「勉強」という語が「便利な言葉」化されているようですね。2008年12月25日 13時39分25秒

最後の dankogai さめの記事がもうこれでもかっちゅーほどに叩かれまくっている。元々世間一般的な意味で言うところのいわゆる「勉強ができる子」に対する卑下が蔓延していることへの憤りに対して、最初っから厳密な (? あるいは俺様定義の) 「勉強」を指して「それだけできたって仕方ないだろう」という話に持って行こうとしているわけだから、話が通じるわけがない。

ただ、一方で id:pollyanna さめの体験談に同情された方がその後の dankogai さめのエントリーに腹を立てるのは心情としては理解できるんだけれども、彼が最初から、いや、あるいは昔っから「勉強」という言葉を斯様な意味で捉えていた、そしてそのような意味で「捉えるべき」だと考えていることを鑑みれば、全く読む価値のない記事であると切り捨ててしまうのももったいない話なのではないかと、敢えて擁護してみたく思う。

実際の教育現場において、どこまでを「勉強」と捉え、どこからを「学習」と捉えるべきか。これは、特に義務教育課程においては重要な課題なのではないか。こう持ち出すと、そもそもそれが「勉強」なのか「学習」なのかは個人の気の持ち様の問題であってその基準は千差万別、教育現場において一律の基準など示しようがない、という反論が容易に想定できる。確かに、基準が一律である必要は、無いのかも知れない。

一方で、現場で教えている先生方にせよ、あるいは自分の子どもを学校に通わせている保護者の方々にせよ、最低限、この程度の知識は備わっていなければ、将来社会に出て圧倒的に苦労することになる、という実感というのは、少なからず持ち合わせているのではないかと思うのだ。これは、以前、ふろむださめのところで勉強することの必要性に関する議論が多くの議論を呼んだ際にも、やはり教育現場に近い方々の意見としていくつか出ていたものだ (参考1, 2 と、関連する自演1, 2 / Snail Blog さんとこのはアクセスできなくなっちゃってました…)。ただ、そういう方々においても、その「最低限」がどこにあるのか、という基準は、やはりばらばらなのではないかと思う。義務教育課程に用意されているものはすべて、という人もいるだろうし、せめて読み書きそろばんぐらいは、という人もいると思う。その一方で、先天的な障害故に、周囲が「最低限」というものでさえ、まともに習得できない子を持つ親にしてみれば、口では同情されながら、現実的には我が子を人として認めてもらえない現状を苦々しく思っているかも知れない。

ただ、法によって国の教育を統治する国家の視点で言うならば、義務教育の名の下、「絶対に」とは言わないまでも、できる限り国民全員に習得してもらいたい教養を、その思いを込めて義務教育課程に組み込んでいるのであろうし、そうであればその内容は、好むと好まざるとに関わらず、その教育を受ける国民全員が「勉強」すべきもの、ということになるのだと思う。であれば、「学校で習う、教科書に書かれた内容を習得すること」がすなわち「勉強」として解釈される一般的な用法は、あながち外れてはいないのだと思う。その一方で、「勉強」の規定が国家によって一方的に押しつけられている現状を、純朴にも容認し、受け入れていることにもなる。

個人的には、人が何を学ぶべきであるかを規定することは、本質的には個人に委ねられるべきなのだと思う。その一方で、そうした類の自我、自覚に到達するには、多くは社会的つながりによって補われるものなのであろうが、やはりある程度は知識も必要なのだとも思う。興味の対象が文書に記されたものであるならば、それを読みこなす教養というのも、どうしても必要になってきてしまう (これは単純に国語力という意味だけではない。例えば物理学的知識を学ぶには数式に関する知識とそれを読みこなす能力 (センス) が必要になる。)。逆に言えば、多くの場合、社会的つながりがその人の人生における興味の対象をも規定してしまう。かつてはそれは地域社会、地域の産業によってもたらされていた。漁師町では漁師を目指し、商店街では店を継ぐ。学問に目覚めて首都を目指すのは例外的存在で、それは外面的には故郷に錦を飾るという目的で体裁を整えた場合に限り賞揚されていた。

最初の議論、すなわち勉強ができるとバカにされる問題というのは、そういう時代における価値観の名残なのであって、つまりは出る杭を打つだけの村社会意識に過ぎず、それは昔からあるもの (というより、むしろ昔の方が強かったもの) なのであって、今の子たちの頭が良くなったなんて言う話では全然無いのは明らかだ。

じゃあ今の時代はそれよりマシになっているのかというと、少なくとも経済的・産業的側面においてのみ言えば、宮台氏なんかがさんざん言い続けてきたように、一方では地方の産業を衰退に促し過疎化を進め、一方では単一の (すなわち、事務処理が優秀な人間が優れているとする) 価値観における競争ばかりが行われ、技術職・研究職がヒエラルキーの下の方に虐げられるというイマイチな状況が醸成されていってしまった。「学歴志向」が単なる大学名のブランドとして解釈されてしまったのも弊害としては大きいと思う。

さて、dankogai さめは否定するかも知れないけれども、おいらからしてみれば、 dankogai さめはめちゃめちゃ「勉強ができる子」だったのだと思う。これは dankogai さめが「本来的な意味」だと主張する意味ではなく、より一般的な意味での「学校の勉強ができる子」という意味で。16歳で大検をとり、年上の子に「学校の」勉強を教え、日本の大学ではないとはいえ、れっきとした大学 (カリフォルニア大学) に入学もしている。中退したのだってあくまで個人的な事情によるものだ。

だからおいらは、 dankogai さめがこういう話を展開するときには、基本的には「学校の勉強だけできたって仕方がない」という意味で捉えるようにしている。それは、個々の人間に当てはめて考えるならば、正しいといわざるを得ないケースも、少なからずあるのだと思う。ていうか、おいらぐらいまでの世代でプログラマーとかやっている人たちにしてみれば、その職能を学校以外の場で独学で取り入れたという人がほとんどなのではないかと思うし、「プログラミングは独学じゃないと身につかないよ」って本気で思っている人も少なくないと思う。おいらも、プログラミングを学校の授業で教えてマスターさせる、というのは、これはちょっと難しそうだな、という意味では、そうした見解に同意せざるを得ないと思っている。

その一方で、「学校の勉強はつまらないものだ」という価値観が一般に蔓延し、それがいわゆる「勉強ができる子」に対する侮蔑、いや、差別を助長しているのだとすれば、それはゆゆしき問題なんだけど、そうした問題は「学校の勉強」という枠組みにとらわれるまでもなく、差別全般の問題の一つとして捉えるべきなのだろうなとも思う。本質的には、オタク差別や、出身地差別や、金持ちへの僻みなんかと変わらないものだ。子どものうちはある程度は仕方がないものなのかも知れないが、大人になるまでにそうした意識は極力ぬぐい去られるようでなければならない。そのためには何が必要なのかというと、まずは今の大人たちが意識を改め、子どもたちに示していくべきなのだと思うし、そういう意識を持った大人と接する機会が得られるような仕組みが、地域を主体に設けられるべきなのだと思う。どうせ不況なんだから、今、忙しくしている大人たちの仕事を、仕事がない人たちにも分配し、もっと自由に持て余せるだけの時間を持たせて、それを地域に、あるいは自分の子どものために、コミットさせてあげて欲しいと思う。

親や教師が子どもに「勉強しなさい!」「宿題ちゃんとやったの!?」と叱責し続ける限り、「学校の勉強はつまらない」という誤解は蔓延し続け、差別も蔓延し続けるだろう。おいらは昔からぶれずに「勉強をさせるのではなく、学ぶことの価値に気づかせるべきだ」と主張し続ける dankogai さめに、基本線では同意する。そしてそれだけが、こんな下らない差別の蔓延を抑える、唯一の方法なのだと思う。

イマイチまとまらないけど… (おいらも勉強不足だw)

たかだか事務処理の不便の話を一般化したところで詮無き話2008年12月17日 09時34分52秒

後者は前者の記事に対する文化面での反論として秀逸だと思ったんだけど、その割にあんまり注目されてないっぽいのでリンクしてみた。

でもこれって、所詮は事務処理の不便にまつわる話でしかないのよね。だから池田氏もわざわざガラパゴスや北朝鮮を蔑視するような書き方しなくても、「事務処理上不便なのでそういうシーンではサイン・西暦・横書きで統一しましょうよ」、でとどめときゃよかったんじゃないの? とか思った。

一プログラマーとしても、そういう意味ではありがたい提言なのよ。サインならタブレットで可能だし (電子印鑑ってあるけど単なるビットマップだし…って最近のはそうでもないのか?)、西暦で統一されれば時刻管理は確かに楽だし (っていうか年号変わるたびにプログラム作り直しとかまぢあり得ねーし)、そして縦スクロール UI にマウスまでもが特化されちゃった状況で縦書き文章は扱いづらいし。

でもこれらってあくまで事務処理に限ったお話であるべきで、事務処理の都合のために文化まで捨ててしまえ、というお話になるべきではない。歳とるとその辺面倒なのでひっくるめてしまいがちなんだけど、周囲も周囲でその辺汲んで話し合わせてあげればいいのにwとは思う。

まぁその割には週アスだのだいもやんどだのの紙メディアが引き合いに出されるのは意味不明だし、掲載前の契約締結 (金銭面的なことを考えればとても親切な対応) を「失礼」だと斬って捨てるのはもっと意味不明だけんども。

とりあえずビール2008年12月17日 07時19分00秒

武蔵小杉店ですか? 一度は行っておきたいなぁ。

「とりあえずビール」という呪文は、個人的には職場の飲み会で使われることが多いですね。若手中心の職場であっても、ある程度人数が多くなってくるとやっぱり便利に使われているように思います。

氷河期世代ぐらいまでは、少なからず「とりあえずビールシンパ」なる者がいて、そういう人が幹事やそれに近い役割を務めたりすると、身内の飲みであっても率先して「とりあえずビール」を行使したりすることもあります。ゆとり世代にまで突入しちゃうとどうかはわかりません。ビール飲める子も少なからずいるけどそれに固執はしない、という感じですかね? 去年いた職場で高専からバイトにきてくれていた子たちはカクテル好きが多かった気もしますね。自分で作ったりもするようで、おいらもカクテルレシピには興味あったのでちょっと話が盛り上がりましたが。

ビール嫌いな人や、そもそも仕事付き合いの飲みが嫌いな人からは、「とりあえずビール」を唱える行為は人権侵害だとして糾弾されたりもしているようですが…とくにネット上ではそういう声が結構大きいですね。「おっさん=ビール」というイメージを定着させた上で俺はビールじゃないって書いてる人の中には、そうやって書くことで若さをアピールしたいだけのおっさんも混じってるんじゃないかと睨んでいたりもするわけですが…w

まぁ、本来飲み屋というのは憩いの場所であって、くつろぐ場所なわけですから、飲みたい飲み物を選ぶのに費やす時間だってたっぷりあってもいいわけです。もっとも混み合う金曜の夜とかだったりすると時間制限を設けられちゃったりして急かされることもなきにしもあらず、なのですが。少なくとも個人的には、ここ最近の身内での飲みで「とりあえずビール」と言うことは全くなくなってしまって、みんなしてお酒選びからぐだぐだ選ぶのを楽しんで店員さんを困らせたりしています。w

お店にも依る、という側面もあるでしょうか。やっぱり日本酒の銘柄を多く取りそろえているのが売りの店であれば日本酒を飲みたいですし、モツ鍋屋で飲むのであれば芋焼酎が飲みたいですし、フレンチとかイタリアンとかであればワインを飲みたいわけです。せっかく飲み物まで店側がおすすめを紹介してくれているのに「とりあえずビール」って、それはそれで失礼な話でもあります。逆に言えば、「とりあえずビール」ぐらいしか飲むものがないようなお店で飲み会とかあんまりやりたくないって話でもあります。いいお店でも飲み放題コースにすると選べるお酒の種類がものすごく狭まったりして、やっぱり同様にげんなりするので、よっぽど仕事上の付き合いで大人数とかだったりでもしない限り飲み放題コースはまず選びません。

結局、効率が必要な局面において「とりあえずビール」は呪文として便利に用いられている、という話であって、それはある程度歳のいったおっさんたちであってもそんなにずれないんじゃないかなぁと思います。あとは固定観念の問題。確かに自分一人しか飲まないのに最初にビールを飲んでから別のものを飲むという人もいますし。まぁ風呂上がりのビールは美味いんだけれども。

ただ、 id:y_arim さめも指摘されているように、若い世代ではこの呪文が別の呪文に置き換えられつつある可能性は無視できないとは思います。さすがにラッシーはないと思いますが。ラッシー置いてる店ってむしろ少数派だと思うし (チェーンの飲み屋だと普通にあったりするのかしら?)。基本的に、選択肢としてはリーズナブルな酒が選ばれる傾向にあると思うので、口当たりも考慮すると、「とりあえずレモンハイ」辺りに落ち着くことになるのではないでしょうか。酎ハイも、上手に作ればなにげに美味いですからね。上手に作れば。

ブログ内スクリプトが Firefox 3 でも動くようになったー2008年12月06日 19時25分19秒

Firebug でエラーが出てる正確な場所を突き止めることができたので追ってみたら、スタイルシートにスタイルを追加している部分で複数あるスタイルシートすべてに同じスタイルを追加しようとしていて、それでこけてたらしい。最初に見つけたスタイルシートにだけ書き込むようにしたら動くようになった。よかったよかった。

毎日 Wikipedia 誤報の問題点2008年11月20日 11時44分16秒

毎日新聞が元更生事務次官らの連続殺傷事件に絡み、Wikipedia ユーザーのログイン名を晒して犯行予告者扱いした誤報について、Web上では既に毎日新聞の問題点がいくつか指摘されている。

id:KoshianX さめの主張も藤代さめの主張もごもっともなんだけれども、個人的にこれは問題なんじゃないかと思う点について軽く列挙してみようと思う。

  1. 容疑者にもなっていない人を犯罪者扱いする報道は許されるべきか?

    id:KoshianX さめの主張とも若干かぶるんだけれども、個人を特定する情報を晒してしまうということ以前に、ジャーナリズムが犯人探しに加担するのは職責から外れるのではないか、とかちょっと思った。ただ、ジャーナリズムは事実・真実の探求を代行するお仕事である以上、それに準ずるような行動も時として必要なのかもしれない。例えばけーさつが重要な事実を隠しているようなケースであれば、それを暴き、衆目に晒すようなジャーナリズムは賞揚されるべきだ。

    いずれにせよ、慎重に精査する必要はあると思う。今回の件では、結果として、この精査が足りなかった。もちろん、当該誤報が掲載された朝刊を引用して報じてしまったテレビ番組も然りで、新聞を信用しきって鵜呑みにするのではなく、各番組の責任において十分な裏取りを行うべきだ。

  2. 表層だけ見て記事にするのではなく、もっと深いところまで調べるべきだ。

    失敗は誰にでもある。新聞記者だって間違える時は間違えるんである。そこは、読み手が理解した上で、情報との距離の取り方を学んで行くべきだと思う。

    一方、失敗は学習の宝庫でもある。失敗した人間は考え、学び、その教訓を次に生かすべきだ。我々はそうした営みを「反省」と呼ぶ。

    では、今回の失敗を犯してしまった記者は、何をどう、反省すべきか? ここで、Wikipedia が時刻を UTC で表示する事にばかり着目し、「ネットや IT を知らないからいけないんだ。もっとこれらを学ぼう」とか言ってそれっぽい How To 本を買いに走るのは、まったくの無駄だとは言わないが、ジャーナリストとしてはイマイチだと思う。たとえ、日本の Wikipedia の時刻表示がグリニッジ天文台基準であった事を知らなかったとしても、今回疑われた Wikipedia 編集人の Popons さんについて、より深く追求して調べていれば、犯す可能性の低い間違いだったのではないか。例えば、Popons さんの過去の投稿記録を追って調べれば、彼がどれだけ Wikipedia に貢献してきた人か、あるいは彼がどういったことに興味・感心を持っているか、といったこと、すなわち人物像が浮かび上がってくる。そして、そのような人が、愛しているはずの Wikipedia という場を、犯行予告などという行為で汚すという行動の不自然さを思えば、これをネタとして出稿することにもう少し慎重になれたはずだ。

  3. 署名がないので文責が不在。

    責任という観点においては藤代さめの主張とも被るが、誤報の記事にもお詫びの記事にも署名がなく、毎日新聞社のどの記者に文責があるのかが不明である。これは今回の件に限らず他の多くの記事においても、あるいは他の新聞社においても同様であるが、記事の責任を会社が担保するというやり方が、個々の記者の責任感を薄めてしまっている可能性はもう少し考慮されるべきと思う。特に、ガバナンスがなく個々の社員が自由奔放であることが売りの毎日新聞社であればこそ、個別の記者の顔が読者にもっとよく見えてもいいはずだ。せっかく、人気の名物記者が生まれる素地が社内文化として確立しているのに、それを積極的に売り込まないのはもったいないとさえ思う。

  4. スタンドプレーが過ぎる可能性; 社内コミュニケーションは大丈夫か?

    で、スタンドプレーと言えば聞こえはいいが、要するに個々の社員が孤立していて、記者同士でのコミュニケーションが希薄だったりするような空気が蔓延しているんじゃないか、とも危惧した。まぁ、他にも何人かが当該記事に目を通していて、誰もがこりゃあ凄い、よく見つけたねと褒めまくっていた可能性も十分にあるので何とも言えないんだが、例えば取材チームみたいなのを組んでいて、チーム内でネタのレビューをすることによって、ネタのプロットに対する疑問点が洗い出され、ニュースとしての精度が上がっていく、といったような段取りは無いのか? 上司であるところのデスクの承認、だけでは、やっぱり情報の精度を維持するのにも限界があると思う。情報にスピードが求められるならばこれはなおさらで、短時間で精度を上げるなら、やっぱりある程度の人数をかけるしかないんじゃないかと思う。

とりあえずこんなところで…。

「あいさつ奨励」は、諸手を挙げて賞賛されるべき政策と言えるのか?2008年11月01日 00時33分26秒

本日最も、ゲンナリさせられたニュース。

ブクマ米では、好意的な反応が多かった。おいら的には、そうした多くの反応も併せて、なんだかえも言えない気持ち悪さを感じてしまった。

社会人になって 2年目の冬、同じ寮に住んでいた会社の同僚に、セミナー系のマルチをおすすめされた、なんてことがあった。新宿に夜9時に飲みに行きましょうとか、その時点でなんだか怪しいとは思ってたんだけどね。

で、本拠地にも乗り込んだ訳なんだけれども、そこでの彼らがまたものすごく体育会系なノリで、あう人あう人、大きく声を張り上げて威勢よく「おはようございます!」って挨拶していた。

当該記事を読んで真っ先に思い出してしまったのが、それだった。

ただ、共に仕事をこなす仲間同士の連携を深める、という意味でも、挨拶を習慣化すると言うことは、決して悪いアイデアではないと思う。だから、連携を深め合えることが当然の状況下であるならば、挨拶を重視し、その抵抗を減らすための取り組みを行う、というのは、社内政策としては悪くないのかも知れない。

その一方で、挨拶というか、業務に関すること以外のコミュニケーションにおいて、気さくさを演出する、といったことが苦手な人、というのは、少なからずいらっさると思う。幸運にも、おいらは必ずしもそんなことはないんだけれども、一方で、疲労が溜まっているようなときなど、挨拶が億劫になるような心理状況も、確実にあったりはする。

そういう人や時においても、「挨拶ぐらいできて当然」という空気が蔓延する中で、半ばそれを強要されているような抑圧を感じてしまう可能性、という部分への配慮というのは、あっても良いんじゃないか、とは思う。それでも挨拶を奨励するなら、逆に、…挨拶した。でも返事がなかった。というときに、いつもは返事するんだけどな。まぁ、疲れてるんだろうな。ぐらいに思える程度の、心の余裕があっても良いんじゃないかな。とは思うのだよ。それを思えないんだとしたら、それってどっちもどっちなんじゃないかなぁ。っていう。

それでも、その職場にいる人たちが、全員が社員で、立場としては対等で (まぁ、役職の上下はあるにしてもだ)、そういう仲で連携を深めよう、という意味での挨拶奨励ならば、それならまぁ納得も行くんだ。でもさ、例えば経費節減のために、人件費を浮かせる目的で派遣などの非正規雇用を多く雇っているような職場だったとして、そういう職場の社員が、非正規雇用の人たちもひっくるめて、挨拶奨励を推し進めよう、というのであれば、それはちょっと違うんじゃないの? とは思うんだ。

いや、もちろん、非正規雇用だったら、低賃金だったら、挨拶しなくても良いじゃないか、なんてことを言いたい訳じゃないんだ。ただ、金銭面で差別化が図られ、場合によっては業務においても社員があまりやりたがらないような雑務とかを押しつけていたりするような状況があるんだとすれば、そういう憂き目に遭わされている労働者が、あんまり積極的に社員の人と仲良くなりたくはないな、と思ってしまうんだとしたら、それは仕方のないことなんじゃないかな、とか思うんだ。これはおいらも一時期派遣をやっていたから分かる、なんてことは全然無くて、実はまるっきり想像で書いているわけだけれどもね。なにしろおいらが派遣として働いていた会社では、派遣はどちらかと言えば入社見習い的なポジションで、割と積極的に社員として雇い入れていたし、仕事面でも差別的なところは全くといって良いほど無かったからね。逆に社員と同等かそれ以上の寝泊まり進行で、むしろしんどくはあったけどw。そんな感じで普段の待遇からして公平性が保たれているのであれば、そういう政策もある程度は納得は行くんだけど、そうでないと、なんだか押しつけがましさばかりが印象として強くなってしまうし、そんなところばっかり同調を求められても、生きづらさを感じてしまうばかりなんじゃないかなぁ、とか思ってしまうわけなんよ。

挨拶ってのは形式的なもので、これに心理的な効果を期待されているのだとしたら、それってつまりは「感情的コミュニケーション」としての期待なのだと思う (「感情的コミュニケーション」って言葉については、まぁ、各自ぐぐって調べてみてちょ)。だとすると、これは実はコミュニケーション強者に有利なルールで、非コミュやそれに近い人たちにしてみれば、こんな些細なルールでさえも、結構心細さを感じてしまうものだと思うんだ。逆に、挨拶をすることから少しずつ、感情的コミュニケーションに馴らし、練習していこう、という意図なら、そういう仕事 (もっぱら営業とか) に関して言えばなるほど確かにその通りだなとは思うんだけど、そうでもなければ、彼らにあんまり生きづらさを実感させるような政策は、ほどほどにしておいた方が良いんじゃないかなぁ、なんて、ちょっとどころじゃなく心配になった次第なのです。

「妄信」とやらがプログラムを「複雑」にするという迷信2008年10月27日 16時04分38秒

職場からなので簡潔にw

  1. 「変数のスコープは狭いほど良い」と妄信する
  2. 「同じロジックのコードを2度以上書くな」と妄信する
  3. 「プログラミング言語を極めるのが大切」と妄信する

変数でもメソッド名でもクラス名でも言えることだが、単純に「スコープは狭いほどよい」という方針でプログラムすると、逆に保守性も可読性も悪いプログラムができあがることがけっこうある。

同じようなパターンがプログラムの複数箇所に現れる場合、それらを抽象化して一つの共通ロジックへのパラメータ渡しとして実装し、それを複数箇所から呼び出すように実装すると、プログラムコード量が小さくなり、保守性が良くなったような気がするので、未熟なプログラマが、なんでもかんでも共通ルーチン化しまくって、非常に保守性の悪いプログラムにしてしまうことがある。

レベルの高いエンジニアは、同じロジックのコードが複数箇所に現れている方が、適切な判断の結果であることはけっこうあるということをよく知っている。

とりあえずこの、最初の二つ。個人的な経験においては、この二つでそれほど困ったことになったということって、実はあんまりない。それは、多分、おいらの個人的な仕事経験において、こういうことで困るほど、周囲の方々に能力的に拙い方が多くいらっさるような現場に、お世話になっていたということが、まったくと言っていいほど無かったからなんだと思う。

そういう意味ではおいらはこれまで非常に幸運なんだけれども、反面、そういう意味での不幸な状況というのは、個人的には異常事態なんじゃないか、とも思う。

とりあえず、シンボルのスコープは必要以上に大きくなりすぎないように気をつけようとか、安易なコピペはなるべく避けよう、といった指針は、作業効率を考慮した場合において、逆の指針にしておくより明らかに安全であるはずだ。もちろん、「無理に」スコープを狭くしようとしたり、「無理に」抽象化しようとしたりさえしなければね。逆に言えば、無理のないスコープの限定の仕方、無理のない抽象化の方策が考えつくのであれば、多くの場合、これはやるに越したことはない。初心者の方がこういう部分でトライ&エラーに躍起になるのは、おいらが上司なら応援したいところだし、それが原因でスケジュールに多少の支障をきたしたとしても、かばってあげたいと思う。各人の戦力を考慮し、そういう部分も織り込んだ上でスケジュールを組むのが、多分最も正しい。

セオリーとされる物事に対して、「必要以上に○○すべきじゃない」と言ってしまうのは、その○○に技術的な難しさを感じる「未熟な」プログラマーに、妥協の余地を与えてしまいかねない。プログラマーとして、技術者として先輩風を吹かせたいのであれば、そう言う部分については政治的な考慮がもう少しあってもいいんじゃないかなぁ、とは思った。

一方で、この件に関して大きく対立する意見を表明されている方がいらっしゃるんだけれども、

まず,実際には多くのフレームワークやライブラリを用意するだけで事足りる場合が多い.独自の言語仕様を制作するのは『車輪の再発明』でしかなく,作られた言語は一般的に普及した言語に比べより未熟で質が悪いことが多い.開発者にとってアプリのデバッグだけでなく言語のデバッグも同時に行うことは非常に大きな負担となる.なにより似て非なる二つの言語を覚えることは単なる時間の浪費だ.よほど大きなメリットがない限り,独自仕様『粗悪』言語の出番はない.

プログラミング経験がほとんどない初心者に毛が生えた人が,このように主張する事が多い.特に抽象の取り扱いは開発者の素質に大きく依存するらしいので,素質のない人がこういう結論に至るのは驚くに値しない.自分のプログラミングテクニックの未熟さを棚に上げて,抽象に責任転嫁することがないよう注意しよう.

ひじょーに Java 屋さんらしい意見だなぁとか思った。いや、厭味とかではなくて。世の中にはこういう技術者さんも確実に必要だと思う。

でも、「おいらは今 Lua でプログラムを書いているはずなのに、言語仕様には存在しない MVC モデルに躍起になっている…」なぁんて環境での開発を1年間ほど経験させていただいたりしたおいらとしては、言語拡張にも近い現場ルールの適用程度の「自由度」も楽しめないプログラミングというのも面白くないなぁとか思ってしまうしw、単に抽象化と言ってしまうよりもアクロバティックなテクニック (演算子オーバーロードとか TMP とかw) も、「正しく」活用できるところでは活用したいよなぁとか思う人なのでw、そういう意味では若干相容れないかなぁ、とか、ちょっと悲しいことを言ってみたりもするわけなのですよ。

よーするに論を決してしまうならば、言語仕様的にも設計テクニック、セオリー的にも間違っていない事柄について、知識も向上心も無い人たちを前提とした職場づくりというのは、下策なんじゃねーの? ということ。自分たちが現場において要求すべき技術レベルというのをある程度高めに設定したうえで、そういったレベルでの開発についていけない方々に、無理に仕事をお任せする必要もないんじゃないかなぁ。厳しいことを言うようだけれども。

もちろん、現場はそうせざるを得ないんだと断末魔を上げたい気持ちもよく分かる。そんな優秀な人を雇い入れるお金もない。でも、安全で住み心地の良い街に住みたいなら税を高くして福祉に金を賭けろ、って言う議論があるのと同様、モチベーションを維持しつつ気持ちよく仕事をしていきたいならば、経営者が従業員に金をかけるべきなのは至極当然なんだよね。本来そうやって技術に明るい技術者を育てたいなら、積極的に技術に明るい人間を雇い入れ、根っこから技術に特化した風土を社内に培っていかなきゃならないんじゃないかな。それが、技術で食っていく会社の、経営者の責任だと、おいらは思うわけですよ。

せめて、PHP で「関数の引数以外の場所での参照渡しは禁止」みたいな、あるいは値の型でモンゴリアン、じゃなかった、ハンガリアンの強制とか、そういう、優秀な人々の生産性を抑制するようなルール作りは、廃絶していくべきなんじゃあないかなぁ。

怠惰なおいらは、飽きない。2008年10月16日 02時14分02秒

例によって例のごとく、呑んで帰って布団に潜ったら目が覚めてしまって寝付けなくなってしまった。こんな時はブログでも書くに限る。

最近の自分の行動を振り返って、思うことがあったので、そのことを書こうと思う。愚者は経験に学ぶ。

おいらは昔から、何か一つのことに夢中になり出すと、他のことはそっちのけで、そればかりに時間を割き続けるという癖があったように思う。小学校の頃はファミコンに夢中になる時期があり、中学生の頃は PC-8001mk2 というマイコンの BASIC でゲームを作ることばかりに夢中になり、高校では FM-TOWNS の内蔵音源で音楽を作ることばかりに夢中になり、大学では MIDI 音源で DTM に夢中になった。かと思えば、卒業研究のために Visual C++ に触れるようになって以降は C++ でのプログラミングに夢中になったし、その流れで今の業界にもすんなり入れて、運良く出向した先の職場でプログラミングに勤しむことが出来るようになった。

去年一年間も、久しぶりの C++ での開発と言うこともあって、かなり良い感じでのめり込めたように思う。OPTiM のみなさん、元気ですか? サブプライムの煽りで経営が傾いたりしていませんか? 余計なお世話ですかそうですか。うちはそもそも経営成り立ってすらいないですが (苦笑)。

近頃はというと、蓄えが無くなってしまったために急遽入れてもらったお仕事がテストの仕事で、それも当初は自動テストの環境構築から関わらせてもらえるような話だった筈なんだけど、気がつきゃ開発途上段階のマニュアルテストに明け暮れる日々。大事な仕事だとは分かっちゃいるんだけど、いまいちノりきれないまま、惰性で日々を送っている状態。

こういう状態が実は一番良くなくて、他のことで気を紛らわそうにも、何もする気がなくなってしまうばかり。言い訳してないで家で出来ること、個人的な開発でも進めていれば良いんだけど、通勤時間 1時間半は伊達ではなく、早く帰っても晩飯作って風呂入ればあとは寝るしかない時間になってしまう。例によって出勤時間にあんまり厳しくない職場なので、朝も遅くなりがちになり、PC つけてもはてブのホッテントリにあがる記事を読んでは一喜一憂しつつ下らないコメントを並べる日々。時間があってもそれを有効に使おうという気になれないまま、なんとなーく、DS の電源を入れ、マリオカートとか始めてしまう。そんな日々が、ここ数ヶ月、続いている。

はてブにせよ、DS にせよ、一つ一つの時間の使い方について、なかなか飽きがこないのだ。数ヶ月単位で同じゲームばっかりやってれば飽きそうなものなんだが、これがなかなか飽きない。糞生意気な髭の配管工どもがおいら (そいつはいつだって猿だ) の行く手を阻む度、遠く後方からタイミングを見定めたかのように雷やらトゲゾーやらを飛ばしてくる度、おいらの中の狂気や加虐心が沸々と…まぁよーするにムキになるわけである。むっきー。

せっかく DS-10 とか買ったのに、あんまり曲とか作れてない。激しく良くない。

おいらが物事に飽きが来にくい性格をうまく活用すれば、時折とても生産的な結果を導くことが出来ることも、自分では理解しているつもりなんだけど、いまいちそういう方向に繋がっていないように思う。もっとも、飽きが来にくいと言っても、大きな成果を上げるうえでは決して長い期間というわけでもなかったりする。おいらが作るものが割と中途半端にできかけのまま放置されるケースが多いのはこの辺に起因しているように感じる。で、放置している間何をやっているのかと言えば、大抵ゲームとかマンガとかそっち方面の、あんまり生産的でないことに時間を費やしていることが多いのだ。

目標や期限を決めても、簡単に破ってしまうことが多い。多分、自分を追い込むことに成功していないんだと思う。それに、追い込めばうまくいくと考える方が、多分甘いと思う。そういう問題ではないのだ。

とりあえず今の自分に必要なことは、やるべき事がなんなのかを今一度整理してみることだと思う。とりあえず喫緊では会社の決算をやってしまわないとまずい。かなりまずいw いや笑い事じゃないか。来週にでも一日休みを入れて、税務署に行ってこないとなぁ。

今の仕事は 10月一杯で終了なので、それまでに、それ以降にやるべき事の準備をしておきたいと思う。とりあえず、夢中のベクトルを切り替えることが先決だ。

とりあえずはてブと DS は、しばらく封印かなぁ…。

やじうま的人権論議所感2008年09月17日 08時12分23秒

ホームレス支援に絡む人権論議で面白い議論があったので紹介。

話の流れとしてはこんな感じ。

  1. それ以前に、「そもそも (ホームレスに、あるいはそれに限らず) 人権なんて (概念、思想として、あるいは現実的、運用において) 存在するのか?」という論がぽろぽろ噴出していた。
  2. hokusyu さめ: 「すべての人に (当然ホームレスにも) 人権は自明なのだから、ホームレス支援も自明」
  3. inumash さめ: 「人権が自明だと理解していない人には自明だと断じるだけでなく、人権思想の意味や歴史背景を説明すべきでは?」
  4. hokusyu さめ: 「意味を論じることに応じれば自明性を揺さぶられ、時間稼ぎに乗せられるだけ。自明だと言い張り続けることこそ重要」 ←今ココ!

おいらは inumash さめの意見は教育のお話だと理解した。つまり、現実問題として「人権」という概念が、義務教育課程においても公民の授業で取り扱われているにも関わらず、文化としては未だにちっとも浸透していないという現実がある。現状、ホームレスにおかゆの炊き出しをして食いつなぐことを支える行為は、糞害をもたらす鳩に餌をやるのと同等の迷惑行為として捉える方々が少なくない (人によっては鳩の方がかわいいからむしろ炊き出しのおかゆは鳩に食わせてやれっていう人もいるかも)。で、そういう考えを持っている方々でも、一方では「人権」という言葉を理解しているつもりだったりする。

「すべての人に人権が保障されているわけではない」とか、「そもそも人権なんてものは自明ではない」とか言えちゃう人がいるって言うのは、これはどういう事かと言えば、人権という言葉の意味を正しく理解していないと言うことで、すなわち言葉を辞書に書かれている意味通りに使えていないということ。よく、どんな言葉であっても、「私は○○という言葉は××な△△という意味で使っています」とかって宣言する人がいるけど、まさにそういう行為そのものなんだよね。本当はその言葉にそんな意味はないのに、その程度の意味の改変は許されると思っている。そういうことをしょっちゅうやっちゃう人ってのもいるし、場合によってはやりたくなっちゃうケースってのも確かにある (おいらにもある、って言うか割とよくやってた気もするw)。

おいらがいわゆる「便利な言葉」 (意味を曖昧にさせることによってどんな場面にもいくらでも便利に使えちゃう言葉。「うざい」とか「フツー」とか) に神経を尖らせる理由の一つがここにあって、よく、言葉の歴史は意味の変遷の歴史だとかって言う人がいて、それはひとえに事実なんだろうけど、でもその事実を根拠にそうした言葉の使い方を無碍に許容するばかりでは、「思考」も「議論」も、はたまたまともなコミュニケーションでさえ、成り立たなくなってしまうんじゃないかという危惧がある。今回のケースはまさにそれで、「人権」って言葉の意味論をこねくり回し続けるだけでは、きっと実運用としてのホームレス支援については、議論は一歩も進まないだろうね。これは、むしろホームレス支援をやりたくない人たちにこそ、実害は大きくなるんじゃないかな。大抵の場合、どう転んだって誰かが何らかの形でやらなきゃならないことこそ、後回しにすれば後回しにするほど、そこに手をつけなきゃならないリソースは、人的にも金銭的にも膨らむばかりだよ。だだ捏ねて邪魔をすればするほど、我が身に降りかかる可能性は膨らむばかりだ。

というわけで、薄情で面倒くさがりなやじうまのおいらとしては、ホームレス救済支援が政策として一歩でも二歩でも先に進んでくれることを切に願う。そのためには、 inumash さめ的な深い議論は頭の柔らかいお子様向けに公民の授業に取り入れられることを期待するにとどめ、分からず屋の幼稚な大人向けには hokusyu さめ的な「自明なものは自明なんだ」の一点張りで突き進む、というのを支持することにします。

まぁ、貧困問題ってのはいつ我が身に降りかかるかも分からない問題なわけだから、そこから救済される社会システムがより公正に構築されるっていうんであれば、おいらとしては支持したいけどね。税金の使い道としても、プライオリティ高めで。個人的には、このプライオリティは 1 に教育、 2 に研究、 3、4 がなくて、 5 に福祉だと思ってるけど、うわぁ、どれも実際は…。

文句は誰に届くのか2008年09月02日 04時16分51秒

1つだけ。「文句」という言葉の取り扱いについて気になりました。

文句を言っている人は、多くの場合、「文句は言う、でもやるんだよ」のはずです。また、やってない人に対するアドバイスは、「文句は認める、でもやろうよ」なはずです。文句そのものが認められないなら、その内容について話をすることになりますが。しかし、guri_2氏は「そんな暇があったら」、「ビタ一文意味がない」と貶める、それ自体を無駄・無意味と規定するわけです。内容ではなく、「文句を言う」それ自体が無駄・無意味なわけです。

どうも、彼において「文句をいう」ことは「行動しない」といういことと強固に結びついているようです。むしろ、「文句をいう」からこそ「行動する」、できるようになった、というようなこともあると思うのですが。理不尽に立ち向かう勇気は、しばしば、理不尽を理不尽であると認めてもらえることによって奮い立つものです。そういうことがスッポリと抜け落ちているようです。

id:mojimoji さめの場合、当事者の文句が誰かの耳に入り、それに対して何らかの応答が得られる可能性が期待できる状況を想定しているのに対し、

先ほど書いたように、自分は別に文句を言ってもいいと思ってます。でも、文句を言うだけで解決することはマレです。というか、まず無いです。やっぱり何らかの行動が必要になります(他人に訴え、他人に解決してもらうといったものも含めて)。結果的に、行動を起こさないと文句の元は解決せず、状況は変わらず、同じように文句を言い続けることになります。「だったら、とっとと片付けて不満の元を取り除いた方がいいよね」「それなら文句を言ってないで行動を起こした方がいいよね」と考えています。なので精神論的なものより、どちらかというと合理的な判断から来る考えだと思っています。

id:guri_2 さめが言うところの「文句」というのは、基本的に誰の耳にも入らないか、入っても心に響かない、それに対する何らの応答も期待できないものだという前提があるように思います。

実際のところ、わざと他人に聞こえるように声に出して愚痴を言える人というのはいます (何とここにもいます!! w)。そういう人って言うのは実はコミュニケーション強者であり、例えばそうやって職場の同僚の同意を得ることによって、自身のわだかまりを解消し、精神的に楽になるという知恵を身につけているわけです。こういう手合いは職人気質の人間に多いですw。

もう一つの可能性として、「文句」がネガティブな感情の押し付け合いにしかならず、文句を言い合う形態のコミュニケーションに生産的な意味を見いだせていない可能性もあります。これについては、どちらの可能性もあります。つまり、「文句」の言い合いが展開されることによって、グループの「仕事」に対する士気が上昇する場合も、低下し作業が停滞する場合もあります。この辺については、以下の記述から読み取れるように、 id:guri_2 さめも感覚的には気がついているのではないかと思います。

矛盾しているように思われるかもしれないですが、自分の中では「タイミング」によってきっちり分かれていることだったりします。「タイミング」は、バイオリズムのようなものを想像してもらえるといいかもしれません。相手が上り調子のときは、「文句言うなら行動しろ」だし、不調なときには「グチっちゃいなよ」になります。

このタイミングってのは結構重要で、例えば朝の定例ミーティング時に、先日の取引先との会議によって決まった仕様変更の話をリーダーから説明されたとします。そしてその日一日の大半が仕様変更に伴う追加の作業に費やされることとなったとしましょう。あなたはこうした決定に関する文句を、朝のミーティング時と昼の昼食時、そして夜に仕事が明けてみんなで飲みに行くときの 3つのタイミングのいずれかでぶちまけるチャンスがあるとしましょう。さて、最も適したタイミングはどれでしょう?

実はこれ、答えは一つではなくて、状況や文句の質に応じて適切なタイミングは異なるのです。愚痴の類なら夜の酒席で酒と一緒に流してしまうのが最適です。勢いに任せてテクニカルな話題につないじゃってもいいでしょう、よりいっそう酒がうまくなります。

でもそうではなくて、現実的な話としてその対応を含めることになれば、契約通りの期間内には仕事が完了しなくなると言うことが事前にある程度判明する場合もあります。もちろん、そうした適切な仕事量や期間の調整はリーダーが取引先との会議に際してきっちり詰めるのが理想ですが、現場の人間の感触を確かめないことには何とも言えないケースもあれば、持ち帰って相談という形式を取らなければ顧客が納得しないという政治的なケースもあるでしょう。そうした場合に「無理なもんは無理だ」という適切な返答を返し、再度調整を試みるのは必要なことです。

で、問題はこうした現場における「必要な進言、または取引」のことも含めて「文句」という言葉で捉えているか否か、なのです。少なくとも、「1ヶ月だけ~」や「要は、勇気が~」なんかを書いていた当初の id:guri_2 さめは、「文句」という言葉にそこまでの意味を含めてはいなかったのだと思うのです。つまり、利害の対立する相手にコミュニケーションを図ることは、「文句」という言葉に対する対義語としての、「行動」に属する行為である、と捉えていらっさったのではないかと。

いずれにせよ、 id:guri_2 さめのこれまでの文章を読み込む上に置いては、「文句」という言葉と「行動」という言葉の取り扱いに十分注意する必要があると思います。「文句だって行動の内じゃないか」という意識で読んでしまうと、いろいろと悲しい誤解を招いてしまいそうです。