mastodonのユースケース2017年04月15日 21時43分35秒

どうも、こっちのブログではお久しぶりです…(´・ω・`)

さて、Twitter みたいなミニブログを自前のサーバーに構築できて、しかも他所のサーバーと連携しあって別のサーバーのユーザーともゆるくやり取りできるという (でいいんだよね?) 分散型のミニブログサーバーアプリ mastodon というのが流行の兆しを見せているんだそうです。

mstdn.jp なるドメインをぶちあげて mastodon インスタンスをぶちあげた @nullkal さん (boost.jp 界隈とかにいる人なので前からお名前は存じておりました…) のところに大量の日本人ライトユーザーが押し寄せたことなどでちょっとした話題になっていましたが^_^;、その一方で以下のような指摘も出てきています。

これはこれでだいたいその通りだとは思うのですが、その一方で P2P 実装での実現ってのも色んな意味で難しいだろうなと思うところもあり (そのことについてもリンク先ブログですでに触れられている通り)、今回のような分散型というのはそういう意味でも「折衷案」と言ったところなんじゃないかなと感じています。

構築方法が面倒くさそうだなというのはその通りなんですが (実際建ててみた人のレポート読んでみたけど実際しんどそう^_^;)、それなりに知識と意欲がある人であればやってやれないレベルではないんですよね (ふっとんだ時にもう一回やりたいかって言われると正直嫌だけど ^_^;)。

そこで、例えば仲間内 (数人〜十数人程度) に一人、コンピュータに詳しい奴がいて、個人的な用途で運用している VPS かなんかに、ついでで mastodon を設定、仲間内だけ呼び込んでユーザーとして登録、みたいなユースケースであれば、分散型もそこまで無理はないかなぁとは思うんです。

もちろん、「仲間内にコンピュータに詳しい奴がいる」という状況が一般的になるぐらいには情報処理教育が浸透することが前提になりますが… (最近はプログラミング教育とか流行ってきてるっぽいからお子様世代なら希望はあるかも?)

ただ、mastodon の場合、どこかのインスタンスに所属していることが、特別インセンティブになるような作りでもないっぽいので (インスタンスが異なるからやり取りしづらくなる、というものではないっぽい)、例えばフォローとは別に、同じインスタンスに登録しているユーザーのみに公開するとか、インスタンス内で連絡を通知する、みたいな機能があれば、自分の仲間内のためにインスタンスを立ち上げよう! という動機付けにもなるんじゃないかなとか思ったりはするところです。

なんにしても、Twitter よりは API 周りで不自由しなさそうだという点においては今後に期待したいところです…(´・ω・`)

.NET で日付の文字列化2016年11月06日 00時04分04秒

西暦で表示したい場合。ex: 2016年11月6日 (日)

use System;
use System.Globalization;

var culture = new CultureInfo("ja-JP", false);
var todayText = DateTime.Today.ToString("yyyy年M月d日 (ddd)", culture);

和暦で表示したい場合。ex: 平成28年11月6日 (日)

use System;
use System.Globalization;

var culture = new CultureInfo("ja-JP", false);
culture.DateTimeFormat.Calendar = new JapaneseCalendar();
var todayText = DateTime.Today.ToString("gy年M月d日 (ddd)", culture);
  • 曜日を日本語で表示したいのであれば、どちらの場合でもカルチャ名 "ja-JP" のカルチャを指定する。
  • 和暦で表示したい場合は更に DateTimeFormat.Calendar を設定。西暦の場合は逆に設定してはいけない (フォーマット文字列を yyyy にしても年数の表示が狂ってしまう)。

my $newface = Family->new;2016年01月19日 22時20分33秒

妻の妊娠を知ってから、生活が大きく変わった。妻の実家に越してった時も妻の実家から追い出された時も変わったけど、とにかく今回もガラッと変わった。

それまでの仕事では到底子どもを産み育てて養えるだけの稼ぎを得られないことは明白だった。とりあえず喫緊の出産費用を捻出することがまず無理だった。取引先の人に事情を話し、幾つかの仕事を片付けることを条件に「けじめ」をつけた。フリーランスでの仕事を仲介してくれる某所を介して仕事を探し、昨年9月から通いの仕事に切り替えた。

その間も妻の体は彼女の意志とは関係なく変遷を繰り返し、初産のさまざまな初体験に戸惑いを繰り返すばかりだった。

こっちに越してきてふてくされるばかりだった頃、よく二人で最寄りではない駅まで歩き、昼間っぱらから大阪王将で餃子をつまんでビールを呑んだりしていた。生活を少しでも楽にするため、あるいは彼女がかねてより働きたいという意志を持っていたこともあって、半年間の短期契約で見つけてきた派遣の仕事に通いながら、職場と水が合わなくて時折涙していたこともあった。

彼女が妊娠してからのこの数ヶ月間、そんな日々がとても楽しくて、とても懐かしい物のように思えたりもしていた。

出産直前の、よりにもよって心身ともに一番デリケートな時期に、おいらはといえば仕事がどうしようもなく忙しい時期と重なってしまい、毎日のようにおいらの帰りが遅いのを嘆く LINE のメッセージに焦りを感じながら、9:00~22:00 の重労働で 12連勤なんてことをやっていて、本当に申し訳なく思う。

しかしながら、今日、こうして特に大きな障害もなく、母子ともに健康な状態で、無事に生まれてくれた我が子の姿を見て、あるいはこの子と触れ合って、本当に何事も無く生まれてきてくれたことに、夫婦共々ホッとしているし、つくづくありがたいことだと思う。

そして、そんな我ら夫婦を、心から祝福してくれる友人たち、あるいは家族がいることを、嬉しくも思うし、誇りにも思う。

さて… 明日からまた遅い時間まで障害対応ですか。リリースまでになんとか片付けばいいけど… ('A`)=3

日本語 Windows 環境で Cwd::abs_path がうまく動かない件2015年09月26日 13時42分03秒

Excel 地獄に立ち向かうべく、複数の Excel ファイルから全検索をかけてどうにかするような処理を Perl の Win32::OLE を使って書こうかと思ったんだけど、 OLE での Workbooks.Open メソッドを Perl から呼ぶ場合、カレントディレクトリの解釈が異なるとかの理由でファイル名を絶対パスで渡さなきゃならない。

そこで、 Cwd なるパッケージの abs_path 関数を使ってファイル名の絶対パスを取得して渡すやり方を試してみたんだけど、特定のファイル名をこの関数に渡した時に例外が発生する現象に苛まれて結局その日のうちにツールを完成することができなかった。

手元の環境で再現状況のログを取ることができたので以下に掲載。

C:\Users\murachi\Documents>echo hoge > 確定申告.txt

C:\Users\murachi\Documents>perl -M"Cwd qw/abs_path/" -e "print abs_path('./確定申告.txt')"
./確定申: No such file or directory at -e line 1.

C:\Users\murachi\Documents>echo hoge > 表示画面.txt

C:\Users\murachi\Documents>perl -M"Cwd qw/abs_path/" -e "print abs_path('./表示画面.txt')"
C:/Users/murachi/Documents/示画面.txt
C:\Users\murachi\Documents>echo hoge > 画面表示.txt

C:\Users\murachi\Documents>perl -M"Cwd qw/abs_path/" -e "print abs_path('./画面表示.txt')"
./画面表: No such file or directory at -e line 1.

C:\Users\murachi\Documents>

どうやら内部でファイル名を Shift JIS で取り扱っているらしく、マルチバイト文字のオクテットに 0x5c (ASCII コードで言うところのバックスラッシュ \) を含む文字の取り扱いで文字を潰したりこけたりしてしまっている模様。

まだ試してはいないけど、もしかしたらディレクトリ自体にこういった文字が含まれるようなケースでもしくじるのかもしれない。

何はともあれ、絶対パスは何か別の方法で取ってこないとダメだなぁ…。

近況報告いろいろ2015年08月12日 18時18分44秒

なんか結局 1ヶ月以上ブログ更新してない ('A`)

えー。 9月から仕事変えることになりますた。都内某所で常駐になります。これまでの仕事の後始末もいろいろあって忙しいので、多分もうこのブログを再び更新することは、当分はなさそうですね。すんません。('A`)

あとそれから、来年 1月末頃ですか。どうやら父親になるらしいです。

曖昧なのは「死」という言葉の使い方の方なのでは…2015年06月29日 17時04分45秒

曖昧な言葉というのは存在します。その言葉が使われるようになった経緯上、はっきりとした意味合いが定義づけられていないような言葉のことです。インターネット関連の言葉でいうと、例えば「クラウド (コンピューティング)」は曖昧な言葉と言えるだろう。今でこそそれなりの共通認識を以って使われる言葉となりつつはあるようだが、その言葉が使われ始める前後を比較するような議論に、ビジネス上の宣伝文句以上の意味はないのではないかと思われる。

ところで、スマートフォンなどに代表されるモバイルデバイスの普及と、 Web アプリのクライアントがモバイルデバイス用に実装された個別の専用アプリに置き換えられてゆく現象 (あるいは、これまで Web アプリとしてリリースされてきたようなサービスがモバイルアプリとしてリリースされるようになってきている現象) を以って、「Web は死ぬ」のではないかとする議論が一部で持ち上がってきているらしい。へー。

リンク先記事の主張を要約すると以下のようになると思う。

  1. この議論において、「Web」という言葉が曖昧に扱われているので、「Web は死ぬ (or 死なない)」という時の「Web」という用語について、その定義を各々明確にしておくべきである。
  2. (モバイル) アプリによって Web は死ぬと思われる。但し、このとき著者が「Web」という言葉を持って指し示される概念は、以下の通りである。
    • Web サイト
    • Web ブラウザ
    • Web アプリ

記事中ではこれに対し、死ぬことはないだろうと思われる概念についても記述されている。詳しくは当該記事本文をご参照願いたい。

「Web」という言葉の曖昧性?

さて、のっけから前提事項を覆すようで申し訳ないのだが、そもそも Web という言葉自体はそこまで曖昧な言葉だろうか? 確かに、経済学者やビジネスコンサル、ネットビジネス評論家含むメディア関係者などに言わせればとたんに曖昧な言葉になってしまうものかもしれないが、クラウドみたいな命名経緯自体が曖昧な言葉に比べれば、ティム・バーナーズ=リーの発明品である Web はそれよりずっと明快な言葉であると言えるだろう。

一応おさらいしておくと、ここで言う Web とは World Wide Web の略称であり、以下の 3つの技術を柱として構成されるハイパーテキストシステムのことである。

  1. HTTP

    Hypertext Transfer Protocol の略。情報処理技術全般を学んだことのある人であれば「アプリケーション層のプロトコルの一種」という説明で通じるのだが… 要するに Web で扱われる通信上のやり取り (GET: (コンテンツの)取得、 POST: (フォームデータの)送信、等々…) を処理する通信方式の規格である。ポート番号が標準的に割り振られていて、通常、平文のものは 80番、 SSL を用いたセキュアなものは 443番を使用する。

  2. URI (URL)

    コンテンツを同定する場所を表す名前として定義された URL (Uniform Resource Locator) という概念は、そのままあらゆる固有概念を同定する名前として URI (Uniform Resource Identifier) という概念へと拡張された。スキーマ名、ドメイン・ホスト名 (または IP アドレス) (+ポート番号)、ロケーションパス、プラスアルファの情報を一行の文字列にぎゅっと押し込めたもので、通常 Web ブラウザのアドレスバーに表示されるアレのことである。

    この名前をメモっておく (ブックマークに入れておく) ことで同じコンテンツに何度でもアクセスできるし、この名前を指定して記事から記事へとリンクを貼ることもできる、と説明すれば、これが Web において如何に重要な概念であるかは理解できるだろう。

  3. HTML

    Hypertext Markup Language の略。通常、 Web ページはこれを使って書かれていて、 Web UA (User Agent) がこれを読み込んで画面表示をレンダリングする (UA は通常 Web ブラウザのことだが、 UA としての機能が組み込まれたものであれば良く、必ずしも Web ブラウザであるとは限らない)。

    Markup とある通り、マークアップ式の言語である。例えば、文中でこのように強調して表示したい箇所には、<strong></strong> というタグを、強調したい部分の前後に挿入して挟み込んでやる、といった要領で、文章にマークアップを加えていくことで整形したり、意味合いや機能を加えていったりするものである。また、 Hypertext と言われる所以は、 <a> タグによる Hyperlink にあり、この Hyperlink が文書から文書へ相互に参照を張り巡らす様が、まさに Web を Web (蜘蛛の巣) と言わしめる所以でもある。

…以上のうんちくは適当に読み流して頂いて構わないんですが(^o^;A、この辺の基礎知識を理解している方であれば、 Web という言葉を、少なくともインターネットそのものの意味で使っちゃうような事にはならないと思う。

ところで、言葉が曖昧に扱われる理由には、言葉自体が実際定義があやふやで曖昧である場合を除いても、他に以下のいずれかの場合がありうるのではないかと思う (他にもあるかもしれんけど)。

  • 話者がその言葉をよく理解していない場合。
  • 話者がその言葉を敢えて曖昧に用いたい意図がある場合。

結局のところ何が言いたいのかというと、よーするに「Web は死ぬのか?」というテーマで議論に参加している人々というのは、そもそも Web という言葉をあまり理解していないまま議論に参加しているだけなんでねーの? ということである。(うわーひどーい)

Web 技術を細分化して評価する

とはいえ、 Web の周辺技術はこれまでに様々な変遷を遂げ、多くの拡張や応用が施されており、そういう意味では、リンク先記事が試みた、 Web (周辺) 技術の切り分け評価は、本論においては意義のあるものだと思う。 Web 周辺のこの技術は今後も使われ続けるだろうし、この技術は今後は廃れていくだろう、みたいな話であればそれなりに興味深いとは思う。

なので、その辺の説明についても一応補足とか加えておきたかったりするのだが…、

4. Web アプリ

Web アプリという言葉も曖昧な言葉ですが、ここでは、

<meta name="mobile-web-app-capable" content="yes">

などに対応していて、Web サイトのアイコンをホーム画面に追加でき、起動するとアドレスバーなどはなく、その Web サイトがフルスクリーンで表示されるものを Web アプリと呼ぶことにしましょう。

どうやらリンク先記事の著者的には、モバイルアプリのように見えるものとして動作するものでなければ Web アプリとは呼ばないようである。 Web アプリという語感からこうした語弊が広がっている可能性はあるが、通常、 Web アプリケーションと言えば、 Web サーバーがユーザー操作に応じてプログラマブルに動作し、コンテンツを動的に生成したり蓄積したりするようなものの総称であって、古くは掲示板の CGI から、ブログや Wiki などのいわゆる CMS、データベース的なものから検索サイト、はては SNS やネット通販、地図や天気予報などに至るまで、 アプリケーションとして動作し Web UA でアクセスできるものであればすべて Web アプリケーションの一種である。

※ゲームの類を含めたがる人も多いと思うが、過去に Web 上で公開されたゲームであったり、あるいはいわゆる「ネットゲーム」「ソーシャルゲーム」の類なんかは、その実態が本質的には単に Web 上で「配布」されているだけだったり、通信はしているけど Web の要件を満たさなかったりすることが多かったようにも思うので、 Web アプリケーションとは分けて考えたほうが良いと思う。

特に、 CMS の類 (特に、例えばニュースサイトなど) なんかは、サイト来訪者から見れば単なる Web サイトのように見える一方、サイト制作管理者的には Web UA 上での操作のみでコンテンツを追加・編集することができるれっきとしたアプリケーションとして動作するものであり、このことは、 Web アプリケーションがすべてのユーザーに対して必ずしもアプリケーションっぽく振る舞う必要のないものであることさえ表すものである。

それ以外の用語の説明については概ね問題なさそう。

んで、「死ぬ」ってどういうこと?

そこで、それぞれの概念に対する、死ぬもの、死なないものとしての評価について検討してみるのですが、 Web アプリが App Store や Google Play などのアプリストアに登録できないことを以って死を宣告するという乱暴な論展開についてはそもそも Web アプリケーションそのものへの誤解があったっぽいことから目をつぶるにしても、 Web ブラウザが使われなくなるから Web サイトも衰退するとする議論についてもいささか横暴だと感じずにはいられない。

純然たる「Web ブラウザ」の利用がモバイルデバイスにおいてはそれほど多くないというのは恐らく事実なのだろう。そもそも Web ブラウザそのものを起動しようとする一番の目的は、検索サイトを介した調べものになる。 PC からの利用ではそういう形での調べものからよく利用するサイトをブックマークし、常に Web ブラウザからアクセスするような形を取ってきたが、モバイルデバイスではこれが一変して目的別にアプリとして細分化され、ニュースを読みたければニュースアプリ、お天気を調べたければお天気アプリ、場所へのアクセス方法を調べたければ鉄道路線情報アプリや地図アプリ、そして SNS にアクセスしたければ SNS 用の専用アプリと、目的に応じて個別のアプリを起動するのが普通になり、その分 Web ブラウザを敢えて起動する機会はぐんと減っていった。

ここまではいい。

問題は、 Web ブラウザそのものを起動しないことが、果たして Web ブラウザが使われなくなる理由となりうるのかという点。現状、 iOS にせよ Android にせよ、ハイパーリンクの URI に対する処理は、そのスキーマや MIME 情報、ものによってはドメインなんかも加味して、対応するアプリケーションを起動するというようなものになっている。 Android の場合だと、 Google Map にアクセスしようとした時点で Google Map アプリが起動しだしたり、 YouTube コンテンツにアクセスしようとした時点で YouTube アプリが起動し出したりするなど。

そうやって個別のアプリで処理できる場合には良いが、インストールされているアプリでは対応できないコンテンツ、要するに、単なる野良 Web ページだったり、かなり専門性の高い (よーするにマニアックな) サイトだったりすると、対応するアプリがないので、 OS としては Web ブラウザに任せざるを得ない。

Web というのはその名のとおり、サイトを横断的にリンクし合うものなので、利用者の端末にとって未知のアプリケーションにアクセスするようなリンクを踏んでしまった場合には、 Web ブラウザに頼らざるを得ない。 Web 通販を語る際に「ロングテール」という言葉がよく使われてきたが、モバイルユーザーにとっての興味のロングテールをカバーする存在として、 Web ブラウザは今後も使われ続けるだろう。

なお、こうした横断的リンクによって Web ブラウザを起動せざるを得ないケースにおけるユーザー体験の悪さを回避するために、 Facebook が Instant Articles を始めたのも、SmartNews が SmartView 機能を搭載しているのも、これらの理由からですといったような流れが出てきていることが指摘されているが、これはそのとおりだと思う。ただ、こうした動きはむしろ Web サイトを延命することになるのではないかと思う。 Instant Articles や SmartView、いや、古くは Yahoo News なんかでさえ本質的には同じものだったりするわけだが、こうしたものに賛同し、 RSS に乗せて記事を出稿する Web メディアが、それを理由に自社 Web サイトを潰してしまうとは (媒体のブランディングなどを考慮すれば) 考えにくいように思う (零細メディアが経営判断により潰してしまうケースがないとは言い切れないが…)。

以上のことからおいらの個人的な見解としては Web サイトも Web ブラウザも衰退というほどの状況には至らないだろうと思っているのだが、ここまで考えたところで、そもそも「Web は死ぬ」と言っている人と、「Web は死なない」と言っている人との間で、本質的には議論が噛み合っていない可能性があるのではないかと気がついた。

どういうことか。それは、「死ぬ」という言葉のニュアンスをどう解釈するかによって議論が割れるのではないか、ということだ。つまり、

  • 「死ぬ」という言葉がその概念そのものの衰退、すなわち「ほとんど使われなくなって、やがて廃止に追い込まれる」ぐらいの意味合いを指すのであれば、「そんなことはない」と反応する人が多数派になるだろう。
  • 「死ぬ」という言葉が、その概念に乗って行う商売が成り立たなくなる、という意味合いを指すのであれば、賛同する人は割と多くなるかもしれない。

Web をめぐる商売

Web 上で展開される商売にも様々なものがあるし、その関わり方も様々なので、結局は一様に言い切ることができるものではないとは思う。そもそもモバイルアプリ界隈がそこまで儲かっているのかというところも正直怪しいもので、結局は Web を使うかモバイルアプリという形を取るかは方法論でしかなく、むしろそこで提供されるサービスそのものの内容や質、そしてブランディングが勝敗を決めるのではないかとも思う。結局はね。

Web 界隈を周辺技術で切り分ける議論もそれなりに意義深いものであるとは思うのだが、それに加えて、業務 (サービス) 内容ごとに切り分ける議論もあっても良いんじゃないかと思う。そうすれば、今後、モバイルデバイス自体がどういう発展を遂げてゆくべきか、そして機能を補完するという視点からどんなアプリを作ったら受けるのか、なんて辺りも見えてくるんじゃないかな。しらんけど。

脱サラ、それから。2015年06月11日 13時40分21秒

サラリーマンだったおいらが某社を辞めたのは 2006年の 4月末。 4月いっぱいは有給を消化させてもらったので実質は 3月末で辞めたようなもんなんだけど、それから 1年はぶらぶらしていた。ニートってやつだ。何か明確な目的があって会社を辞めたわけでもなく、溜め込んでいた貯金を、精神と一緒に食いつぶしながら、自分が何をやるために時間を費やしたいのかを考えるために時間を浪費していた。

フリーランスとか起業とかってのは、当時はほとんど考えてなかった。 6年間もサラリーマンやっていながら、他所から仕事を取ってこれるようなコネというか、ツテというのはほとんど持っていなかった。本当はその当時にすぐにでも、かつての出向先の人とかに連絡でも取っていれば、そのツテで何かしらの仕事を回してもらえたのかもしれない。でも少なくともあの当時は、そういうふうに行動を起こす気にはなれなかった。

その後 1年間ほど派遣社員として某所で働いて、年度の変わり目近くになって、昔の同僚のツテで仕事を回して貰えそうな話が出てきた。更には今のかみさんの知り合いに、当時念願かなって司法書士の資格を取ったという人が、会社を起こすなら手続きを引き受けるとまで言ってくれた。こうしたありがたい縁が重なって、おいらはそれまでホームページのタイトルに使っていた「はらぺこ」という名前で、会社を起こした。

その後、最初にもらってくる予定だった仕事がポシャって、慌てて某首都圏のフリーランス向けに仕事の面倒を見る組織を訪ねて、そこに言われるがままに個人事業の開業やら青色申告承認やらの申請をやって、結局のところ経営者とフリーランスの二足のわらじを履くことになり、そこでもらってきた仕事をこなすも希望していた内容ではなく (仕様からテストを起こす仕事かと思ったらテストマシンをひたすらアドホックにいじり倒すだけの仕事だった)、半年そこいらで辞めてしまったらちょうどその時期にリーマン・ショックにぶち当たり、次の仕事も見つからないまま困り果ててしまうことに。

そんな折にまた昔の同僚 (一応さっきのとは別の方) のツテで仕事を回してもらえることになり、それでやっと会社の方の売上が立てられるようにはなったのだが…。

脱サラしてから 10年目、会社を起こしてから 8年目、更には結婚してから 4年目を迎えている今日この頃。脱サラ以降の仕事人生について、今ここで総括するならば、正直言って完全に失敗だったと思ってる。

何故。何が失敗なのか。

実は一番無駄だったように見えるあの最初の 1年、その終盤ぐらいになって、自分がやりたいと思える目的のようなものは大分掴めていて、当時はまだ技術的なネックはあったが、それを達成することはひとつの目標になると自分では考えていた。

それから 8年以上がたった今も、その目的に関して、ほとんど着手すらできていないような状況だ。この業界では、勤め人である限り、時間的にも体力的にも、業務以外のことに割くだけの余裕はなかなか得られない。いや、得られないものだとおいらは勝手に思い込んでいた。

実際のところ、サラリーマンだった頃も、派遣社員だった頃も、あるいはフリーランスとして出向していた頃も (上記で書いた半年以外にも、経済的事情により 1年間近くフリーランスとしていくつかの現場に出向していた時期があった)、仕事自体が夜遅くにまでなりがちだったり、通勤時間もまあまあ長かったりで、外で飯を済ませて家に帰ってシャワー浴びてぐぅ、となってしまうことは多かったように思う。

しかしその一方で、週一ぐらいでミーティングをし、持ち帰りで家で作業をこなす日々に、そこまで余裕があったのかというと、それも微妙だ。十分な報酬が得られていればまだいいが、様々な事情により報酬も十分に得られなくなると、かみさんを外に働きに出し、自分は家事に追われながら、必要な作業をなんとかこなす日々が続いた。とても自社開発にうつつを抜かす余裕はなかったように思う。

家族に我慢を強いたという意識も、自分で失敗だったと感じてしまう大きな一因になっている。出向で稼いでいるときには時間的に我慢を強い、稼ぎの少ない持ち帰り仕事の間は経済的に我慢を強いた。経済的なことについて言えば自分の親にも迷惑をかけたし、具体的なことは言えないが関係各所にも迷惑をかけ続けている。

前者についてはこのままでは埒が明かないという思いがあり、後者についてはもうこれ以上は迷惑をかけられないという思いもある。もうそろそろ潮時なんじゃないか。

起業を考えている人がもしこれを読んだならば、おいらのようになりたくないなら起業なんてやめてしまったほうが良い。勝てない喧嘩はするなというが、準備に準備を重ね、勝てる公算を立ててからでなければ、起業なんてするものではない。

つまりは気持ちの問題なのだ。精神論は笑えない。どんなに忙しい日々を送っていたとしても、成し遂げたい目的がもし出来てしまったのであれば、なんとかして時間を作って、少しずつでもそれをこなしていくべきだ。そしてその目的を一定のところにまで成就し、他者の評価の目に晒し、その結果、その成果に目を留め、その先にある進化に期待の声が寄せられるならば、その時にこそ、初めて起業を含めた新しい身の振り方について考え始めれば良い。それからでも全く遅くはない。

その一方で、見切り発車で居場所も経済的担保もかなぐり捨て、その先に待つ孤独や貧困に精神を蝕まれるくらいなら、ただ忙しいぐらいのほうがよっぽどマシだ。忙しすぎてボロボロになって精神を病むほどならさっさと転職を考えるべきだが、そこまででもないのであれば、そういう状況のうちにやれることはやってしまうべきだ。迷惑をかけない程度であれば多少のズルはしてもいい。

おいらは今のところ、まだその目的そのものについては諦めたつもりはないんだが、その一方で、そろそろ今の生活については、一度けじめをつけなきゃいけないだろうなとは思い始めている。それがどういう形になるのかは、今のところまだわからない。交渉次第では、現状維持もできるかもしれないが、正直それは期待していない。

歳を重ねてしまったからと言って、それが何かを諦めなければならない理由にはならないと思う。でもその一方で、歳を重ねれば重ねるほど、身体的には不利になる。焦っても仕方ないが、立ち止まっているわけにもいかないのだ。

大学の数を減らすという選択肢2015年06月08日 09時28分32秒

前回の続き、になるんですかね。お二人さん、コメントどもです。m(_ _)m

大学を名乗っていながらその内実は学術の体をなしていない…って、それまさにおいらが通ってたアレじゃないですかっていう(^-^; しかも学部なくなってるし(^-^;

で、まぁそういう感じの大学ってもう結構な数存在しますしそういうところが最終学歴な人って20~30台だとまあまあな割合いらっさると思うんですよね。

内実の伴わない大学が多すぎる!大学の数を減らすべきだ!という大局的な意見にはなんとなく賛同する人も多いんでしょうが、じゃあいざ自分の出身大学がこういう理由で大学としての要件を満たさないと見做されましたので廃校になりますとか、専門学校相当になりますとかって話になると、やっぱり抵抗を示す人がほとんどだとは思うんですよね。そういう抵抗は当の学校法人も同じことで、大学としての運営が許されなくなるような法改正案が出てきたとなれば当然大きな抵抗勢力となるでしょう。

そういう政治的な難しさもあるので、そこをうまいこと収めるために大学とも専門学校とも違う新しい枠組みを作りましょうという話は分からないでもないのですが、これはこれで各方面がちゃんと納得行く形に収まるものになるのか微妙なところなんじゃないかなとも思うわけなんですよね。

専門職大学院はこれはこれでいいと思うんですが、大学院は大学院なので、この手のアプローチを大学に適用する、つまりは専門職大学みたいな枠組みを作るっていうことになるんでしょうか。実はこれに類する動きは既に 3月ごろにあったようで、探してみるといくつかのニュース記事を見つけることができます。

専門学校は教育内容の自由度が高い一方で、質にバラつきもあることから学位を授与できず、国からの助成もない。企業からは各分野の専門人材の養成を求める声が多く、政府の教育再生実行会議は昨年6月、より高い水準で職業教育を行う教育機関を創設するよう提言した。

具体的には、卒業要件は大学・短期大学と同水準で、修業年限は2~4年、「学士」「短期大学士」相当の学位を授与することなどが適当とした。中教審においてさらに検討した上で、教育内容・方法、教員、施設・設備、評価などの基準は、新たな機関の目的に最適な枠組みとして新設するとしている。

どちらかと言うと現行の専門学校の地位を向上しようという文脈がベースにある話っぽいですね。専門学校よりも厳しい基準を設ける代わりに、卒業者にはれっきとした学位を認定するようにしよう、学校法人に対する助成も出そう、ということのようです。

修業年限は2~4年とし、学位も授与する。教育課程の優れた専門学校などが移行することを想定している。

とあるように、現行の専門学校からの移行を想定したもののようで、大学からの移行までは今のところ想定していないのかなぁ、という気もします。でもまぁ、使うとしたら多分、このスキームだと思うんですよね。

感覚的にはまさに大学と専門学校の「間」という感じで、学術研究の場としては限定的だけど一応各分野に学会はあって学術交流はなされているとか、職業教育の場ではあるけど特化し過ぎることもなく、特定分野に関してより体系的に習得できるものであるとか、講師の評価基準は必ずしも論文発表のみならず、教育成果や具体的な社会貢献活動によっても評価が得られるような仕組みがあるとか、そんな感じになるのかなぁという気がしています。

これ、たしかに専門学校からの移行は充分に期待できると思うんですが、大学からの移行については果たしてどの程度期待できるのかなぁ、という気はするんですよね。移行するに見合っただけのメリットというかベネフィットが、現行の大学にはあるのか。それがないと、この枠組み自体を創設することはできたとしても、じゃあ今ある大学の多くをこの枠組みに移行させてしまおう、というわけには、簡単には進まないんじゃないかな、と思います。政治的に。

そこで、当の大学法人にも、それらの大学を最終学歴に持つ卒業生にもまあまあ納得の行く形で、スムーズに専門職大学へ移行してもらえるような、政治的な手当についても考える必要があるのだろうなと思います。具体的に何をどうするべきかは私には図りかねるのですが…。

これから進学する高校生らからしてみれば、大学と専門学校は明らかに別物だとわかるし、短期大学は微妙なところだけど大学より期間が短いということはとりあえずわかりますよね。しかしここに専門職大学みたいなのが加わってくると、大学とは何が違うの? 専門学校とは何が違うの? ということになりそうな気はします。そこへ来て、「専門職大卒者は大卒者と同等かそれ以上に就職しやすいし待遇もいい」ということになるのであれば、十分に選択肢として期待もできると思いますし、それによって大学の淘汰圧が高まることになるのであれば、大学から専門職大学への移行も進むことにはなるでしょう。

そうなると、今度は民間企業の採用基準がキーになるという話になってくるのでしょう。企業の側もこの辺については真剣に考える必要はあるのだとは思いますが、そうは言っても民間の自律的・良心的な意識改革にのみ期待するのは無理があります。そこで、少々下衆なやり方ではありますが、専門職大学から卒業生が出始める最初の数年間については、そこからの卒業生を正社員として採用する企業に対して助成金を出すことも考えていいのではないかとも思います。

しかしそうまでして大学を減らし、大学とは別の高等教育機関を増やすことの意義とはなんなのでしょうか? とりわけ、大学を減らすこと自体の公共的な、明確な利益はあるのでしょうか? 助成金を減らすことができるという話は、その分増える新たな高等教育機関に出さねばならない助成金で完全に打ち消されるでしょう (専門学校からの移行の分も考慮すればむしろ出費は増えます)。大学とは助成金の額に差をつける、というのも (少なくとも最初の数年間は) 難しいでしょうね。「こんなにたくさん大学要るの?」という気持ちは理解できなくもないのですが、大学らしからぬ (と各人が恣意的に感じている) 大学が大学ではなくなっていくことで一部の人達の溜飲を下げることができる、ぐらいの話でしか無いのであれば、それはあまりに無意味でお騒がせな話ではあります。

そこで、あくまで大学を減らすこと自体を主眼に置くのではなく、あくまで職能養成に特化した高等教育機関という選択肢を、学生にも企業にも提示し、活用していただくことを主眼に置くべきなのでしょう。これは当たり前といえば当たり前の話なのですが、産業側が採用に際して求める教養や技能を明確にし、そのためにどのような教育が施されるべきかがある程度ビジョンとして明確になっていかないと、教育機関側だけでそれを作っていくというのは難しいことなんじゃないかとは思います。

そういう意味でも、産業界側からの積極的な参加、協力は欠かせないでしょう。当面は教育ノウハウがある程度確立していて新たな設備投資も少なく済みそうな専門学校からの移行を促すことになるのでしょうが、現状産業界と専門学校との間にどの程度のつながりがあるのかは微妙なんじゃないかとも思われますし、突き詰めれば結果的には教育プランを一から練り直したほうが早いということにもなりかねないかもしれません。

更にいうと、似たような産業の中でも企業によって求められる資質が異なっていたりすることもあると思うんですよね。それどころか、その産業の代表的な企業であるように見えるにもかかわらず、中の人達の技術向上に取り組む意識が低いために、有能な同業者らから見たら絶対に真似しちゃいけないしきたりが、ビッグネームだからというだけで盛り込まれてしまう可能性も危機意識としては持っておかないといけないかもしれないですね。ホント、業界の横のつながりって、大切だと思うんですけどね… ('A`)。

新たな高等教育機関 #とは2015年06月06日 09時27分24秒

なるべく毎日更新するつもりだったのに一週間も穴を開けてもうた…。

こうしたなかで、安倍総理大臣は、生産性の向上には、企業の投資に加えて、政府を挙げて人材の育成に取り組む必要があるとして、高校の卒業生などを対象とした新たな高等教育機関の創設を目指す意向を固めました。

この高等教育機関では、産業界のニーズに即した職業教育を行い、IT技術や金融などに関する実践的な能力を持つ人材の育成を目指す方針で、来年6月をめどに制度設計を終え、速やかに必要な法案を国会に提出したい考えです。

はぁ。

はてブなんかでは「専門学校と何が違うの?」的なコメントが多いですね。実際問題として既存の専門学校との差別化が図れないようであれば創設の意義はないでしょうから、その辺をいかにアピールするかが政治的には重要になっていくのでしょうが。

既に専門学校というものが存在するにもかかわらず、こういう内容であくまで「新たな高等教育機関創設目指す」と書いているわけですから、そういう意味では、おいらとしてはむしろ、かつての株式会社立大学のようなものを連想したわけです。おいらがブコメで上記のように書いたのは、よーするにそういうことです。

2004年に小泉内閣時代に構造改革・規制緩和路線の中で「株式会社立大学」が構造改革特区に認可された。
その後についてご存じだろうか。
LECリーガルマインド大学は2004年に開学、全国14キャンパスを大々的に展開したが、まったく学生が集まらず、2009年に定員160名のところに18名しか志願者が来ないで募集停止となった。
2006年開学のLCA学院大学も志願者が集まらず2009年に募集停止した。
TAC学院大学は2006年に開学申請したが、記載不備で却下されて消えた。
実務に通じたビジネスマンたちが旧弊な大学を叩き潰すために登場したビジネスマインデッドな大学はどこもたちまちのうちに市場から叩き出されてしまった。
だが、「ビジネスマインドで大学経営をする人々が次々と出てくれば、要らない大学は淘汰されるだろう」という命題は「ビジネスマインドで経営をする人々の大学は要らない大学だったので次々淘汰された」という皮肉なかたちでしか証明されていないということは繰り返しアナウンスすべきだろう。
もし大臣が大学教育にかかわる教育行政にビジネスマンを関与させようと望んでいるのであれば、その前にまず「株式会社立大学はなぜ失敗したのか?」についての説明責任があると私は思う。

そうそうこれこれw (←不謹慎) 結局のところ、やろうとしてることって、こういうのの二番煎じにならざるを得ないと思うんですよね。何しろ、「新たな高等教育機関」を名乗るわけですから、既存の大学では人気を博しやすい、「理工学部」とか、「情報学部」とか、「経済学部」なんてものは絶対に名乗ることはできないわけですし、そもそも大学ですら無いので「学部」という用語自体使いにくいわけで。

そこで、「学部」についてはとりあえず「コース」という言い方に変えればいいとして、そのコース名としてどういう名前をつけるのかというと、例えば「プログラミングコース」だとか、「システムテスト技術者コース」だとか、「証券取引コース」だとかってやってしまうと、分かりやすくていいっちゃいいんですが、あんまりにも具体的すぎて生々しくなってしまうというか、それだったらもう職業訓練校でいいじゃんっていう話にもなっちゃうわけですよね。

だから、専門性の高いエリート人材を育てる場ではあるけど、やってる内容としてはそれなりに学術的で崇高なもんだよっていうのを匂わせないといけない。となるとどんな名前になるか。例えば…、「ITディベロップメントアーキテクトコース」、「ヒューマンITコンサルティングコース」、「ビッグデータソムリエコース」、「国際ITコンコルドコース」、金融系だと…、「トレーディングビジネスコース」、「ファイナンシャルマーケティングコース」、「保険ビジネスデザインコース」、「デイトレーディングプライヤーコース」などといったところでしょうか。こういう感じの、意味が分かるような分からんような微妙なところを狙っていかざるを得なくなるんだと思うんです。最近は大学でもこういう感じの学部が少なくないですけど。

そもそも今回の話は経団連の総会で出た話ということで、生産性の向上のために、産業界のニーズに即した職業教育を目指していこうということだそうですね。はてブでも「経団連の言いなりだ」的なコメントはいくつか見られましたが、そうした文脈の話である以上、産業界の (と、いうよりは財界の?) 意向についても確認しておくべきだと思います。

こちらは実際に公言されている建前…。

「大学はこんなに要らない。大学生といえぬほどの低学力のものたちを4年間遊ばせておくのは資源の無駄だ」というようなことをビジネスマンはよく口にする。
これから彼らからすればごく当然の要請である。
この6月に、首相召集の国家戦略会議で、財界人代表のある委員が「大学が増えすぎて学生の質が下がった。専門知識はおろか一般教養も外国語も身についていない。大学への予算配分にメリハリをつけ、競争によって質を上げよ。校数が減って、大学進学率が下がってもいい」と主張した。

そこには以下の様な目論見がある、というのが内田センセーの見解でした。

中等教育の内容を理解していないものは大学に入学させないという縛りをかければ、おそらく現在の大学生の3分の2は高卒で教育機会を終えるだろう。
そうすれば毎年数十万の低学力・低学歴の若年労働者が労働市場に供給されることになる。
財界人たちはこれを待ち望んでいるのである。
この最下層労働者群は信じられないほどの時給で雇用できる可能性がある。

今回の「新たな高等教育機関」が産業界に評価されれば、企業は大卒者よりもこちらの教育機関を出たものを厚遇するようになり、学生も大学よりこちらを目指すようになる。そうなれば「不要な大学」の自然淘汰、統廃合は進む——、彼らの青写真にそういうことも含まれているのであれば、なおさら専門学校や、かつて野望も虚しく散っていった株式会社立大学のようなものとの、明確な差別化が必要になってくるのだろうと思われるわけですが、さてどうなるでしょう、教育改革に名を刻みたい安部首相のお手並みや如何に。

そうそう、

こんな見方もあるわけですが、時間的拘束のゆるさに加え、それなりに成熟した責任ある大人として比較的自由な生活が許される大学生が、そのぬるま湯に漬かってきたが故に乱れた生活習慣を引きずり、更にはゆとり世代以降に見られる体育会系離れに伴い上下関係意識が薄れるなど、旧弊的価値観の企業からしてみれば労働者としては使いにくい、という見解 (というか偏見?) も根強いんじゃないかと思います。

「新たな高等教育機関」はこれへの反動として、おそらくは厳しい戒律とびっしりギリギリのカリキュラムにより学生をビシバシ鍛えあげる、軍人養成学校のような存在にもなりうるんじゃないかとも思います。一部の企業が研修で採用するような、体力を消耗する系の声出しをひたすらやらされる時間なんかも設けられたりするんじゃないですかね。結果として一部企業にとっては都合の良い兵隊がたくさん生まれるのかもしれませんが、そういう学校に魅力を感じる学生ってどれだけいらっさるんでしょうね…?

剣道が某ヨットスクールみたいに扱われているらしい件2015年05月29日 12時13分43秒

今回の話題はこの tweet が発端。

んで、これに対して以下のような反応を示したのですが、

どうもそういうことが言いたかったわけではなかったようで (文脈追ってから反応しろよ>ヲレ)、その後、リプライをいただき、以下のようなやり取りが続きました。

もしかしたらおいらが少年剣道やってたぐらいの時代でも似たような使われ方はしていたのかもしれないのですが (武道全般で似たようなことは多かれ少なかれ昔からあるのかも…)、なるほどたしかにこういう意味であるなら大人たちは剣道に限らず武道に子どもの人格形成を期待し過ぎなんだろうなとは思います。まぁ、大人問題ですよね。

おいらの世代ぐらいまでは、当時漫画からアニメ化もされてファミコンのゲームにまでなった「六三四の剣」の影響もまぁまぁあったような気もします。剣道がかっこいいって、スポットライトが当たってた時代も、あったんだぜ。おいらは単に兄貴がやってるのを見て始めただけだったんだけど。

るろうに剣心がどのくらい影響していたかは知りません (ワッキーがコミックスのコラムに「剣道少女=ポニーテール」みたいなことを書いていたのは覚えてる)。最近は歴女の亜流で「刀女子」なんてのもあるらしいですが、競技としての剣道には全く影響はないんだろうなぁ…。

あとやっぱり「サウスポーNG」とか「喜び表現NG」とか、あとは心技体一致の打とつでないと一本にならないみたいな審判のわかりにくさとかあって、そのへんが国際的には流行らない理由になってるのかなぁとか… なんか最後の方は与太話になってしまいました。かしこ。(汗