「勉強」という語が「便利な言葉」化されているようですね。 ― 2008年12月25日 13時39分25秒
- 勉強が出来る=頭がいい?
- 404 Blog Not Found:勉強が出来る=何がいい?
- 「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記
- 404 Blog Not Found:それって勉強じゃないよ
最後の dankogai さめの記事がもうこれでもかっちゅーほどに叩かれまくっている。元々世間一般的な意味で言うところのいわゆる「勉強ができる子」に対する卑下が蔓延していることへの憤りに対して、最初っから厳密な (? あるいは俺様定義の) 「勉強」を指して「それだけできたって仕方ないだろう」という話に持って行こうとしているわけだから、話が通じるわけがない。
ただ、一方で id:pollyanna さめの体験談に同情された方がその後の dankogai さめのエントリーに腹を立てるのは心情としては理解できるんだけれども、彼が最初から、いや、あるいは昔っから「勉強」という言葉を斯様な意味で捉えていた、そしてそのような意味で「捉えるべき」だと考えていることを鑑みれば、全く読む価値のない記事であると切り捨ててしまうのももったいない話なのではないかと、敢えて擁護してみたく思う。
実際の教育現場において、どこまでを「勉強」と捉え、どこからを「学習」と捉えるべきか。これは、特に義務教育課程においては重要な課題なのではないか。こう持ち出すと、そもそもそれが「勉強」なのか「学習」なのかは個人の気の持ち様の問題であってその基準は千差万別、教育現場において一律の基準など示しようがない、という反論が容易に想定できる。確かに、基準が一律である必要は、無いのかも知れない。
一方で、現場で教えている先生方にせよ、あるいは自分の子どもを学校に通わせている保護者の方々にせよ、最低限、この程度の知識は備わっていなければ、将来社会に出て圧倒的に苦労することになる、という実感というのは、少なからず持ち合わせているのではないかと思うのだ。これは、以前、ふろむださめのところで勉強することの必要性に関する議論が多くの議論を呼んだ際にも、やはり教育現場に近い方々の意見としていくつか出ていたものだ (参考1, 2 と、関連する自演1, 2 / Snail Blog さんとこのはアクセスできなくなっちゃってました…)。ただ、そういう方々においても、その「最低限」がどこにあるのか、という基準は、やはりばらばらなのではないかと思う。義務教育課程に用意されているものはすべて、という人もいるだろうし、せめて読み書きそろばんぐらいは、という人もいると思う。その一方で、先天的な障害故に、周囲が「最低限」というものでさえ、まともに習得できない子を持つ親にしてみれば、口では同情されながら、現実的には我が子を人として認めてもらえない現状を苦々しく思っているかも知れない。
ただ、法によって国の教育を統治する国家の視点で言うならば、義務教育の名の下、「絶対に」とは言わないまでも、できる限り国民全員に習得してもらいたい教養を、その思いを込めて義務教育課程に組み込んでいるのであろうし、そうであればその内容は、好むと好まざるとに関わらず、その教育を受ける国民全員が「勉強」すべきもの、ということになるのだと思う。であれば、「学校で習う、教科書に書かれた内容を習得すること」がすなわち「勉強」として解釈される一般的な用法は、あながち外れてはいないのだと思う。その一方で、「勉強」の規定が国家によって一方的に押しつけられている現状を、純朴にも容認し、受け入れていることにもなる。
個人的には、人が何を学ぶべきであるかを規定することは、本質的には個人に委ねられるべきなのだと思う。その一方で、そうした類の自我、自覚に到達するには、多くは社会的つながりによって補われるものなのであろうが、やはりある程度は知識も必要なのだとも思う。興味の対象が文書に記されたものであるならば、それを読みこなす教養というのも、どうしても必要になってきてしまう (これは単純に国語力という意味だけではない。例えば物理学的知識を学ぶには数式に関する知識とそれを読みこなす能力 (センス) が必要になる。)。逆に言えば、多くの場合、社会的つながりがその人の人生における興味の対象をも規定してしまう。かつてはそれは地域社会、地域の産業によってもたらされていた。漁師町では漁師を目指し、商店街では店を継ぐ。学問に目覚めて首都を目指すのは例外的存在で、それは外面的には故郷に錦を飾るという目的で体裁を整えた場合に限り賞揚されていた。
最初の議論、すなわち勉強ができるとバカにされる問題というのは、そういう時代における価値観の名残なのであって、つまりは出る杭を打つだけの村社会意識に過ぎず、それは昔からあるもの (というより、むしろ昔の方が強かったもの) なのであって、今の子たちの頭が良くなったなんて言う話では全然無いのは明らかだ。
じゃあ今の時代はそれよりマシになっているのかというと、少なくとも経済的・産業的側面においてのみ言えば、宮台氏なんかがさんざん言い続けてきたように、一方では地方の産業を衰退に促し過疎化を進め、一方では単一の (すなわち、事務処理が優秀な人間が優れているとする) 価値観における競争ばかりが行われ、技術職・研究職がヒエラルキーの下の方に虐げられるというイマイチな状況が醸成されていってしまった。「学歴志向」が単なる大学名のブランドとして解釈されてしまったのも弊害としては大きいと思う。
さて、dankogai さめは否定するかも知れないけれども、おいらからしてみれば、 dankogai さめはめちゃめちゃ「勉強ができる子」だったのだと思う。これは dankogai さめが「本来的な意味」だと主張する意味ではなく、より一般的な意味での「学校の勉強ができる子」という意味で。16歳で大検をとり、年上の子に「学校の」勉強を教え、日本の大学ではないとはいえ、れっきとした大学 (カリフォルニア大学) に入学もしている。中退したのだってあくまで個人的な事情によるものだ。
だからおいらは、 dankogai さめがこういう話を展開するときには、基本的には「学校の勉強だけできたって仕方がない」という意味で捉えるようにしている。それは、個々の人間に当てはめて考えるならば、正しいといわざるを得ないケースも、少なからずあるのだと思う。ていうか、おいらぐらいまでの世代でプログラマーとかやっている人たちにしてみれば、その職能を学校以外の場で独学で取り入れたという人がほとんどなのではないかと思うし、「プログラミングは独学じゃないと身につかないよ」って本気で思っている人も少なくないと思う。おいらも、プログラミングを学校の授業で教えてマスターさせる、というのは、これはちょっと難しそうだな、という意味では、そうした見解に同意せざるを得ないと思っている。
その一方で、「学校の勉強はつまらないものだ」という価値観が一般に蔓延し、それがいわゆる「勉強ができる子」に対する侮蔑、いや、差別を助長しているのだとすれば、それはゆゆしき問題なんだけど、そうした問題は「学校の勉強」という枠組みにとらわれるまでもなく、差別全般の問題の一つとして捉えるべきなのだろうなとも思う。本質的には、オタク差別や、出身地差別や、金持ちへの僻みなんかと変わらないものだ。子どものうちはある程度は仕方がないものなのかも知れないが、大人になるまでにそうした意識は極力ぬぐい去られるようでなければならない。そのためには何が必要なのかというと、まずは今の大人たちが意識を改め、子どもたちに示していくべきなのだと思うし、そういう意識を持った大人と接する機会が得られるような仕組みが、地域を主体に設けられるべきなのだと思う。どうせ不況なんだから、今、忙しくしている大人たちの仕事を、仕事がない人たちにも分配し、もっと自由に持て余せるだけの時間を持たせて、それを地域に、あるいは自分の子どものために、コミットさせてあげて欲しいと思う。
親や教師が子どもに「勉強しなさい!」「宿題ちゃんとやったの!?」と叱責し続ける限り、「学校の勉強はつまらない」という誤解は蔓延し続け、差別も蔓延し続けるだろう。おいらは昔からぶれずに「勉強をさせるのではなく、学ぶことの価値に気づかせるべきだ」と主張し続ける dankogai さめに、基本線では同意する。そしてそれだけが、こんな下らない差別の蔓延を抑える、唯一の方法なのだと思う。
イマイチまとまらないけど… (おいらも勉強不足だw)
おべんきょ論蒸し返し ― 2007年03月14日 10時45分16秒
上記過去記事についてふと思い出したこと。一度は納得した気になってしまったことなのだけど、やっぱりこのシチュエーションについていまいち納得できないことがあるので、今更だけど書くだけ書いておくことにしようかと思う。
当初の人力検索はてなでのお題に記されていた限りにおいて読み取れる状況は、以下の通り。
- 自身は、学習塾の助手。
- 相手は、その学習塾に通う、小学校一年生の女の子。
- 質問内容は、「どうして勉強しなきゃいけないの?」
これらのことから、どのような状況が想定されるのか?
「小学校一年生」ぐらいの子どもに対して、「勉強しなくてもいい」などというのは、想定される常識的な履修範囲からしてみれば、むしろ犯罪的なほど無責任なのではないか? という意見があった。しかし、この想定は、今回のケースにおいて、必ずしも真実ではないのではないか、と思えてきた。もちろん、杞憂であれば良いのだが、以下のような状況であることは、考えられないだろうか?
- 小学校一年生から既に学習塾に通わせている。→両親は学歴社会的圧力思考に敏感な可能性が高い。子どもの学習に対して強硬的な態度をとっていた可能性はないか?
- 地域的に、教育に対して関心の高い風潮があった可能性、あるいはそのことが地域の家庭に与える圧力を高めていた可能性 (いわゆる「偏差値の高い地域」)。
- 地域の親達が学習塾に、戦略的な知育指導を求めていた可能性、または、その潜在的要求を答える形での、学習塾間での競争があった可能性。指導範囲を先取りして予習させる形の「先取り指導」による無理な負担はなかったのか?
はっきり言って、おいらの感覚からすれば、小学校一年生からいきなり学習塾に通わせるなんてのは異常なのですよ。公文式とか子ども英会話とかその他の習い事系、スポーツクラブ系とかなら話は別ですが、よっぽどの強い意思が働いているわけでも無い限り、幼稚園出たばかりの右も左もわからん子どもを学習塾に通わせるという感覚はどうしても理解できない。本来この手の学習塾ってのは、当人にせよ親にせよ、学校での指導だけでは不十分だと判断したから通う/通わせるのであって、これが受験期などであればそういう実感が伴っていても仕方が無いかなとは思うものの、小学校への入学とセットで (あるいはその前からか?) じゃあ塾にも通わせよう、っていうのはあまりにも短絡的に過ぎるというか、学校信じなさ杉というか、思考停止にも程があるだろうとか思ってしまうわけですよ。
つまり、そういう状況があるという時点で、既にその子の親は子供とのまともな対話を図っていない可能性が高いと見ていいのではないかと、おいらなら疑ってしまうわけです。違いますか?
確かに小学校一年生ぐらいの子供というのは、好奇心旺盛で、何に対しても「なんで? どうして?」といろいろと聞いてくるものです。ですから、そうした何気ない質問の一つに、そういう内容のものが出てきてもおかしく無い、と考える人は多いかもしれません。
しかし、それに通じる文脈がなければ、その質問が出てくることは無いのです。その子が何故、「何で勉強しなきゃいけないの?」と聞いたのか。その子がそれまでの、親や、教師や、友達や、その他の大人達とのやり取りを通じて、「勉強」というものを、「しなきゃいけないもの」だと、理解したからなのではないですか? すなわち、その時点で既に、彼女にとって、勉強とは、自ら進んでやるものではなく、命令されるからこなさなきゃいけないものになってしまっていた。
つまり、「なんで勉強しなきゃいけないの?」なんて質問を、小学校一年生に繰り出させてしまうような教育って、なんなのよ? ということです。「勉強ってなに?」とか、「なんで勉強するの?」とかならアリですが、「勉強しなきゃいけないの?」はダメです。ダメダメです。だって、小学校一年生のお勉強なんて、本来苦しさよりも楽しさのほうが圧倒的に上回っているはずなんです。だってそうでしょう? そもそも「お勉強」という概念自体、彼らにとっては初めての体験なんです。家では勉強机なんてものがあてがわれて、もう気分はコーフン大絶頂です。「なんだかわかんねぇけど、オラ、すっげぇワクワクしてきたぞぉ」とか言っちゃうような心境です。そして入学を迎え、いよいよ授業。ひらがなだってカタカナだって、おうちで絵本読んでもう知ってたもんね。へぇぇ、「花」って、「草」が「化ける」って書くんだね。漢字って面白い!足し算? りんごの数ぐらい、見れば分かるよ。二桁の足し算? うわ、筆算ってちょー便利だ!すげぇ!生活? 信号が青になったら渡るんだよね? そういえば、うちのお父さん、どんなお仕事してるんだろう? 体育も音楽も図画工作も、楽しくて楽しくてたまらない!!
もちろん、個人差はあります。誰もがすべての科目を楽しめるわけでは無いでしょう。でも、基本的には、小学校の学習指導は、何れも興味・関心を抱いてもらうところから始めることが、小学校学習指導要領にも盛り込まれているわけです。
小学校一年生が大人に対して、「何で勉強しなくちゃいけないの」なんて聞いてくるような状況というのは、この、「学習に対して子ども自身に興味・関心を抱いてもらう」という基本路線に、大きく逸脱する事態です。そうした状況における子どもを取り巻く社会環境は、子どもを窮迫させる異常な環境であると断ぜざるを得ません。そのような状況下において、誠意ある大人がその子に示すべき態度というのは、本当に、「それでも勉強はしなくちゃいけないものなんだ」で良いのでしょうか? もう一度、その子達が今、置かれている状況について、見つめなおすべき時なのでは無いでしょうか…?
それは「口説き能力」なんであって「コミュニケーション能力」では無いです。。。 ― 2007年03月12日 11時47分10秒
おいらが仕事の話で「コミュニケーション能力は大切だよ」とか言うときの「コミュニケーション能力」っていうのは、単純に、伝えるべきことを (なるべく) 正確に伝え、相手が伝えようとしていることを (極力) 理解する能力、のことを指します。現場で働いている人も大抵はそっちの意味で解釈しているはずです。
でも、営業や人事や経営者層、その他中途半端に偉い人とかは、そもこの言葉の意味自体を誤解していることが少なくないように思います。まず、口説くことが最優先で、実際に理解されているかどうかは二の次、ということになります。相手の話を理解するということに関してもあまり重要性が問い質されなかったりします。それが行過ぎると接待ドリブンの営業になっちゃうし、意思疎通が不十分であるからこそ、不治痛×凍傷みたいなトラブルにまで発展するわけです。
そういう意味ではこの大学が学生に指導している「コミュニケーション能力」とやらは、おいらの感覚からしてみれば糞の役にもたたん代物ですね。確かにプレゼン能力はあるに越したことはありませんが、そんなものはおまけというかツールであるに過ぎません。ヱライひとにはそれがわからんのです。技術者がプレゼン能力の必要性に迫られる場面なんて限られています。強いて言えば論文に数式のせなきゃあかんから TeX の使い方を習得せにゃならん数学者にとっての TeX みたいなもんです。その人は数学のぷろへっそなるなんであって TeX のぷろへっそなるであるっちゅー訳じゃない。
だいたいコミュニケーション能力なんてもんは大学で習うようなもんじゃないでしょ。いや、もっと前の、例えば小中学校のレベルでそういう科目があってもいいんでないの? って議論ならまだ頷けますよ、そういう能力が必要だと思う合意がその地域にあるんならやればいいと思う。あるいは職業訓練所とか個人セミナーとか? 会社の研修でビジネスマナーとかでも正直反吐が出るけどまぁアリかな? でも大学はそういう場では無いでしょう。そもそも大学って、よりよく就職するために通う施設なのか? あくまで同好の士とともに学問を追究する場なのであって、就職とかはあくまでその結果の一部に過ぎないんじゃないの?
もちろん、仙石氏の言うとおり、こんな本来必要とされているようなものですらない似非コミュニケーション能力をもつ人材を本当に企業が欲しているのだとすれば、それは馬鹿げた話だし、そんな企業に就職しちゃうのは正直どうかと思うけど、一方で大学側が、卒業生が就職もろくにできないような大学では世間的に価値が落ちて受験生が減り、これからの少子化の時代に生き残れないからと、カリキュラムを捻じ曲げてまで企業に日和っているのだとしたら、そんな大学にこそむしろ入学しちゃうのは正直どうかと思ってしまうわけなのですよ。自分がやりたいことのために生きる以前に、そも自分が学びたいことの為に割ける時間がこんなくだらないカリキュラムの為に制限されてしまうんだとしたら、こんなバカバカしいことは無いでしょう。
視聴者側のメディアリテラシーの「底上げ」は必要だと思うよ。 ― 2007年01月31日 09時35分08秒
- テレビに「期待」してはいけない (池田信夫 blog さま)
- リテラシーに「期待」してはいけない (404 Blog Not Found さま)
- 目標はリテラシーの高度化ではない (worldNote さま)
先日の「あるある」も今回のNHKの事件もそうだが、視聴者や取材相手にリテラシーがなく、テレビを信用しすぎていることが間違いのもとだ。誤解を恐れずにいえば、あるあるの実験なんて毎回ブログなどで笑いものになっていたネタである。健康にきくすごい食品が、毎週みつかって500回以上も続くわけがない。作る側も、被験者を「出演者」だと思って演技をつけていたのではないか(それがいいと言っているわけではありませんよ、念のため)。
テレビは(報道も含めて)本質的には娯楽であり、そこに出す情報を選ぶ基準は、おもしろいかどうかだ。NHKでも、番組の最大のほめ言葉は「おもしろかったね」であって、「勉強になったよ」というのは半分皮肉である。NHKを叩いた朝日新聞だって、「政治家が介入した」というストーリーにしたほうがおもしろいから、そういう話を捏造したのだろう。
なぜTVの品質が他のメディアより厳しく問われるべきかといえば、それが最も理解しやすく、最も視聴され、それゆえ最も期待されているメディアだから。相対的に地位が下がっているというのは、品質低下の言い訳にならない。日本人がコメをあまり食べなくなったからといって、コメに麻薬や覚醒剤を入れていいということにはならない。メディアの側(池田氏がそうだというつもりはない)が視聴者のリテラシーにケチをつけるのは、牛乳を飲んでいたと思ったらそれが牛乳味のウンコで(食事中の方失礼!)、それを咎めたら「お前の舌がバカだ」というのに等しい無礼ではないか。
私個人は、TVを巡る諸法規は食品衛生法と同程度に厳しくてしかるべきだと考えている。「文句があるなら消せばいい」というのは「文句があるなら食わなきゃいい」というのと同義だ。無料だというのはいいわけにならない。なるなら公園の水道水を子供が飲んで腹を壊したとしても、管理する自治体は免責されなければならない。
世論を作り出す機能は、政府だけでなく、大衆商品を販売する企業にも、有利な世論、商品の購買やブランドイメージを高める装置として活用された。必要とされるのは、リテラシーの高度化ではなく、影響される(操作可能な)大衆だ。もちろん、政府としては、あまりに流れすぎても困るから、何が「正しい」とか、何が「道徳的」であるとかにも、こだわりを残す。つまり、リテラシーがあまりにも無い状態も困る。中間に、リテラシーのちょうど良い加減があるのだ。あまりにもリテラシーが高すぎたら、「占い」コーナーは絶滅するし、根拠のない「不安」が減れば、不安をネタにする商売の大半が立ち行かなくなる。そんな事では、景気を悪くしかねない。
先日紹介した番組を見ていても思ったのですが、現実問題として TV 視聴者であるところの大衆のメディアリテラシーが平均的に決して高くはなくて、その現実に報道関係者が寄りかかっちゃっている部分はあるんじゃないかな、とは思うわけですよ。だからこの問題は、報道関係者の襟を正すだけで解決できることではなくて、視聴者すなわち大衆のメディアリテラシーが底上げされ、大衆から声が上がるような状況も醸成されないといけないんだろうな、とは思う。
重要なのはそのための仕組みで、結局のところ教育の問題になってくるわけだけれども、一方でその教育を学校すなわち教育行政に任せてしまっていたのでは、それが国、すなわち中央から下りてくるものとして機能している限りは期待できないでしょう。その辺の思惑については worldNote の中の人が指摘してくださっているし、なにより記者クラブという仕組みがそのことをまさに象徴しているわけで。
教育行政の地方自治の重要性については週間ミヤダイの「2006年12月08日更新分」でも語られているけれども、国による思惑からの独立、という意味でも重要になってくるんじゃないかと思う。
dankogai さんは iliterate な人でも理解できるメディアとして、TV は視聴者のリテラシーを高める役割も担わなきゃあかんと主張されている。おいらはそういう TV 報道が「あってもいいな」とは思うし、そういう番組があったら是非見てみたいとも思う。ただ、その義務を負う責としては、むしろ義務教育の方にあるんじゃないかと思う。憲法は親が子どもを文盲に育ててはいけないことを義務として定めている。でも、ここで言うところの literacy ってのは、文字が読めて文章が読めて、っていうこと以上のこと、どちらかというと「文脈を読んで理解できる能力」のことを指すんじゃないかと思う。これは確かに高度な技能で、そうそう簡単に誰にでも備わる能力じゃないし、歳をとったりコミュニケーションをある程度疎かにしてみたりするだけで割と簡単に衰えたりもする能力だ。だからこそ、それが弱いことが悪いと一方的に視聴者に責任を負わせるような姿勢はアンフェアだとは思うけれども、だからといってじゃあその能力の醸成を TV が担わなきゃあかんのかというとそれもまた筋違いだと思う。
少なくとも、構図として、いくつかの TV 番組、いや、あるいはほぼ全てと言えてしまうかも知れないけれども、つまりは TV が視聴者を騙す、という構図になっている。その構図が存在する元で、TV に視聴者のメディアリテラシーの底上げを行うような番組が作られたとして、いったいどれだけの人がその番組の内容を視聴し、信用するだろう? 結局、メディアリテラシーが低い多くの人々は、興味がないから視聴しないか、その番組を信用しつつ視聴するかのどちらかだろう。じゃあ、その番組内で語られる「メディアリテラシー」とやらが、実際のところ本当に正当なものであることが果たしてどれほど期待できるのか?
どっちにせよ、TV にせよ何にせよその手の報道メディア以外の第3勢力が、高いリテラシーに基づいて報道を監視するような構図が必要になるんじゃないかとおいらは思う。今のところそういう意味でもっとも有望視できるのは実はインターネット、Web 上でのやり取りなわけだけれど、これこそまさに純然たる「大衆による自衛」の構図だ。本来その担い手は「教育」にあるべきなのではないのか? そして大衆による自衛は、あくまで教育を補完する為のものとして機能すべきものなのではないのか?
おいらが視聴者側におけるメディアリテラシーの底上げも必要だと思うのは、まさにこうした「大衆による自衛」がより有効に機能するためである。一方で、それだけでは到底覆しえない利権構造的な問題も多々ある。記者クラブにおける「16社以外締め出し」の件然り、電波法による規制然り、トヨタや松下みたいなスポンサージャックの問題然り。もちろん報道する側のメディアリテラシーの底上げも重要でしょう。下請け構造の問題然り、報道番組的な内容をバラエティ番組として扱うことの問題然り、CM 出演するみのもんたの件然り。
どちらか一方だけを引き締めればいいという問題じゃあない。大衆いじめ的な視聴者への責任押し付け論がまかり通っていいとは思えないけれども、だからといって自衛を放棄する愚者の大衆に同情の余地があるとも到底思えないです。
自分の常識、世間の非常識。そしてそれを理解できないお子ちゃま。 ― 2007年01月25日 10時36分36秒
なるほどね。
誰もって誰だよ、アンタのクラスの小学生連中か? 小学生はしなくてもおとなはこういう言い方するんだよ。幼稚な表現力の人ばっかりに囲まれて「これが当たり前」と思い込んでいたら、アンタの言語表現は一生幼稚なままだよ! 表現の幅が狭いままだと、将来メールで人を口説くことも、入社試験で面接官に「この人を採ろう」と思ってもらうこともできないよ!……と叱ってがっつり覚えさせるんですけどね。
うん、ここまで具体的に、その知識の必要性について説明できるんであれば、それは good job だと思う。
「なんでべんきょーせなあかんねん」の続き ― 2007年01月25日 08時47分12秒
tb どもです。
おいらとしては、この問いに対して、「誰もが 勉強をしなきゃいけない
という主旨を前提に答える必要はない」ということを主眼に書いてきました (つか、書いたつもり)。
ただ、この手の議論は力みすぎると、「教師とか塾講とかその関係者だからといって 勉強しなくてもいい
って言っちゃいかんというのはおかしい」になってしまう (つか、なっちゃってた)。一見、正論のようだけど、これ、リアリティ無かったです。ごめんなさい。
「したくない勉強ならしなくてもいい」って言える大人が、その子の周囲に一人ぐらいいたほうがいい、とは思うのですが、その役目を、教師だとか塾講だとかその関係者だとかに負わせるというのは、それを期待してしまうのは、学校に何でもかんでも要求する馬鹿親ぐらい無責任なことでもあるわけで。。。もちろん、そういうかっとんだ教師、塾講、その関係者がいてもいいとは、個人的には思うけど、
その通り。覚悟があればそれでいい。
しかし、もし助手が中途半端な気持ちで約束し、
その女の子が親に何でも話すような子であればまずご破算だろう。
そういった子は少なくないはず。ましてやまだ小学一年生だ。
彼女が親に話をしてトラブルになった場合、
彼が女の子に対してまったく遺恨を残さないとも言い切れない。
また講師にも迷惑がかかりもしかしたら彼はその約束ひとつで
やめざるを得ない状況にさえ十分になりえる。
彼にその覚悟があるか。
多分おいらが「塾講の助手」という立場だったら、そこまでの覚悟は持ち得なかっただろうと思う。すべてのそういう立場の人間に、そういう覚悟を求めることはできませんです。
しかしそうなると尚更、もっといろんな立場の大人が子どもに接する機会が増えるような社会になっていかないとアカンよなー、って思えてきます。子どもが接する機会のある大人というのが、教育の現場に携わる大人と親だけ、という境遇では、どうしても学校が提供する枠組みがベースの「勉強」や「道徳」が強制されがちになってしまう。子どもの頭の中での世界観が、その枠に押さえ込まれたまま成長しがちになってしまう。もちろん、そうではない、枠からうまいことはみ出しながらバランス取りつつ生きている子もいるにはいるけど。
なんていうのかな、「こうしなさい」って言う大人だけじゃなくて、「俺はこうしてきたよ」とか、「私はこうだったよ」とかって言ってくれるような大人がいたりすると、子どもの視野も、いい意味で広がるんじゃないかな、って思う。
ちなみに、「そもそも学校が提供する枠組み、価値観が一本化されちゃってるのがまずいんじゃね? もっと地域性とかあってもいいよね?」という意見もあります。これの「2006年12月08日更新分」とか。参考まで。
「なんでべんきょーせなあかんねん」の補足 ― 2007年01月23日 11時43分25秒
とりあえず、前回書いた内容に対する補足。
ただ、そのおかげでまったくの怠け者になってしまうんだとしたらそれはそれでマズイし、なにより (4)騙されてひどい目に合いにくくなる ってのは結構大事なんじゃないかという気もするわけだ。
と、書いたわけですが、一方で、結城氏の記事のコメント欄に以下のように書かれていたのを見て、ちょっとドキッとした。
# moel 『勉強しないと、百円の物を2千円で買わされる世の中に、一生気づかずに、それどころか、それと知らずに、狂牛病の肉を食べさせられて死に近づいたり、自分の身を守るための、そういう選択枠が少なくなるからね・・今は。。』 (2007/01/22 23:44)
なんでドキッとしたのかと言うと、上記のような状況は、その本人にしてみれば、何も困るようなことじゃないからだ。100円のものを 100円で買えるようなものだと知らずに 2000円で買うってのは、よーするにそのものに対して 2000円の価値を見出すことができるぐらい、裕福であったりするわけだし、実際のところ実は全然裕福じゃなくて、借金してまで 2000円叩いて 100円で買えるようなものを買っちゃったんだとしても、彼にしてみればそれだけそれが欲しかったということであり、知らぬが仏、というか、それはそれで結構幸せなことなんじゃないかと思うわけだ。「程度の差はあるけどな」って思っちゃった人も、自分の価値観が凝り固まっちゃってることに気付いて欲しい。もっとも、よく調べもせずに買っちゃって、それが手元に届いてから (あるいは不動産で、現地に越してきてから、とか) 物凄くがっかりした、みたいなパターンは、流石に例外かもしれないけど。
だから、(4)騙されてひどい目に合いにくくなる
ってのは、確かにメリットではあるんだけど、でも基本的な前提として、「人は騙されないように生きるべきだ」ってのがあるんだとしたら、それは違うと思う。みんな結構無意識のうちに騙されながら生きてるんだよ? たぶんおいらもそう。でも、知らなければそれほど腹も立たない。で、それなりに幸福に今を生きている。だったらそれでいいじゃない。何か問題ある?
ちなみに、「知識があれば人は騙されない」って本気で思っちゃってる人は、実際にとんでもないことで騙されてみたり、騙されそうになってみたりした経験のない人の意見だと思う。おいらとしては、騙される人か否かってのは、どっちかというと教養よりも性格や精神的健康状態に依存する部分の方が大きいように思う。自分のいた会社に勤めていた人間の何人かがメディ●スなんてマルチまがいに絡め取られちゃった現場を見てしまったり、自己啓発本を読みこなし、慈善事業なんてクソ喰らえ、神なんてクソ喰らえだと豪語していたはずの某友人が、うつに苛まれた末に神様がどーの、ホワイトバンドがどーのとか言い出すようになってしまったのを見てしまったりしたおいらとしては、激しくそう思うわけだ。
ついでというかなんというか、元ネタにぶら下がっていたトラックバックから、気になった記事をいくつかかいつまんでコメントしてみようと思う。
今回もっとも共感し、感動した記事。まぁ、リアリズムとしては微妙だし、突っ込みたい部分もないわけじゃないけど(イチローだって野球の研究はいっぱいしてたやろ、それかて立派な「勉強」やん、とか)、主旨として、
まあ子供が勉強しようがしまいがこれだけ親子が会話できる家庭なら問題はないんだろうけどね。
勉強なんて後からついてくるものであって、
まずは「どうして勉強しなくちゃいけないの?」という質問について親子で話し合える環境を作っておくことが大事なんじゃないかね。
というのはまったく以ってその通りだと思う。肝心なのは、「どうして勉強しなきゃいけないの?」という個別の問いに対する模範的回答ではなくて、子どもが真剣に聞いてくる問いに対して大人が真剣に答え、会話が成立するということ、それに伴う大人としての誠実さなんじゃないかと思うのだ。「こう答えればいいんじゃない」っていう個別の案があって、それにどれだけ共感・共鳴を覚えたか知らないけど、それをそのまま実際のシーンに当てはめてしまうようじゃ、結局のところ、就職活動で面談試験の際に対策本のマニュアル通りに受け答えしちゃうような迂闊な不誠実さとなんら変わらないんじゃないか!??
ましてや、相手はお子様だ。そんな不誠実な対応は、あまりにも残酷すぎる。
だから、結局のところ、「自分で考えて思ったとおりのことを答えてあげるしかないんじゃね?」というのが、本来のもっとも正しい (この相談に答える人間としての) 返答なんだろうけれども、かといって、いくら考えてみたところで、自分が実際のところどう思っているのかさえよく分からないという大人も少なくないような気もする。その場合は、まぁ、素直に、「俺もよくわかんない」って答えるべきなんじゃないかな。で、それで終わりにしちゃうんじゃなくて、そこから更にいろいろと考えてみたり、それこそその後で、周囲の人やネット界隈なんかにその出来事を持ちかけて、議論に発展させてみるってのは、アリだと思う。
賛成とも反対とも言いづらい意見。いくつか言いたいことを書いてみる。
まず、そこで勉強させない方がよっぽど犯罪的
みたいなことを言う人は、そこで想定される「勉強」ってのがどの程度のもののことを指すのかを、もうちょっと具体的に説明して欲しいと思う。「必要だから勉強してもらう (するべきだ)」という発言に対して子どもが納得するには、どれだけの知識が、どういうケースで必要になるのか、という部分が説明されることが、どうしても必要になるんじゃないかと思う。それを怠って、「とにかく将来必要になるんだから」と論を押し付けてしまうようでは、説得力は小さい。
基本的教育を終えた後で「別の人生」を選ばせるべきであり
も然り。少なくとも小中学校の勉強を放棄して展望も見えないうちから
とは言うが、小中学校で教えている内容のすべてが必要になる人が、世の中にどれだけいるだろう。あるいは、小中学校の教育要綱に関して、それらの教養としての社会的必要性を、論理的に説明できる教育関係者が、果たしてどれほどいらっさるのか。
実際のところ小学一年生が「なんでべんきょーせなあかんねん?」なんて聞いてくるうちはまだ、ごまかしも効くのだ。それが、成長してゆくにつれ、各自の嫌いな、あるいは苦手な科目を名指しにして、その不要性について、より具体的に糾弾し始める。そうしたときに、真摯な反応を示せる大人が、どれほどいらっさるのか。
次。大人になってから後悔
というのは、おいらは実はそれはそれでいいんじゃないかと思ってる。とても無責任な考え方だと思われるだろうし、実際無責任なんだけど、学びが浅いことに対する後悔の念に対して、彼の学びに関わった大人 (親、教師、その他もろもろ) が責任を感じなきゃいけないって考え方の方がよっぽど異常だ。成長してゆく過程で、そういう後悔は誰にでも少なからずあるものだ。でも、その後悔が「本当に必要な後悔」なのか、今の自分の生き様を見つめなおして欲しい。今からでもできることはいくらでもあるはず。そしてその、「できること」のいくつかに実践する姿をみせる方が、よっぽど子どもにとっては刺激になるはずだ。「勉強しないと大人になってから後悔するよ」なんて言わないで、「俺だって勉強してる。●●しなきゃならん (or したい) からな」って言ってみせろよ。その方がよっぽど感心できる。
それから、後者のブログからの引用なんだけれども、
私が小学生のとき通っていた個人塾でも
子供に勉強を強いることに疑問を持っていた講師がいた。
そしてその旨を子供に伝えてしまい講師は親とトラブルを起こした。
私の意見はその経験を根拠にしている。
これは切実だと思う。それに、初出の問いにおけるシチュエーションを考慮したうえでの思考になっている。だから、「確かにその通り」だとは思う。思うんだけど、やっぱり腑に落ちない。確かにその人は塾の講師で、講師と生徒の関係、なんだけれども、それ以前に、人と人なのであり、少なくとも子どもは「大人の人」である講師に問うている。そういう場面で、あくまでも「講師としてのタテマエ」を優先してしまうのは、「人としてのコミュニケーション」を否定する行為であり、とんでもなく不誠実だ。
だから、そういう意味では、まんまタテマエを答えさせるんじゃなくて、トラブルに発展しない為の根回し的なアドバイスという形にしてあげて欲しかった。確かに講師という立場で「無理に勉強せんでもエエのよ」と生徒である子どもに吹聴するのはマズイ。まずいことはわかってる上で、それでもやっぱり本音のところは伝えたい。そういう状況で、トラブルにまで発展するという「最悪の事態」に対して覚悟を決められるのであれば、正直にタテマエと本音の両方を伝え、本音のほうは二人の間のヒミツであることをしっかりと約束させる。そういうコミュニケーションを成立させるってのが、実は結構大切なことであり、また有効でもあるんじゃないかと思う。つか、一人ぐらいそういう大人がいてくれないと、子どもはほんとにやってらんないよ。まぢで。
あとあと、...なんて会話、胸くそ悪くなってくるっちゅうに
ってのは、実はいくらか同感 (^_^; 。でも、これも、その内容が学術的にスバラスィものばかりだから、そう感じちゃうんだと思う。イマドキ、ネット界隈じゃ「ドラゴンボール」でさえ、立派な教養だぜ。フツーに好きで、面白くて読んでたマンガが、コミュニケーションを円滑にする為の「教養」として、フツーに役に立つわけだ。これを「勉強」といわずしてなんていうの? 勉強って、そういうもんでしょ。
と、ここまで書いて、そもそも「勉強」ってのが何なのかを子どもに説明できることも大切なんじゃないの、と思えてきた。嘘。最初っから思ってた。単純に「知識を重ねる」ことであるなら、マンガ読むのだって立派に勉強だ。ゲームも然り、TV も然り、ネットヲチもまた然り。更にいえば、いろんなゲームに手を出すのも勉強ならば、一つのゲームをとことんプレーして研究し尽くすのもまた、勉強だ。勉強には、本当にいろんな種類、形がある。量も大切だし密度も大切だし、種類ももちろん大切だ。種類に関して更にいえば、どれを選択すべきかを自分で考えるってこともまた、とても大切なことだ。
学校教育が勉強のすべてではない。それどころか、必ずしも基礎ですらないかもしれない。実際のところ、学校で習ったことが基礎となるか否かは、その人の生き方次第でどうとでも変わってしまう。少なくとも、おいらが子どもの頃に、パソコンでプログラムを組む授業なんて存在しなかったよ。だからおいらは幼稚園生のころに親父が買ってきた 8 bits マイコンの BASIC でプログラミングの基礎を独習した。小学校高学年とか、中学生とかのころに。ゲームを作りたかったから。ゲームを作るのが楽しかったから。でも、あるときおいらが教室でノート広げてプログラムを書いたりしてたのを傍から見たクラスメートが、なんだこれ、全然わかんねって言った。おいらのことを一方的にキモイオタクだと罵るやつもいた。でも、そういう連中がいたからこそ、「これは将来仕事にできる」っていう確信を得ることもできた。
勉強するってのは、そういうことをいうんじゃないかと思うんだ。だから、だからこそ、それをする為にまず必要なのは、「知りたい」って思えることを、見つけ出すことなんだ。
実は、この部分が本当に、物凄く物凄く難しくて、大変なことなんだ。おいらみたいに、何かのきっかけで簡単に見つけられちゃうような人もいれば、一生をかけても見つけられない人もいるだろう。そう考えれば、少なくともおいらは、「必ずしもすべての人が勉強しなくちゃいけないわけじゃない」という回答を、出さざるを得なくなってしまうんだ。この回答は、すなわち、「必ずしもすべての人が幸せにならなきゃいけないわけじゃない」って言っているのとほぼ同じことだ。とんでもなく哲学的なことだ。
こんなこと、果たして子どもにいえるのか? 言っていいことなのか?
だから、おいらは、最初に雑感として、こう書いたわけだ。もう一度引用しておくよ。何気なく書いてるようで、おいらとしてはとても大切なことだと、重要なことだと思っていることだ。
でも、大抵の人は、自分が「何を」知りたいのかすら、分からないんだ。 学校って場所では、「一般的」だとか「基礎」だとかいわれているようなことの何種類かを、とりあえず教えてくれる。 そういうものの中から、君が「知りたい」と思えるようなことのヒントを拾い上げることができれば、それはそれで幸せかもしれない。
もちろん、学校なんて場所に限定されるわけじゃない。利用できるものは何でも利用すればいい。図書館はタダだし便利だけど、必ずしもそんな立派なものじゃなくてもいいよ。公園とかあれば体動かして遊ぶうちに体験することだって、何かのヒントになるかもしれない。その辺に転がってる石を池に投げてみたり、その辺にのたまってる毛虫を棒でつついてみるだけでも、何かのヒントになるかもしれない。テレビゲームが好きで好きでたまらないならそれを研究するんでもいいよ。波長があっちゃったものを無理に引き剥がすなんてそれこそ激しくもったいない。サブカルチャーだって研究し尽くせば立派な学問になる。そんな立派なものでなくたって作るにせよ遊ぶにせよそれに類する仕事はいくらでもあるし、作れる。いろいろと学んだ上で大人になってしまった時にどう生きるのかは、そのとき考えればいい。
無駄な勉強はないし、無駄な怠惰もない。強いて言えば、考えずに生きることに比べれば、いろんな悩みに頭を抱えながらも、それらをこなしたりこなさなかったりすることの方がよっぽど大切だ。一方的な学校教育の枠にはめられ、そういう日々を強いられることに対して考えることを放棄しながら生きることの方が、よっぽど不幸だ。
腹へった。この辺にしとこ。執筆時間約 2時間。
おべんきょおべんきょうれしーなー ― 2007年01月23日 02時09分47秒
やっぱりちゃんと書こうw
さっき書いたはてブのしっぽのサンプルの中で雑感の要約を書いてみたら、なんだか dankogai 氏がおんなじようなことを書いてた。まいったなぁ。。。真似じゃないっすよ? (^_^;
いや、別に「勉強」って言葉には今やそれほどの執着というか拒絶感というか嫌悪みたいなのはもはやないんだけど (かつてはあった時期もあったけど、考えてみれば語彙力からっきしのおいらが言葉選びで云々かんぬん言えるほどヱラくもないなーという…まぁそれなりに一般的に使われちゃってるし、「勉めて強いる」なんて思い入れ込めて「勉強」って言葉使ってる人も稀だろうしみたいな)、そもそも「勉強しなくちゃいけない」が前提事項であること自体、考え方としてはあまりにも狭いし、そういう固定観念が強いられちゃっているのはかわいそうだよなぁという思いはやっぱりあるのですよ。だから何かの間違いで自分に子どもが出来るようなことにでもなったなら、「別にしたくない勉強ならしなくてもいいのよ」と教えてあげたいっておいらは思う。
ただ、そのおかげでまったくの怠け者になってしまうんだとしたらそれはそれでマズイし、なにより (4)騙されてひどい目に合いにくくなる
ってのは結構大事なんじゃないかという気もするわけだ。だから、サンプルの方で書いたコメントには以下の一文も加えているわけで。
でも、大抵の人は、自分が「何を」知りたいのかすら、分からないんだ。 学校って場所では、「一般的」だとか「基礎」だとかいわれているようなことの何種類かを、とりあえず教えてくれる。 そういうものの中から、君が「知りたい」と思えるようなことのヒントを拾い上げることができれば、それはそれで幸せかもしれない。
「騙されないように」とかは、別に敢えて言う必要はないと思う。とりあえず、いろいろと吸収してみよう、という気にさせられれば、それで十分なんじゃないかなと。

大人問題
(五味 太郎 / 講談社文庫)
ちなみに教師については、というか、教える立場の人、についての考察としては、「大人問題」で五味氏が結構いいこと言ってると思うので、引用してみます (強調は T.MURACHI による)。ちなみにこの人は今の「何でも教える教育」を真っ向否定していたりするわけですが (^_^; 、おいらはさすがにそこまでは思い切れませんです (^_^;; 。
そもそも「わかった」人間が「わからない」人間に教えていくという今の教育の構造が、全部まちがってるんだと思います。たとえば、文学をやってきた人間が「わたしはもう文学のことがわかった」、絵を描いてきた人間が「絵がわかった」っていうなら、その人、もうおしまいです。
唯一あるのは、「わかりたい」子が「わかっていそうな」大人に聞くという構造です。それならまあ、性教育もなんとか成り立つのではないかと思います。
たとえば、女の子を見てドキッとする、あの男の子が横通っただけでドキッとする、これはいったいなんだろう、四六時中あいつのこと考えてるこの気分、なんかおかしいのかなあ、って。で、その子が耐え切れなくなって大人に聞いたときに、「そういうことって、わたしも昔ありました」という、そのひと言で少し前進できる。そういう苦しさとか不思議さとか、わけのわからない感じというのも、一般的にはあるということを知るのは、それなりにありがたいことです。
その子は、その心のもやもやや、体のもやもやについて意識している。「わかりたいな」と思っている。そういう学びたい、知りたいという、その子の必然ができてきたときに、はじめて「教育」というものが、現象としては成り立つのだろうと思います。
そのときにいちばん必要なのは「わかっている」人ではなくて、現役でやっている人、つまり今でも「わかろうとしている人」です。「人生、そこらあたりが問題なんだよね」と問題を世代を超えて共有できる人。そのことをいまだそれなりにやってる人間、音楽やってる人間、絵やってる人間、文芸やってる人間、そして人生やってる人間が、学びたいと思った子どもには教材になるなと思います。教材は常に「いい教材」ばかりの必要もありません。
あ、もう一つ引用しとこ。これも強調は T.MURACHI による。。。
ぼくが中学校のころ、西部劇の漫画雑誌みたいなものをパラパラ見てたら、よくわからない英語があって、親父に聞いたことがありました。ぼくの父親は一応大学で英語を教えていた人でしたから、英語のことならなんでも知ってると思っていたわけです。ところが、「おれ、知らないな」と言われて、ちょっと唖然とした。ネイティブの人にもわからないスラングのようなものだったらしいのです。
でも、とってもうれしかった。親父にも知らない英語があるんだ、というのが新鮮でした。しかも、翌日の朝、食卓の上にメモが載っていて、ちょっとびっくりしました。夜中に調べておいてくれたらしいのです。そのとき、彼にとって英語というものが常に新たなんだということがよくわかりました。
高校のときにも、そういう「現役」の教師がいました。ぼくが変な質問をしたら、その先生もわざわざ調べてきてくれたんです。廊下で呼び止められて──そのときにはぼくは質問したことすら忘れてたんですが、一所懸命説明してくれて、参考文献まで貸してくれました。そのとき、彼がとってもうれしそうだったのを覚えています。ぼくもつき合いがいいから、大変ためになったみたいな顔しながら、「やだな、こんな分厚い本読むの」と思ってたけど、その人のことはずうっと好きだったし、一目置いていました。
後者の引用に関して、じつはおいら自身も似たような経験があります。大分昔に書いた文章なので今紹介するのは極めて恥ずかしいのですが。。。(^_^;
たった一人だけ、多数決に囚われなくても良いんだということを知らしめてくれた先生がいた。小学校 3、4 年のときの担任の先生である。名前も顔も、今でもはっきり覚えている。
その先生は国語がとても好きで、どの授業も熱心だったが、国語は特に熱心に教えていた。だから、多くのクラスメイトが、その先生の国語の授業に至っては絶対的な信頼を抱いていた。
そんな先生が、あるとき、その国語の授業の中で、黒板に「えばる」と書いた。
おいらはそのとき、どういうわけか、懲りているはずなのに手を挙げて、こんなことを口走っていた。「先生! えばるじゃなくて、いばるです!!」
このときのクラスメイトのブーイングは尋常ではなかった。当然だ。国語に関しては絶対の自信を以って授業をしてくださる先生であるということはクラスの全員が認識していることだった。当然、おいらだってそれは認識していた。だから、クラスの誰もが、この先生がまさかそんな基本的なミスを犯すわけが無いと信じていた。きっと、「えばる」だって正しい国語なんだ。誰もがそう、信じて疑わなかったのだ。
しかしそんな中、先生は至って冷静だった。いや、むしろはっとしたような顔になっていた。いつも以上に真剣な顔だった。そして、傍らにある国語辞典をとっさに開き、ページをめくっていた。そして、辞書を閉じると黒板へ向かい、赤いチョークで「えばる」をバツで打ち消し、「いばる」に訂正したのである。実は、「えばる」は必ずしも間違った日本語ではない。しかし、それはあくまでも「いばる」の転であり、より正確には、やはり「威張る (いばる)」なのだ。先生はそういうところまでしっかり解説してくださった上で、生意気なことを言い出したおいらに感謝の礼までしてくださったのである。
このとき、例え周囲の誰に否定されようとも、絶対に正しいと言い切れることを主張し続けることの意義を、おいらは学んだのである。
とりあえずそんなところで。。。
塾禁止(笑) ― 2006年12月25日 11時10分25秒
- 「塾は禁止」 教育再生会議で野依座長が強調 (朝日新聞)
- 塾は禁止? (スラッシュドット ジャパン)
ちょっとなんだか、技術系サイトにあるまじきってくらい盛り上がっていらっさるスラッシュドットにドン引き気味だったりするわけですが ((((((((((((^_^;;) 。
でも marudiana 氏のコメントは参考になります。まぁ、釣りだ罠。朝日も釣れた、スラドも釣れた、はらぺこも釣れた(笑)。
個人的には塾が禁止になろうがどうなろうが知ったこっちゃないのですが、そもそもそんなことは教育の再生に自信がないから言えるんじゃないの? とか思うわけです。
それから付け加えるならば、保護者が子どもを塾に通わせようとするのは、それだけ学校教育が信頼されていないことの証左でもあるように思います。しかしながら、保護者にしても、信じる信じない以前にそもそも現場としての学校を見てもいなかったりする場合がほとんどだったりするわけで、そうなるとまずはやっぱり保護者に学校教育の現状が見えやすくなるようにすること、その上で信頼を築いてゆくことが重要なんではないかと思うわけです。
教育改革ったって、本質的には教育は学校だけで出来るものじゃない、家庭との協力があって始めて成り立つものであるはずです。まずは保護者を学校の現場に引き込むことから策を講じるべきです。
とまぁ、結局のところおいらの書く事は毎回同じになっちゃうわけですが。。。(って似たようなことはこれぐらいでしか書いてないか)
しかし子どもにしてみれば塾という場は学校とはまた違う交流をもたらす場でもあったりするわけで、場合によっては閉じた学校社会に対する逃げ場であったりもするというのに、仮にそれを一方的に禁止するなんてことになれば、自殺者は余計増えてしまうんでないのとか思わなくも無かったりするわけなのですが。。。
そういえば塾講師のカマヤンさんはこのニュースについてどう思われるだろう? 僭越ながら tb 送らせて頂きまする。そもそも「自殺者などいない」とか突っ込まれそうな気もするけど。
片腹が激痛 ― 2006年11月30日 18時18分26秒
- 教育再生会議「心の成長」策提唱 「30人31脚」など (朝日新聞)
以下、強調は T.MURACHI による。
安倍首相直属の教育再生会議の「規範意識・家族・地域教育再生分科会」(第2分科会)は29日、来年1月に打ち出す第1次報告の素案をまとめた。「子どもの『心の成長』のために」と題し、「家族の日」を創設し、家族一緒に夕食を取ることや、協力・助け合いの重要性を実感してもらうため体育の時間に「30人31脚」を行うことなどを提唱している。
(中略)
また、二人三脚を30人で行う「30人31脚」のほか、全国の小中学生が最高レベルの芸術を鑑賞する機会を与えること、いじめなどを題材とした演劇の鑑賞や演技を通じて「お互いの心の闇や過ち」を理解させることを提唱している。一方で、子どもに悪影響を与える番組を通報する窓口組織の新設も求めている。
_, ._ ( ゚ Д゚) ( つ旦O と_)_) _, ._ ( ゚ Д゚) ガシャ ( つ O. __ と_)_) (__()、;.o:。 ゚*・:.。
参った。ホンの一時でも安倍氏の教育改革路線に期待したおいらが馬鹿だったよ。

大人問題 (五味太郎 / 講談社文庫)
いつだったか、「大人問題」から以下のセンテンスを引用したことがあったような気がするんだけれど、もう一度引用しておこうと思う。大なわとび教育がいかに間違っちゃった手段であるかということをよく認識して頂きたい。
■ いつだったか「大なわとびでギネスブックに挑戦」というテレビ番組がありました。学校の先生が生徒百何人を使って、記録に挑戦していました。いや、そうじゃない、生徒からの発案だ、自主性だ、と言うでしょうけど、それは甘い。見ているうちに、重たくなってきました。まあ、半分ぐらいはそういう馬鹿騒ぎが好きな、はしゃいじゃうタイプの子もいるんでしょうが、その一方には必ず、必死な、悲壮な子がいるわけです。結果的には成功しましたが、記録達成の瞬間にそういう必死な子たちが泣き出しました。それを、カメラで映してる大人は「成功したから感激して泣いている」と実に脳天気に見るわけです。冗談ではありません。ぼくにはその子たちがどんな気持ちだったのか、九割ぐらいはわかる。もう命がけです。失敗したら「おまえの足が引っかかったからだ、お前が真剣にやらなかったからだ」という形で村八分だったに違いないのです。だから、もし失敗するなら、みんなでいっぺんに引っかかってほしいぐらいのことを本気で思っていたんです。たかがなわとび、たかが遊びだからこそこわい。そういう教師はたぶん、みんなが心を合わせて一つのことを成し遂げた、それを自分がリードした、いい思い出ができた、ぐらいにしか思ってないんだろうなと思います。
そして氏は、そういった全体主義的な考えをよしとする姿勢を、戦争体制下の教育になぞらえて批判を展開していくわけですが、続きは是非本を買って読んでみて頂きたく。。。
大体ね、体育の授業で教えることじゃないですよ。そもそも道徳自体が授業として教授されるべきこととは思ってないですが、それでも何が悪で、どうあるべきかってことは、回りくどい方法で体験してもらおうなんて形ではなくて、はっきりと口で、言葉で伝えるべきです。定義どおりに。で、その言葉 (教え) の本質については、各自が各自の生活の中で、各自のコミュニケーションの中で、学んでゆくべきです。だから、子どもの周辺のコミュニケーションを改善する為に、街ぐるみ、地域ぐるみでの、人間の「見える化」を推進するような政策であれば、おいらも期待します。でも、「助け合いの気持ち」とやらは、「全体主義」を奨励するような授業内容では到底培われません。こんな小手先の、しかも間違った政策内容を以って、「教育改革路線」とか言ってるようでは、片腹痛いです。
「子どもに悪影響を与える番組を通報」ってのも、ドリフターズが全盛だった、かれこれ 20 ~ 30 年も昔の発想じゃないですか。。。orz
以下、参考サイト。





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