「勉強」という語が「便利な言葉」化されているようですね。2008年12月25日 13時39分25秒

最後の dankogai さめの記事がもうこれでもかっちゅーほどに叩かれまくっている。元々世間一般的な意味で言うところのいわゆる「勉強ができる子」に対する卑下が蔓延していることへの憤りに対して、最初っから厳密な (? あるいは俺様定義の) 「勉強」を指して「それだけできたって仕方ないだろう」という話に持って行こうとしているわけだから、話が通じるわけがない。

ただ、一方で id:pollyanna さめの体験談に同情された方がその後の dankogai さめのエントリーに腹を立てるのは心情としては理解できるんだけれども、彼が最初から、いや、あるいは昔っから「勉強」という言葉を斯様な意味で捉えていた、そしてそのような意味で「捉えるべき」だと考えていることを鑑みれば、全く読む価値のない記事であると切り捨ててしまうのももったいない話なのではないかと、敢えて擁護してみたく思う。

実際の教育現場において、どこまでを「勉強」と捉え、どこからを「学習」と捉えるべきか。これは、特に義務教育課程においては重要な課題なのではないか。こう持ち出すと、そもそもそれが「勉強」なのか「学習」なのかは個人の気の持ち様の問題であってその基準は千差万別、教育現場において一律の基準など示しようがない、という反論が容易に想定できる。確かに、基準が一律である必要は、無いのかも知れない。

一方で、現場で教えている先生方にせよ、あるいは自分の子どもを学校に通わせている保護者の方々にせよ、最低限、この程度の知識は備わっていなければ、将来社会に出て圧倒的に苦労することになる、という実感というのは、少なからず持ち合わせているのではないかと思うのだ。これは、以前、ふろむださめのところで勉強することの必要性に関する議論が多くの議論を呼んだ際にも、やはり教育現場に近い方々の意見としていくつか出ていたものだ (参考1, 2 と、関連する自演1, 2 / Snail Blog さんとこのはアクセスできなくなっちゃってました…)。ただ、そういう方々においても、その「最低限」がどこにあるのか、という基準は、やはりばらばらなのではないかと思う。義務教育課程に用意されているものはすべて、という人もいるだろうし、せめて読み書きそろばんぐらいは、という人もいると思う。その一方で、先天的な障害故に、周囲が「最低限」というものでさえ、まともに習得できない子を持つ親にしてみれば、口では同情されながら、現実的には我が子を人として認めてもらえない現状を苦々しく思っているかも知れない。

ただ、法によって国の教育を統治する国家の視点で言うならば、義務教育の名の下、「絶対に」とは言わないまでも、できる限り国民全員に習得してもらいたい教養を、その思いを込めて義務教育課程に組み込んでいるのであろうし、そうであればその内容は、好むと好まざるとに関わらず、その教育を受ける国民全員が「勉強」すべきもの、ということになるのだと思う。であれば、「学校で習う、教科書に書かれた内容を習得すること」がすなわち「勉強」として解釈される一般的な用法は、あながち外れてはいないのだと思う。その一方で、「勉強」の規定が国家によって一方的に押しつけられている現状を、純朴にも容認し、受け入れていることにもなる。

個人的には、人が何を学ぶべきであるかを規定することは、本質的には個人に委ねられるべきなのだと思う。その一方で、そうした類の自我、自覚に到達するには、多くは社会的つながりによって補われるものなのであろうが、やはりある程度は知識も必要なのだとも思う。興味の対象が文書に記されたものであるならば、それを読みこなす教養というのも、どうしても必要になってきてしまう (これは単純に国語力という意味だけではない。例えば物理学的知識を学ぶには数式に関する知識とそれを読みこなす能力 (センス) が必要になる。)。逆に言えば、多くの場合、社会的つながりがその人の人生における興味の対象をも規定してしまう。かつてはそれは地域社会、地域の産業によってもたらされていた。漁師町では漁師を目指し、商店街では店を継ぐ。学問に目覚めて首都を目指すのは例外的存在で、それは外面的には故郷に錦を飾るという目的で体裁を整えた場合に限り賞揚されていた。

最初の議論、すなわち勉強ができるとバカにされる問題というのは、そういう時代における価値観の名残なのであって、つまりは出る杭を打つだけの村社会意識に過ぎず、それは昔からあるもの (というより、むしろ昔の方が強かったもの) なのであって、今の子たちの頭が良くなったなんて言う話では全然無いのは明らかだ。

じゃあ今の時代はそれよりマシになっているのかというと、少なくとも経済的・産業的側面においてのみ言えば、宮台氏なんかがさんざん言い続けてきたように、一方では地方の産業を衰退に促し過疎化を進め、一方では単一の (すなわち、事務処理が優秀な人間が優れているとする) 価値観における競争ばかりが行われ、技術職・研究職がヒエラルキーの下の方に虐げられるというイマイチな状況が醸成されていってしまった。「学歴志向」が単なる大学名のブランドとして解釈されてしまったのも弊害としては大きいと思う。

さて、dankogai さめは否定するかも知れないけれども、おいらからしてみれば、 dankogai さめはめちゃめちゃ「勉強ができる子」だったのだと思う。これは dankogai さめが「本来的な意味」だと主張する意味ではなく、より一般的な意味での「学校の勉強ができる子」という意味で。16歳で大検をとり、年上の子に「学校の」勉強を教え、日本の大学ではないとはいえ、れっきとした大学 (カリフォルニア大学) に入学もしている。中退したのだってあくまで個人的な事情によるものだ。

だからおいらは、 dankogai さめがこういう話を展開するときには、基本的には「学校の勉強だけできたって仕方がない」という意味で捉えるようにしている。それは、個々の人間に当てはめて考えるならば、正しいといわざるを得ないケースも、少なからずあるのだと思う。ていうか、おいらぐらいまでの世代でプログラマーとかやっている人たちにしてみれば、その職能を学校以外の場で独学で取り入れたという人がほとんどなのではないかと思うし、「プログラミングは独学じゃないと身につかないよ」って本気で思っている人も少なくないと思う。おいらも、プログラミングを学校の授業で教えてマスターさせる、というのは、これはちょっと難しそうだな、という意味では、そうした見解に同意せざるを得ないと思っている。

その一方で、「学校の勉強はつまらないものだ」という価値観が一般に蔓延し、それがいわゆる「勉強ができる子」に対する侮蔑、いや、差別を助長しているのだとすれば、それはゆゆしき問題なんだけど、そうした問題は「学校の勉強」という枠組みにとらわれるまでもなく、差別全般の問題の一つとして捉えるべきなのだろうなとも思う。本質的には、オタク差別や、出身地差別や、金持ちへの僻みなんかと変わらないものだ。子どものうちはある程度は仕方がないものなのかも知れないが、大人になるまでにそうした意識は極力ぬぐい去られるようでなければならない。そのためには何が必要なのかというと、まずは今の大人たちが意識を改め、子どもたちに示していくべきなのだと思うし、そういう意識を持った大人と接する機会が得られるような仕組みが、地域を主体に設けられるべきなのだと思う。どうせ不況なんだから、今、忙しくしている大人たちの仕事を、仕事がない人たちにも分配し、もっと自由に持て余せるだけの時間を持たせて、それを地域に、あるいは自分の子どものために、コミットさせてあげて欲しいと思う。

親や教師が子どもに「勉強しなさい!」「宿題ちゃんとやったの!?」と叱責し続ける限り、「学校の勉強はつまらない」という誤解は蔓延し続け、差別も蔓延し続けるだろう。おいらは昔からぶれずに「勉強をさせるのではなく、学ぶことの価値に気づかせるべきだ」と主張し続ける dankogai さめに、基本線では同意する。そしてそれだけが、こんな下らない差別の蔓延を抑える、唯一の方法なのだと思う。

イマイチまとまらないけど… (おいらも勉強不足だw)