新たな高等教育機関 #とは2015年06月06日 09時27分24秒

なるべく毎日更新するつもりだったのに一週間も穴を開けてもうた…。

こうしたなかで、安倍総理大臣は、生産性の向上には、企業の投資に加えて、政府を挙げて人材の育成に取り組む必要があるとして、高校の卒業生などを対象とした新たな高等教育機関の創設を目指す意向を固めました。

この高等教育機関では、産業界のニーズに即した職業教育を行い、IT技術や金融などに関する実践的な能力を持つ人材の育成を目指す方針で、来年6月をめどに制度設計を終え、速やかに必要な法案を国会に提出したい考えです。

はぁ。

はてブなんかでは「専門学校と何が違うの?」的なコメントが多いですね。実際問題として既存の専門学校との差別化が図れないようであれば創設の意義はないでしょうから、その辺をいかにアピールするかが政治的には重要になっていくのでしょうが。

既に専門学校というものが存在するにもかかわらず、こういう内容であくまで「新たな高等教育機関創設目指す」と書いているわけですから、そういう意味では、おいらとしてはむしろ、かつての株式会社立大学のようなものを連想したわけです。おいらがブコメで上記のように書いたのは、よーするにそういうことです。

2004年に小泉内閣時代に構造改革・規制緩和路線の中で「株式会社立大学」が構造改革特区に認可された。
その後についてご存じだろうか。
LECリーガルマインド大学は2004年に開学、全国14キャンパスを大々的に展開したが、まったく学生が集まらず、2009年に定員160名のところに18名しか志願者が来ないで募集停止となった。
2006年開学のLCA学院大学も志願者が集まらず2009年に募集停止した。
TAC学院大学は2006年に開学申請したが、記載不備で却下されて消えた。
実務に通じたビジネスマンたちが旧弊な大学を叩き潰すために登場したビジネスマインデッドな大学はどこもたちまちのうちに市場から叩き出されてしまった。
だが、「ビジネスマインドで大学経営をする人々が次々と出てくれば、要らない大学は淘汰されるだろう」という命題は「ビジネスマインドで経営をする人々の大学は要らない大学だったので次々淘汰された」という皮肉なかたちでしか証明されていないということは繰り返しアナウンスすべきだろう。
もし大臣が大学教育にかかわる教育行政にビジネスマンを関与させようと望んでいるのであれば、その前にまず「株式会社立大学はなぜ失敗したのか?」についての説明責任があると私は思う。

そうそうこれこれw (←不謹慎) 結局のところ、やろうとしてることって、こういうのの二番煎じにならざるを得ないと思うんですよね。何しろ、「新たな高等教育機関」を名乗るわけですから、既存の大学では人気を博しやすい、「理工学部」とか、「情報学部」とか、「経済学部」なんてものは絶対に名乗ることはできないわけですし、そもそも大学ですら無いので「学部」という用語自体使いにくいわけで。

そこで、「学部」についてはとりあえず「コース」という言い方に変えればいいとして、そのコース名としてどういう名前をつけるのかというと、例えば「プログラミングコース」だとか、「システムテスト技術者コース」だとか、「証券取引コース」だとかってやってしまうと、分かりやすくていいっちゃいいんですが、あんまりにも具体的すぎて生々しくなってしまうというか、それだったらもう職業訓練校でいいじゃんっていう話にもなっちゃうわけですよね。

だから、専門性の高いエリート人材を育てる場ではあるけど、やってる内容としてはそれなりに学術的で崇高なもんだよっていうのを匂わせないといけない。となるとどんな名前になるか。例えば…、「ITディベロップメントアーキテクトコース」、「ヒューマンITコンサルティングコース」、「ビッグデータソムリエコース」、「国際ITコンコルドコース」、金融系だと…、「トレーディングビジネスコース」、「ファイナンシャルマーケティングコース」、「保険ビジネスデザインコース」、「デイトレーディングプライヤーコース」などといったところでしょうか。こういう感じの、意味が分かるような分からんような微妙なところを狙っていかざるを得なくなるんだと思うんです。最近は大学でもこういう感じの学部が少なくないですけど。

そもそも今回の話は経団連の総会で出た話ということで、生産性の向上のために、産業界のニーズに即した職業教育を目指していこうということだそうですね。はてブでも「経団連の言いなりだ」的なコメントはいくつか見られましたが、そうした文脈の話である以上、産業界の (と、いうよりは財界の?) 意向についても確認しておくべきだと思います。

こちらは実際に公言されている建前…。

「大学はこんなに要らない。大学生といえぬほどの低学力のものたちを4年間遊ばせておくのは資源の無駄だ」というようなことをビジネスマンはよく口にする。
これから彼らからすればごく当然の要請である。
この6月に、首相召集の国家戦略会議で、財界人代表のある委員が「大学が増えすぎて学生の質が下がった。専門知識はおろか一般教養も外国語も身についていない。大学への予算配分にメリハリをつけ、競争によって質を上げよ。校数が減って、大学進学率が下がってもいい」と主張した。

そこには以下の様な目論見がある、というのが内田センセーの見解でした。

中等教育の内容を理解していないものは大学に入学させないという縛りをかければ、おそらく現在の大学生の3分の2は高卒で教育機会を終えるだろう。
そうすれば毎年数十万の低学力・低学歴の若年労働者が労働市場に供給されることになる。
財界人たちはこれを待ち望んでいるのである。
この最下層労働者群は信じられないほどの時給で雇用できる可能性がある。

今回の「新たな高等教育機関」が産業界に評価されれば、企業は大卒者よりもこちらの教育機関を出たものを厚遇するようになり、学生も大学よりこちらを目指すようになる。そうなれば「不要な大学」の自然淘汰、統廃合は進む——、彼らの青写真にそういうことも含まれているのであれば、なおさら専門学校や、かつて野望も虚しく散っていった株式会社立大学のようなものとの、明確な差別化が必要になってくるのだろうと思われるわけですが、さてどうなるでしょう、教育改革に名を刻みたい安部首相のお手並みや如何に。

そうそう、

こんな見方もあるわけですが、時間的拘束のゆるさに加え、それなりに成熟した責任ある大人として比較的自由な生活が許される大学生が、そのぬるま湯に漬かってきたが故に乱れた生活習慣を引きずり、更にはゆとり世代以降に見られる体育会系離れに伴い上下関係意識が薄れるなど、旧弊的価値観の企業からしてみれば労働者としては使いにくい、という見解 (というか偏見?) も根強いんじゃないかと思います。

「新たな高等教育機関」はこれへの反動として、おそらくは厳しい戒律とびっしりギリギリのカリキュラムにより学生をビシバシ鍛えあげる、軍人養成学校のような存在にもなりうるんじゃないかとも思います。一部の企業が研修で採用するような、体力を消耗する系の声出しをひたすらやらされる時間なんかも設けられたりするんじゃないですかね。結果として一部企業にとっては都合の良い兵隊がたくさん生まれるのかもしれませんが、そういう学校に魅力を感じる学生ってどれだけいらっさるんでしょうね…?

日本の経営者が人材不足を嘆いてる件2015年05月28日 15時39分15秒

おいらのブ米。

微レ存どころじゃないですね…(^^;

Twitter ではここからさらに @shimashima35 の人とこんなやり取りを交わしていたのですが…

これはもう本当にそのとおりで、大きい会社が人事管理を補助するためのセクションとして人事部を持つのは理解できるけど、採用も含めて人事全体を人事部が主導して全部取り仕切る、なんてのが日本では慣習化していて、部署ごとの都合なり技術的な専門性なりを理解できてないような人が求人広告書いたり面談やったり全社的な都合を押し通すような異動を決めたりなんてやってたらそりゃあミスマッチで溢れますって、って話なわけで。

ブ米での反応としては、日本の経営者を責めるような発言もまあまあ見られましたね。 id:fromdusktildown の人の米が実に示唆的。

世界で最も人材不足が深刻な国は日本(調査結果)

経営がうまくいかない時に「労働者のせいだ」と考える経営者は「人材不足」と答え、「経営が悪いせいだ」と考える経営者は「人材は足りている。間違っているのは経営のやり方だ」と答える。日本は前者が多い国。

2015/05/27 12:36

ところで、ブ米では「育てないから人材が不足するんだ」といった発言もちらほらと見かけたのですが、これについては少々疑問です。日本では新卒採用が慣習化しているので、タイミングさえ外さなければ、未経験者に対する雇用の間口は開かれている方だとも言えます。職種にもよるのかもしれませんが、そうした企業は職業経験を最初に構築し始める場としても機能していて、そこである程度の年数を在籍することによって、以降の転職活動等における経歴評価の土台を形成した人たちが、ひとつの場所にしがみつかなくともなんとかうまいこと生きながらえているというケースもままあるのではないでしょうか。

多くの会社が採用の際にその人の能力を職歴 (と面談してみた際の第一印象) ぐらいでしか評価できてないっぽいことについてはそれはそれで問題だとは思うのですが…。

日本の企業が他国に比べてどの程度の人材育成に金や時間を費やしているのかについてはあまり承知していないのですが、その点について単純比較した場合においてはそこまで何もやってないということもないんじゃないかと思うんですよ。むしろ頑張っている方なのかも。(OJT を育成に含めて良いのか否かについてはなんとも…)

ただ、技術継承の閉鎖性というか、ローカルノウハウばかりが大事にされてしまっているが故に、ある企業では通用していた人員が、同業他社に転職した時に全く通用しない、あるいはある人に任せていた仕事が、その人がいなくなった途端に全く回らなくなってしまった、みたいなことが頻発しているんじゃないかな、ということの方が、おいらとしては気になっています。ガラパゴスという言葉でよく物事が揶揄されていた時期がありましたが、これ、本当は日本という国単位でのスコープに当てはめるべきなのではなくて、日本に存在する 1つ 1つの企業単位でのスコープに当てはめるべき話なんだと思うんですよね。

日本でも雇用の流動性を上げるべきだ、という声は、特においらがやっているような業界界隈ではよく耳にするんですが、この辺の問題をよく認識しないまま、雇用の流動性だけ上げても、大抵の企業は業務の効率性を上げられないばかりか、むしろ落としてしまう一方だと思うし、それをある程度のところ以下には落ちないように、個々の作業の単純化を推し進めていった結果が、今の派遣期間工などに見られるような、よそでも通用するようなスキルが全く身につかないまま使い捨てられる非正規雇用の現実として、既に現れちゃってるんじゃないかな、っていう気もします。

エイプリルフールは自粛を=被災者に配慮必要-石原都知事2011年04月01日 00時00分00秒

東京都の石原珍太郎知事は31日の記者会見で、東日本大震災に関連し、「4月馬鹿からといって、嘘をついて笑っているような状況じゃない」と述べ、被災者に配慮して今春のエイプリルフールは自粛すべきだとの考えを示した。

石原知事は「今ごろ、ジョークじゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」と指摘。さらに「(太平洋)戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」とも語った。

都は既に、エイプリルフールの名所となっている一部のアルファブロガーやニュースサイト等について、節電などのため今年のエイプリルフールネタ記事自粛を呼び掛けている。
















…ていうか、いまこの記事を書いている 3/31 22:47 現在、インプレスうおっちさんの 2011年エイプリルフール企画が本当に自粛 (2012年に延期) しようとしてるっぽいんですが (魚拓)、まぢっすか…… (悲

農作物の顔写真を信用してはいけないw2008年12月17日 12時24分40秒

まぁーいずれはこういう事件も起こるだろうなとは思ってたけどね。むしろイマサラ?

つか、タケノコなんて春にしか生えてこないものなんだから、春に生で泥ついてる奴を買いなさいって話。自分で掘りに行けるならなお良し。タケノコなんて輸入率 9割超えるんだから (参照)、オフシーズンに国産の奴が水煮で出回ってるなんてまず考えない方がいいって。

ま、本質的には産地の問題じゃないはずなんだけどね。

毎日 Wikipedia 誤報の問題点2008年11月20日 11時44分16秒

毎日新聞が元更生事務次官らの連続殺傷事件に絡み、Wikipedia ユーザーのログイン名を晒して犯行予告者扱いした誤報について、Web上では既に毎日新聞の問題点がいくつか指摘されている。

id:KoshianX さめの主張も藤代さめの主張もごもっともなんだけれども、個人的にこれは問題なんじゃないかと思う点について軽く列挙してみようと思う。

  1. 容疑者にもなっていない人を犯罪者扱いする報道は許されるべきか?

    id:KoshianX さめの主張とも若干かぶるんだけれども、個人を特定する情報を晒してしまうということ以前に、ジャーナリズムが犯人探しに加担するのは職責から外れるのではないか、とかちょっと思った。ただ、ジャーナリズムは事実・真実の探求を代行するお仕事である以上、それに準ずるような行動も時として必要なのかもしれない。例えばけーさつが重要な事実を隠しているようなケースであれば、それを暴き、衆目に晒すようなジャーナリズムは賞揚されるべきだ。

    いずれにせよ、慎重に精査する必要はあると思う。今回の件では、結果として、この精査が足りなかった。もちろん、当該誤報が掲載された朝刊を引用して報じてしまったテレビ番組も然りで、新聞を信用しきって鵜呑みにするのではなく、各番組の責任において十分な裏取りを行うべきだ。

  2. 表層だけ見て記事にするのではなく、もっと深いところまで調べるべきだ。

    失敗は誰にでもある。新聞記者だって間違える時は間違えるんである。そこは、読み手が理解した上で、情報との距離の取り方を学んで行くべきだと思う。

    一方、失敗は学習の宝庫でもある。失敗した人間は考え、学び、その教訓を次に生かすべきだ。我々はそうした営みを「反省」と呼ぶ。

    では、今回の失敗を犯してしまった記者は、何をどう、反省すべきか? ここで、Wikipedia が時刻を UTC で表示する事にばかり着目し、「ネットや IT を知らないからいけないんだ。もっとこれらを学ぼう」とか言ってそれっぽい How To 本を買いに走るのは、まったくの無駄だとは言わないが、ジャーナリストとしてはイマイチだと思う。たとえ、日本の Wikipedia の時刻表示がグリニッジ天文台基準であった事を知らなかったとしても、今回疑われた Wikipedia 編集人の Popons さんについて、より深く追求して調べていれば、犯す可能性の低い間違いだったのではないか。例えば、Popons さんの過去の投稿記録を追って調べれば、彼がどれだけ Wikipedia に貢献してきた人か、あるいは彼がどういったことに興味・感心を持っているか、といったこと、すなわち人物像が浮かび上がってくる。そして、そのような人が、愛しているはずの Wikipedia という場を、犯行予告などという行為で汚すという行動の不自然さを思えば、これをネタとして出稿することにもう少し慎重になれたはずだ。

  3. 署名がないので文責が不在。

    責任という観点においては藤代さめの主張とも被るが、誤報の記事にもお詫びの記事にも署名がなく、毎日新聞社のどの記者に文責があるのかが不明である。これは今回の件に限らず他の多くの記事においても、あるいは他の新聞社においても同様であるが、記事の責任を会社が担保するというやり方が、個々の記者の責任感を薄めてしまっている可能性はもう少し考慮されるべきと思う。特に、ガバナンスがなく個々の社員が自由奔放であることが売りの毎日新聞社であればこそ、個別の記者の顔が読者にもっとよく見えてもいいはずだ。せっかく、人気の名物記者が生まれる素地が社内文化として確立しているのに、それを積極的に売り込まないのはもったいないとさえ思う。

  4. スタンドプレーが過ぎる可能性; 社内コミュニケーションは大丈夫か?

    で、スタンドプレーと言えば聞こえはいいが、要するに個々の社員が孤立していて、記者同士でのコミュニケーションが希薄だったりするような空気が蔓延しているんじゃないか、とも危惧した。まぁ、他にも何人かが当該記事に目を通していて、誰もがこりゃあ凄い、よく見つけたねと褒めまくっていた可能性も十分にあるので何とも言えないんだが、例えば取材チームみたいなのを組んでいて、チーム内でネタのレビューをすることによって、ネタのプロットに対する疑問点が洗い出され、ニュースとしての精度が上がっていく、といったような段取りは無いのか? 上司であるところのデスクの承認、だけでは、やっぱり情報の精度を維持するのにも限界があると思う。情報にスピードが求められるならばこれはなおさらで、短時間で精度を上げるなら、やっぱりある程度の人数をかけるしかないんじゃないかと思う。

とりあえずこんなところで…。

「あいさつ奨励」は、諸手を挙げて賞賛されるべき政策と言えるのか?2008年11月01日 00時33分26秒

本日最も、ゲンナリさせられたニュース。

ブクマ米では、好意的な反応が多かった。おいら的には、そうした多くの反応も併せて、なんだかえも言えない気持ち悪さを感じてしまった。

社会人になって 2年目の冬、同じ寮に住んでいた会社の同僚に、セミナー系のマルチをおすすめされた、なんてことがあった。新宿に夜9時に飲みに行きましょうとか、その時点でなんだか怪しいとは思ってたんだけどね。

で、本拠地にも乗り込んだ訳なんだけれども、そこでの彼らがまたものすごく体育会系なノリで、あう人あう人、大きく声を張り上げて威勢よく「おはようございます!」って挨拶していた。

当該記事を読んで真っ先に思い出してしまったのが、それだった。

ただ、共に仕事をこなす仲間同士の連携を深める、という意味でも、挨拶を習慣化すると言うことは、決して悪いアイデアではないと思う。だから、連携を深め合えることが当然の状況下であるならば、挨拶を重視し、その抵抗を減らすための取り組みを行う、というのは、社内政策としては悪くないのかも知れない。

その一方で、挨拶というか、業務に関すること以外のコミュニケーションにおいて、気さくさを演出する、といったことが苦手な人、というのは、少なからずいらっさると思う。幸運にも、おいらは必ずしもそんなことはないんだけれども、一方で、疲労が溜まっているようなときなど、挨拶が億劫になるような心理状況も、確実にあったりはする。

そういう人や時においても、「挨拶ぐらいできて当然」という空気が蔓延する中で、半ばそれを強要されているような抑圧を感じてしまう可能性、という部分への配慮というのは、あっても良いんじゃないか、とは思う。それでも挨拶を奨励するなら、逆に、…挨拶した。でも返事がなかった。というときに、いつもは返事するんだけどな。まぁ、疲れてるんだろうな。ぐらいに思える程度の、心の余裕があっても良いんじゃないかな。とは思うのだよ。それを思えないんだとしたら、それってどっちもどっちなんじゃないかなぁ。っていう。

それでも、その職場にいる人たちが、全員が社員で、立場としては対等で (まぁ、役職の上下はあるにしてもだ)、そういう仲で連携を深めよう、という意味での挨拶奨励ならば、それならまぁ納得も行くんだ。でもさ、例えば経費節減のために、人件費を浮かせる目的で派遣などの非正規雇用を多く雇っているような職場だったとして、そういう職場の社員が、非正規雇用の人たちもひっくるめて、挨拶奨励を推し進めよう、というのであれば、それはちょっと違うんじゃないの? とは思うんだ。

いや、もちろん、非正規雇用だったら、低賃金だったら、挨拶しなくても良いじゃないか、なんてことを言いたい訳じゃないんだ。ただ、金銭面で差別化が図られ、場合によっては業務においても社員があまりやりたがらないような雑務とかを押しつけていたりするような状況があるんだとすれば、そういう憂き目に遭わされている労働者が、あんまり積極的に社員の人と仲良くなりたくはないな、と思ってしまうんだとしたら、それは仕方のないことなんじゃないかな、とか思うんだ。これはおいらも一時期派遣をやっていたから分かる、なんてことは全然無くて、実はまるっきり想像で書いているわけだけれどもね。なにしろおいらが派遣として働いていた会社では、派遣はどちらかと言えば入社見習い的なポジションで、割と積極的に社員として雇い入れていたし、仕事面でも差別的なところは全くといって良いほど無かったからね。逆に社員と同等かそれ以上の寝泊まり進行で、むしろしんどくはあったけどw。そんな感じで普段の待遇からして公平性が保たれているのであれば、そういう政策もある程度は納得は行くんだけど、そうでないと、なんだか押しつけがましさばかりが印象として強くなってしまうし、そんなところばっかり同調を求められても、生きづらさを感じてしまうばかりなんじゃないかなぁ、とか思ってしまうわけなんよ。

挨拶ってのは形式的なもので、これに心理的な効果を期待されているのだとしたら、それってつまりは「感情的コミュニケーション」としての期待なのだと思う (「感情的コミュニケーション」って言葉については、まぁ、各自ぐぐって調べてみてちょ)。だとすると、これは実はコミュニケーション強者に有利なルールで、非コミュやそれに近い人たちにしてみれば、こんな些細なルールでさえも、結構心細さを感じてしまうものだと思うんだ。逆に、挨拶をすることから少しずつ、感情的コミュニケーションに馴らし、練習していこう、という意図なら、そういう仕事 (もっぱら営業とか) に関して言えばなるほど確かにその通りだなとは思うんだけど、そうでもなければ、彼らにあんまり生きづらさを実感させるような政策は、ほどほどにしておいた方が良いんじゃないかなぁ、なんて、ちょっとどころじゃなく心配になった次第なのです。

「ニコニコ現実」よりも「ニコニコテレビ」の方が現実的かな。2008年07月07日 23時52分27秒

ブログ界隈の文脈を追うのはしんどいのう。

まぁ、最後の記事がだいたい総括的に書かれているので、大抵の人は最後の記事だけ通して読めば出来事に対する理解としてはだいたい十分なんじゃないかと思うし、おいらの言及も基本的にはそこに絞りたいと思う。ただ、一連の話の流れの中で、ニコニコ大会議とやらで行われた試みとそれらに対する会場内での反応が、いじめの構図を表す物なんでないか、そしてそうした光景を、まるで新時代の幕開けであるかのように歓迎し、分からないけどきっと、笑われてしまった人達も、よしとしている気がする、などといういい加減すぎる感想が、一部の愛すべきナイーブな方々を刺激し、そうした感情に乗っかるような形で、避難と罵倒の嵐をブ米で矢の雨のように降り注がせる光景ってのは、まぁなんつーか、今時のセンシティブな痛い Web 社会の現実をさらけ出しちゃったようで、個人的にも最初はどちらかというと y_arim さめとかに同情的だったおいらもなんだか冷めちゃったかしらんみたいなそんな気分にならざるを得なかったのですよ。どっちがいじめてるんだかーみたいな。

「ニコニコ現実」はまだ早計では?

で、それはまぁそれとして、問題にされている「ニコニコ現実」のプロトタイプとやらなんですが、引用するとこんな感じだったらしいんですわ。

  • ニコ動ユーザ1万人向けに、リアルタイムで会場の様子が実況中継放送されていた。その中継映像には、通常のニコ動と同じく、コメントをつけることができた。
  • 上の中継放送+コメント付きの映像が、今度はそのままイベント会場に中継されていた。具体的にいうと、ステージ両脇に大画面があって、そこにほぼリアルタイムで(数秒遅れで)、コメント付きの映像が投影されていた。いわば「二重中継」というか「再帰的中継」の状態だった。
  • そして会場の観客は、ほぼリアルタイムで、いま目の前体験している会場の様子を、「ニコ動」のフィルタを通して数秒遅れで追-体験していた
    • ちなみに会場からはけっこうな頻度で、まさにニコ動的なツッコミや野次が飛んでおり、会場自体も「リアル・ニコ動状態」と化していた。いや、というか本来は「野次」のほうがもとから存在する現象であって、ニコ動がそれをネットサービス化した、というのが正しいんだけど、もはやその図式は完全に転倒していた。普通のイベントで、あれだけ野次が飛んでいたら、それは「異様」だと思うはずなのに、当日はけっこう「ライト」に受け入れられていたのは、それが普段から見ている「ニコ動」と同じようだ、と感じてしまっていたからに違いない。

まぁー要するにこの方は今回のこうした仕掛けを、ニコニコ大会議というイベントを盛り上げるための装置としての実験であると捉えていらっさるように見受けられたんだけれども、これって少なくとも現時点でのニコニコに対する推察としては正しいのかしら? とか思うのですよ。というのも、イベントにこの仕掛けを提供する、という話だけだと、どうしてもその機会というのは酷く限定的になってしまうし、商売としても成り立ちにくいんじゃないかと思う。少なくとも、そういう未来がくることを想定して今からリテラシーを重ねておきましょうみたいな話に持って行くのは、あまりにも早計なんじゃないかなぁ。

「ニコニコテレビ」ならあり得るかも

個人的には、今回の試みは、「ニコニコ現実」とやらのプロトタイプと見るよりは、むしろニコニコのコメントシステムとテレビ放送との融合を想定した実験であるように感じた。あえて名付けるなら「ニコニコテレビ」とでも言うべきだけど、個人的にはこの名称はあんまり好きになれないかな。まぁネーミングとかは非常にどーでもいーんだけど。

脳裏に浮かんだのはむしろこっちだ。イベントってのはたまにしか機会がないけれども、テレビ番組への採用という形であれば、この話はもっとぐっと現実的になるんじゃないかと思う。あのひろゆきさめのことだし、遠い夢を語るような人であるようには思えないんだよね。

ニコニコ動画では静的に保存された動画に対して、タイムラインにコメントを載せるという形をとっていた。この仕組みの特徴は、動画という時間の流れがある物に対して、その時間の流れにコメントを載せることで、動画を見ている間だけ感じられる仮想的なリアルタイム性を楽しめるっていう点、そして何より、コメントが割と長期間保存されるっていう点にあると思う。つまり、コンテンツ提供側のタイムスケジュールの都合に合わせて端末の前にいる必要はなく、いつでもそれを再生できるっていう点にあるってこと。

これがテレビ番組との連携という形になることでどう変わるかというと、そのテレビ番組が放送されているときに、端末の前にいなければいけないということになる。ということは、人気の番組を絶対に見逃せないということだ。しかも保存されているわけではないので (権利関係とかうまく調整できれば一定期間保存されたストリームを楽しめるようにはできるかも知れないけど)、瞬間瞬間を見逃しても、あとでそこをもう一度見直すということができない。そういうハンデがあると分かっていて、そんなサービスを何処まで盛り上げることができるのか? そこが課題になってくるんじゃないかと思う。

で、上記の GIGAZINE が紹介しているサービスの場合、その辺の課題に答えられている気があんまりしないんだな。むしろ、こざかしいアバターであるとかそういった流行物をちりばめることで、その辺の不安をテキトーに誤魔化しているような気さえする。

しかし今回のニコニコ大会議での「実験」が、運営的に成功裏に有意義なデータがとれた物であったとするならば、今回の出来事は割と重要な伏線になるんじゃないか、と、おいらの冴えない頭がちょっとだけ直感を働かせてくれた。

今回の舞台セットを用いた番組を作ってしまえ

よーするにこういうこと。今回のように、素人に参加させてコメントに弄らせる、という形態を毎回やるのはつらいだろうけど (萩本欽一がこんなにも嫌われるこのご時世ですし)、そうじゃなくて、ごくフツーのバラエティ番組的な物、あるいはすでに吉本から提供されているようなコント番組を、ニコニコ動画のフレームワーク上で生放送として放送する。で、その際、舞台セットとして、今回用いたような、スタジオ内にもコメントが表示されちゃうシステムを設置する。すると、ふざけたコメントを出演者が見つけて、そのコメントにわざと弄られてみたり、逆に突っ込みを入れてみたり、むしろコメントがつかないことに逆ギレして見せたりして、会場に足を運んだ観客の笑いをとる。みたいなことが可能になる。

お笑いだけではなくて、これがたとえば国会中継なんかだとどうなるだろう? ヤジは政治家だけの物ではなくなる。リアルタイムでコメントのバックラッシュが巻き起これば、それが民意であることを政治家たちは即座に知らしめされることとなるわけで、彼らの緊張感も非常に高まるのではないだろうか。

そういえば、ソフトバンクがホークスを買収するとき、オーナー審査 (だっけ?) で孫さんがいろいろとアイデアを披露していたわけだけれども、その中で、IT 技術を用いて、監督の采配に視聴者がいちゃもんをつけられる仕組みを作ったら面白いんじゃないか、みたいな話をしていたはずだけれど、あれってどうなったんだろう? そんなのも、今回のニコニコの仕組みを使えば、実現できちゃうはずだ。実況のモニターにも表示されて、解説が即座に受け答えできたりすると、それもまた面白いんじゃないかな。

そんな感じで、いきなり現実全般に適用しようというのではなくて、あくまでテレビ番組という枠内であれば、いくらでもおもしろおかしく応用可能なアイデアであると、おいらは思ったわけだ。

かつてテレビ番組においては、タレントが素人を弄ることで、番組を盛り上げようとする文化が横行していた。その時代に生きていた人々は、そうした文化を受け入れ、ともに楽しんでいた。しかし時は流れ、社会の同調圧力に疲れた人々は、次第にそうしたいじり文化を標榜するバラエティ番組の古い慣習に、憤りを覚えるようになってきた。もっとも、憤りを感じているのはまだまだ「一部の人々」なんだろうけれども。

しかしニコニコは、もしかしたらこの文化を、全く逆転した楽しみに変えてしまうかも知れない。今度は視聴者が、バラエティ番組を、はたまたその他の様々な番組を、いじり倒してやるターンなのだ。ならば存分に楽しんでやろうじゃあありませんか。

なーんつって煽ってみたりして。むふ♥


2008年 7月 10日 木曜日 08:18:10 JST - 追記

まあ過去の歴史的事件にあてはめて、というよりもむしろ一般名称としてのファッショ的事態といったほうがふさわしいだろうか。ニコニコがファッショと親和性があるというのは初音ミクの話をしたときに一度指摘したのだが、今回のニコニコ大会議はまさにそのような事態であろう。

ベンヤミンはファシズムの本質を「政治の耽美化」であるという。ニコニコ動画においてそれは「おもしろ化」である。まさに「ニコニコ」がスローガンなのである。あらゆるものをおもしろくすることこそが「ニコニコ的現実」に他ならない。たとえば、国会中継をニコニコ化すべきだという意見がある。なるほど、国会中継をみんな見るようになるかもしれない。しかしそれはおもしろ化された国会中継であって、政治が行われている場としての国会中継ではない。それは何をもたらすか?単純である。つまり、郵政選挙なんかよりもっと酷い事態だ。

なるほどねー。だとすると国会中継とかへの応用って案は難しいね。リアルタイムだとモデレーションする間もないしね。ちと軽率だったかもな。

カジュアルにタイーホされる時代2008年07月03日 08時05分32秒

はい、宿題です。w

[あとで読む][2ちゃんねる][犯罪][けーさつ][宿題]誤字・当て字はたぶん重要ではなくて文脈が重要なんだと思う。何はともあれ、呼び掛ければ簡単にガンジーになれそうな気がしてきたwwww / TODO: subject="カジュアルにタイーホされる時代" で何か書く。CommentsAdd Starwelldefined23masayakato

けーさつ大不評なわけですがw、けーさつの言い分としては、重要なのは誤字・当て字ではなくて、書かれた文章全体の内容、文脈だと言うことなのでしょう。いつ、何処でするのかということと、「秋葉原のあの件を再現します」という文言からは、その文意は容易に汲み取れます。まぁー「事件」じゃなくて「件」なんですけどね。

けーさつが独自に発見したわけではなく、書き込みを見たさいたま市の2人の通報でわかったというのもポイントである気がします。通報された以上は動かざるを得ないだろうみたいな。

アキバでのあの事件以降、この手のいたずらや模倣犯的な犯行予告の表明というのは相次いでいるわけですが、

書き込み内容については、「今から大量の子供を殺す」というような、かなり漠然とした書き込みでも検挙されていることがわかる。

とあるように、けーさつ全体的に非常にナイーブにと言うか、敏感になっているというのがよく分かります。けーさつの仕事は逮捕することだけじゃなくて、被害を未然に防ぐために警備活動を行うと言うことも含まれるわけで、これにまともにつきあっていたらけーさつも結構疲弊してしまうんじゃないかとか思わなくもないわけですが。。。

ていうか、なにげにおいらが書こうと思っていたことが、すでにひろゆきさめのブログで書かれちゃってました。6/30 の段階で。

犯行予告やって捕まってる人のほとんどが無職かバイトか学生、ってのがポイントで、ひろゆきさめ曰く「無敵の人」というのは言い得て妙な気がします。なので政治家が目指すべきゴールは明白です。「無敵の人」を減らす。すなわち、こんな下らないことのために逮捕されちゃうのは損だと思えるぐらいの地位を、彼らに満遍なく持たせるようにすれば良いんです。であれば力を入れるべきが雇用と教育であることもまた明白なはずです。

でも実際には教育予算は削減が迫られ、独立行政法人 (国立大学とか) は潰しにかかられ、非正規雇用は増える一方。。。

こんなご時世で、ちょっとテンプレなんか用意しちゃって、2ちゃんねるとかで扇情的に呼びかけたりでもすれば、割と誰でも簡単に、ガンジーみたいになれちゃうのかもしれないなぁーとか、そんなことを思っちゃったりした訳なのでしたとさ。めでたしめでたし。

個人属性情報の利用範囲は明記していますか?2007年04月17日 00時23分42秒

 テストでは、国語と算数(数学)の試験のほか、テレビの視聴時間や家庭にパソコンがあるかどうか、といった調査も実施される。採点集計は民間企業が行い、国がデータを収集、保有する。

申請では、「特定の個人を識別できる情報が膨大に収集され、民間企業に流されることになる」と指摘し、違法な個人情報の取得にあたるとしている。

京都市は「個人情報の保護には万全を期している」、京田辺市は「コメントできない」としている。

文部科学省初等中等教育局の話「学力や学習状況を把握し、改善を図るのが調査の目的。個人情報保護は、委託先にも厳重な保管、管理をお願いしている」

「厳重な保管、管理をお願いしている」から、学力テストを利用してプライバシーに係わる情報を収集しても良いのか? 彼らは仮処分申請の法的根拠が「個人情報保護法」であることの意味を理解しているのかな?

ポイントは、学力テストの記名欄等において、あるいは学力テスト実施前の説明通達時において、収集する個人属性情報の取り扱いの範囲を明記しているかどうか。そこでは、最低限、以下のことを約束している必要があるのではないか?

  • 学力テストの解答用紙等に記入した、氏名等の個人属性情報は、採点結果の通達のためにのみ利用する。
  • 生活習慣に関する調査においては、氏名等の個人属性情報とは切り離した用紙のみを用いて集計する。したがって、これらの調査結果が、個人属性情報と結び付けられて集計されることはない。

これを約束しない状態であるならば、児童および生徒は個人情報保護法を理由に学力テストの実施を放棄する権利がある。あるいはその権利は保護者にも及ぶかもしれない。

ちなみに、上記を約束した状態でも、採点結果とアンケートの調査結果を関連付けることは可能である。テスト用紙とアンケート用紙を小冊子にまとめ、用紙自体は個別に切り離しできるようにする。そしてアンケート用紙には記名欄等は用意せず、その代わり採点結果の点数を記入する欄を設ける。

採点者は採点後、点数をアンケート用紙に書き込み、そのアンケート用紙のみを切り離して、アンケート集計者に渡す。アンケート集計者は、アンケート用紙に書かれた情報のみを用いて集計を行う、という寸法。これなら生活習慣に関する情報と個人属性情報が関連付けられた状態で収集されることはなくなるはずだ。

京都地裁の対応が注目されるところだが、果たして──。


Tue Apr 17 00:52:17 JST 2007 - 追記

朝日新聞の記事には肝心な部分がちゃんと書いてあるね。

両市の計画によると、調査用紙に氏名の記入は求めないが、学校名や組、出席番号、性別などを書かせ、採点は民間業者に委託するとしている。

申立書によると、無記名でも組や出席番号から個人が特定される可能性がある、と指摘。学習環境を尋ねる調査もあり、調査内容は明らかな個人情報に該当するとしている。そのうえで、こうした情報を民間業者に渡すことはプライバシー権の侵害や個人情報保護法に違反するなどとしている。

完っ全に NG です。。。つか、ここが一番大事な部分なんだからちゃんと書けよ>読売記者

※引用部分の太字はすべて T.MURACHI による。

Tue Apr 17 12:09:54 JST 2007 - さらに追記

なるほど。

「プライバシー権」とは、「見せたい自分を見せ、見せたくない自分は見せない権利」なのだそうです。個人情報保護法が、収集された個人属性情報の乱用を防ぐための法律であることと絡んでいるため、話がややこしくなっていますが、今回の訴訟の骨子のみを見るならば、その構図は以下のとおりとなります。

  • 原告にとっての見せたくない自分:

    テレビの視聴時間や家庭にパソコンがあるかどうか (読売)、学習環境 (朝日)、家にある本の冊数 (毎日) など。

  • 原告にとっての見せても良い自分:

    上記のプライバシーが侵害されている件について、裁判所に仮処分申請を行うこと。

そもそも現時点では訴えを起こしている原告の氏名等が公表されているわけではない (最小行政単位である市の名前が出ているのみ) ので、この訴えを起こしたことによって氏名が晒される可能性についてここで議論しても仕方がないことのような気もするのですが。。。つか、どんなことであれ、裁判所を利用して訴えを起こす権利はどの人にもあるわけで、彼らの個人を突き止めてその行為について貶めるような言論を繰り出そうとする人間が多くいるのであれば、そいつらの民意は著しく低いと言わざるを得ないというか、そういう風潮がこの国においては多数派であるとするなら、それってちっとも民主主義国家じゃないよなぁというか。。。

ただ、連名で原告の氏名が保護者ではなく児童生徒自身のものであるという点については、すでに弁護士までつけている状態で進めている話であり、個人的にはこの弁護士の提案もあってのことだったんではないかと思う。家庭環境に関するプライバシーであれば、それは子ども自身に限ったものではなく、そういう環境を提供し、維持する保護者のプライバシーでもあるわけで、おいらとしては保護者が訴えを起こすという構図でも問題はなさそうに見えるけど、それを敢えて子供の名前で訴えを起こすというからには、直接の当事者が訴えを起こさねばならないような法的な欠陥が、個人情報保護法には存在すると考えるのが妥当なんじゃないか、という気がする。その辺、法に詳しい人の見解も伺いたいところだけど、どうなんだろう?

いずれにせよ、誰かが声を上げねばならない問題ではあるはずなので、最初にこうした形で声を上げるに至った彼らには、おいらとしては敬意を表したい。その経緯についてまではどうかは知らんけど、そゆとこにまで口を出すのは野暮ってもんでない?

えんやす2007年02月28日 07時56分11秒

繰り返すと、円高・円安は相対的な価値観であって、軸足をどこに置くかによって、その見え方は180度変わってしまう。だが、日本の競争力は、途切れることのない生産性の向上努力と賃金の抑制によって得たものであり、断じて「円安誘導」によって手にしたものではない。そして日本人は、「失われた10年」という形で、既に今日手にした競争力の代償は、いやというほど払わされている。

その不当な「賃金の抑制」が結果として「円安誘導」を招いた、っていう話なんじゃないの? だったら賃金上げればいいじゃん。あるいは労働者が自分らの賃金を上げるよう努力すべきなんじゃね?

政策としては、最低賃金の底上げが有効なようにも思うが。。。