mastodonのユースケース2017年04月15日 21時43分35秒

どうも、こっちのブログではお久しぶりです…(´・ω・`)

さて、Twitter みたいなミニブログを自前のサーバーに構築できて、しかも他所のサーバーと連携しあって別のサーバーのユーザーともゆるくやり取りできるという (でいいんだよね?) 分散型のミニブログサーバーアプリ mastodon というのが流行の兆しを見せているんだそうです。

mstdn.jp なるドメインをぶちあげて mastodon インスタンスをぶちあげた @nullkal さん (boost.jp 界隈とかにいる人なので前からお名前は存じておりました…) のところに大量の日本人ライトユーザーが押し寄せたことなどでちょっとした話題になっていましたが^_^;、その一方で以下のような指摘も出てきています。

これはこれでだいたいその通りだとは思うのですが、その一方で P2P 実装での実現ってのも色んな意味で難しいだろうなと思うところもあり (そのことについてもリンク先ブログですでに触れられている通り)、今回のような分散型というのはそういう意味でも「折衷案」と言ったところなんじゃないかなと感じています。

構築方法が面倒くさそうだなというのはその通りなんですが (実際建ててみた人のレポート読んでみたけど実際しんどそう^_^;)、それなりに知識と意欲がある人であればやってやれないレベルではないんですよね (ふっとんだ時にもう一回やりたいかって言われると正直嫌だけど ^_^;)。

そこで、例えば仲間内 (数人〜十数人程度) に一人、コンピュータに詳しい奴がいて、個人的な用途で運用している VPS かなんかに、ついでで mastodon を設定、仲間内だけ呼び込んでユーザーとして登録、みたいなユースケースであれば、分散型もそこまで無理はないかなぁとは思うんです。

もちろん、「仲間内にコンピュータに詳しい奴がいる」という状況が一般的になるぐらいには情報処理教育が浸透することが前提になりますが… (最近はプログラミング教育とか流行ってきてるっぽいからお子様世代なら希望はあるかも?)

ただ、mastodon の場合、どこかのインスタンスに所属していることが、特別インセンティブになるような作りでもないっぽいので (インスタンスが異なるからやり取りしづらくなる、というものではないっぽい)、例えばフォローとは別に、同じインスタンスに登録しているユーザーのみに公開するとか、インスタンス内で連絡を通知する、みたいな機能があれば、自分の仲間内のためにインスタンスを立ち上げよう! という動機付けにもなるんじゃないかなとか思ったりはするところです。

なんにしても、Twitter よりは API 周りで不自由しなさそうだという点においては今後に期待したいところです…(´・ω・`)

曖昧なのは「死」という言葉の使い方の方なのでは…2015年06月29日 17時04分45秒

曖昧な言葉というのは存在します。その言葉が使われるようになった経緯上、はっきりとした意味合いが定義づけられていないような言葉のことです。インターネット関連の言葉でいうと、例えば「クラウド (コンピューティング)」は曖昧な言葉と言えるだろう。今でこそそれなりの共通認識を以って使われる言葉となりつつはあるようだが、その言葉が使われ始める前後を比較するような議論に、ビジネス上の宣伝文句以上の意味はないのではないかと思われる。

ところで、スマートフォンなどに代表されるモバイルデバイスの普及と、 Web アプリのクライアントがモバイルデバイス用に実装された個別の専用アプリに置き換えられてゆく現象 (あるいは、これまで Web アプリとしてリリースされてきたようなサービスがモバイルアプリとしてリリースされるようになってきている現象) を以って、「Web は死ぬ」のではないかとする議論が一部で持ち上がってきているらしい。へー。

リンク先記事の主張を要約すると以下のようになると思う。

  1. この議論において、「Web」という言葉が曖昧に扱われているので、「Web は死ぬ (or 死なない)」という時の「Web」という用語について、その定義を各々明確にしておくべきである。
  2. (モバイル) アプリによって Web は死ぬと思われる。但し、このとき著者が「Web」という言葉を持って指し示される概念は、以下の通りである。
    • Web サイト
    • Web ブラウザ
    • Web アプリ

記事中ではこれに対し、死ぬことはないだろうと思われる概念についても記述されている。詳しくは当該記事本文をご参照願いたい。

「Web」という言葉の曖昧性?

さて、のっけから前提事項を覆すようで申し訳ないのだが、そもそも Web という言葉自体はそこまで曖昧な言葉だろうか? 確かに、経済学者やビジネスコンサル、ネットビジネス評論家含むメディア関係者などに言わせればとたんに曖昧な言葉になってしまうものかもしれないが、クラウドみたいな命名経緯自体が曖昧な言葉に比べれば、ティム・バーナーズ=リーの発明品である Web はそれよりずっと明快な言葉であると言えるだろう。

一応おさらいしておくと、ここで言う Web とは World Wide Web の略称であり、以下の 3つの技術を柱として構成されるハイパーテキストシステムのことである。

  1. HTTP

    Hypertext Transfer Protocol の略。情報処理技術全般を学んだことのある人であれば「アプリケーション層のプロトコルの一種」という説明で通じるのだが… 要するに Web で扱われる通信上のやり取り (GET: (コンテンツの)取得、 POST: (フォームデータの)送信、等々…) を処理する通信方式の規格である。ポート番号が標準的に割り振られていて、通常、平文のものは 80番、 SSL を用いたセキュアなものは 443番を使用する。

  2. URI (URL)

    コンテンツを同定する場所を表す名前として定義された URL (Uniform Resource Locator) という概念は、そのままあらゆる固有概念を同定する名前として URI (Uniform Resource Identifier) という概念へと拡張された。スキーマ名、ドメイン・ホスト名 (または IP アドレス) (+ポート番号)、ロケーションパス、プラスアルファの情報を一行の文字列にぎゅっと押し込めたもので、通常 Web ブラウザのアドレスバーに表示されるアレのことである。

    この名前をメモっておく (ブックマークに入れておく) ことで同じコンテンツに何度でもアクセスできるし、この名前を指定して記事から記事へとリンクを貼ることもできる、と説明すれば、これが Web において如何に重要な概念であるかは理解できるだろう。

  3. HTML

    Hypertext Markup Language の略。通常、 Web ページはこれを使って書かれていて、 Web UA (User Agent) がこれを読み込んで画面表示をレンダリングする (UA は通常 Web ブラウザのことだが、 UA としての機能が組み込まれたものであれば良く、必ずしも Web ブラウザであるとは限らない)。

    Markup とある通り、マークアップ式の言語である。例えば、文中でこのように強調して表示したい箇所には、<strong></strong> というタグを、強調したい部分の前後に挿入して挟み込んでやる、といった要領で、文章にマークアップを加えていくことで整形したり、意味合いや機能を加えていったりするものである。また、 Hypertext と言われる所以は、 <a> タグによる Hyperlink にあり、この Hyperlink が文書から文書へ相互に参照を張り巡らす様が、まさに Web を Web (蜘蛛の巣) と言わしめる所以でもある。

…以上のうんちくは適当に読み流して頂いて構わないんですが(^o^;A、この辺の基礎知識を理解している方であれば、 Web という言葉を、少なくともインターネットそのものの意味で使っちゃうような事にはならないと思う。

ところで、言葉が曖昧に扱われる理由には、言葉自体が実際定義があやふやで曖昧である場合を除いても、他に以下のいずれかの場合がありうるのではないかと思う (他にもあるかもしれんけど)。

  • 話者がその言葉をよく理解していない場合。
  • 話者がその言葉を敢えて曖昧に用いたい意図がある場合。

結局のところ何が言いたいのかというと、よーするに「Web は死ぬのか?」というテーマで議論に参加している人々というのは、そもそも Web という言葉をあまり理解していないまま議論に参加しているだけなんでねーの? ということである。(うわーひどーい)

Web 技術を細分化して評価する

とはいえ、 Web の周辺技術はこれまでに様々な変遷を遂げ、多くの拡張や応用が施されており、そういう意味では、リンク先記事が試みた、 Web (周辺) 技術の切り分け評価は、本論においては意義のあるものだと思う。 Web 周辺のこの技術は今後も使われ続けるだろうし、この技術は今後は廃れていくだろう、みたいな話であればそれなりに興味深いとは思う。

なので、その辺の説明についても一応補足とか加えておきたかったりするのだが…、

4. Web アプリ

Web アプリという言葉も曖昧な言葉ですが、ここでは、

<meta name="mobile-web-app-capable" content="yes">

などに対応していて、Web サイトのアイコンをホーム画面に追加でき、起動するとアドレスバーなどはなく、その Web サイトがフルスクリーンで表示されるものを Web アプリと呼ぶことにしましょう。

どうやらリンク先記事の著者的には、モバイルアプリのように見えるものとして動作するものでなければ Web アプリとは呼ばないようである。 Web アプリという語感からこうした語弊が広がっている可能性はあるが、通常、 Web アプリケーションと言えば、 Web サーバーがユーザー操作に応じてプログラマブルに動作し、コンテンツを動的に生成したり蓄積したりするようなものの総称であって、古くは掲示板の CGI から、ブログや Wiki などのいわゆる CMS、データベース的なものから検索サイト、はては SNS やネット通販、地図や天気予報などに至るまで、 アプリケーションとして動作し Web UA でアクセスできるものであればすべて Web アプリケーションの一種である。

※ゲームの類を含めたがる人も多いと思うが、過去に Web 上で公開されたゲームであったり、あるいはいわゆる「ネットゲーム」「ソーシャルゲーム」の類なんかは、その実態が本質的には単に Web 上で「配布」されているだけだったり、通信はしているけど Web の要件を満たさなかったりすることが多かったようにも思うので、 Web アプリケーションとは分けて考えたほうが良いと思う。

特に、 CMS の類 (特に、例えばニュースサイトなど) なんかは、サイト来訪者から見れば単なる Web サイトのように見える一方、サイト制作管理者的には Web UA 上での操作のみでコンテンツを追加・編集することができるれっきとしたアプリケーションとして動作するものであり、このことは、 Web アプリケーションがすべてのユーザーに対して必ずしもアプリケーションっぽく振る舞う必要のないものであることさえ表すものである。

それ以外の用語の説明については概ね問題なさそう。

んで、「死ぬ」ってどういうこと?

そこで、それぞれの概念に対する、死ぬもの、死なないものとしての評価について検討してみるのですが、 Web アプリが App Store や Google Play などのアプリストアに登録できないことを以って死を宣告するという乱暴な論展開についてはそもそも Web アプリケーションそのものへの誤解があったっぽいことから目をつぶるにしても、 Web ブラウザが使われなくなるから Web サイトも衰退するとする議論についてもいささか横暴だと感じずにはいられない。

純然たる「Web ブラウザ」の利用がモバイルデバイスにおいてはそれほど多くないというのは恐らく事実なのだろう。そもそも Web ブラウザそのものを起動しようとする一番の目的は、検索サイトを介した調べものになる。 PC からの利用ではそういう形での調べものからよく利用するサイトをブックマークし、常に Web ブラウザからアクセスするような形を取ってきたが、モバイルデバイスではこれが一変して目的別にアプリとして細分化され、ニュースを読みたければニュースアプリ、お天気を調べたければお天気アプリ、場所へのアクセス方法を調べたければ鉄道路線情報アプリや地図アプリ、そして SNS にアクセスしたければ SNS 用の専用アプリと、目的に応じて個別のアプリを起動するのが普通になり、その分 Web ブラウザを敢えて起動する機会はぐんと減っていった。

ここまではいい。

問題は、 Web ブラウザそのものを起動しないことが、果たして Web ブラウザが使われなくなる理由となりうるのかという点。現状、 iOS にせよ Android にせよ、ハイパーリンクの URI に対する処理は、そのスキーマや MIME 情報、ものによってはドメインなんかも加味して、対応するアプリケーションを起動するというようなものになっている。 Android の場合だと、 Google Map にアクセスしようとした時点で Google Map アプリが起動しだしたり、 YouTube コンテンツにアクセスしようとした時点で YouTube アプリが起動し出したりするなど。

そうやって個別のアプリで処理できる場合には良いが、インストールされているアプリでは対応できないコンテンツ、要するに、単なる野良 Web ページだったり、かなり専門性の高い (よーするにマニアックな) サイトだったりすると、対応するアプリがないので、 OS としては Web ブラウザに任せざるを得ない。

Web というのはその名のとおり、サイトを横断的にリンクし合うものなので、利用者の端末にとって未知のアプリケーションにアクセスするようなリンクを踏んでしまった場合には、 Web ブラウザに頼らざるを得ない。 Web 通販を語る際に「ロングテール」という言葉がよく使われてきたが、モバイルユーザーにとっての興味のロングテールをカバーする存在として、 Web ブラウザは今後も使われ続けるだろう。

なお、こうした横断的リンクによって Web ブラウザを起動せざるを得ないケースにおけるユーザー体験の悪さを回避するために、 Facebook が Instant Articles を始めたのも、SmartNews が SmartView 機能を搭載しているのも、これらの理由からですといったような流れが出てきていることが指摘されているが、これはそのとおりだと思う。ただ、こうした動きはむしろ Web サイトを延命することになるのではないかと思う。 Instant Articles や SmartView、いや、古くは Yahoo News なんかでさえ本質的には同じものだったりするわけだが、こうしたものに賛同し、 RSS に乗せて記事を出稿する Web メディアが、それを理由に自社 Web サイトを潰してしまうとは (媒体のブランディングなどを考慮すれば) 考えにくいように思う (零細メディアが経営判断により潰してしまうケースがないとは言い切れないが…)。

以上のことからおいらの個人的な見解としては Web サイトも Web ブラウザも衰退というほどの状況には至らないだろうと思っているのだが、ここまで考えたところで、そもそも「Web は死ぬ」と言っている人と、「Web は死なない」と言っている人との間で、本質的には議論が噛み合っていない可能性があるのではないかと気がついた。

どういうことか。それは、「死ぬ」という言葉のニュアンスをどう解釈するかによって議論が割れるのではないか、ということだ。つまり、

  • 「死ぬ」という言葉がその概念そのものの衰退、すなわち「ほとんど使われなくなって、やがて廃止に追い込まれる」ぐらいの意味合いを指すのであれば、「そんなことはない」と反応する人が多数派になるだろう。
  • 「死ぬ」という言葉が、その概念に乗って行う商売が成り立たなくなる、という意味合いを指すのであれば、賛同する人は割と多くなるかもしれない。

Web をめぐる商売

Web 上で展開される商売にも様々なものがあるし、その関わり方も様々なので、結局は一様に言い切ることができるものではないとは思う。そもそもモバイルアプリ界隈がそこまで儲かっているのかというところも正直怪しいもので、結局は Web を使うかモバイルアプリという形を取るかは方法論でしかなく、むしろそこで提供されるサービスそのものの内容や質、そしてブランディングが勝敗を決めるのではないかとも思う。結局はね。

Web 界隈を周辺技術で切り分ける議論もそれなりに意義深いものであるとは思うのだが、それに加えて、業務 (サービス) 内容ごとに切り分ける議論もあっても良いんじゃないかと思う。そうすれば、今後、モバイルデバイス自体がどういう発展を遂げてゆくべきか、そして機能を補完するという視点からどんなアプリを作ったら受けるのか、なんて辺りも見えてくるんじゃないかな。しらんけど。

「世界はだんだんよくなっている 」がジャーナリズム批判としてはダメな理由2010年01月26日 14時40分25秒

t-murachi 社会形成, 歴史, 思考, hoge, 下らん, 時間の無駄, メタブもあるでよ 中身のないポジティブ論に賛同はできないな。今こうしている間にも、失業者は着実に増えている。悲観、無力感への処方箋は解決策と試行であるべきであって、無関係な代替概念を持ちだして納得させる事じゃない。 2010/01/25

リンク先記事については同意し、あるいは励みになったとする意見が多数見受けられた。そのこと自体は悪いことではないと思う。各自の個人的な人生において励みになる概念が少なからず存在することは、悪いことではない。

おいら個人の人生としては、現状、メディアが喧伝する閉塞感の中において、割と幸せなものだと自覚している。なので例えば生活に窮する状況に追い込まれている方々 (working poor 然り、失業者然り) や、旧来的・現代的を問わず差別の憂い目に遭っている方々などを代弁して何かを言うことは難しい (してはいけないわけではないとは思うが、多分実感がこもらないんじゃないかと思う) し、実際それをする気もさほど無かったりする。

ただ、ブックマークコメントで書いたことについては、まぁ、それはそれとして、この記事が、メディアが閉塞感を喧伝することに対する批判として書かれているのであれば、その批判に伴う提案としてのポジティブシンキングには、やはり同意することはできない。これは、メディアが行っているとされる、この国の社会に対する漠然としたネガティブキャンペーンを一つの極と定め、対立する概念としての (やはり漠然とした) ポジティブシンキングをもう一方の極に配した二項対立の図式に落とし込もうという、自縄自縛の議論であるように思うからだ。

「この国の社会に対する漠然としたネガティブキャンペーン」が何故ダメなのかと言えば、それは個々の議論が突発的な井戸端会議のネタに終わってしまうからだ。事業仕分けがメディアに取り上げられ、国民の間で議論を呼んだ。それ自体は悪いことではない。しかし京速スパコンに対する蓮舫議員の「二番ではダメなんですか」発言ばかりがクローズアップされ、「頭の悪い素人が仕分けに口出ししている」という負の側面ばかりが目立つような報道になってしまった。その後も事業仕分けに関してはスパコンのことばかりが取り上げられ、本当に必要な議論 (大幅削減が決まった spring-8 や海洋研究、逆に仕分けの対象から結果的に外された核燃料再処理工場の是非、etc...) にあまり耳目が集まらなかった。本来批判されるべきはこうした政策論議に関する報道の網羅性のなさや、ウケ狙いの報道姿勢、そしてそうした報道をネタとして消費する読み手の姿勢にあるのではないか。

ネガティブな報道ばかりだから閉塞感が広がる、もっとポジティブなニュースだってたくさんあるはずだし、そういうのをどんどん報じるべきだ、とする意見をよく耳にする。同意される方も多くいらっさると思う。

おいらがそうした考え方にどうしても同意できないのは、結局の所、その考え方というのは、現状の、報道をネタとして消費するという、読み手、聞き手の姿勢を前提とした考え方だからだ。そうした姿勢が正されることがない限り、即ち大勢が個々に社会に参加しようという意欲を持たない限り、メディアは成熟しないだろうし、デモクラシーは成就されないだろう。雰囲気だけで政権交代し、雰囲気だけでそれを悲観し後悔するなら、そもそも民主制である必要など無いのだ。

昨今のメディアによるネガティブ報道にはもう一つ問題点があって、それは極めて個人的な事情により起こってしまった事件について、容疑者 (未だ裁判で犯人だと確定したわけでもない) の属性情報ばかりを取り上げた挙げ句、それがいかにも社会的な現象であるかのように報じてしまう点だ。こうした報道は偏見・差別を好む低俗な耳目をよく集める。しかしメディアリテラシーを高める存在であるべき新聞・テレビ報道が、結果的に民度を失墜させることに手助けしているというのは実に皮肉なものだ。

最近では個別の新聞・テレビ報道に対し、関係者がネット上でブログなどを用いて認識の齟齬や報道上の問題点等を指摘すると言うことがたびたび行われている。これはよいことだと思う (そういう意味では、元記事に同意するものである)。そして、そうしたことの一つ一つが、テレビや新聞のネットに対する相対的な信頼感を、着実に貶めていっているのだと思う。その効果は新聞の販売数やテレビの平均視聴時間、広告・CM枠の売り上げなどといった数字にもろに影響しているし、大手の新聞社、放送局が軒並み赤字を出していたりする。

しかし彼らは反省しない。それどころか、彼らが手にしている特権的利権 (記者クラブ然り、電波利権然り) を手放すまいと躍起になっている。このことこそ、最も悲観されるべきなのだ (特に我々世代にとっては)。元記事はテクノロジーが社会を少しずつ、着実によりよくして行っていると書いている。しかし、テクノロジーを活用するのは人だ。情報コントロールは権力そのものだ。テクノロジーが変わってゆくなら、人も変わってゆかなければ社会はよくならない。テクノロジーに取り残されたはずのメディアがテクノロジーそのものへのネガティブキャンペーンを展開し、それに多くの人が踊らされて差別に勤しむような社会は成長しない。インターネットをメインステージに育まれるこれからの時代において、誰もがそのことを肝に銘じなければならない。

アサブロにエディタというのが追加されたらしい。2009年11月25日 07時08分55秒

記念パピコ。

まぁなんつーか、WYSIWYG なエディタとしてはできることは少ないけど、その分シンプルでよろしひのではなひでせふか?

毎日 Wikipedia 誤報の問題点2008年11月20日 11時44分16秒

毎日新聞が元更生事務次官らの連続殺傷事件に絡み、Wikipedia ユーザーのログイン名を晒して犯行予告者扱いした誤報について、Web上では既に毎日新聞の問題点がいくつか指摘されている。

id:KoshianX さめの主張も藤代さめの主張もごもっともなんだけれども、個人的にこれは問題なんじゃないかと思う点について軽く列挙してみようと思う。

  1. 容疑者にもなっていない人を犯罪者扱いする報道は許されるべきか?

    id:KoshianX さめの主張とも若干かぶるんだけれども、個人を特定する情報を晒してしまうということ以前に、ジャーナリズムが犯人探しに加担するのは職責から外れるのではないか、とかちょっと思った。ただ、ジャーナリズムは事実・真実の探求を代行するお仕事である以上、それに準ずるような行動も時として必要なのかもしれない。例えばけーさつが重要な事実を隠しているようなケースであれば、それを暴き、衆目に晒すようなジャーナリズムは賞揚されるべきだ。

    いずれにせよ、慎重に精査する必要はあると思う。今回の件では、結果として、この精査が足りなかった。もちろん、当該誤報が掲載された朝刊を引用して報じてしまったテレビ番組も然りで、新聞を信用しきって鵜呑みにするのではなく、各番組の責任において十分な裏取りを行うべきだ。

  2. 表層だけ見て記事にするのではなく、もっと深いところまで調べるべきだ。

    失敗は誰にでもある。新聞記者だって間違える時は間違えるんである。そこは、読み手が理解した上で、情報との距離の取り方を学んで行くべきだと思う。

    一方、失敗は学習の宝庫でもある。失敗した人間は考え、学び、その教訓を次に生かすべきだ。我々はそうした営みを「反省」と呼ぶ。

    では、今回の失敗を犯してしまった記者は、何をどう、反省すべきか? ここで、Wikipedia が時刻を UTC で表示する事にばかり着目し、「ネットや IT を知らないからいけないんだ。もっとこれらを学ぼう」とか言ってそれっぽい How To 本を買いに走るのは、まったくの無駄だとは言わないが、ジャーナリストとしてはイマイチだと思う。たとえ、日本の Wikipedia の時刻表示がグリニッジ天文台基準であった事を知らなかったとしても、今回疑われた Wikipedia 編集人の Popons さんについて、より深く追求して調べていれば、犯す可能性の低い間違いだったのではないか。例えば、Popons さんの過去の投稿記録を追って調べれば、彼がどれだけ Wikipedia に貢献してきた人か、あるいは彼がどういったことに興味・感心を持っているか、といったこと、すなわち人物像が浮かび上がってくる。そして、そのような人が、愛しているはずの Wikipedia という場を、犯行予告などという行為で汚すという行動の不自然さを思えば、これをネタとして出稿することにもう少し慎重になれたはずだ。

  3. 署名がないので文責が不在。

    責任という観点においては藤代さめの主張とも被るが、誤報の記事にもお詫びの記事にも署名がなく、毎日新聞社のどの記者に文責があるのかが不明である。これは今回の件に限らず他の多くの記事においても、あるいは他の新聞社においても同様であるが、記事の責任を会社が担保するというやり方が、個々の記者の責任感を薄めてしまっている可能性はもう少し考慮されるべきと思う。特に、ガバナンスがなく個々の社員が自由奔放であることが売りの毎日新聞社であればこそ、個別の記者の顔が読者にもっとよく見えてもいいはずだ。せっかく、人気の名物記者が生まれる素地が社内文化として確立しているのに、それを積極的に売り込まないのはもったいないとさえ思う。

  4. スタンドプレーが過ぎる可能性; 社内コミュニケーションは大丈夫か?

    で、スタンドプレーと言えば聞こえはいいが、要するに個々の社員が孤立していて、記者同士でのコミュニケーションが希薄だったりするような空気が蔓延しているんじゃないか、とも危惧した。まぁ、他にも何人かが当該記事に目を通していて、誰もがこりゃあ凄い、よく見つけたねと褒めまくっていた可能性も十分にあるので何とも言えないんだが、例えば取材チームみたいなのを組んでいて、チーム内でネタのレビューをすることによって、ネタのプロットに対する疑問点が洗い出され、ニュースとしての精度が上がっていく、といったような段取りは無いのか? 上司であるところのデスクの承認、だけでは、やっぱり情報の精度を維持するのにも限界があると思う。情報にスピードが求められるならばこれはなおさらで、短時間で精度を上げるなら、やっぱりある程度の人数をかけるしかないんじゃないかと思う。

とりあえずこんなところで…。

自称「非モテ」の病理と対策2008年07月30日 01時13分19秒

主にはてな村民用。

端を発してたのがどの辺だったかいまいち覚えてないんだけど。。。

この辺のやりとりが発端だったんだっけかなぁ。これ以降、自称リア充っぽい人が増田でこーすりゃ彼女できるぜ発言書き散らしては、はてブで Dis られまくるという光景が繰り返されていたんだけんども。

ちなみに一応おいらのスタンスを軽く表明しておくと、前者的な「非モテ脱出」を謳う方々のモラリズムには共感できないが、目的はどうあれそこに行動を伴わせることを良しとするバイタリティには大いに見習うべき物があるんじゃないかなぁと言う感じ。モラリズムというのは上であげた後者の記事から引用するならば

ただ、「下手な鉄砲数撃て」「ナンパできない奴は、要は、勇気がないんでしょ?」とかいう奴に、この一言だけは言っておきたい。

言っとくがな、相手は生身の女の子なんだぞ!

とかいう台詞で代弁されるような代物のことで、要するに相手のいることなんだから誠意ぐらいもてっちゅー話。その一方でその誠意だって出会いを通じて相手に示さなきゃ恋のひとつも成就できんわけで、何でもいいからとにかく相手を探せ、箸なり棒なり引っかかるように身なりぐらいはどうにかしろ、ってのはごもっともなアドバイス何じゃねーの? ってあたりで落ち着く話なのにまぁ毎度毎度本当にこの話題ばかりで盛り上がりますよなぁアハハウフフと生暖かく眺めておったわけなのでございますですよ。

ところが、以下の二つの記事のおかげで、おいらの気持ちもちょっとぐらついた。

結論から言うと、少なからず愛すべき存在だと思っていた自称非モテというのは、実際のところ最も侮蔑すべき存在なんじゃないかと思い始めるに至ったと言うこと。

驚愕すべきはブックマークでの反応だ。

前者の記事はオタクコミュに所属する女性が、タイトル通りオタク男性と肉体関係を含む付き合いをしまくっているという話で、「友達はみんな彼氏がいて羨ましい、私はちょっと苦手…」「ごめん、○○さんが2次元の方が好きなのは分かってるけど、私じゃダメかなぁ…?」で堕とします。申し訳ないけれど、失敗したことがない。だの、この子、普通に彼氏いそうなのにオタクだからいないんだな、彼女を理解出来るのは俺だけ!という心理状態にまで持って行ければ成功だの、基本的に釣った魚に餌をやらないので長続きはしませんが。毎週セクロス、毎週デートしようとする恋愛至上主義の男はうざいだの、いや、本音を言えば結構共感できる部分もあるんだがw、書いていることは何気に結構酷いことばかりで、自称非モテ連中がそれまで見せていたモラリズムに照らし合わせるならば、叩かれて当然の内容だと思っていたわけですよ。でも実際には歓迎するコメントで溢れかえっている。ノリでやってるネタだとしてもこの豹変ぶりは非常に気持ち悪い。

後者はモテなくたっていーじゃない、むしろ無我の境地を切り開いて恋愛とかとは関係ないところで意欲と好奇心を持って生きようぜ、というスタンスの人間がその方法論を示すという内容だ。まぁ人生セクロスがすべてじゃないよ、楽しいことは他にいくらでもあるよ、って考え自体は悪くないんだけれども、方法論として書かれている内容はどう見たって明らかにネタだし本気だとしたらちょっと酷い内容だ。でもはてブを覗いてみると割と本気で感心しちゃってるっぽい感じのコメントが結構な数で見受けられる。それどころか無言ブクマでタグに「これはすごい」だの「人生」だの「哲学」だのとつけている人までいる。真似しようとする人も出てくるんじゃないか? はっきり言って有害だ。

後者については念のため付け加えておくが、実際のところ知的・文化的な好奇心と、性欲やそこに由来する劣等感やバイタリティは、意図的に絡ませようとでもしない限り必ずしも直行する物ではない (「意図的に絡ませる」とは、よーするにそれを商売にすると言うこと。恋愛小説の執筆とか、ポルノの制作とか)。もちろん知的活動に自信を抱き、さらにそれによる生活リズムに忙殺されるようになれば、確かに恋愛どころではなくなり、自身の心に占めるその手の劣等感というのがかなり押さえられるのは事実だ。だがそのような状態に至るために、

  1. もはやわかりきっている自身の (恐らくは) 不細工な顔をまじまじと鏡で見つめて自虐的になる必要性はからっきし無いし、
  2. 親と縁を切る意味もまるでないし、
  3. 彼女なんてイランぜーなどと公言する暇があるなら夢中になれる物を見つけられるようにさっさと手なり足なり動かし始めるべきだ。
  4. 友だちづきあいったって元より友だちなんてさしておらんのやろ?
  5. オナ禁 1年どころか 1ヶ月でも続くと確かに性欲って衰えるらしいが、その代わり自信も失うことになるぞ。劣等感に基づくそれまでの自信喪失とはまた違った種類のそれだ。それに苛まれないでいられる自信があるって言うんだったらオナ禁なんてまどろっこしい事してないで股にぶら下げてる物をさっさと切り落としてしまえばいい。
  6. 勉強や読書で気を紛らわせられるなら元よりえろーげになんか手を出してないだろう。
  7. その上痩せろって、その体型に非モテである理由を求めていた連中を愚弄する気か? 誰でも岡田のおっさんになれると思ったら大間違いだ。まぁおいらは痩せるけどな。
  8. 酒は、まぁ、どうでもいい。

とにかく非モテ的な劣等感から逃れるために何かに夢中になりたいってのは、それ自体が不純な動機であると言うことをまずは自覚することだ。そんな不純な動機で仙人になれるのは、後に開き直ってしまう亀仙人様ぐらいのもんだ。仙人ってのはその素質のある人間がなるべくしてなる物なんだよ。

しかもそういう人々が、たったひとつのことだけに興味を持って生きているんだと思ったら大間違いだ。

コンピュータにしか興味を抱かない人間が、まともなプログラムをかけるようになると思うか? そんな奴、コンピュータに興味を抱いている人間にしか理解できないソフトウェアしか作れねーよ。リアルで何かの不便に困っている人がいるのを見つけて、それをどうにか手助けできないかと考えて初めて人の役に立つソフトウェアってのはできるんじゃねーか。

アニメにしか興味ない奴はアニメ好きじゃなきゃ受けない作品しか作れないが、リアルで心を揺さぶられた経験を持つ人間なら、その揺さぶりのほんの一部でも作品を通じて表現しようとするものなんじゃねーのか?

著作権について語られるときだってそうだ。すべての作品は究極的には何かの二次著作なんだとかって、したり顔で書く奴がいるがな。一般論振りかざして何が楽しい? 他人の物まねみたいなつまんねぇ作品ばかりが溢れかえってる J-POP ばかり聴いてるからそんな風に思うんじゃねぇのか? ジャンルなんて言葉に縛られて専門学校で勉強した音楽理論とやらでいい曲書いてる気でいるおまえら。独特の優しい、誰の脳みそにもこびりつく旋律を書いたモーツァルトは、スイングのリズムを発明したグレン・ミラーは、マンボなんてクレイジーな世界を作り出したペレス・プラードは、なぜそうやって独自の世界を作り出せたと思う? 単に一途だったからじゃねぇ。リアルで心を奮わせる何かがなきゃ、そんなもんを作り出せるような化学変化は起こせねぇんだよ。菅野よう子さんを見ろ、彼女だってそのカテゴライズもよく分からないしとか、堂々と公言しちゃってるじゃないか!!w つか、あんなに作り手の「色」がはっきりしているのに (そのくせバリエーションは豊富だったりするのに)、実際出してるアルバムは「Song to fly」以外全部何かのサントラじゃないか。イマジネーションを外部に依存しているにもかかわらず、それらの音楽のすべてに作り手の「色」が練り込まれている。曲を聴けば、それが初めて聴いた曲でも、好きな人なら「あ、もしかしてこれ、菅野センセー?」って気づいてしまう。個性とかオリジナリティとかって、本来そういうものなんじゃないのか?

いーかげん話がそれまくってきたので戻すけど、要は話し手の立ち位置が違うだけでモラリズムの論理性から掌を返したり、方法の理論も検証せずにそこにすがろうとして見せたりというのでは、結局のところ自称「非モテ」というのはコンプレックスに端を発した内向的劣等感に基づく精神性であり、オタクやロリコンと同様、完治すべき「心の病」であると結論づけざるを得ない。そうした精神性は社会から疎外されて当然だ。悔しかったら下らん屁理屈捏ねて反論することを考える前に、現状を打破するために必要な行動の To Do list でも書いてみやがれってんだ。

ニコニコがいじめで酷いんならはてなも十分いじめで酷い2008年07月10日 06時41分45秒

とはいえ。

こうした状況は「ニコニコ大会議」が最初だったのでしょうか。

いいえ、違いますね。

誰かに向かって揶揄したり、誹謗したり中傷したりからかったりして「楽しむ」光景は幾らでもあります。

2ちゃんねるで、はてなブックマークで、twitterで、ウエブログで、ウエブ全体で、いいえ、社会全体で。

右を見ても左を見ても嘲笑、誹謗、中傷、差別、憎悪がどす黒く渦巻いているではありませんか。

日本の動画サイトでは顔出しで出ている人が少ないが、それはこうしたことを恐れているからというのも一つにあるだろう。誰だって無闇に自分の外観をネタにされたくはない。せっかく作ったネタを外見ネタで浸食されたくない。

それは突きつめると、我々日本国民の民度の低さに行きつく。作品よりも演じてる人間の外見が気になってついつい「ハゲw」だとか「ピザw」だとか書き込んでしまうのだろう。それで笑えてしまうというのは、精神レベルが小学生並みだということを示してる。

外見をネタにせず作品を楽しめるまでに、我々日本人は文化的に成熟していないのだ。

民度とはなんだろうか。一般的には、市民の社会成熟度のことを言う。社会的に成熟している状態とは、すなわち、自分が所属する社会を構成する人々と、ともに社会を取り持つことを、その社会に所属する個々人がどれほど意識しているか、っていうこと。

この意識が高ければ、自分とは大きく異なる人間、たとえば生まれながらにしてやたらと髪が薄い or 天パであるとか、ずば抜けて背が高い or 低いであるとか、障害で下半身がないであるとか、いわゆる精神遅滞であるとか、はたまたガイジンであるとか趣味がアレであるとか倫理観の違いであるとか発育がとか家が金持ちとか、まぁそういうことの一つ一つを嫌悪するでも無視するでもなく、直視した上で受け入れられるはずだ、なんていう風に言われていたりするわけだ。同性愛者をとりまく環境は社会の成熟度を示すバロメーターだなんて言われてみたりな。

まぁ、現実問題として、こいつらと社会をともにし、こいつらと主権を分かち合い、こいつらと利害を共有しなければならないと言うことに目を向けられるならば、偏見抱いて嫌悪してたって始まらないわけで、境遇やら事情やらはどうあれ対等に向き合って対話ができなきゃならない。でもまともに対話するには相手のことを理解できていなければ、話題によってはそれで文脈を捉え損ねて平行線をたどったまま議論が何も進まなくなってしまうと言うことがありがちになってしまう。だから、民主主義的な社会においては、とりわけ民度、社会成熟度と言うことが重要視されるわけだ。

総芸人社会が KoshianX さめによって「民度が低い」と断じられているのは、そうした態度が上で書いた「まともに対話」することを受け入れられる態度であるようには見えないから、ということなのだと思う。従って、ブ米で「民度って言いたいだけちゃうんか」みたいなことを書いている人は、おそらく自分こそ「民度」って言葉の意味を理解していないんじゃないかと思うし、「ニコ厨と日本社会を結びつけんな」とか書いちゃっている人は、KoshianX さめや ululun さめが今回のニコニコ大会議での出来事をあくまで「象徴的な出来事」としてしか捉えていないという点について読み誤っているとしか思えない。

まぁ確かに、日本人全員が民度が低いとまで言い切ってしまうのであれば、それはまぁくくりすぎだろうなとは思う。でも「ニコ厨がやることですから」とか言って無関係装ってたらあなた、アキバ通り魔事件でアキバだネットだオタクだなんて部分ばっかりなぞっていたマスゴミの皆さんよろしく「切断操作だ」なんつって詰られても文句いえまへんえ。これはあくまで日本人は日本人でも、「総芸人化社会に与する日本人」への警告、ぐらいには広げて認識すべきなんじゃないかな。そうすればもう少し、これらの記事から学べることってのは大きくなるんじゃないかと思う。

おいらは民度の高い社会ってのは、向上心の高い社会だと思ってる。お互いの個性、境遇、思想、倫理観を直視し、尊重しあった上で、ガチでの対話が繰り返されれば、お互いの意識も知性もどんどん高まっていけるはずだ。それこそ梅田望夫の理想とし、多くのはてなーが賞揚すべき「オプティミズム」ってやつなんでねーの? 批判精神の重要さが指摘される中で誤解している人もたくさんいらっさるようだけど、細かい過ちや過去の過ちや、ましてや議論とは全く関係のないところで揚げ足とることしかできないんだったらそりゃ批判精神以前の問題じゃん。そんなじゃあ夏目漱石の小説に出てくる頸動脈斬って自殺しちゃった人に「おまえは馬鹿だ」言われたってしゃーない言う話やで。

なぁんてことを、ITpro のアホ記事についたはてブの米を読みあさり、げらげら笑いつつ星を飛ばしたあとになって気がついた。

眉毛がどうとか顔がどうとか、これだって立派ないじめじゃないの。ってね。しかもおいらも星とばしちゃったよ、その手のコメントに。

なのでこれは、自戒を込めたエントリーなのです。反省。orz

「ニコニコ現実」よりも「ニコニコテレビ」の方が現実的かな。2008年07月07日 23時52分27秒

ブログ界隈の文脈を追うのはしんどいのう。

まぁ、最後の記事がだいたい総括的に書かれているので、大抵の人は最後の記事だけ通して読めば出来事に対する理解としてはだいたい十分なんじゃないかと思うし、おいらの言及も基本的にはそこに絞りたいと思う。ただ、一連の話の流れの中で、ニコニコ大会議とやらで行われた試みとそれらに対する会場内での反応が、いじめの構図を表す物なんでないか、そしてそうした光景を、まるで新時代の幕開けであるかのように歓迎し、分からないけどきっと、笑われてしまった人達も、よしとしている気がする、などといういい加減すぎる感想が、一部の愛すべきナイーブな方々を刺激し、そうした感情に乗っかるような形で、避難と罵倒の嵐をブ米で矢の雨のように降り注がせる光景ってのは、まぁなんつーか、今時のセンシティブな痛い Web 社会の現実をさらけ出しちゃったようで、個人的にも最初はどちらかというと y_arim さめとかに同情的だったおいらもなんだか冷めちゃったかしらんみたいなそんな気分にならざるを得なかったのですよ。どっちがいじめてるんだかーみたいな。

「ニコニコ現実」はまだ早計では?

で、それはまぁそれとして、問題にされている「ニコニコ現実」のプロトタイプとやらなんですが、引用するとこんな感じだったらしいんですわ。

  • ニコ動ユーザ1万人向けに、リアルタイムで会場の様子が実況中継放送されていた。その中継映像には、通常のニコ動と同じく、コメントをつけることができた。
  • 上の中継放送+コメント付きの映像が、今度はそのままイベント会場に中継されていた。具体的にいうと、ステージ両脇に大画面があって、そこにほぼリアルタイムで(数秒遅れで)、コメント付きの映像が投影されていた。いわば「二重中継」というか「再帰的中継」の状態だった。
  • そして会場の観客は、ほぼリアルタイムで、いま目の前体験している会場の様子を、「ニコ動」のフィルタを通して数秒遅れで追-体験していた
    • ちなみに会場からはけっこうな頻度で、まさにニコ動的なツッコミや野次が飛んでおり、会場自体も「リアル・ニコ動状態」と化していた。いや、というか本来は「野次」のほうがもとから存在する現象であって、ニコ動がそれをネットサービス化した、というのが正しいんだけど、もはやその図式は完全に転倒していた。普通のイベントで、あれだけ野次が飛んでいたら、それは「異様」だと思うはずなのに、当日はけっこう「ライト」に受け入れられていたのは、それが普段から見ている「ニコ動」と同じようだ、と感じてしまっていたからに違いない。

まぁー要するにこの方は今回のこうした仕掛けを、ニコニコ大会議というイベントを盛り上げるための装置としての実験であると捉えていらっさるように見受けられたんだけれども、これって少なくとも現時点でのニコニコに対する推察としては正しいのかしら? とか思うのですよ。というのも、イベントにこの仕掛けを提供する、という話だけだと、どうしてもその機会というのは酷く限定的になってしまうし、商売としても成り立ちにくいんじゃないかと思う。少なくとも、そういう未来がくることを想定して今からリテラシーを重ねておきましょうみたいな話に持って行くのは、あまりにも早計なんじゃないかなぁ。

「ニコニコテレビ」ならあり得るかも

個人的には、今回の試みは、「ニコニコ現実」とやらのプロトタイプと見るよりは、むしろニコニコのコメントシステムとテレビ放送との融合を想定した実験であるように感じた。あえて名付けるなら「ニコニコテレビ」とでも言うべきだけど、個人的にはこの名称はあんまり好きになれないかな。まぁネーミングとかは非常にどーでもいーんだけど。

脳裏に浮かんだのはむしろこっちだ。イベントってのはたまにしか機会がないけれども、テレビ番組への採用という形であれば、この話はもっとぐっと現実的になるんじゃないかと思う。あのひろゆきさめのことだし、遠い夢を語るような人であるようには思えないんだよね。

ニコニコ動画では静的に保存された動画に対して、タイムラインにコメントを載せるという形をとっていた。この仕組みの特徴は、動画という時間の流れがある物に対して、その時間の流れにコメントを載せることで、動画を見ている間だけ感じられる仮想的なリアルタイム性を楽しめるっていう点、そして何より、コメントが割と長期間保存されるっていう点にあると思う。つまり、コンテンツ提供側のタイムスケジュールの都合に合わせて端末の前にいる必要はなく、いつでもそれを再生できるっていう点にあるってこと。

これがテレビ番組との連携という形になることでどう変わるかというと、そのテレビ番組が放送されているときに、端末の前にいなければいけないということになる。ということは、人気の番組を絶対に見逃せないということだ。しかも保存されているわけではないので (権利関係とかうまく調整できれば一定期間保存されたストリームを楽しめるようにはできるかも知れないけど)、瞬間瞬間を見逃しても、あとでそこをもう一度見直すということができない。そういうハンデがあると分かっていて、そんなサービスを何処まで盛り上げることができるのか? そこが課題になってくるんじゃないかと思う。

で、上記の GIGAZINE が紹介しているサービスの場合、その辺の課題に答えられている気があんまりしないんだな。むしろ、こざかしいアバターであるとかそういった流行物をちりばめることで、その辺の不安をテキトーに誤魔化しているような気さえする。

しかし今回のニコニコ大会議での「実験」が、運営的に成功裏に有意義なデータがとれた物であったとするならば、今回の出来事は割と重要な伏線になるんじゃないか、と、おいらの冴えない頭がちょっとだけ直感を働かせてくれた。

今回の舞台セットを用いた番組を作ってしまえ

よーするにこういうこと。今回のように、素人に参加させてコメントに弄らせる、という形態を毎回やるのはつらいだろうけど (萩本欽一がこんなにも嫌われるこのご時世ですし)、そうじゃなくて、ごくフツーのバラエティ番組的な物、あるいはすでに吉本から提供されているようなコント番組を、ニコニコ動画のフレームワーク上で生放送として放送する。で、その際、舞台セットとして、今回用いたような、スタジオ内にもコメントが表示されちゃうシステムを設置する。すると、ふざけたコメントを出演者が見つけて、そのコメントにわざと弄られてみたり、逆に突っ込みを入れてみたり、むしろコメントがつかないことに逆ギレして見せたりして、会場に足を運んだ観客の笑いをとる。みたいなことが可能になる。

お笑いだけではなくて、これがたとえば国会中継なんかだとどうなるだろう? ヤジは政治家だけの物ではなくなる。リアルタイムでコメントのバックラッシュが巻き起これば、それが民意であることを政治家たちは即座に知らしめされることとなるわけで、彼らの緊張感も非常に高まるのではないだろうか。

そういえば、ソフトバンクがホークスを買収するとき、オーナー審査 (だっけ?) で孫さんがいろいろとアイデアを披露していたわけだけれども、その中で、IT 技術を用いて、監督の采配に視聴者がいちゃもんをつけられる仕組みを作ったら面白いんじゃないか、みたいな話をしていたはずだけれど、あれってどうなったんだろう? そんなのも、今回のニコニコの仕組みを使えば、実現できちゃうはずだ。実況のモニターにも表示されて、解説が即座に受け答えできたりすると、それもまた面白いんじゃないかな。

そんな感じで、いきなり現実全般に適用しようというのではなくて、あくまでテレビ番組という枠内であれば、いくらでもおもしろおかしく応用可能なアイデアであると、おいらは思ったわけだ。

かつてテレビ番組においては、タレントが素人を弄ることで、番組を盛り上げようとする文化が横行していた。その時代に生きていた人々は、そうした文化を受け入れ、ともに楽しんでいた。しかし時は流れ、社会の同調圧力に疲れた人々は、次第にそうしたいじり文化を標榜するバラエティ番組の古い慣習に、憤りを覚えるようになってきた。もっとも、憤りを感じているのはまだまだ「一部の人々」なんだろうけれども。

しかしニコニコは、もしかしたらこの文化を、全く逆転した楽しみに変えてしまうかも知れない。今度は視聴者が、バラエティ番組を、はたまたその他の様々な番組を、いじり倒してやるターンなのだ。ならば存分に楽しんでやろうじゃあありませんか。

なーんつって煽ってみたりして。むふ♥


2008年 7月 10日 木曜日 08:18:10 JST - 追記

まあ過去の歴史的事件にあてはめて、というよりもむしろ一般名称としてのファッショ的事態といったほうがふさわしいだろうか。ニコニコがファッショと親和性があるというのは初音ミクの話をしたときに一度指摘したのだが、今回のニコニコ大会議はまさにそのような事態であろう。

ベンヤミンはファシズムの本質を「政治の耽美化」であるという。ニコニコ動画においてそれは「おもしろ化」である。まさに「ニコニコ」がスローガンなのである。あらゆるものをおもしろくすることこそが「ニコニコ的現実」に他ならない。たとえば、国会中継をニコニコ化すべきだという意見がある。なるほど、国会中継をみんな見るようになるかもしれない。しかしそれはおもしろ化された国会中継であって、政治が行われている場としての国会中継ではない。それは何をもたらすか?単純である。つまり、郵政選挙なんかよりもっと酷い事態だ。

なるほどねー。だとすると国会中継とかへの応用って案は難しいね。リアルタイムだとモデレーションする間もないしね。ちと軽率だったかもな。

XOOPS 使うのやめたっ2008年04月23日 21時02分36秒

とりあえずホダ塾入れてみたはいいものの、そこから先で右往左往。。。なに、CMS ってシステム突っ込んだらあとは全部ブラウザからできるものなんじゃないの? から始まり、メニューのカスタマイズに自由さを感じなかったり URI 規則 (あの必ず「module」って入る) が気に入らなかったり結局 PHP コード叩かなきゃいけなかったり基本がテーブルデザインだったりと知れば知るほど気に入らん事のオンパレード。そして如何にも Web デザイナー的なコミュニティー文化に毒されたテキストを読んでいるうちにおいらの XOOPS への期待はふにゃりふにゃりと萎えてゆき、代わりに別の欲求が腹の底から湧きあがってきてしまった。

そんなわけで、やっぱり XOOPS 使うのやめます。w

でも取り急ぎ企業サイトを作る必要はあるので (そうしないと会計報告ができなくなっちゃう…株式会社なのに)、とりあえず以下の方針で行こうかなと。

  1. とりあえず普通に HTML 書いて静的にホームページを作ります。そのために、サイト全体で共通する部分のテンプレートデザインをまず考えることにします。

  2. 企業の公式ブログを設置するかどうかは微妙ですが、設置する場合はおそらくサブドメインを設け、1. の HTML から普通にリンクして終了です (あるいはリンクしないかもしれない)。使うのはたぶん WordPress 辺りになると思います。

  3. 将来的にはやっぱり CMS が欲しいですが、そんな将来のために、 CMS は自作することにします。ちょうど、今仲間内のためにこっそり作っている掲示板システムの核の部分がそのまま流用できる可能性もあるので、うまくすれば年内にある程度出来上がってくるかもしれません。

とりあえずそんな感じで。晩飯食ってこよー。

とりあえずホダ塾入れてみた。2008年04月22日 13時39分52秒

XOOPS Cubeホダ塾ディストリビューション入れてみた。いろいろと勘違いとかもあって入れるだけでも随分と時間がかかったが。。。

ドメイン移転終わったらまた入れなおす予定なので、セットアップ手順をメモしておく。あ、一応、ファーストサーバのデルタ1・シリーズ対象ってことで。

  1. Apache を使える状態にしておく。 mod_php5 とかは既に入ってた。

    %su -
    %vi /etc/httpd.conf  # 必要に応じて。 AddDefaultCharSet noneoff とか
    %vi /etc/php.ini  # 必要に応じて。デフォルトで概ね大丈夫そうだけど
    %/etc/init.d/httpd start  # 既に起動中の場合は restart
    %ntsysv  # httpd にチェックを入れる。ソフトバンクIDC が停電しても自動起動するように
    %chown murachi:apache /var/www/html    # だっけかな? ディレクトリ名変えちゃったからもう忘れたw
    %chmod g+s /var/www/html
    %exit
    %cd /var/www/html
    %cat > test.php  # 動作確認後、すぐ消す
    <?php phpinfo() ?>^D
    
  2. MySQL を使える状態にしておく。これも最初っから入ってる。

    %su -
    %mysql_install_db --user=mysql
    %vi /etc/my.cnf  # default-character-set=utf8 にする (後述)
    %/etc/init.d/mysqld start
    %ntsysv  # mysqld にチェックを入れる
    

    /etc/my.cnf は大体こんな感じ。矢印付きが書き加えた行。

    [mysqld]
    datadir=/var/lib/mysql
    socket=/var/lib/mysql/mysql.sock
    # Default to using old password format for compatibility with mysql 3.x
    # clients (those using the mysqlclient10 compatibility package).
    old_passwords=1
    default-character-set=utf8  # ←
    
    [mysql.server]
    user=mysql
    basedir=/var/lib
    
    [mysqld_safe]
    log-error=/var/log/mysqld.log
    pid-file=/var/run/mysqld/mysqld.pid
    
    [client]  # ←
    default-character-set=utf8  # ←
    
    [mysqldump]  # ←
    default-character-set=utf8  # ←
    
  3. MySQL の root ユーザーを設定する。 set password がなぜか使えなかった。

    %mysql -u root mysql
    mysql> update user set password=password('password') while user='root';
    mysql> flush privileges;
    mysql> quit
    %mysql -u root  # これで入れちゃったら設定失敗
    
  4. MySQL にデータベースとユーザーを追加する。

    %mysql -u root -p mysql
    Enter password:
    mysql> create database xoopsdb;
    mysql> grant all on xoopsdb.* to xoopsuser identified by password 'password';
    mysql> update user set host='localhost' while user='xoopsuser';
    mysql> flush privileges;
    mysql> quit
    %mysql -u xoopsuser  # これで入れちゃったら設定失敗
    %mysql -u xoopsuser -p xoopsdb
    Enter password:
    
  5. ホダ塾Xoops を環境にコピーする。 chmod g+s をうまく使えばグループ apache で統一されるので、書き込み権限必要なファイルやディレクトリも chmod 777chmod 666 ではなく、 chmod g+w で足りるようになる。

    %cd
    %mkdir hodajuku
    %cd hodajuku
    %wget http://jaist.dl.sourceforge.net/sourceforge/hodajuku/hd_full_1_0_1b.tar.gz
    %tar -xzvf hd_full_1_0_1b.tar.gz
    %cp -R html/* /var/www/html/
    %su  # XOOPS_TRUST_PATH のコピー先ディレクトリを先に用意する。グループを apache で統一するため
    %mkdir /var/www/xoops_trust_path
    %chown murachi:apache /var/www/xoops_trust_path
    %chmod g+s /var/www/xoops_trust_path
    %exit
    %cp -R xoops_trust_path/* /var/www/xoops_trust_path
    %cd /var/www/html
    %chmod g+w cache uploads templates_c mainfile.php
    %cd ../xoops_trust_path
    %chmod g+w . cache uploads templates_c modules/protector/configs
    
  6. ブラウザからサイトにアクセスすると、インストールが始まる。指示に従って進める。言語は ja-utf8 (だっけ?) を選択。

  7. すべてが終わったら、不要なインストールの残骸の除去と、権限設定の修正を行う。

    %cd /var/www/htdocs/
    %rm -rf install
    %chmod g-w mainfile.php
    

Tue Apr 29 21:19:28 JST 2008 - 追記

以下の修正をしました。指摘 thanks >ぐるりさめ。

  • × AddDefaultCharset none
    • → ○ AddDefaultCharset off

ちなみに、実際の鯖の設定を確認してみたら、ちゃんと「off」になってた。何を見て間違えたんだろう>ヲレ。。。