「世界はだんだんよくなっている 」がジャーナリズム批判としてはダメな理由2010年01月26日 14時40分25秒

t-murachi 社会形成, 歴史, 思考, hoge, 下らん, 時間の無駄, メタブもあるでよ 中身のないポジティブ論に賛同はできないな。今こうしている間にも、失業者は着実に増えている。悲観、無力感への処方箋は解決策と試行であるべきであって、無関係な代替概念を持ちだして納得させる事じゃない。 2010/01/25

リンク先記事については同意し、あるいは励みになったとする意見が多数見受けられた。そのこと自体は悪いことではないと思う。各自の個人的な人生において励みになる概念が少なからず存在することは、悪いことではない。

おいら個人の人生としては、現状、メディアが喧伝する閉塞感の中において、割と幸せなものだと自覚している。なので例えば生活に窮する状況に追い込まれている方々 (working poor 然り、失業者然り) や、旧来的・現代的を問わず差別の憂い目に遭っている方々などを代弁して何かを言うことは難しい (してはいけないわけではないとは思うが、多分実感がこもらないんじゃないかと思う) し、実際それをする気もさほど無かったりする。

ただ、ブックマークコメントで書いたことについては、まぁ、それはそれとして、この記事が、メディアが閉塞感を喧伝することに対する批判として書かれているのであれば、その批判に伴う提案としてのポジティブシンキングには、やはり同意することはできない。これは、メディアが行っているとされる、この国の社会に対する漠然としたネガティブキャンペーンを一つの極と定め、対立する概念としての (やはり漠然とした) ポジティブシンキングをもう一方の極に配した二項対立の図式に落とし込もうという、自縄自縛の議論であるように思うからだ。

「この国の社会に対する漠然としたネガティブキャンペーン」が何故ダメなのかと言えば、それは個々の議論が突発的な井戸端会議のネタに終わってしまうからだ。事業仕分けがメディアに取り上げられ、国民の間で議論を呼んだ。それ自体は悪いことではない。しかし京速スパコンに対する蓮舫議員の「二番ではダメなんですか」発言ばかりがクローズアップされ、「頭の悪い素人が仕分けに口出ししている」という負の側面ばかりが目立つような報道になってしまった。その後も事業仕分けに関してはスパコンのことばかりが取り上げられ、本当に必要な議論 (大幅削減が決まった spring-8 や海洋研究、逆に仕分けの対象から結果的に外された核燃料再処理工場の是非、etc...) にあまり耳目が集まらなかった。本来批判されるべきはこうした政策論議に関する報道の網羅性のなさや、ウケ狙いの報道姿勢、そしてそうした報道をネタとして消費する読み手の姿勢にあるのではないか。

ネガティブな報道ばかりだから閉塞感が広がる、もっとポジティブなニュースだってたくさんあるはずだし、そういうのをどんどん報じるべきだ、とする意見をよく耳にする。同意される方も多くいらっさると思う。

おいらがそうした考え方にどうしても同意できないのは、結局の所、その考え方というのは、現状の、報道をネタとして消費するという、読み手、聞き手の姿勢を前提とした考え方だからだ。そうした姿勢が正されることがない限り、即ち大勢が個々に社会に参加しようという意欲を持たない限り、メディアは成熟しないだろうし、デモクラシーは成就されないだろう。雰囲気だけで政権交代し、雰囲気だけでそれを悲観し後悔するなら、そもそも民主制である必要など無いのだ。

昨今のメディアによるネガティブ報道にはもう一つ問題点があって、それは極めて個人的な事情により起こってしまった事件について、容疑者 (未だ裁判で犯人だと確定したわけでもない) の属性情報ばかりを取り上げた挙げ句、それがいかにも社会的な現象であるかのように報じてしまう点だ。こうした報道は偏見・差別を好む低俗な耳目をよく集める。しかしメディアリテラシーを高める存在であるべき新聞・テレビ報道が、結果的に民度を失墜させることに手助けしているというのは実に皮肉なものだ。

最近では個別の新聞・テレビ報道に対し、関係者がネット上でブログなどを用いて認識の齟齬や報道上の問題点等を指摘すると言うことがたびたび行われている。これはよいことだと思う (そういう意味では、元記事に同意するものである)。そして、そうしたことの一つ一つが、テレビや新聞のネットに対する相対的な信頼感を、着実に貶めていっているのだと思う。その効果は新聞の販売数やテレビの平均視聴時間、広告・CM枠の売り上げなどといった数字にもろに影響しているし、大手の新聞社、放送局が軒並み赤字を出していたりする。

しかし彼らは反省しない。それどころか、彼らが手にしている特権的利権 (記者クラブ然り、電波利権然り) を手放すまいと躍起になっている。このことこそ、最も悲観されるべきなのだ (特に我々世代にとっては)。元記事はテクノロジーが社会を少しずつ、着実によりよくして行っていると書いている。しかし、テクノロジーを活用するのは人だ。情報コントロールは権力そのものだ。テクノロジーが変わってゆくなら、人も変わってゆかなければ社会はよくならない。テクノロジーに取り残されたはずのメディアがテクノロジーそのものへのネガティブキャンペーンを展開し、それに多くの人が踊らされて差別に勤しむような社会は成長しない。インターネットをメインステージに育まれるこれからの時代において、誰もがそのことを肝に銘じなければならない。

今年の高校野球千葉県代表、八千代東はとんでもないチームだ。2009年07月27日 22時36分32秒

八千代東の試合は、この決勝戦と、その前の準決勝だけ観てました。いやはや、とんでもないチームです。といっても、目立った特徴のあるチームではないように見える (ハズな) んですが、この辺の情報を頼りに、何が凄いのかを軽く列挙してみました。

  • 大会通算打率たったの .203
  • 大会通算得点 30点中、7回以降に上げた得点は実に半分の 15点
    • 大会 8試合中 5試合にて、 9回に得点を上げている。 9回に上げた得点だけで 7点になる。
    • 大会 8試合中 6試合にて、最終回 (延長の回含む) に得点を上げている。最終回に上げた得点だけで 7点になる。
  • 4番を打つ上條外野手は 8試合で全 9打点。チーム打点は 25 なので、1/3 以上を彼が稼いでいる。
  • 8試合中 3試合が延長戦。延長回数は合計 10回。回数で換算すれば 9試合分戦ったことになる。
  • 全試合、先攻を選び、そして勝っている。

実際、彼等の試合は、観ていて面白いです。良くできた漫画かなんかみたい。リアル山下たろーくんとかそういう世界 (あれ? そんな話じゃなかったっけ? >山下たろーくん)。

この「終盤に強い」という性格のチームは、単に観衆にとって面白いというだけではなく、相手チームにとっては非常に不気味なことなのではないかと思う。特に、1, 2点のリードでは終盤を迎えても絶対に安心できないと思う。高校野球は基本的にクローザーとか居ないしね。

大会 8試合中全試合で先攻を選んだ、というのも面白い。先攻、後攻はどうやらじゃんけんで決めるらしいのだが、じゃんけんで勝っても先攻を選んでいた模様。通常、野球は後攻の方が有利なので、じゃんけんで負けても相手チームが後攻を選んでくれるので、結果全部先攻になった、ということなのだと思う。これはある種の験担ぎなのかも知れないが、もしかしたら絶対にサヨナラ負けはしないという守備への自信の表れなのかも知れない。実際、一つの回で一度に取られた失点は最大でも 3点に止めており (流経大柏戦の 4回裏のみ)、ビッグイニングを許さない守備には安定感を感じる。

打率が低いのも、むしろ不気味さを感じる。なにより、これだけ打率が低いのに、 8試合やって全部勝っているのである。この打率で 8試合もやっていたら、 1, 2試合ぐらいは完封されるようなゲームがあってもおかしくないように思う。逆に言えば、少ないチャンスを確実にものにして得点を上げる能力があるチームである、とも言える。特に、 4番の上條外野手は 9打点を上げており、これは特筆すべきとまでは言えないかも知れないが、チーム打点の 1/3 を超える数字でもあり、 4番としての信頼には十分足りる数字ではあると思う。

そんなわけで、春夏通じて初出場ということもあり、全国的にはあまり注目され無さそうなチームではあるんだが、個人的には甲子園でも何気に面白いことをしでかしそうな気がして、結構楽しみだったりする。期待しとるでぇ。>ヤチヒガナイン

「ブラック会社」がブラックにならざるを得ない社会的背景2009年07月10日 01時30分39秒

どこかのうんこブログがリンク先記事への回答として「雇用流動性が低いからこうなる、解雇規制を撤廃すべきだ」などと極めてうんこな事をほざいていらっさいますが (腹立たしいのでいちいちリンクしません)、まぁそれはそれとして。

ブラック会社、あるいはブラック企業というのは、要するに労働環境が劣悪で、しかも社員の多くがそうした状況に疑念を抱かない、あるいは諦めてしまっている社畜ばかりである、といったような状況に陥っている会社のことを指し、そう言った現象について、経営者対労働者の構図で物を語る人が多かったりする概念です。

実際のところ、こうした現象というのは必ずしもそのような単純な物であるとは限りません。特に、SI 業界に関して言うなれば、顧客企業との軋轢、上流・下流やコンサルなどといった工程を切り分けるスタイルによる分業と、それに伴うピラミッド型の下請け構造、中小企業への支援制度が手薄な行政、などといったものが背景に横たわっており、その結果として、不利な条件で事業を請け負わなければならない零細ソフトハウスの苦渋、ご贔屓さんとの政治的おつきあい、さらには会社規模でいえば一流の筈なのに部署や取引先によって明暗がくっきり分かれるなんて事もざらにあったりする訳です。

もちろん、労基法がないがしろにされ、労働者の権利が踏みにじられている現実は、どうにかする必要があるでしょう。内部告発が増えてきているのは好ましいことですが (今のところニュースになっているのは飲食業界が多いですが)、罰則規定を強化し、労働者の権利侵害が悪であるということを政府の態度として明確にすべきだというご意見は、確かにごもっともであると思います。しかし、それとセットで同時に解決して欲しい問題がいくつかあるのも事実です。

ことソフトウェア業界に関していうならば、以下のような問題が横たわっている訳ですが…

  1. 作業領域が工程によって分断される為、下請け構造が根深く、企業間の上下関係がはっきりしてしまっている。
  2. 企業の技術力を推し量る基準が存在しない為、無名な中小零細企業は営業面において不利を強いられている。
    • 品質管理能力については一応 ISO 9001 というのが存在するが、そもそもテストを切り詰めろなどといった品質をないがしろにする要求をしてくる顧客が未だに多く、業種によってはあまり重視されないケースも少なくない。
  3. システム開発の適正価格が理解を得にくい為に、市場自体にダンピングの発生しやすい土壌ができあがってしまっている。
    • これに対し、システム構成を無駄にリッチにする、オープンではない技術を多用し、保守を入れ替え不可能にして独占する、などの (顧客側の無知を逆手に取った) 悪質な商習慣も横行している。
  4. 起業支援が手薄な為、新規に事業を興そうとするものが少なく、いても先立つものがない為に、SI 事業の下請けの末端として仕事を受けざるを得ないという状況がある。

1 と 2 は中小企業支援の問題。公正な取引が阻害される要因というのはいろいろと考えられる訳で、そのうちのいくつかは政府による規制によって状況をある程度改善することは可能かも知れません。一番の問題は作業範囲が工程によって切り分けられることであり、上流を請け負う企業が設計書を仕上げて持ってくるまで下流を請け負う企業がコーディングの作業を開始できないとか、納期までの時間の内の大半を上流が食い潰してくれやがったのに最終期限は延ばして貰えないであるとか、顧客が直接お金を払うのは上流を請け負う企業だけなので上流が見積もりを誤ればとばっちりを食うのは下流であるだとか、そういう差別要因を育む諸悪の根源なのだから、作業範囲を工程で切り分けること自体を不公正な取引であるとして規制してくれればそれが一番公正な世界を創り出す近道であるようにも思うのですが、実際のところ、うちには顧客と直接交渉してシステムを提案できるような人材はいない、仕事をくれる上流企業から仕事を貰えなくなるような規制ができたらうちは商売できなくなる、なんていって尻込みするソフトハウスも少なくないだろうから、いきなりそんなドラスティックな改革をやってのけるのも難しいんだろうなぁとも思ったりする。

技術力うんぬんに関しては、実際のところ、個々のスタッフの経歴がすべて、というのが実情。後は取得した資格とかですかね。で、「A と B と C という技術を使えば、n 千万円で実現可能です。当社であればこれらの技術を経験しているスタッフは揃っています」なんつって営業したりする訳ですが、こんなのはっきり言って顧客は理解できる訳がないので、結局は企業の知名度で選ぶか、価格が一番安いのを選ぶか、ということになってしまう。 3 の適正価格が理解されない問題とも通じていて、顧客企業自体にしっかりした情報システム部門があったり、有能な CIO がいらっさるようであればそれほど問題にはならないし、そういう体制はもっと普及すべきだとは思うのだけれども、すべての顧客にそれを求める訳にも行かず…。個人経営の飲食店とかだってなんらかのシステムが欲しいと思うことはあるのだろうけど、そういうところにシステムを構築することで、十分に食っていけるだけの報酬が得られるような世の中になっていないことが、独立開業を難しくしている要因の一つであるとも言えたりする訳で…。

4 は起業支援の話なのですが、これを求めることが国際的に見て贅沢なことなのかどうかおいらは知らないのですが、独立開業を夢見る人のご意見として、会社に縛られることなく、自分のペースで仕事ができる、という誤解があるのだけれども、それを実際にかなえるには、納期などに縛られない商売、すなわち、オーダーメイドではない金になる商品を既に持っていて、それをコンシューマーに向けて販売、もしくはサービス展開する、といった商売で勝負できる場合に限られることになる訳です。でも、それまで一労働者としてあくせく働いていた人が、そういう商品を作り出す時間を割くこと自体が難しかったりして、で、そんな時間を得る為に脱サラしてみたはいいものの、勝負になるようなものができあがらないうちに貯金が底をつき、あえなく派遣で仕事を探す、なんてのがありがちなオチだったりするのが実情です。これは SI で下請けやってる中小零細企業に関しても同様で、仕事が多くて忙しいときは時間的余裕が無く、仕事が少ないときは少ないときで今度は資金的余裕がなくなってしまう為に、なかなか自社開発に踏み切れずにいる。そういった辺りをうまいこと救済するような制度とかがあったりすると、コの業界ももうちょっと活気づくんじゃないかなぁとか思わなくもなかったりする訳です。

IPA が未踏IT人材発掘・育成事業なんてのをやっていたりしますが、これはこれで良いのですが、これだとどうしても凄い発明をする英雄的存在を発掘するアプローチ、ドラクエで各国の王様が勇者を捜し出すアプローチになってしまっていて、業界全体の労働者層を救済するアプローチにはなり得ないし、独創的な商売を育む土壌もなかなか根付かないのではないかとも思う。かといって、日の丸検索プロジェクトみたいなのは一部の企業を利するだけで、これも業界全体の活性化を促すものにはなり得ない。もっと、ソフトウェア企業がこれから作ろうとする物の価値を認めあえるような、財源とコミュニティが一体化したような社会的枠組みがあったりすると面白いんじゃないか、とか思ったりもするんだけど、庶民様の血税とやらでそれを実現するのはやっぱり難しいんだろうな、とも思う訳で…。

相変わらずまとまらないけれども、おいらの今のところの思考は、とりあえずこんな所。

で、せっかくなのでこぼれ話。おいらが今、会社として請け負っているお仕事なのだけれども、取引先の都合で、別の会社を1社はさんで契約して貰っている。

何でそんなことが必要なのかというと、事業を通して経費が適切に計上されているかどうかが審査される訳だけれども、事業全体の規模があまりに大きい場合、そのうちのいくらかを、うちみたいな無名の零細が請け負っていたりすると、それが使途不明金として疑われてしまうケースがあるからなんだそうだ。

結局の所、法が民間に対して信用を求めていて、それがうちみたいな零細には、結果として障壁となって立ちはだかっていたりする。法人は国に登記され、その事業内容も合わせて管理されるのだから、本来ならばその国こそが企業の信頼を担保するべきなのに、実際にはおいらたちは国にすら信頼されない、信用ならないならず者として扱われる訳だ。だからこそ、どこかから与えられる数少ないチャンスをものにし、信頼を積み重ねていかなければならない。

そりゃあ、奴隷にもなるよ。詐欺師にだってなる。おいらはどっちかっていうと、病気になる可能性の方が高そうだけれども…。

教育現場での君が代を巡る一番の問題は、君が代が音楽の授業でしか習わないことなんじゃないかな。2009年07月04日 12時38分07秒

おいらはこの問題にはあまり関心を寄せていなかったのだけれども、リンク先記事での id:teraccao さめの発言 (個人的にはそれほど人目を引くような、例えば個人攻撃や反社会的行動の予告などに相当するような酷さや、新たな議論を呼び起こす視点などといったような興味深さがあるような記事には見えなかったのだけれども) に対して、コメント欄やはてブで決して少なくない反応が巻き起こっているという事実に、その、もはや潜在的ですらないかも知れない社会感情のナーバスさに、不安というか不気味さを覚えた。態度として無関心こそ正常、などと言うつもりはないのだけれども、それにしたってこのバックラッシュっぷりは、あまりにもナーバスに過ぎるんじゃないかな。

で、個人的には「問題発言」として報じられた発言主の知事も、教育現場で行われる式典において国歌斉唱時に起立をしない、歌わないなどの行動を起こしているレジスタンス的な教職の方々にも、特別な感情は持ち合わせてはいないのだけれども、国旗、国歌に対する国としてのスタンス、特に国歌に対するそれに対して、一部の教職の方々が反感を覚え、あまつさえこれほどの積極的な行動にまで掻き立ててしまう状況に陥ることに、一定の理解は覚えるところではある。

まぁ、結論は表題に書いちゃった通りなんだけれども、実際のところ、学校の音楽の授業で君が代について触れる機会というのは、あるにはあるのだけれども、礫が岩になってコケが茂るほどの永きにわたってこの世があり続けることを願った歌、という風に解説はされるものの、肝心の「君」が何なのかについては特に触れないし、君が代がいつ、誰によって詠まれ、それが歴史的にどのように解釈され、扱われてきたのかといった経緯についても習う機会はなかった。

おいらとしては、今すぐにでも国旗や国歌を新しいものに変えるべきだとはこれっぽっちも思っていなくて、って言うのは何でかというと、それらが象徴するものが天皇であり、あるいは天皇制であるとして、それらに対して反発的な感情を持ち合わせる理由がないからだ。それだけおいらは、平和な時代を謳歌してきたと言うことでもある。

そういう風に考える人、あるいはなあんにも考えていない人というのは、この国では多数派なのだと思うのだけれども、でも実際のところ、そのことこそが最も懸念されるべき事態なのではないかとも思う。天皇制であったこと、もっと言えば、十分に民主的ではなかったことが、かつての戦争に突き進むまでの経緯としてどのように影響してきたのかって言うことが、戦争を知らない子どもたちに、これっぽっちも実感として伝わっていない、伝えることができていないというのは、型どおりに見れば義務教育における社会科教育、歴史教育の欠陥なんだけれども、でもそれは実際のところ、確かに難しいことではあるよな、とも思う。それは仕方がないのだけれども、それにしたって、最低限知識として流布していても良さそうなことが、歴史の教科書に書かれていない、それを語れる教師も少ない、というのでは、そう言うことについて考える機会を得られないという意味において、子どもたちは不幸だと言わざるを得ないのではないか。

君が代に対する国のスタンスが曖昧にされている為に、教育現場において君が代を、その歴史的経緯や意味について交えて教えてゆくと言うことができずにいる。このことは、国歌や国旗と言った、国を表面的に象徴するものをとにかく変えたくない、と思う向きには、都合の良い状況でもあると思う。もしも、国が君が代の君を「天皇のことだ」と断定するならば、天皇制を廃し、完全な立憲君主制に移行したはずの、現在の日本国の国歌には相応しくないのではないか、ということになるし、逆に、国が君が代の君を「国民、すなわちまさに君のことだぁm9(`・ω・)ビシッ」と断定するならば、じゃあそうなるずっと前から歌われてきたこの歌の意味を、体制に応じてねじ曲げながら国歌として使い続けるのはどうなのよ? ということになってしまう。でも、そこを敢えて何とも断定せず、曖昧にし続けてきたのは、結局のところ、永く歌われ続け、愛着も親しみも強くなってしまった君が代という歌そのものを、あるいはこの歌に象徴されるようなお国柄を否定すると言うことに、抵抗感が強かったからなのではないかと思う。国全体として。だから、マッカーサーが天皇家の「延命」を事実上認めたその日から、このことについては極力考えないようにし、教育においても深くは追求しないようにしてきたんじゃないかと思う。

でも、その態度って、本当に国を思う人の態度なんですかね? 国の未来をしょって立つ子どもたちに対して、本当にフェアな態度なんですかね?

一部のレジスタンス的な教師がああいう行動に出てしまうのは、そのことがあまりにも教育において触れられない為に、子どもたちの多くが関心を寄せないこと自体を問題視しているから何じゃないか、とは思う。教育において、「君が代は天皇による統治の、永遠の栄華を歌ったものとして扱われてきた」と言うことがちゃんと教えられ (あるいはこの逆の内容でもいい)、それを知識として踏まえ、育ち、将来大人になった彼等が、その後君が代をどうするのかを自律的に選択できる状況になるならば、結果として、やっぱり天皇家は嫌いじゃないし、国歌も君が代でいいよ、ということになるのだとしても、教育者としての彼等も納得がいくんじゃないかと思う。でも、こんなフェアじゃない状況が続く限り、彼等の反抗を国や自治体が押さえ込むのは、難しいんじゃないかなぁ。そりゃあ、知事もパワハラ発言したくもなるよ、っていう。

この時代に生まれて良かった2009年05月12日 19時08分34秒

少しだけ息抜きをする。

最近、妹と母親がブログを引っ越しした。後でリンクも直しておかないとな。

FC2 はなかなか高機能で使い勝手もいいからね。

ちなみに旧「友・遊・湯」はそのまま父親の専用ブログになるらしい (それとも出張から戻ったら一緒に引っ越すのかな?)。

しかしみんな、マジすげぇよ。パネェよ。

兄貴は土日はしっかりお父ちゃんエンジョイしてるし、妹も忙しいだろうに自炊も映画も欠かさないようだし、父親も相変わらずひっきりなしの海外出張だし、母親も母親で座骨神経痛に苦しみながら一人で家を守ってる。各々の、生きている様子が、ネットを通じて垣間見れる時代。その一つ一つに、おいらは確かに元気を分けて貰えてる。そんな感じがする。

最近のおいらは、昔いた会社の元同僚にして友人から紹介された (と、いうより頼まれた) 仕事に 1月から入り、 5月頭にサービスインの予定だったのが、4月から急遽任されたシステムの開発が間に合わず、今週末までというぎりぎりいっぱいの猶予の中で血眼になって開発を続けている。状況としてははっきり言って良くないのだが、今はもうやるしかないという気持ちで、GW も返上してとにかく作業を続けている。

自炊もしてるしお金にも困っている訳じゃないから、心配は要らないよ。これが終わったら、月末にマリーンズを追って広島旅行に行くんだ…。(予定)

……さて、仕事に戻るか。

そして「病気」は理解されない2009年03月23日 20時29分04秒

「原因特定」は慎重に

人が感じる「心地よさ」というのは、あまりあてにならないものです。あなたが普段ストレス解消のために行っていることはなんですか? とあるうつ病患者はテレビゲームが大好きです。彼にとってテレビゲームはストレス発散にもなるのですが、実際のところ、視覚と聴覚に大きな刺激を与えるこのエンターテイメントはメンタルヘルスに有効なリラクゼーションたり得るのでしょうか?

精神疾患のことをメンヘルと呼ぶこと自体個人的には抵抗があるのですが(メンタルヘルスは「心の健康」の意なのですが…「メンヘル板」の愛称自体にもそんな悪気はなかった筈なんですけどね)まぁそれはともかく、うつ病などをはじめとした精神疾患は「体の病気」です。病気についての予防法を考えるのであれば、その理論は科学的に正当であることが望ましいでしょう。例えば風邪に対する予防ひとつとっても、季節毎に流行するウイルスの種類に応じた対策であったり、自身の抵抗力を高めるための対策であったりと、各種のアプローチが考えられます。手洗い、うがい等の衛生面への配慮、部屋の温度・湿度調整や換気への配慮、外出時であればマスクをつけるといった対策 (乾燥する関東平野の冬は睡眠時のマスクものど風邪対策に有効ですね)、ビタミン類を効率よく摂取するために果実や芋、根菜を食べるなど、どれも少なからず科学的な裏付けがあって推奨されているものです。

それから、病気にかかってしまったあとの対策は、予防策とはまた異なってくるのが普通です。風邪の予防にはタンパク質の摂取も重要ですが、風邪にかかってしまい、消化器官が弱っている人が、無理にタンパク質を摂取しようとするのはあまりよい対策ではありません (豆類も肉類も、基本的にはそれほど消化は良くありません)。胃に優しい炭水化物を十分に摂取しながら、豆腐などの消化が容易なタンパク質を選んで摂取することが大切です。

精神疾患についても同様のことが言えるはずです。精神疾患に「原因」があるならば、それは「科学的に」特定されるべきであり、その排除には慎重を期するべきなのです。そしてその「原因」は状況依存であり、単純ではありえません。夏風邪を引いた人が、クーラーの効かない部屋で窓を閉め切り、大量の布団にくるまって汗水垂らしてフーフーいわせても治りっこないのと同じことなのです。

しかし、うつ病にかかる方というのは、その「原因」の特定を急ぎすぎるケースが多いように思います。確かに、間違いなく明確な原因があるのであれば、それを早い内に改善することはよいことであるのは確かなのですが、早合点のために決断を急げば結果として大いなる損失を招く可能性もあります。特に、その原因を心理的「外部」に求める方は特に注意する必要があります。「私がうつになるのは旦那のせいだわ!!」と慌てて三行半を突きつけた結果、頼るべき人を失いますます追い詰められてしまうのでは洒落になりません。

「誰でもかかる可能性がある」の意味

どんなにしっかり予防をしているつもりの人でも、かかるときにはかかってしまうのが病気というものです。風邪でさえそうです。完璧に風邪を防ぎ続けるというのは案外難しいものです。一生の内に一度も風邪にかからない人というのはむしろ少数派であるはずです。

そういう意味では、精神疾患は風邪ほどにはかかりやすい病気ではないし、「誰でもかかる可能性がある」という言葉の意味合い、ニュアンスも人によっては受け止め方が違ってくるでしょう。「誰でもかかる可能性がある」と、頭では解っていても、「私は大丈夫」と心のどこかで思っている人は少なくありません。

id:xevra さめの今回の記事のようなものを読んだ結果、これを見習って「対策」をし、「私は (対策しているから) 大丈夫」と思う人が増えてしまうかも知れません。ご心配には及びません。多分、あんまり効果はないですから。

個人的には、精神疾患の類は境遇病であると認識しています。家庭環境、コミュニティ、学業の質、仕事環境、生活レベルや住んでいる場所、そういったいわゆる人生の「背景」に当たるものの影響が最も大きく、そうしたものから押し寄せられる「圧力」にじわりじわりと浸食されてゆく内に、じっくりと病巣を広げてゆく。精神疾患とはそういう類の病気であることが多いのです。

健康な生活を送るというのは、容易いことではありません。人には一人一人異なる「経緯」「文脈」といったものがあり、それらが個別の「境遇」を作り出すのですから、そういったものを一切合切無視して「健康であるべきだ」と言ってしまえばそれは暴論になるのです。バランスの良い食事を取ろうにも自炊する時間もなければうまい飯を食う金もない。運動したくても運動する時間や根気がない。スキンシップを取る相手が居ない。仕事柄画面ばかり見続けざるを得ない。休日も会社に出勤する。挨拶を交わしづらい職場だ。礼を言うような機会がない。音楽を聴く時間も踊る時間もない。うつ病の友人が頼れそうな人が自分意外に見当たらない(見限れとか距離を取れとか簡単に言ってのける人は少なくないけど、そういう人は自分の想像力が如何に貧困か気付くべきだと思うよ)。今日も明日も徹夜仕事だ。そういう人が、 id:xevra さめのオススメする予防法を、何故実践できましょうや?

そして、一度そんな病気にかかってしまった人に、そのような生活が送れるよう環境を変えるべきだと勧めるのは、愚かしいにも甚だしいという話なのですよ。そりゃあ、確かに今の仕事を辞めれば、そういう生活は一時的には送れるようになるかも知れない。お金が続く限りはね。しかし「将来への不安」を募らせる患者がそのような決断を容易に下せるものでしょうか? そして決断の後、貯金が尽きるまでに病気が治らなかったら? 生活保護給付が得られるという確証は? 実家に帰れない何らかの事情があるとしたら? 実家に帰ったことによって病気を悪化させる「境遇」もあり得ますよ。親・家族の不理解なんてこの種の病気を巡る問題の鉄板です。

それでも基本的なことをいくつか上げるのであれば

結局のところ、精神疾患を患う可能性が高くなるような「境遇」そのものを潰してゆくことが「社会に」求められるわけです。それを指摘せずして、精神疾患を社会問題として扱う意味はないでしょう。社会問題として扱われるぐらい、この病気は治すのが難しく、そしてかかってしまう人の社会的再起が難しい。簡単に治せる病気であったり、かかったところで社会的な扱いに支障がないようであれば、そもそも社会問題として扱われることはないのですよ。

この手の記事に飛びつく人がたくさんいるのは、それだけこの病気に皆がかかりたくないからです。「かかっちゃったら終わりだ」と、多くの人が思っているからです。そう思う人が多くいる限り、この病気は社会問題たり得るのです。ふざけるなという話です。

しかしそれらを承知でそれでも敢えて、敢えてこの病気に対する予防策、あるいはかかってしまってからの対策を考慮するのであれば、それはひとえに正しい知識を持つ精神科の医師に相談を仰ぐことなのではないでしょうか?

あと一般的に言われている限りで基本的な対策としては、頭を休めること、生活リズムを保ちつつ日光を浴びること、体を冷やさないこと、ぐらいでしょうか。食事とか運動とか音楽とかは、おいらには分かりませんが、うつ病にかかっちゃった人に運動を勧めてはいけない、とは聞いたことがあります。

そしてなにより、能動的になれない病気であるうつ病の人が、能動的であるべきとするいかなる言説も耳にするべきではありません。これは周囲が気をつけなければならないことです。「ダンスをするのがいいらしいよ」なんて絶対に勧めてはいけないのです。ダンスをしてみようとして、思うように体が動かせないしやる気も出ないということに、ますます自信を喪失するのがオチなのですから。

職業への貴賎の意識をお持ちでなければ、職業を選択する自由を尊重すべき理由も理解できる筈ですが。2009年01月22日 09時00分39秒

派遣切りされた人を一括りにして批判している方がいらっさるようですが、「仕事を選んでいられる場合じゃないだろう」とおっさられる方に限って、そういう仕事のことを「3K」などと言った蔑称で呼んだりするんですね。

別に「きつい」「汚い」「危険」な仕事を「3K」と呼ぶこと自体を今更批判するつもりはないのですが、この文脈でそういう言い方をされてしまうと、まるでそれらの仕事が食うに困った労働者の最底辺層が已むに已まれず選択する最終手段であるかのように捉えられてしまう訳で、そういった仕事に従事しておられる方々に対して大変失礼な物言いであると指摘せざるを得ません。

自分の人生に誇りを持てるのは、自分で選んだ仕事に誇りを持てるからです。もちろん、その経緯においては、妥協に妥協を重ねた結果であったという方の方が多いのかも分かりませんが (そうそう能力に恵まれる人ばかりではないのでこれはある程度は致し方ないことです)、仕事に従事していく中で、その仕事に、あるいはその仕事をして生きる自分に納得できるようになった時点で、やはりそれも「自分で仕事を選んだ」の内に含まれると考えるべきです。この考え方に異議を唱えたく、「俺は好きで今の仕事をしている訳じゃない!! それでも懸命に生きる俺は自分に誇りを持てている!!」とか言っちゃう人は、無自覚の内に自分が奴隷根性に囚われていることに気付くべきですし、自己の半生をもっとちゃんと直視して考える時間を持った方が良いと思います。

派遣切り等に遭われてこの不況により失職し、生活においても窮地に立たされている方々に対して、「選り好みしている場合じゃない、何でもいいから職に就け」としか言えない状況が既にそこにあるのだとしたら、これはもう人が労働を通じて健康で文化的な生活を送ることが不可能な状況であると判断せざるを得ないので、国は憲法の精神に則り、こうした方々を保護するべく、緊急に福祉を整備しなければなりませんし、雇用創出の手立ても考えなければなりません。そうして彼らに職を選ぶ余裕を与えることによって、不況を利用して労働者を買い叩こうとする悪徳経営がはびこる余地を極力小さくする必要があります。

もっとも、雇用創出、といっても、これは単に国が事業を作ればいいという話ではなくて、現に人的リソースが不足している業種に対して、制度設計の見直しや税制優遇などを通じて担い手が集まりやすくするような政策を尽くすということも含む、というかむしろそっちの方が重要で、例えば箱作ってジジババとガキんちょ押し込めて失業者に介護の仕事を押しつけようなんてのは以ての外なのであります。

実際問題として、職安で紹介される仕事が応募資格が満たなかったり直近の生活を支えられないものであったりするために応募しようにもできなかったりするわけで 、必ずしも 3K だから嫌っているという訳ではない、というかそもそも自動車関連工場の期間工として派遣されていた方々はそれまでの仕事も立派に 3K だったわけですが、そういった事情の有無に係わらず、どんな社会状況であれ、人が仕事を選ぶ権利は尊重されなければなりません。雇用関係を、事実上の隷属関係にしてはならないのです。

足腰強化月間。2009年01月21日 21時16分23秒

←こんなのを買ってみた。片足 3kg のアンクルリストウェイト。

今日の夕方届いたので、早速両足に装着して買い物に行ってきた。目当てのスーパーまでは駅を挟んで 500m ぐらいの道のり。駅を超える際はエスカレータは使わず階段を上り下りした。スーパーで食料物色しているうちに内ももの辺りが痛くなったり帰り際に若干膝小僧の関節が辛くなったり、帰ってくる頃には腿全体の筋肉がちょっと張ってたり体がしっとりと汗をかいていたり (それはいつものことかw) で、割と効果はありそうな感じ。

当面は家の中でも寝るときと風呂に入るとき以外は巻き付けておいてみることにします。

一緒にダンベルも買ったんだけど、ペアだと思って買ったら一本だけだった…。こっちは買い足しておかないとなぁ…。

健康な木々の育つ森を焼き払っておいて「間伐しました」はねーよ。2009年01月16日 08時56分41秒

ここ最近の不況に関する議論で、「派遣村を擁護する人たちは木を見て森を見ていない」と言ったようなことをおっさられる経済屋さんをちらほら見かけます。

そういう人たちは、「雇用を守れと言ったところで、企業が潰れてしまったのでは元も子もない」であるとか、「今製造業の派遣を規制してしまったらかえって大量の失業者が出て官製不況になるぞ」などと言って、企業による派遣切りを正当化する訳です。

なるほど、林業において森を育てるには間伐は不可欠であるとはよく言われます。ましてや天候に恵まれず、痩せてしまった土地に木々をそのまま立たせていたら、森全体が道連れになって砂漠化してしまうぞという訳です。(ってさすがに大げさか? w)

しかし、これまで自動車産業をはじめとする製造業を中心に行われてきた派遣切りの実態は、果たして間伐というのにふさわしいものだったのでしょうか?

本来であれば、経営状況の悪化故に仕方なく労働者を解雇するのであれば、その基準は企業活動にいかに貢献しているかで判断されるべきでしょう。もちろん、成果主義は富士通をはじめとして正しく機能していないことが既に耳にたこができるほど指摘されているところであり、ちゃんと運用しようとしたら非常に高いコストを要するものです。

しかし、今回の派遣切りは経営的にも非常に楽ちんなものでした。別段個々の派遣労働者の能力や勤務状況等を査定し個別に人事を施す訳でもなく、ただ単に、「○○工場は×月△日限りで畳みますので、そこに勤めて頂いていた派遣の皆さん、さようなら」とやっているだけなのですから。そしてそうした実態を以て「雇用の流動化というのは、まぁ、そういうもんだ」と開き直ってなおそれを推し進めようというのですから開いた口がふさがりません。

製造業に従事する企業の多くが、従業員の能力をまともに評価することもできないことが実態として明かされたというのに、それでもなお雇用流動化を訴え続けるというのであれば、そんな言説が労働者に信用される訳がありません。このような経営体質には、一般的に「有能」とされる労働者(よーするに「コミュ力」が高くて仕事の飲み込みが早いタイプのことやね)ほど敏感だったりしますので、いざ正社員も首切りを、といった段階で逃げる体制もしっかり整えていらっさることでしょう。そうして後にはほんの一握りの逃げ遅れた (愛すべき) 技術バカと、保身以外のことは考えられない大量の単なるバカが残るでしょう。仕方ないですよね? 間伐するのに、斧を使わず火炎放射器を使っちゃった訳だから。皆さんの大好きな「効率」を口実にね。

先日、学究社とモンテローザが 3桁単位の臨時雇用を募集した件について、NHK の朝のニュース番組で続報のようなものが特集として報じられていましたが、とりわけ学究社の方にはたくさんあった応募者のほとんどが B ランク以上の 4大卒で、 2割の人が教職員免許も持っていたと言うことで、社長さんが驚きの談話を寄せていました。曰く、「本来であれば企業の中核を担うべき人材が、派遣切りにあって苦しんでおられたのですね…」とのこと。

もうそろそろ、日本的「高学歴指向」も、その信頼を失ってもいい頃なのではないかと思う今日この頃、皆様いかがお過ごしでいらっさいますでしょうか。まぁ、F ランク出のおいらはのほほんと社長業やってたりする訳ですが。w

閑話休題。学歴がその人の職能を決めるなんて事はこれっぽっちも思ってはいませんが、その一方で新卒一斉採用にあぶれてしまえばせっかくの学歴も生かせなくなってしまうような社会では、底辺の底上げは到底期待できないでしょう。雇用流動化も結構ですが、そうであればそれ以前に職が無くとも生きては行けるというレベルでの十分な福祉を充実させ、雇用側と労働側との立場を真に対等にすることこそが優先されるのではないでしょうか? それを実現させるのにどうしても必要とあらば、消費税率引き上げにもやぶさかではないんですけどね。

純資産の蓄えがある大手 SI はこの機に事業を創出するべき。2009年01月13日 10時26分32秒

とりあえず、池田某が流行らせた「ノン・ワーキングリッチ」という用語についての欺瞞は、既に小倉弁護士が喝破しています。しわ寄せの矛先を労働者に向けようなどという前提であるならば、その経営は既に失策であり、破綻していると評価せざるを得ません。

もちろん、 Programming First を訴えるひがさんのことですから、プログラミング経験の薄い技術音痴 SE を「ノン・ワーキングリッチ」だと揶揄したい気持ちは解らないでもないのですが、一方で彼らを技術音痴のままよしとしているという事実があるならば、それこそ個人の責に比べて経営の責は大きく、そうした社員の生活を企業が保証できないのであればこれは筋が通らなくなります。

実際、コの業界ではプログラミング経験はキャリア形成の一側面としてしか捉えられておらず、必ずしも最重要視されている訳ではありません。むしろ、人を動かした経験のない人間が独立起業して余所から仕事を得ようとすると、非常に苦労を強いられることになります。

それでも、会社存続のためには、社員にもある程度の負担を強いる必要があるのだとすれば、それはある程度は致し方ないことです。そのやり方は会社によって様々でしょうし、そういった会社に所属している訳でないおいらが口を挟むべき事ではないのかも知れませんが、少なくともコの業界に、そしてその会社内において通用してきた文脈、過去の経緯に対して、論理的に納得のいく査定に基づき、給与の変更や人事等が執り行われるべきでしょう。その責任に経営が大きく関与しているならば (これはおそらくすべての SI 企業に普遍的に言えること、と断言してしまっても過言ではないでしょう)、まずは経営陣の査定こそ、盛大に行われるべきなのは当然のことです。

そういった意味では、例として上げられている日本電算のような経営手法は最低限のものであると捉えられるべきです。この不況下ではこの程度の態度でも輝いて見えてしまうものなのでしょうが、SI 業界に絞っていうのであればこれだけに話を止めるべきではないのではないでしょうか?

SI 業とはオーダーメイド開発サービスであり、BtoB の業態を前提としたものです。オートメーション化の対象は官公庁から企業会計、金融システムに医療システム、交通機関から機械制御、POS システム等に至るまでさまざまであり、カバーする範囲が広いので、ある業種が廃れても別の業種から仕事をもらえれば、という意味では廃れにくい業種ではあるのですが、本質的には人を動かして下請け的な仕事の取り方をする業種なので、今回のように業種を跨いで全般的な不況ということになると、見ようによっては人材派遣業などと同様の皺寄せが襲ってくる業種である、ということもできます。さらに、ひがさんもご指摘のように、SI 業自体が上流工程と下流工程に分離していて、下流工程はガチで上流工程に対する下請けとして成り立っているので、真っ先に影響を受ける (身も蓋もない言い方をするなら、「切られる」) 対称となりかねない、ということになります。

そうした環境の中で、それでもこうした会社が SI 業のみに拘りつづけるのであれば、それは愚かしいことであると断じざるを得ません。実際問題として事業が打ちきられ、人的資源が余ってきてしまったときに、それを単純に経営圧迫と捉え、人を減らし、あるいは給与を低減することでそれを凌ごうと考えるのであれば、そのような経営を取る経営陣は無能であると言わざるを得ません。

もちろん、会社規模が小さく、利益余剰金の蓄えなど無いような企業が、単体でそうした方策以外の策を採ることは難しいでしょう。そしてそのような企業が、人を動かすことはできるがコンピュータを動かすことはできないというタイプの人材しか抱えていなかったりする場合には、申し訳ないが沈んでいただくより他無いのではないかと言わざるを得ないです。それはあまりにも技術を軽視しすぎた結果であり、危機感が無かったと言わざるを得ません。諦めて次の人生を考えた方がよろしいでしょう。

しかし現実には、会社規模は小さいが、下請けとして下流工程に取り組みつづけ、技術的蓄積がしっかりした企業というのも、少なくないはずです。そうした企業が、今回の不況に煽られ、潰えてしまうということが起こるのであれば、それは非常に忍びないことです。

一方で、上流工程を主戦場とする、大手と呼ばれる SI 企業においては、これまでの有利な立場から多くの利益を上げ、純資産の蓄えもあるはずです。主だった企業として、以下の5社の財務・業績データを参照してみましょう。

もちろん、すべての大手が順調にうまく行ってきた訳ではありません。 2007, 2008 年に関していえば、富士ソフトやトランスコスモスのように、黒字ではあったものの、利益が圧迫され、純資産を減らした企業もあったようです。

おいらは元々富士ソフトの社員だったので、富士ソフトの歴史についても聞かされたことがあります。あんまり覚えてはいないのですが (苦笑)、やはりバブル崩壊時には経営が圧迫され、苦労を強いられたという話もありました。おいらが当時の富士ソフトの経営陣を尊敬できるのは、そうしたときに、仕事が無くなって手の開いた社員に、この際だからと自社内のシステム構築に従事させたという逸話があることです。そういう大変な時期にほぼ重なるように、東証二部上場を果たしてもいる訳ですから、その点に関しては大したものだと評価したい。

しかし心配なのは、その後、就職氷河期にも関わらず多くの新卒・中途採用を行い、大量の人材を抱えた富士ソフトさんもまた、基本的には上流指向の強い会社であったということです。おいらたちの代でも例に漏れず、プログラミング技術を要する仕事に従事する機会をあまり得られないまま、早いうちに設計や管理や保守や窓口の仕事に回される人も少なくなかった。事務雑用 (文書作成) に追われていたと思ったらサブリーダーにさせられていた、とポルナレフ状態だった人も結構いたはずです。適材適所という言葉があり、プログラムを書かせるより早めに管理や交渉の仕事に回した方がいい人というのも確かにいるにはいたでしょうが (実際、プログラマーになりたくてこの業界に入った訳じゃないって人も少なくなかった)、その一方で運に恵まれず機会に恵まれなかったという方も少なくない。そうした人々を大量に抱えたまま今を向かえてしまったというときに、果たしてかつてバブル崩壊時にやったのと同じように、人を使いつづけられるのかというと、確かにそれは難しいでしょう。

それでも富士ソフトの場合はまだ社内に自己研鑚の風潮が根強く残っている部門もあるし、それなりに技術を身につけている人もまぁまぁいるのでマシな方なのかも知れません。一番悲惨なのは…、まぁ、個別の企業について語るのはこの位にしておきましょうか。

何よりこうした企業に早急に求められるのは、犠牲をいとわず技術を重視した方針転換に乗り出すことです。そして可能な限り SI からの脱却を計り、人的資源以外の商品を多くこさえることです。それは、ソフトウェアベンダーとしてパッケージ製品を世に送り出すことであり、あるいはオープンソース開発への取り組みに参入して社の技術力を世にアピールすることであり、さらには Web サービスの展開を通じてメディア市場を開拓することでもあります。他にも様々な可能性を視野に入れた上で、技術開発・研究に投資をしてきた企業こそ、生き残る可能性は高くなるでしょう。

しかし、現実問題として、ひがさんも指摘されている通り、今から技術開発・研究に投資しようにも、そうした人材を育てることをしなかったこれらの大手 SI 企業が、今更そのような方針転換を果たすことなどありえないのではないかという見方もあります。正直な所、おいらも無理だと思っています。彼らだけでは

そう。彼らだけでは無理なのであれば、そういう技術開発・研究に投資し、強い独自商品を抱えている中小の中にも、今回の不況に喘いで資金難に陥っている会社はたくさんあるはずです。そういった企業に手を差し伸べてみてはどうでしょうか? そして、そういった企業に見習い、今からでも、技術を貪欲に吸収し、共有していく。技術を磨くという風土を企業内に広げ、それを主だった評価軸として査定を行い、給与や人事に反映していく。そうやって社内を磨いていくことで、より強靭なソフトウェア・システム開発企業へと育っていくことでしょう。

今こそ、コの業界を代表する企業としての、真価が問われるときなのですから、経営者の方々には、現場とよく協調し、真摯に取り組んでいただきたく存じます。

「10年泥」でもいい。技術を大切に育ててほしい。