを安全に遊ばせられる場所、環境の提供も、できなくなってきているのではないか、という点については、まだあまり表だって議論されていないように思います。
こうした地域交流の希薄化が、関係性を構築し、醸成する機会を減らしていった結果、クラスメートに声をかけたり、放課後のお誘いをしたり、気に入らないことを注意したり、各自の趣味を明かしあったりといった行動に、余計な勇気を要するようになっていったのかも知れません。
そんな中、変わらないのは学校というシステムで、クラスという単位に箱詰めされ、班という単位に機械的に振り分けられ、担任教師にはクラス運営の効率化のために「仲良くしなさい」と教えられる。そして、どうしても誰とも仲良くできない子が、他者の互いに仲良くするという目的のためにいじめの対象として利用され、勇気のない多くの子たちがそんな状況を傍観する。
まぁそういう典型的ないじめの構図ってのは割と昔からあったのですが、最近ではケータイの普及などによる別レイヤーでの関係性が交流を複雑化し、共通前提を喪失させるために、場の空気が流動的になっている、とする見方もあるようですね。学校では仲良くしているし、放課後もつるんでいるときは普通に仲良くしているのに、「学校裏サイト」(と呼ばれる単なる Web 掲示板) ではあることないこと触れ回る奴が場を荒らして不安を煽り、疑心暗鬼を募らせるという…。まぁそこまで露骨なケースじゃなくても、顔を見せ合って会話しているときと文字で交流するときとでは心理的障壁の度合いというのは結構違うようで、ネットではなぜかギスギスした論争になってしまうというのは割とよく見かける光景なんじゃないでしょうか (あー草の根 BBS 時代が懐かしい…泣)。
友だちを「作りたい」という欲求が誤用として浮上するのはこの辺に端を発していて、要するに経験的に関係性を築くのは難しいことだという認識を育んでしまっている人というのが、おいらたち前後の世代以降では割と増えてきていることの証なんじゃないかと思います。これは先ほどの「能動的か否か」という話に繋がる要素で、実際には友だちってのも「作る」ものではなくて「できちゃう」ものだ、っていうのが現実です。人ってのは不思議な物で、自分には現状不可能なことほど、「何らかの努力によって可能にできる」ものだと思ってしまうもののようです。あるいはそう思いたいのでしょう。
「非モテ」を自称することの有用性
で、やっと「非モテ」の話になっていくわけですが、おいらの見立てではこの言葉はあくまで「モテない」という状態を指す場合にのみ用いるべき言葉であり、「非モテ」というレッテルを貼るべき集合が存在するわけではないのではないかと考えています。その一方で、自ら「非モテ」を称する人は、少なくともネット上ではそれなりにいらっさるようで、そうした人々の中には、「オタク」や「ヤンキー」、「スイーツ(笑)」などといったレッテルと同列の言葉として、「非モテ」を用いているきらいがあるように思います。
もちろん、「非モテ」がレッテルとして用いられるようになったことと、それを自称する人が出現したことに、直接の相関性はないでしょう。鶏が先か卵が先かを議論することに、あまり意味はありません。しかし、彼らが「非モテ」を自称することに、何らかのメリットを見出している可能性については、検討の余地があるかも知れません。
おいらはそれは、実は承認欲求に基づくものなのではないかと睨んでいます。すなわち、お互いに「非モテ」を自称しあうことによって、彼らの間に共通前提を作り出し、そこに関係性の土台を構築したいという意図です。これは、本来侮蔑の対象として作られたレッテルであるはずの言葉「オタク」を敢えて自称しあうことで、特定のカルチャーについて語り合う、より潤滑な土壌を作ろうとする人々の精神性に共通します。
彼らは「モテ」と「スイーツ(笑)」(ここでは「おれたちのカルチャーを理解できない糞女ども」ぐらいの意味) を共通の敵と認識し、敵と見なされる言質に対して苛ついてみせたり、敵意をむき出しにして見せたり、あきれかえって見せたり、反論して優越感ゲームに耽って見せたりします。そうすることで、お互いに共有するはずの精神性を確認し合い、馴れ合い、安心するのです。
もちろん、そういった馴れ合いごっこに荷担しないにも関わらず、「非モテ」を自称されるかたもいらっしゃいます。しかし、そういう方々が「非モテ」を自称する人々の文脈というか空気を読まない発言を試みると、やはり幾人かの自称「非モテ」たちの攻撃の対象となったりします。特に、「非モテだけど一応彼女が居ます」などとネット上で書こうものなら、たちまちの内に燃料となり、非モテ非承認の村八分騒ぎとなるのです。
もちろん、ふとしたきっかけで関係性に恵まれたために「非モテ」を卒業される人というのも一定数居続けるでしょうが、いずれにせよこうしたサイクルは「非モテ」を自称される方々に馴れ合いごっこ的な精神性が介在しているケースの純度を一定以上に保ち続けることとなるのではないでしょうか。
「非モテ」のレッテル化
こうした経緯が、「非モテ」という言葉のレッテルとしての価値性を高めるサイクルになっている可能性については、検討の余地があるかも知れません。というのも、後々になって初めて「非モテ」という用語に触れることになる新参者たちは、かなり純度の高い「非モテ」の精神性を、肌で感じてしまうことになるからです。非モテはキモイ。非モテは恐い。非モテはプライドも向上心もない。
そして、そうした差別的なレッテルによる幻想に対し、それを反面教師として捉えるのです。自分はこうならないよう気をつけよう。非モテにならないように気をつけよう。モテる人であろうとしよう!!
…本来、モテないという状態自体は、これっぽっちも、侮蔑の対象などには、なり得ませんでした。なりようが、ありませんでした。
モテない理由など、無限に存在するのです。むしろ、モテる理由の方が、非常に限られているのです。しかし、「非モテ」たちを見た人々は、彼らのそうした精神性に、モテない理由を見出そうとするでしょう。そして、自分だって大してモテる訳でもないのに、「非モテ」を差別の対象として見なすのです。
とりあえず「非モテ」を自称するのはもうやめないか?
以下はおいら個人の価値観です。こうした状況は、おいらは非常に不毛だと思っています。
もう、非モテを自称するのは、やめにしませんか?
実際のところ、モテないこと自体は、社会問題でも何でもないんです。個人の責任ですらありません。そもそもモテることは義務ではありません。
でも「非モテ」差別は社会問題です。なぜならこの状態は、そこに触れる人々に、「モテなきゃいけない」という固定的な価値観と、「モテても容易に知られてはいけない」という誤った倫理観を、脅迫的に押しつけてしまう可能性があるからです。これは、現状流布しているレッテルとしての「非モテ」の精神性に共感できないにも関わらず、現実問題としてモテていない人々にとっては、社会不安以外の何物でもありません。
そして、モテない人々が、そうした不安から逃れるには、2通りの方法しかありません。一つは、開き直って堂々とすること。もう一つは、自称「非モテ」の精神性に、迎合することです。前者をすべての個人に期待するのは社会学的に不適切です。そして後者の可能性は、すなわち自称「非モテ」の精神性には感染力がある可能性を示唆します。
もちろん、現状「非モテ」を自称されている方々に、それをやめていただくようお願いして回ることも、解決策としてはあまり正しくはないのでしょう。でも、啓蒙することに全く意味がないとは思わないので、おいらは敢えて、啓蒙しておくことにします。「非モテ」を自称するのは、なるべく控えましょう。
本質的な解決策
で、実際のところ、この問題の本質というのは、若年者を中心に、各自の承認欲求が満たされにくくなってきているっぽいという背景にあるのだと思います。これを社会的にどうにかしていきたいのであれば、子育てのあり方、教育のあり方、そしてそれらに関わる大人の時間的余裕、詰まるところ労働に関する問題、更には経済に関する問題にまで遡って、いろいろと設計し、検討する必要があるのだと思います。まぁ、一つ二つの政策であっさり解決するような問題じゃない罠。
こういう場合、近いところから修正を試みるのと、根本の方から修正を試みるのと、どっちの方がより有効なんでしょうね? この辺はもう、社会学とかまるで素人のおいらが不勉強なまま頭を捻っても、どーしようもなさそうですね。
さいごに
現状非モテを自称されている方々の中には、この記事を読んで非常に苦々しい、腹立たしい思いをされたかたも少なくないのではないかと思います。
でも、その苛立ちの理由について、今一度、自身を解体して、考えてみて欲しいとも思います。
「非モテ」という名の幻想に、帰属意識を抱いているのではありませんか?
「非モテ」を整理。 ― 2008年08月04日 01時41分19秒
まだ考えがまとまらないので、とりあえず言葉の意味だけ整理してみます。
前回の記事では、単純に「モテ=モテる人、非モテ=モテない人」の意味をベースに、「非モテ」という言葉だけが一人歩きしているんではないかという誤解の上で書いていました。そのため、以下のような反論をいただいています。
もともと「モテ」という言葉から生まれてはいるため、誤解されやすいが、現在の用法としては「非モテ」の対義語として「モテ」が配置されている訳ではないことに注意。「モテ」は第三者による評価だが、「非モテ」は自意識の問題といえる。
「モテる」とは複数の異性から恋愛対象として求められることを指しているが、「非モテ」における「モテ」の意味することは、もっと原始的な、他者(異性だけではなく)から求められるという意味に変化している。他者による承認が得られないという悩みなのだ。
中でも、恋愛経験がないために、一人でもいいから異性に好かれたいという恋愛による承認を求める人が「非モテ」を自称することが多い。「非モテは複数の人にモテたいんでしょ。そんなモテる人なんてごく少数で、一人の人に愛されればいい」というような発言は、非モテという言葉を見かけた時によく見かけるが、これは誤解である。
その一方で、「モテるための努力を回避する」という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人のことを指す場合もある。
後者の非モテはさらに挫折型←→非挫折型、恋愛至上主義そのものからの退却←→恋愛(モテ)資本主義からの退却と大きく4つの型に分類できると思われる。
なるほど。承認欲求込みで初めて「非モテ」になるわけか。ていうことはどちらかというと、ここに差別が見出されることが社会問題だとするよりは、「非モテ」を自認するプレイヤーが続発すること自体が社会問題だと考える方が自然だね。
ただ、これをどういう問題だと考え、どういう対処を施すべきかと考えると、何気に難しい問題なのではないかと思う。まず、「非モテ」を自認する人が続発する原因がどこにあるのか。ストレートに関係性に恵まれない人が増えているとする考えもあると思うし、そこに問題を見出すならば、前回書いたように子育て・教育環境の改善に繋がるような制度設計が功を奏するかも知れない。ただ、それと同時に、ネットを介したコミュニケーションによって、「非モテ」を自認していることを口外しやすくなったために、元々潜在的にたくさん存在したこの手の悩みがおおっぴらに顕在化するようになっただけ、という可能性もある。顕在化したこと自体は、悪いことではないと思う。あるいはその両方であり、関係性に基づく問題はだいぶ前から深刻化していた可能性もある。
価値観の問題もある。この国でも価値観は多様化していっているといわれているし、実際一応はその通りだと思う。でもその一方で、個々人の寛容さが、多様化に追いついていないように思う。そのため、実際には非常に狭い価値観の中で、「憧れ」の偶像が作り上げられがちになる。見た目の良さとか、会話の弾みやすさとか、財力とか。で、その辺のありがちな要素のパラメータ競争に終始する中で、はじめからゲームに参加する意欲が沸かない人々がまず脱落する。これが非モテで、彼らはルールにとらわれない、よりナチュラルな関係性の構築を夢想する。それ何ておいらだw
…まぁ、彼らが夢想する「ナチュラルな関係性」ってのが、果たして本当にナチュラルと言えるかどうかは別として…それこそ個々人の価値観に委ねられるところがあるしなぁ…。閑話休題。
ある程度の統計情報があれば、この時点から特に酷くなった、というのが分かれば、対処方法も導きやすくなると思う。調査すべき情報を洗い出してみる。
結婚年齢
ある頃から晩婚が多くなったといわれているけれども、そのターニングポイントに何があったかを重ねてみる。見合い結婚の陳腐化や、高学歴社会による影響が大きいはずで、あまり当てにならないかも知れない。
離婚世帯数とその年齢、結婚からの時間
社会倫理の軟化により、離婚のハードルが下がっているので、これもあまり当てにならないかも知れないが、成田離婚などと呼ばれるような、結婚からの時間が非常に短いケースが若い世代を中心にある時点から急増しているのであれば、その世代を境に異性間のコミュニケーションに何らかの変質が生じている可能性があるかも知れない。
出産年齢
未婚の内に出産を経験するケースを含めた場合、結婚年齢よりは純度の高い統計が得られるかも知れない。
ポルノグラフィーの売上高
まぁーモテだって買うしアテにはならんけどね。
若年者の自殺者数
非コミュとの相関性はあると思う。
ファッション誌の売り上げ推移
あーそうか、ポルノよりこっちの方がよっぽどアテになるわ。
あんまり決定打が思い浮かばないなぁ。あとは実際に小中高生や学生、20~30代を対象にアンケートを実施するとか。
とりあえずメモは以上。またそのうち、何か書くかも知れませんです。
ちなみに雑感。これは社会問題としての視点とは無関係であり、蛇足です。
承認欲求については理解はできるんだけれども、正直なところ、実感は薄いです。この辺はまだまだおいら自身に想像力が足りていないところがあるので、何か本を読むなりして学んでおく必要があるのだと思います。
例えば、一人でもいいから異性に好かれたい
、という感覚というのが、おいらにはいまいちすんなり体に溶け込んでこないのです。というのも、おいらの場合、「自分が好きになった人には、好かれたい」という思いの方が、より自然だと思うからです。
好かれるとか嫌われるとかっていうのは、もう完全に他者に依存する出来事なので、これが受動的なのは当然なのですが、その一方で、他者を好きになったり嫌いになったりすることでさえ、あまり能動的なこととは思えないのです。もちろん、第一印象レベルで人を好きになったり嫌いになったりすることの多くは、ちゃんと言葉で説明できるような理由があるのですが、その一方で、多くの時間や体験を共有した人との関係においては、そのエネルギーがより強く、根深いものになりがちです。そうなると、何らかの出来事を通じて酷い目に遭い、あるいは裏切られ、そうして絶縁することになったとしても、どこかでそのことに対する負い目を引きずり、深い後悔に苛まれながら日々を暮らすことになったりするし、その一方で、そうやって絶縁してしまったもの同士が、後に仲直りする可能性ってのは、絶縁前の関係性の深さに反比例するんじゃないか、っていう感覚というか不安がある。で、一度そういうことを経験してしまうと、何より自分自身の感情に対して疑心暗鬼になってしまう。おいらが好きになったこの人のことを、自分は本当に好きで居続けることができるのだろうか。裏切らずにいられることができるのだろうか。って。
一人でもいいから異性に好かれたい
、という言葉を字面通り真に受けてしまうと、そこに自分が本当に考慮されているのかな? と不安になるのです。人の機嫌には波がありますから (個人差もありますが)、時として必要以上に辛く当たるということはままあります。人を好きで居続けるっていうのは、その手の荒波を、満潮も干潮も、常に受け入れ続けるっていうことでもあります。
…それができなくて、当たり障りのないつきあい方しかできないのに、それでも愛し合っているのだと信じ合っている人も、中にはいるような気もします。
とにかく、人を好きになるっていうのは、好かれることほどではないにせよ、何気に難しいことなんじゃないかと思うのです。そして、人を好きになれない人は、人から好かれていることにも、なかなか気づけないものです。
なので、もし仮に、個別にアドバイスする機会があるのだとしたら、とりあえず、人を好きになりたいって思うことから始めたらええんでない? と言うことになると思います。好かれるための仕掛けとしての、ファッションだの鍛錬だのなんて二の次です。そんなのは、おいらみたいな重度の面倒くさがりでもない限り、どうしようもなく好きな人ができちゃった時点で割と誰でも必死になっちゃうものですから。
非モテは貝になりたい ― 2008年08月07日 08時48分04秒
この話題は一旦待避するつもりでいたんですが、もうちょこっとだけ。
カルチャーの広まりとしては理解しました。
「好きになる」という言葉に、強いニュアンスを持っているように感じました。指摘された部分において、おいらが書いた人を好きになれない人は、人から好かれていることにも、なかなか気づけない
の部分の「好きになる」は、前後の文脈とごっちゃになってヒジョーに分かりにくいのですが、告白衝動に繋がるという意味でのそれではなくて、例えば偏見を抱いている部分があるのだとすれば、自分が相手の何に偏見を抱いているのかを見つめ直すとか、相手の振る舞いに腹立たしい部分があるのだとすれば、その腹立たしい理由を自分でちゃんと理論立てて説明できるのかとか、そういう地道な自己分析を通じて、本来忌避する必要のない人を忌避してしまっている可能性を少しずつ潰していく、といった類の物です。
人を好きになるっていうのは、好かれることほどではないにせよ、何気に難しいことなんじゃないか
と書いたのも、今書いたような「好きになる」をベースに、ある対象への興味や経緯、魅力などによって培われた感情を、その後も継続的に持続していく、あるいは持続できなかったことによるその後の生活、自身の行動をも受け入れるということも含めて想定しています。「自分の感情をコントロールするのは難しい」というテーマにも通じるもので、こちらは怒りっぽいとか笑い上戸とかを連想されがちですがそっちではなくて、むしろ「うまく怒れない」「うまく笑えない」という類の物です。ものすごく頭の悪い方法で要約してしまうと、加減が難しい、ということになります。
これは、「男女の友情」について指摘した以下のブログ記事においても説明されているような、友情と性愛の接続
という概念にも通じるものではないかと思います。おいらはこの記事はあまり好きにはなれなかったのですが…、
この記事では女性はそれを理解しやすいのではないかとしていますが、個人的な経験談で言わせていただければ、少なくとも思春期周辺の内は女性でもそれを理解できない人がそれなりにいるんではないかと思います。で、そういう人に限って声が大きくて、自分が好きになれないタイプの男子 (子どもの内だと見た目もそうだけどそれ以上に清潔感とかの方が大きいんじゃないかな) に対しては強く忌避するものだから、学校のクラスみたいな閉じ込められた空間の中では同調圧力みたいなものが支配的になってしまい、結果としてみんなに避けられるような状態になってしまう。そういう経験はおいらにもあるので、自分が女性に好かれるなんてことは有り得ないんじゃないかという気持ちに限っては痛いほど理解できるんです (そういう意味ではおいらも十分「非モテ」でした) (「うざい」のようなネガティブなニュアンスの「便利な言葉」に嫌悪を覚える理由の一つでもあります)。
ただ、こうした傾向は大人になって行くに従って (少なくとも表面上は) 和らいでいくものであり、大学のサークルなんぞを覗いて見ますと、おまいら小中高校までなら絶対仲良くなること何て有り得なかっただろうって言うくらいかけ離れたタイプの男女がとりあえず一生懸命フツーに接せられるぐらいにはコミュニケーションを図ろうとしている光景を目にすることができたりします。
社会人の場合、戦略面で言えばとりあえず男女が常日頃顔をつきあわせなければならなくなるようなコミュニティに参加してみる (職場以外でね) という手があると思いますが (英会話スクールとかスポーツジムとか)、あんまりその辺まで突っ込んで書くと自己責任厨だのマッチョだのと叩かれそうな気がするのでそれはやめておきますw
で、しろくま先生の記事も読んだのですが、
いろいろとなるほどと思える部分はあったのですが、こちらもこちらでいきなり恋愛なんだなぁと…。ていうか「オーラ」というのは抽象的すぎて説明としてはうまくないような気がします。
実際のところ、よく訓練されたありふれた非モテは、男女混合のコミュニティに参加することになったとしても、基本的に恋愛を前提としたコミュニケーションは絶対とろうとしませんし、そこに発展しそうになったら概ね全力で逃げます。ソースは俺 (笑)。そのくらい、彼らは自信がないんです。そこは理解できる (理解できるだけに、一人でもいいから異性に好かれたい
ってのは理解できないんよ。おいらは表面上でも異性に好かれるのは刺激が強すぎて恐くて恐くて仕方がなかった)。だから女の子に「村山くんってモテるんでしょ~」なんて言われようものなら全力で否定してた。精神的な安定を求めようとする欲求ってのは誰しも割と自然に働くものなんですが、おいらの場合そのときには、「モテないおいら」というキャラクターを崩したくなかった。そこを崩してしまうことになんとなく恐怖を覚えていたんですな。
で、それが氷解して、「俺も恋をしてもいいのか」って思えるようになるには、割と長い時間をかけての矯正や、何らかのカンフル剤的な出来事が必要になるのだと思います。そういうのをすべての非モテ個人に期待するのは酷だと思うので、非モテが極力少なく済むような社会的な手当が可能なのであれば、それは推進すべきなのでしょうね。
とりあえずそんなところで。
おなか壊した。 ― 2008年08月18日 13時28分52秒
おかゆがやっと炊けた。。。かぁちゃんの漬けてくれた紫蘇梅うめぇ。。。
星野ジャパンは負けて良かったんでねーの? ― 2008年08月22日 19時58分20秒
(T/O)
収入の問題ばかりでもないだろう ― 2008年08月23日 10時39分17秒
自分に自信の持てない元増田についてはそれほど同情的にはなれないし、そういう意味での asami81 さめの感情面はまぁ理解できるのですが、おいらとしてはそれでもやっぱり元増田の彼女のご両親によって押しつけられようとしている作法を「常識である」という前提の元にものを語るのは避けるべきだと思うのですよ。
love_chocolate さめは年収 200万円台で子育てを含む結婚生活を送ることの難しさを説いていますが、例え年収 1000万を超えるような高収入を得ているかたであっても、健康上のリスクは常に抱えているものです。
うつ病等の重い精神疾患に悩まされ、長期休職を余儀なくされると言うことは、昨今では特に決してレアケースではなくなってきています。福利厚生の待遇が非常によい大企業であれば、休職中も事実上、通常の給料と変わらない手当がもらえて、しかもなぜかボーナスまでもらえちゃうなんて言うこともあったりするようで、それだけ待遇が良い会社に勤めているなら安泰だ、って思ってしまうかも知れません。しかし当の本人にしてみれば気が気ではないわけです。自分は本当に役に立たない、会社からも、それどころか社会と呼ばれるものすべてに、必要とされていないんじゃないかという不安感に常に苛まれながら生きることになる。そして、そういう人をそばで、たった一人で支えなければならない配偶者、という構図は、あまりにも過酷なものです。そうしたときに、両家のご両親の精神的な支えがあるというのは、当人たちにとっては大きな励みになるものです。
元増田の彼女のご両親が見せたあの態度から、将来そのような協力的な支えがあり得るかなど、おいらだったら期待できません。それは、元増田が例え年収 1000万円もらえるような仕事に就いていたとしても、多分変わらないでしょう。
お金がないならお金がないなりに、どうやって生活していくつもりなのか、腹を割って親身になって、じっくり話し合えばいいじゃないですか。自分の娘が認めた男なんだろ。だったら信じてやれよ。現実見せつけて偉くなったつもりか? てめーらの世界観の方がよっぽどちっぽけで貧しいじゃねーか。そうじゃないだろ、それこそ love_chocolate さめが示したような現実について真剣に話し合えよ。一日で足りないなら二日でも三日でも割けよ。娘息子の結婚に、親として立ち会うってそういうことだろ? くだんねー挨拶ごっこで茶を濁しながら料亭でうまい飯食ってごちそーさまとかやってる場合じゃねーだろ。
まぁ、それ以前に相手の男性のことぐらい、娘から事前に聞いておけよとも思うが。その時点でそもそも娘ともいくらでも話し合いができたはずだよ。どういう風に生活していくつもりなのかって。おいらだったらそもそもの親子間の信頼関係をも疑っちゃうよ。あんなもん見せつけられたら。
人間ってそんなに立派なもんじゃない。1000万の年収がある人間だって、お金の多くはくだらねーことに使っちまうんだ。マンションとか。で、年収 200万の生活には今更戻れねーよって状況を自分で作ってしまうんだ。毎年 500万とか貯金できる人間なんてそうそういないんだって。
だからこそ、身内のトラブルにまつわるリスクは常に覚悟しておくべきだ。これは親に限った話じゃないし、上下の問題でもない。義理の親でさえ、いずれは立って歩くこともままならない体を引きずって、それでも生き続けなきゃならない状況に立たされる。それを引き受ける覚悟が自分にあるなら、いくら年収が低くたって、堂々としていればいいと思う。社会的にはいくら問題あげたってきりがないくらいだけど、個別問題としては、特別間違った方に足踏み外したりしなければ、割とどうにかなっちゃうもんでもあるんだから。
最近のコメント