「あいさつ奨励」は、諸手を挙げて賞賛されるべき政策と言えるのか?2008年11月01日 00時33分26秒

本日最も、ゲンナリさせられたニュース。

ブクマ米では、好意的な反応が多かった。おいら的には、そうした多くの反応も併せて、なんだかえも言えない気持ち悪さを感じてしまった。

社会人になって 2年目の冬、同じ寮に住んでいた会社の同僚に、セミナー系のマルチをおすすめされた、なんてことがあった。新宿に夜9時に飲みに行きましょうとか、その時点でなんだか怪しいとは思ってたんだけどね。

で、本拠地にも乗り込んだ訳なんだけれども、そこでの彼らがまたものすごく体育会系なノリで、あう人あう人、大きく声を張り上げて威勢よく「おはようございます!」って挨拶していた。

当該記事を読んで真っ先に思い出してしまったのが、それだった。

ただ、共に仕事をこなす仲間同士の連携を深める、という意味でも、挨拶を習慣化すると言うことは、決して悪いアイデアではないと思う。だから、連携を深め合えることが当然の状況下であるならば、挨拶を重視し、その抵抗を減らすための取り組みを行う、というのは、社内政策としては悪くないのかも知れない。

その一方で、挨拶というか、業務に関すること以外のコミュニケーションにおいて、気さくさを演出する、といったことが苦手な人、というのは、少なからずいらっさると思う。幸運にも、おいらは必ずしもそんなことはないんだけれども、一方で、疲労が溜まっているようなときなど、挨拶が億劫になるような心理状況も、確実にあったりはする。

そういう人や時においても、「挨拶ぐらいできて当然」という空気が蔓延する中で、半ばそれを強要されているような抑圧を感じてしまう可能性、という部分への配慮というのは、あっても良いんじゃないか、とは思う。それでも挨拶を奨励するなら、逆に、…挨拶した。でも返事がなかった。というときに、いつもは返事するんだけどな。まぁ、疲れてるんだろうな。ぐらいに思える程度の、心の余裕があっても良いんじゃないかな。とは思うのだよ。それを思えないんだとしたら、それってどっちもどっちなんじゃないかなぁ。っていう。

それでも、その職場にいる人たちが、全員が社員で、立場としては対等で (まぁ、役職の上下はあるにしてもだ)、そういう仲で連携を深めよう、という意味での挨拶奨励ならば、それならまぁ納得も行くんだ。でもさ、例えば経費節減のために、人件費を浮かせる目的で派遣などの非正規雇用を多く雇っているような職場だったとして、そういう職場の社員が、非正規雇用の人たちもひっくるめて、挨拶奨励を推し進めよう、というのであれば、それはちょっと違うんじゃないの? とは思うんだ。

いや、もちろん、非正規雇用だったら、低賃金だったら、挨拶しなくても良いじゃないか、なんてことを言いたい訳じゃないんだ。ただ、金銭面で差別化が図られ、場合によっては業務においても社員があまりやりたがらないような雑務とかを押しつけていたりするような状況があるんだとすれば、そういう憂き目に遭わされている労働者が、あんまり積極的に社員の人と仲良くなりたくはないな、と思ってしまうんだとしたら、それは仕方のないことなんじゃないかな、とか思うんだ。これはおいらも一時期派遣をやっていたから分かる、なんてことは全然無くて、実はまるっきり想像で書いているわけだけれどもね。なにしろおいらが派遣として働いていた会社では、派遣はどちらかと言えば入社見習い的なポジションで、割と積極的に社員として雇い入れていたし、仕事面でも差別的なところは全くといって良いほど無かったからね。逆に社員と同等かそれ以上の寝泊まり進行で、むしろしんどくはあったけどw。そんな感じで普段の待遇からして公平性が保たれているのであれば、そういう政策もある程度は納得は行くんだけど、そうでないと、なんだか押しつけがましさばかりが印象として強くなってしまうし、そんなところばっかり同調を求められても、生きづらさを感じてしまうばかりなんじゃないかなぁ、とか思ってしまうわけなんよ。

挨拶ってのは形式的なもので、これに心理的な効果を期待されているのだとしたら、それってつまりは「感情的コミュニケーション」としての期待なのだと思う (「感情的コミュニケーション」って言葉については、まぁ、各自ぐぐって調べてみてちょ)。だとすると、これは実はコミュニケーション強者に有利なルールで、非コミュやそれに近い人たちにしてみれば、こんな些細なルールでさえも、結構心細さを感じてしまうものだと思うんだ。逆に、挨拶をすることから少しずつ、感情的コミュニケーションに馴らし、練習していこう、という意図なら、そういう仕事 (もっぱら営業とか) に関して言えばなるほど確かにその通りだなとは思うんだけど、そうでもなければ、彼らにあんまり生きづらさを実感させるような政策は、ほどほどにしておいた方が良いんじゃないかなぁ、なんて、ちょっとどころじゃなく心配になった次第なのです。

Ubuntu 入れてみた。2008年11月13日 16時24分34秒

あんまりにもあっさり入ってしまうんで逆に怖くなるんですがw

しばらく腰を据えて使いつづけてみますかな…。


2008年 11月 14日 金曜日 00:45:02 JST - 追記

オンボードのサウンドデバイスがあるマシンで別途サウンドデバイスを増設して使用したい場合、オンボードのサウンドデバイスを BIOS の設定で無効化しないといけないらしい。Windows だと両方同時に使えたりするんだけど、この辺はもう Linux カーネル 2.6 の制限事項、なのかなぁ。 2.4 + ALSA のときは両方同時もいけたような気がしたんだけど…。

あと、ネットで拾った PDF ファイルでうまく閲覧できないのがあった。これなんだけど、日本語部分がまったく表示されない。多分フォントの問題だな。うちの会社の決算報告書は問題なく見れたけど。

デスクトップアプリも概ね充実してる。動画とかも大抵のファイルはそのまま見れちゃう。.fla とかも見れちゃう。knoppix では見れなかったからこれはちょっと嬉しかった。うん。もうちょっとゆっくり使ってみますw


2008年 11月 14日 金曜日 10:58:53 JST - 追記

Ubuntu には標準で PulseAudio というサウンドマネージャが入っていて、アプリケーションごとの音量コントロールとかができるようになっているらしいんだけど、各方面で重い重いと結構不評らしい。まぁ重いのも厭なんだけど、それ以前においらが使っている Delta 66 が PulseAudio と相性が悪いようで、 PulseAudio のプロセスが生きている間は音が鳴らないという有様だった。

で、これは PulseAudio を削除すれば解決するんだけど、Ubuntu 8.10 だと PulseAudio を起動しようとするセッションスクリプトを自分で削除する必要がある。その辺のやり方も含め、やり方が書かれているブログがあったので紹介します。超絶感謝 m(_ _)m 。

毎日 Wikipedia 誤報の問題点2008年11月20日 11時44分16秒

毎日新聞が元更生事務次官らの連続殺傷事件に絡み、Wikipedia ユーザーのログイン名を晒して犯行予告者扱いした誤報について、Web上では既に毎日新聞の問題点がいくつか指摘されている。

id:KoshianX さめの主張も藤代さめの主張もごもっともなんだけれども、個人的にこれは問題なんじゃないかと思う点について軽く列挙してみようと思う。

  1. 容疑者にもなっていない人を犯罪者扱いする報道は許されるべきか?

    id:KoshianX さめの主張とも若干かぶるんだけれども、個人を特定する情報を晒してしまうということ以前に、ジャーナリズムが犯人探しに加担するのは職責から外れるのではないか、とかちょっと思った。ただ、ジャーナリズムは事実・真実の探求を代行するお仕事である以上、それに準ずるような行動も時として必要なのかもしれない。例えばけーさつが重要な事実を隠しているようなケースであれば、それを暴き、衆目に晒すようなジャーナリズムは賞揚されるべきだ。

    いずれにせよ、慎重に精査する必要はあると思う。今回の件では、結果として、この精査が足りなかった。もちろん、当該誤報が掲載された朝刊を引用して報じてしまったテレビ番組も然りで、新聞を信用しきって鵜呑みにするのではなく、各番組の責任において十分な裏取りを行うべきだ。

  2. 表層だけ見て記事にするのではなく、もっと深いところまで調べるべきだ。

    失敗は誰にでもある。新聞記者だって間違える時は間違えるんである。そこは、読み手が理解した上で、情報との距離の取り方を学んで行くべきだと思う。

    一方、失敗は学習の宝庫でもある。失敗した人間は考え、学び、その教訓を次に生かすべきだ。我々はそうした営みを「反省」と呼ぶ。

    では、今回の失敗を犯してしまった記者は、何をどう、反省すべきか? ここで、Wikipedia が時刻を UTC で表示する事にばかり着目し、「ネットや IT を知らないからいけないんだ。もっとこれらを学ぼう」とか言ってそれっぽい How To 本を買いに走るのは、まったくの無駄だとは言わないが、ジャーナリストとしてはイマイチだと思う。たとえ、日本の Wikipedia の時刻表示がグリニッジ天文台基準であった事を知らなかったとしても、今回疑われた Wikipedia 編集人の Popons さんについて、より深く追求して調べていれば、犯す可能性の低い間違いだったのではないか。例えば、Popons さんの過去の投稿記録を追って調べれば、彼がどれだけ Wikipedia に貢献してきた人か、あるいは彼がどういったことに興味・感心を持っているか、といったこと、すなわち人物像が浮かび上がってくる。そして、そのような人が、愛しているはずの Wikipedia という場を、犯行予告などという行為で汚すという行動の不自然さを思えば、これをネタとして出稿することにもう少し慎重になれたはずだ。

  3. 署名がないので文責が不在。

    責任という観点においては藤代さめの主張とも被るが、誤報の記事にもお詫びの記事にも署名がなく、毎日新聞社のどの記者に文責があるのかが不明である。これは今回の件に限らず他の多くの記事においても、あるいは他の新聞社においても同様であるが、記事の責任を会社が担保するというやり方が、個々の記者の責任感を薄めてしまっている可能性はもう少し考慮されるべきと思う。特に、ガバナンスがなく個々の社員が自由奔放であることが売りの毎日新聞社であればこそ、個別の記者の顔が読者にもっとよく見えてもいいはずだ。せっかく、人気の名物記者が生まれる素地が社内文化として確立しているのに、それを積極的に売り込まないのはもったいないとさえ思う。

  4. スタンドプレーが過ぎる可能性; 社内コミュニケーションは大丈夫か?

    で、スタンドプレーと言えば聞こえはいいが、要するに個々の社員が孤立していて、記者同士でのコミュニケーションが希薄だったりするような空気が蔓延しているんじゃないか、とも危惧した。まぁ、他にも何人かが当該記事に目を通していて、誰もがこりゃあ凄い、よく見つけたねと褒めまくっていた可能性も十分にあるので何とも言えないんだが、例えば取材チームみたいなのを組んでいて、チーム内でネタのレビューをすることによって、ネタのプロットに対する疑問点が洗い出され、ニュースとしての精度が上がっていく、といったような段取りは無いのか? 上司であるところのデスクの承認、だけでは、やっぱり情報の精度を維持するのにも限界があると思う。情報にスピードが求められるならばこれはなおさらで、短時間で精度を上げるなら、やっぱりある程度の人数をかけるしかないんじゃないかと思う。

とりあえずこんなところで…。