大学の数を減らすという選択肢2015年06月08日 09時28分32秒

前回の続き、になるんですかね。お二人さん、コメントどもです。m(_ _)m

大学を名乗っていながらその内実は学術の体をなしていない…って、それまさにおいらが通ってたアレじゃないですかっていう(^-^; しかも学部なくなってるし(^-^;

で、まぁそういう感じの大学ってもう結構な数存在しますしそういうところが最終学歴な人って20~30台だとまあまあな割合いらっさると思うんですよね。

内実の伴わない大学が多すぎる!大学の数を減らすべきだ!という大局的な意見にはなんとなく賛同する人も多いんでしょうが、じゃあいざ自分の出身大学がこういう理由で大学としての要件を満たさないと見做されましたので廃校になりますとか、専門学校相当になりますとかって話になると、やっぱり抵抗を示す人がほとんどだとは思うんですよね。そういう抵抗は当の学校法人も同じことで、大学としての運営が許されなくなるような法改正案が出てきたとなれば当然大きな抵抗勢力となるでしょう。

そういう政治的な難しさもあるので、そこをうまいこと収めるために大学とも専門学校とも違う新しい枠組みを作りましょうという話は分からないでもないのですが、これはこれで各方面がちゃんと納得行く形に収まるものになるのか微妙なところなんじゃないかなとも思うわけなんですよね。

専門職大学院はこれはこれでいいと思うんですが、大学院は大学院なので、この手のアプローチを大学に適用する、つまりは専門職大学みたいな枠組みを作るっていうことになるんでしょうか。実はこれに類する動きは既に 3月ごろにあったようで、探してみるといくつかのニュース記事を見つけることができます。

専門学校は教育内容の自由度が高い一方で、質にバラつきもあることから学位を授与できず、国からの助成もない。企業からは各分野の専門人材の養成を求める声が多く、政府の教育再生実行会議は昨年6月、より高い水準で職業教育を行う教育機関を創設するよう提言した。

具体的には、卒業要件は大学・短期大学と同水準で、修業年限は2~4年、「学士」「短期大学士」相当の学位を授与することなどが適当とした。中教審においてさらに検討した上で、教育内容・方法、教員、施設・設備、評価などの基準は、新たな機関の目的に最適な枠組みとして新設するとしている。

どちらかと言うと現行の専門学校の地位を向上しようという文脈がベースにある話っぽいですね。専門学校よりも厳しい基準を設ける代わりに、卒業者にはれっきとした学位を認定するようにしよう、学校法人に対する助成も出そう、ということのようです。

修業年限は2~4年とし、学位も授与する。教育課程の優れた専門学校などが移行することを想定している。

とあるように、現行の専門学校からの移行を想定したもののようで、大学からの移行までは今のところ想定していないのかなぁ、という気もします。でもまぁ、使うとしたら多分、このスキームだと思うんですよね。

感覚的にはまさに大学と専門学校の「間」という感じで、学術研究の場としては限定的だけど一応各分野に学会はあって学術交流はなされているとか、職業教育の場ではあるけど特化し過ぎることもなく、特定分野に関してより体系的に習得できるものであるとか、講師の評価基準は必ずしも論文発表のみならず、教育成果や具体的な社会貢献活動によっても評価が得られるような仕組みがあるとか、そんな感じになるのかなぁという気がしています。

これ、たしかに専門学校からの移行は充分に期待できると思うんですが、大学からの移行については果たしてどの程度期待できるのかなぁ、という気はするんですよね。移行するに見合っただけのメリットというかベネフィットが、現行の大学にはあるのか。それがないと、この枠組み自体を創設することはできたとしても、じゃあ今ある大学の多くをこの枠組みに移行させてしまおう、というわけには、簡単には進まないんじゃないかな、と思います。政治的に。

そこで、当の大学法人にも、それらの大学を最終学歴に持つ卒業生にもまあまあ納得の行く形で、スムーズに専門職大学へ移行してもらえるような、政治的な手当についても考える必要があるのだろうなと思います。具体的に何をどうするべきかは私には図りかねるのですが…。

これから進学する高校生らからしてみれば、大学と専門学校は明らかに別物だとわかるし、短期大学は微妙なところだけど大学より期間が短いということはとりあえずわかりますよね。しかしここに専門職大学みたいなのが加わってくると、大学とは何が違うの? 専門学校とは何が違うの? ということになりそうな気はします。そこへ来て、「専門職大卒者は大卒者と同等かそれ以上に就職しやすいし待遇もいい」ということになるのであれば、十分に選択肢として期待もできると思いますし、それによって大学の淘汰圧が高まることになるのであれば、大学から専門職大学への移行も進むことにはなるでしょう。

そうなると、今度は民間企業の採用基準がキーになるという話になってくるのでしょう。企業の側もこの辺については真剣に考える必要はあるのだとは思いますが、そうは言っても民間の自律的・良心的な意識改革にのみ期待するのは無理があります。そこで、少々下衆なやり方ではありますが、専門職大学から卒業生が出始める最初の数年間については、そこからの卒業生を正社員として採用する企業に対して助成金を出すことも考えていいのではないかとも思います。

しかしそうまでして大学を減らし、大学とは別の高等教育機関を増やすことの意義とはなんなのでしょうか? とりわけ、大学を減らすこと自体の公共的な、明確な利益はあるのでしょうか? 助成金を減らすことができるという話は、その分増える新たな高等教育機関に出さねばならない助成金で完全に打ち消されるでしょう (専門学校からの移行の分も考慮すればむしろ出費は増えます)。大学とは助成金の額に差をつける、というのも (少なくとも最初の数年間は) 難しいでしょうね。「こんなにたくさん大学要るの?」という気持ちは理解できなくもないのですが、大学らしからぬ (と各人が恣意的に感じている) 大学が大学ではなくなっていくことで一部の人達の溜飲を下げることができる、ぐらいの話でしか無いのであれば、それはあまりに無意味でお騒がせな話ではあります。

そこで、あくまで大学を減らすこと自体を主眼に置くのではなく、あくまで職能養成に特化した高等教育機関という選択肢を、学生にも企業にも提示し、活用していただくことを主眼に置くべきなのでしょう。これは当たり前といえば当たり前の話なのですが、産業側が採用に際して求める教養や技能を明確にし、そのためにどのような教育が施されるべきかがある程度ビジョンとして明確になっていかないと、教育機関側だけでそれを作っていくというのは難しいことなんじゃないかとは思います。

そういう意味でも、産業界側からの積極的な参加、協力は欠かせないでしょう。当面は教育ノウハウがある程度確立していて新たな設備投資も少なく済みそうな専門学校からの移行を促すことになるのでしょうが、現状産業界と専門学校との間にどの程度のつながりがあるのかは微妙なんじゃないかとも思われますし、突き詰めれば結果的には教育プランを一から練り直したほうが早いということにもなりかねないかもしれません。

更にいうと、似たような産業の中でも企業によって求められる資質が異なっていたりすることもあると思うんですよね。それどころか、その産業の代表的な企業であるように見えるにもかかわらず、中の人達の技術向上に取り組む意識が低いために、有能な同業者らから見たら絶対に真似しちゃいけないしきたりが、ビッグネームだからというだけで盛り込まれてしまう可能性も危機意識としては持っておかないといけないかもしれないですね。ホント、業界の横のつながりって、大切だと思うんですけどね… ('A`)。

新たな高等教育機関 #とは2015年06月06日 09時27分24秒

なるべく毎日更新するつもりだったのに一週間も穴を開けてもうた…。

こうしたなかで、安倍総理大臣は、生産性の向上には、企業の投資に加えて、政府を挙げて人材の育成に取り組む必要があるとして、高校の卒業生などを対象とした新たな高等教育機関の創設を目指す意向を固めました。

この高等教育機関では、産業界のニーズに即した職業教育を行い、IT技術や金融などに関する実践的な能力を持つ人材の育成を目指す方針で、来年6月をめどに制度設計を終え、速やかに必要な法案を国会に提出したい考えです。

はぁ。

はてブなんかでは「専門学校と何が違うの?」的なコメントが多いですね。実際問題として既存の専門学校との差別化が図れないようであれば創設の意義はないでしょうから、その辺をいかにアピールするかが政治的には重要になっていくのでしょうが。

既に専門学校というものが存在するにもかかわらず、こういう内容であくまで「新たな高等教育機関創設目指す」と書いているわけですから、そういう意味では、おいらとしてはむしろ、かつての株式会社立大学のようなものを連想したわけです。おいらがブコメで上記のように書いたのは、よーするにそういうことです。

2004年に小泉内閣時代に構造改革・規制緩和路線の中で「株式会社立大学」が構造改革特区に認可された。
その後についてご存じだろうか。
LECリーガルマインド大学は2004年に開学、全国14キャンパスを大々的に展開したが、まったく学生が集まらず、2009年に定員160名のところに18名しか志願者が来ないで募集停止となった。
2006年開学のLCA学院大学も志願者が集まらず2009年に募集停止した。
TAC学院大学は2006年に開学申請したが、記載不備で却下されて消えた。
実務に通じたビジネスマンたちが旧弊な大学を叩き潰すために登場したビジネスマインデッドな大学はどこもたちまちのうちに市場から叩き出されてしまった。
だが、「ビジネスマインドで大学経営をする人々が次々と出てくれば、要らない大学は淘汰されるだろう」という命題は「ビジネスマインドで経営をする人々の大学は要らない大学だったので次々淘汰された」という皮肉なかたちでしか証明されていないということは繰り返しアナウンスすべきだろう。
もし大臣が大学教育にかかわる教育行政にビジネスマンを関与させようと望んでいるのであれば、その前にまず「株式会社立大学はなぜ失敗したのか?」についての説明責任があると私は思う。

そうそうこれこれw (←不謹慎) 結局のところ、やろうとしてることって、こういうのの二番煎じにならざるを得ないと思うんですよね。何しろ、「新たな高等教育機関」を名乗るわけですから、既存の大学では人気を博しやすい、「理工学部」とか、「情報学部」とか、「経済学部」なんてものは絶対に名乗ることはできないわけですし、そもそも大学ですら無いので「学部」という用語自体使いにくいわけで。

そこで、「学部」についてはとりあえず「コース」という言い方に変えればいいとして、そのコース名としてどういう名前をつけるのかというと、例えば「プログラミングコース」だとか、「システムテスト技術者コース」だとか、「証券取引コース」だとかってやってしまうと、分かりやすくていいっちゃいいんですが、あんまりにも具体的すぎて生々しくなってしまうというか、それだったらもう職業訓練校でいいじゃんっていう話にもなっちゃうわけですよね。

だから、専門性の高いエリート人材を育てる場ではあるけど、やってる内容としてはそれなりに学術的で崇高なもんだよっていうのを匂わせないといけない。となるとどんな名前になるか。例えば…、「ITディベロップメントアーキテクトコース」、「ヒューマンITコンサルティングコース」、「ビッグデータソムリエコース」、「国際ITコンコルドコース」、金融系だと…、「トレーディングビジネスコース」、「ファイナンシャルマーケティングコース」、「保険ビジネスデザインコース」、「デイトレーディングプライヤーコース」などといったところでしょうか。こういう感じの、意味が分かるような分からんような微妙なところを狙っていかざるを得なくなるんだと思うんです。最近は大学でもこういう感じの学部が少なくないですけど。

そもそも今回の話は経団連の総会で出た話ということで、生産性の向上のために、産業界のニーズに即した職業教育を目指していこうということだそうですね。はてブでも「経団連の言いなりだ」的なコメントはいくつか見られましたが、そうした文脈の話である以上、産業界の (と、いうよりは財界の?) 意向についても確認しておくべきだと思います。

こちらは実際に公言されている建前…。

「大学はこんなに要らない。大学生といえぬほどの低学力のものたちを4年間遊ばせておくのは資源の無駄だ」というようなことをビジネスマンはよく口にする。
これから彼らからすればごく当然の要請である。
この6月に、首相召集の国家戦略会議で、財界人代表のある委員が「大学が増えすぎて学生の質が下がった。専門知識はおろか一般教養も外国語も身についていない。大学への予算配分にメリハリをつけ、競争によって質を上げよ。校数が減って、大学進学率が下がってもいい」と主張した。

そこには以下の様な目論見がある、というのが内田センセーの見解でした。

中等教育の内容を理解していないものは大学に入学させないという縛りをかければ、おそらく現在の大学生の3分の2は高卒で教育機会を終えるだろう。
そうすれば毎年数十万の低学力・低学歴の若年労働者が労働市場に供給されることになる。
財界人たちはこれを待ち望んでいるのである。
この最下層労働者群は信じられないほどの時給で雇用できる可能性がある。

今回の「新たな高等教育機関」が産業界に評価されれば、企業は大卒者よりもこちらの教育機関を出たものを厚遇するようになり、学生も大学よりこちらを目指すようになる。そうなれば「不要な大学」の自然淘汰、統廃合は進む——、彼らの青写真にそういうことも含まれているのであれば、なおさら専門学校や、かつて野望も虚しく散っていった株式会社立大学のようなものとの、明確な差別化が必要になってくるのだろうと思われるわけですが、さてどうなるでしょう、教育改革に名を刻みたい安部首相のお手並みや如何に。

そうそう、

こんな見方もあるわけですが、時間的拘束のゆるさに加え、それなりに成熟した責任ある大人として比較的自由な生活が許される大学生が、そのぬるま湯に漬かってきたが故に乱れた生活習慣を引きずり、更にはゆとり世代以降に見られる体育会系離れに伴い上下関係意識が薄れるなど、旧弊的価値観の企業からしてみれば労働者としては使いにくい、という見解 (というか偏見?) も根強いんじゃないかと思います。

「新たな高等教育機関」はこれへの反動として、おそらくは厳しい戒律とびっしりギリギリのカリキュラムにより学生をビシバシ鍛えあげる、軍人養成学校のような存在にもなりうるんじゃないかとも思います。一部の企業が研修で採用するような、体力を消耗する系の声出しをひたすらやらされる時間なんかも設けられたりするんじゃないですかね。結果として一部企業にとっては都合の良い兵隊がたくさん生まれるのかもしれませんが、そういう学校に魅力を感じる学生ってどれだけいらっさるんでしょうね…?

剣道が某ヨットスクールみたいに扱われているらしい件2015年05月29日 12時13分43秒

今回の話題はこの tweet が発端。

んで、これに対して以下のような反応を示したのですが、

どうもそういうことが言いたかったわけではなかったようで (文脈追ってから反応しろよ>ヲレ)、その後、リプライをいただき、以下のようなやり取りが続きました。

もしかしたらおいらが少年剣道やってたぐらいの時代でも似たような使われ方はしていたのかもしれないのですが (武道全般で似たようなことは多かれ少なかれ昔からあるのかも…)、なるほどたしかにこういう意味であるなら大人たちは剣道に限らず武道に子どもの人格形成を期待し過ぎなんだろうなとは思います。まぁ、大人問題ですよね。

おいらの世代ぐらいまでは、当時漫画からアニメ化もされてファミコンのゲームにまでなった「六三四の剣」の影響もまぁまぁあったような気もします。剣道がかっこいいって、スポットライトが当たってた時代も、あったんだぜ。おいらは単に兄貴がやってるのを見て始めただけだったんだけど。

るろうに剣心がどのくらい影響していたかは知りません (ワッキーがコミックスのコラムに「剣道少女=ポニーテール」みたいなことを書いていたのは覚えてる)。最近は歴女の亜流で「刀女子」なんてのもあるらしいですが、競技としての剣道には全く影響はないんだろうなぁ…。

あとやっぱり「サウスポーNG」とか「喜び表現NG」とか、あとは心技体一致の打とつでないと一本にならないみたいな審判のわかりにくさとかあって、そのへんが国際的には流行らない理由になってるのかなぁとか… なんか最後の方は与太話になってしまいました。かしこ。(汗

「世界はだんだんよくなっている 」がジャーナリズム批判としてはダメな理由2010年01月26日 14時40分25秒

t-murachi 社会形成, 歴史, 思考, hoge, 下らん, 時間の無駄, メタブもあるでよ 中身のないポジティブ論に賛同はできないな。今こうしている間にも、失業者は着実に増えている。悲観、無力感への処方箋は解決策と試行であるべきであって、無関係な代替概念を持ちだして納得させる事じゃない。 2010/01/25

リンク先記事については同意し、あるいは励みになったとする意見が多数見受けられた。そのこと自体は悪いことではないと思う。各自の個人的な人生において励みになる概念が少なからず存在することは、悪いことではない。

おいら個人の人生としては、現状、メディアが喧伝する閉塞感の中において、割と幸せなものだと自覚している。なので例えば生活に窮する状況に追い込まれている方々 (working poor 然り、失業者然り) や、旧来的・現代的を問わず差別の憂い目に遭っている方々などを代弁して何かを言うことは難しい (してはいけないわけではないとは思うが、多分実感がこもらないんじゃないかと思う) し、実際それをする気もさほど無かったりする。

ただ、ブックマークコメントで書いたことについては、まぁ、それはそれとして、この記事が、メディアが閉塞感を喧伝することに対する批判として書かれているのであれば、その批判に伴う提案としてのポジティブシンキングには、やはり同意することはできない。これは、メディアが行っているとされる、この国の社会に対する漠然としたネガティブキャンペーンを一つの極と定め、対立する概念としての (やはり漠然とした) ポジティブシンキングをもう一方の極に配した二項対立の図式に落とし込もうという、自縄自縛の議論であるように思うからだ。

「この国の社会に対する漠然としたネガティブキャンペーン」が何故ダメなのかと言えば、それは個々の議論が突発的な井戸端会議のネタに終わってしまうからだ。事業仕分けがメディアに取り上げられ、国民の間で議論を呼んだ。それ自体は悪いことではない。しかし京速スパコンに対する蓮舫議員の「二番ではダメなんですか」発言ばかりがクローズアップされ、「頭の悪い素人が仕分けに口出ししている」という負の側面ばかりが目立つような報道になってしまった。その後も事業仕分けに関してはスパコンのことばかりが取り上げられ、本当に必要な議論 (大幅削減が決まった spring-8 や海洋研究、逆に仕分けの対象から結果的に外された核燃料再処理工場の是非、etc...) にあまり耳目が集まらなかった。本来批判されるべきはこうした政策論議に関する報道の網羅性のなさや、ウケ狙いの報道姿勢、そしてそうした報道をネタとして消費する読み手の姿勢にあるのではないか。

ネガティブな報道ばかりだから閉塞感が広がる、もっとポジティブなニュースだってたくさんあるはずだし、そういうのをどんどん報じるべきだ、とする意見をよく耳にする。同意される方も多くいらっさると思う。

おいらがそうした考え方にどうしても同意できないのは、結局の所、その考え方というのは、現状の、報道をネタとして消費するという、読み手、聞き手の姿勢を前提とした考え方だからだ。そうした姿勢が正されることがない限り、即ち大勢が個々に社会に参加しようという意欲を持たない限り、メディアは成熟しないだろうし、デモクラシーは成就されないだろう。雰囲気だけで政権交代し、雰囲気だけでそれを悲観し後悔するなら、そもそも民主制である必要など無いのだ。

昨今のメディアによるネガティブ報道にはもう一つ問題点があって、それは極めて個人的な事情により起こってしまった事件について、容疑者 (未だ裁判で犯人だと確定したわけでもない) の属性情報ばかりを取り上げた挙げ句、それがいかにも社会的な現象であるかのように報じてしまう点だ。こうした報道は偏見・差別を好む低俗な耳目をよく集める。しかしメディアリテラシーを高める存在であるべき新聞・テレビ報道が、結果的に民度を失墜させることに手助けしているというのは実に皮肉なものだ。

最近では個別の新聞・テレビ報道に対し、関係者がネット上でブログなどを用いて認識の齟齬や報道上の問題点等を指摘すると言うことがたびたび行われている。これはよいことだと思う (そういう意味では、元記事に同意するものである)。そして、そうしたことの一つ一つが、テレビや新聞のネットに対する相対的な信頼感を、着実に貶めていっているのだと思う。その効果は新聞の販売数やテレビの平均視聴時間、広告・CM枠の売り上げなどといった数字にもろに影響しているし、大手の新聞社、放送局が軒並み赤字を出していたりする。

しかし彼らは反省しない。それどころか、彼らが手にしている特権的利権 (記者クラブ然り、電波利権然り) を手放すまいと躍起になっている。このことこそ、最も悲観されるべきなのだ (特に我々世代にとっては)。元記事はテクノロジーが社会を少しずつ、着実によりよくして行っていると書いている。しかし、テクノロジーを活用するのは人だ。情報コントロールは権力そのものだ。テクノロジーが変わってゆくなら、人も変わってゆかなければ社会はよくならない。テクノロジーに取り残されたはずのメディアがテクノロジーそのものへのネガティブキャンペーンを展開し、それに多くの人が踊らされて差別に勤しむような社会は成長しない。インターネットをメインステージに育まれるこれからの時代において、誰もがそのことを肝に銘じなければならない。

議員内閣制と官僚依存体質からの脱却; むしろ行政府を立法府の手中に2009年09月19日 21時08分17秒

はてなーの反応の多くがちょっとアレなので、選挙前に買った←の本からの引用を交えて補足してみようと思う。この本は政策のレジュメとしても役に立つので、興味のある人は読んでみるといいと思う。

直接的に関連する記述は本の中の見出しで言うと「100人超の議員を内閣に送り込み、官僚依存体質から脱却する」ってやつ。p.113~115。それから、間接的には「政治任用ポストを大幅に増やす」(p.131~132) も関係してくると思う。他にもあるかな? おいらも勉強不足なもので…。

まず「100人超の~」の方から。まず大前提として、日本では議員内閣制を敷いていて、国会議員が国会議員の中から、行政府の長である内閣総理大臣を任命し、そしてその内閣総理大臣が行政府の主要ポストである各省大臣等を任命している。多くの場合、大臣、副大臣、政務官等のポストの多くを国会議員が請け負うことになる。

この制度の目的は、国の実際の運用を行う行政を、立法府のコントロール下に置くことにある。しかしながら、従来の体制においては、大臣・副大臣等が行政の実際の運用を把握し切れておらず、その説明責任を官僚に一任してしまうケースが多かった。すなわち、実態として立法府が行政府をコントロールできていなかった。

今回のニュースに対して、「官僚主導を打破し、政治主導に切り替えるという民主党の公約は反故にされた」と感じる人が多く出てしまうのは、現状のこうした実態を前提として考えているからなのではないかと思う。つまり、多くの人は、「政府=行政 (官僚と同類か、もしくは官僚の操り人形)」と考えてしまっている。しかしながら、民主党は、そもそもこうした実態そのものを覆したいと考えている。

政府が官僚主導となれば、どんなに党が政治主導で (すなわち民意に沿って) 動こうとも、官僚からの反発に押しとどめられて立案が進まないという事態に陥る。政治主導とすべきは政府そのものであり、そのためには、議会議席における党員がもぬけの殻になろうとも、多くの議員を内閣に送り込み、そして政策立案の場を政府に置くことで、議員の官僚に対する発言力を高める必要がある。

民主党は副大臣・政務官に加えて内閣に大臣補佐官のポストを新設し、国会議員を充てるという。また、衆参一人ずつの官房副長官も増員するほか、現在は官僚が占有している官房副長官補にも国会議員を充てる。しかも、政治主導をさらに確実なものとするため、民主党内閣では、党の幹事長や政調会長までが入閣するという。

党幹部を含め、それだけ大挙して主要な政治家が内閣に入ってしまうと、党がもぬけの殻になり、党運営がままならないのではないかと心配される向きもあろう。だが、民主党政権では、与党が内閣と一体化するのだという。

つまり、民主党が政権を取れば、党の政調機能は停止され、政策立案は党の政調がまるまる引っ越してきた内閣ですべて行われるようになる。これまでのような、官僚主導の政府と政治主導の党という二重構造は、政策立案における透明性を欠く。民主党のこのやり方は、それが族議員の跋扈を許したという反省の上に立っているという。

事務次官会見の廃止とも繋がる話で、政策に関する詳細な点にまで、これらの政府入りした議員 (または議員により任用された民間人)、そしてそれらを束ねる各省大臣が把握し、説明責任を果たす。そのための改革であるとも言える。

なお、これは当たり前すぎるくらい当たり前のことだが、民主党政権では国会の本委員会 (各論を議論する小委員会は除くという意味) での答弁は政治家に限定されるようになる。

現在は政策の細かい話になると、政治家が官僚に答弁をゆだねるシーンをたびたび目にするが、民主党政権では答弁はすべて政治家に限られる。つまり、政治家は細部まで政策や法案を把握していなければならない。いよいよ政策立案も、霞ヶ関の官僚にお任せできなくなるという意味では、政治主導に大きく近づく。

ただ、以下に引用するとおり、政府が政治主導で回るようになっても、彼らが民意から外れるような政策を打ち出してきたときに、それに対する批判の声を逐次届けていくようでなければあまり意味がない。官僚によるパターナリズムが民主党によるパターナリズムに変わるだけでは意味がないのだ。だからこそ、メディアの役割、責任は大きくなる。しかし、それが従来の記者クラブ占有で政府会見が閉ざされたままということになれば、政治と大手メディアの談合により、有権者による重大な指摘の機会が失われることになりかねない。政府会見の記者クラブ外への開放が非常に重要な改革の一つであると言われるゆえんがここにある、というわけだ。

しかし、それと同時に、民主党政権下では、政治がおかしなことをやらないよう、われわれ有権者が監視しなければならない。政治主導が実現すれば、われわれ有権者の責務も、以前よりずっと大きくなることを覚悟しておく必要がある。

はてブで以下のように指摘する方がいらっさいましたが、これはまさにその通りだと思う。

  • vatista99 記者クラブを全面廃止してからにしろ

首相会見の開放が反故にされた件についてはおいらも気にしていたのですが、岡田外相が自身の会見では開放することを明言したほか、「これからも、徐々に開放を進めて参ります。」とする松野官房副長官の言質が議員のブログで公表されたということもあり、当面は信じて待とうかなという気になりつつあるところではあります。頼むよホント。

もう一つの「政治任用ポストを~」の方もまさに政府を政治主導で埋め尽くせ作戦の一環、というお話です。主要部分を引用しますね。

まず、民主党は公務員を三段階に分け、それぞれに独自の任用方法と独自の機能を持たせるという。

一番上が首相や大臣の周囲に置かれるスタッフである。首相の周りには国家戦略スタッフを、大臣の周りには政務スタッフを置く。これは首相や大臣が自由に採用できる政治任用ポストで、官僚が任用されることもあり得るが、民間が中心になるという。政治任用なので、大臣が替わったらスタッフも職を退くことになる。いわば総理や大臣と一蓮托生のポストだ。現在の役所に置き換えれば、次官、官房長、審議官クラスがこれに当たる。

その次に現在の局長クラスがくる。これも政治任用ポストになる見込みだが、大半は公務員が占めることになるだろうという。しかし、局長以上のポストは、ある程度政権の側で決めることが必要だと民主党は言う。

官僚の上層部を大臣とセットでポータブルな立場にするのは重要。 現場の論理やお仲間意識に拘泥されるのを防ぐためでしょう。その下も政治任用としておくことで、抵抗勢力はいつでも首を切れる体制とし、公務員に対する議員の優位性を高める狙いがあるのでしょう。

以上、おいらもこの辺は専門の人ではないので、認識に誤り等あればご指摘いただければと思います。結論としては、少なくとも政治主導への切り替えという公約がこれによって反故にされるという話ではないし、そもそもマニフェストとして選挙前から言ってきたことですよ、というお話な訳ですね。ちゃんちゃんと。

神保さんの民主党批評本を買ってみた。2009年07月24日 10時14分55秒

買ってみますた。

まだ全然読んでないのですが、とりあえず民主党に関して尤も関心が高いのは「財源どうするのよ」問題だと思うので、その辺について触れている、「61. 消費税を社会保障目的税とし、五%全額を年金財源に」から一部を引用しておきます。

民主党は二〇〇五年の衆議院選挙で、当時の岡田克也代表が、年金財源として消費税を五%から八%に引き上げることを公約に掲げていた。しかし、その後小沢氏が代表になると民主党はこれを撤回。二〇〇七年の参議院選挙でも、マニフェストで消費税率は五%を維持し全額年金財源に充てると公約している。

だが二〇〇五年当時と比べ、民主党は子ども手当の金額を月額一万六〇〇〇円から二万六〇〇〇円に引き上げているし、他にも財源を必要とする新たなセーフティネット政策を追加している。そのなかで、消費税の増税だけを引っ込めてしまったために、財源問題が表面化することになる。

民主党が小沢代表の下で言い出した、予算の組み替えによる二〇.五兆円の新たな財源の捻出が、場当たり的であるとして今ひとつ信用されない最大の理由がここにある。

つまり、予算の組み替え論は、消費税増税を公約から引っ込めたために足りなくなった財源分を埋め合わせる目的で (より厳しい言い方をすれば、そのギャップをごまかす目的で)、民主党が持ち出してきた辻褄合わせではないかとの疑念を持つ人が、少なからずいるということだ。

民主党は、消費税を増税するには、無駄の削減などを徹底することで、まずは政府に対する国民の信頼を得るのが先決だとの立場をとる。そして、消費税の税収は社会保障以外には使わないことを法律で明文化すると約束している。その上で、当面はそれを年金財源とし、将来的には年金改革で創設する「最低保障年金」や国民皆保険制度の「医療費」などの財源に充てていくという。

「今の政府は無駄があまりにも多いので、増税を持ち出しても理解されることはあり得ない」 (福山哲郎政調会長代理) というのが現時点での民主党の立場だ。政権を取り、徹底的に無駄の削減を行った上で、それでもどうしても政策を実現するための財源が足りなければ、そのときは消費税の引き上げも含め、改めて国民に信を問う、というところか。

あ、念のため断っておきますが、↑に表示されるリンクはアフィです。貧しいおいらにささやかなる施しを…w

まぁ、この辺は個人的には概ね予想通りというか想像通りというか。とりあえず現時点では「増税無しにできそうだったらやれるとこまでやってみるけど、無理だったら増税するか公約のいくつかを諦めて貰うかのどっちかになるよ」ということなのでしょう。いずれ増税になる、という意味では自民党に任せていても多分同じ事なので、結局の所財源の問題を争点にするよりは、その使い道を争点にした方が良さそうな気もします。

最初に挙げたリンク先に概要が概ね書かれていますが、それを見る限りにおいては、全体的には思っていたより悪くなさげです。時間がなかなか取れないですが、追々この本を読んでもう少し検証してみたいと思います。

「ブラック会社」がブラックにならざるを得ない社会的背景2009年07月10日 01時30分39秒

どこかのうんこブログがリンク先記事への回答として「雇用流動性が低いからこうなる、解雇規制を撤廃すべきだ」などと極めてうんこな事をほざいていらっさいますが (腹立たしいのでいちいちリンクしません)、まぁそれはそれとして。

ブラック会社、あるいはブラック企業というのは、要するに労働環境が劣悪で、しかも社員の多くがそうした状況に疑念を抱かない、あるいは諦めてしまっている社畜ばかりである、といったような状況に陥っている会社のことを指し、そう言った現象について、経営者対労働者の構図で物を語る人が多かったりする概念です。

実際のところ、こうした現象というのは必ずしもそのような単純な物であるとは限りません。特に、SI 業界に関して言うなれば、顧客企業との軋轢、上流・下流やコンサルなどといった工程を切り分けるスタイルによる分業と、それに伴うピラミッド型の下請け構造、中小企業への支援制度が手薄な行政、などといったものが背景に横たわっており、その結果として、不利な条件で事業を請け負わなければならない零細ソフトハウスの苦渋、ご贔屓さんとの政治的おつきあい、さらには会社規模でいえば一流の筈なのに部署や取引先によって明暗がくっきり分かれるなんて事もざらにあったりする訳です。

もちろん、労基法がないがしろにされ、労働者の権利が踏みにじられている現実は、どうにかする必要があるでしょう。内部告発が増えてきているのは好ましいことですが (今のところニュースになっているのは飲食業界が多いですが)、罰則規定を強化し、労働者の権利侵害が悪であるということを政府の態度として明確にすべきだというご意見は、確かにごもっともであると思います。しかし、それとセットで同時に解決して欲しい問題がいくつかあるのも事実です。

ことソフトウェア業界に関していうならば、以下のような問題が横たわっている訳ですが…

  1. 作業領域が工程によって分断される為、下請け構造が根深く、企業間の上下関係がはっきりしてしまっている。
  2. 企業の技術力を推し量る基準が存在しない為、無名な中小零細企業は営業面において不利を強いられている。
    • 品質管理能力については一応 ISO 9001 というのが存在するが、そもそもテストを切り詰めろなどといった品質をないがしろにする要求をしてくる顧客が未だに多く、業種によってはあまり重視されないケースも少なくない。
  3. システム開発の適正価格が理解を得にくい為に、市場自体にダンピングの発生しやすい土壌ができあがってしまっている。
    • これに対し、システム構成を無駄にリッチにする、オープンではない技術を多用し、保守を入れ替え不可能にして独占する、などの (顧客側の無知を逆手に取った) 悪質な商習慣も横行している。
  4. 起業支援が手薄な為、新規に事業を興そうとするものが少なく、いても先立つものがない為に、SI 事業の下請けの末端として仕事を受けざるを得ないという状況がある。

1 と 2 は中小企業支援の問題。公正な取引が阻害される要因というのはいろいろと考えられる訳で、そのうちのいくつかは政府による規制によって状況をある程度改善することは可能かも知れません。一番の問題は作業範囲が工程によって切り分けられることであり、上流を請け負う企業が設計書を仕上げて持ってくるまで下流を請け負う企業がコーディングの作業を開始できないとか、納期までの時間の内の大半を上流が食い潰してくれやがったのに最終期限は延ばして貰えないであるとか、顧客が直接お金を払うのは上流を請け負う企業だけなので上流が見積もりを誤ればとばっちりを食うのは下流であるだとか、そういう差別要因を育む諸悪の根源なのだから、作業範囲を工程で切り分けること自体を不公正な取引であるとして規制してくれればそれが一番公正な世界を創り出す近道であるようにも思うのですが、実際のところ、うちには顧客と直接交渉してシステムを提案できるような人材はいない、仕事をくれる上流企業から仕事を貰えなくなるような規制ができたらうちは商売できなくなる、なんていって尻込みするソフトハウスも少なくないだろうから、いきなりそんなドラスティックな改革をやってのけるのも難しいんだろうなぁとも思ったりする。

技術力うんぬんに関しては、実際のところ、個々のスタッフの経歴がすべて、というのが実情。後は取得した資格とかですかね。で、「A と B と C という技術を使えば、n 千万円で実現可能です。当社であればこれらの技術を経験しているスタッフは揃っています」なんつって営業したりする訳ですが、こんなのはっきり言って顧客は理解できる訳がないので、結局は企業の知名度で選ぶか、価格が一番安いのを選ぶか、ということになってしまう。 3 の適正価格が理解されない問題とも通じていて、顧客企業自体にしっかりした情報システム部門があったり、有能な CIO がいらっさるようであればそれほど問題にはならないし、そういう体制はもっと普及すべきだとは思うのだけれども、すべての顧客にそれを求める訳にも行かず…。個人経営の飲食店とかだってなんらかのシステムが欲しいと思うことはあるのだろうけど、そういうところにシステムを構築することで、十分に食っていけるだけの報酬が得られるような世の中になっていないことが、独立開業を難しくしている要因の一つであるとも言えたりする訳で…。

4 は起業支援の話なのですが、これを求めることが国際的に見て贅沢なことなのかどうかおいらは知らないのですが、独立開業を夢見る人のご意見として、会社に縛られることなく、自分のペースで仕事ができる、という誤解があるのだけれども、それを実際にかなえるには、納期などに縛られない商売、すなわち、オーダーメイドではない金になる商品を既に持っていて、それをコンシューマーに向けて販売、もしくはサービス展開する、といった商売で勝負できる場合に限られることになる訳です。でも、それまで一労働者としてあくせく働いていた人が、そういう商品を作り出す時間を割くこと自体が難しかったりして、で、そんな時間を得る為に脱サラしてみたはいいものの、勝負になるようなものができあがらないうちに貯金が底をつき、あえなく派遣で仕事を探す、なんてのがありがちなオチだったりするのが実情です。これは SI で下請けやってる中小零細企業に関しても同様で、仕事が多くて忙しいときは時間的余裕が無く、仕事が少ないときは少ないときで今度は資金的余裕がなくなってしまう為に、なかなか自社開発に踏み切れずにいる。そういった辺りをうまいこと救済するような制度とかがあったりすると、コの業界ももうちょっと活気づくんじゃないかなぁとか思わなくもなかったりする訳です。

IPA が未踏IT人材発掘・育成事業なんてのをやっていたりしますが、これはこれで良いのですが、これだとどうしても凄い発明をする英雄的存在を発掘するアプローチ、ドラクエで各国の王様が勇者を捜し出すアプローチになってしまっていて、業界全体の労働者層を救済するアプローチにはなり得ないし、独創的な商売を育む土壌もなかなか根付かないのではないかとも思う。かといって、日の丸検索プロジェクトみたいなのは一部の企業を利するだけで、これも業界全体の活性化を促すものにはなり得ない。もっと、ソフトウェア企業がこれから作ろうとする物の価値を認めあえるような、財源とコミュニティが一体化したような社会的枠組みがあったりすると面白いんじゃないか、とか思ったりもするんだけど、庶民様の血税とやらでそれを実現するのはやっぱり難しいんだろうな、とも思う訳で…。

相変わらずまとまらないけれども、おいらの今のところの思考は、とりあえずこんな所。

で、せっかくなのでこぼれ話。おいらが今、会社として請け負っているお仕事なのだけれども、取引先の都合で、別の会社を1社はさんで契約して貰っている。

何でそんなことが必要なのかというと、事業を通して経費が適切に計上されているかどうかが審査される訳だけれども、事業全体の規模があまりに大きい場合、そのうちのいくらかを、うちみたいな無名の零細が請け負っていたりすると、それが使途不明金として疑われてしまうケースがあるからなんだそうだ。

結局の所、法が民間に対して信用を求めていて、それがうちみたいな零細には、結果として障壁となって立ちはだかっていたりする。法人は国に登記され、その事業内容も合わせて管理されるのだから、本来ならばその国こそが企業の信頼を担保するべきなのに、実際にはおいらたちは国にすら信頼されない、信用ならないならず者として扱われる訳だ。だからこそ、どこかから与えられる数少ないチャンスをものにし、信頼を積み重ねていかなければならない。

そりゃあ、奴隷にもなるよ。詐欺師にだってなる。おいらはどっちかっていうと、病気になる可能性の方が高そうだけれども…。

長島一由氏って、いつの間にやら民主党から国政選の候補者として準備していたのね。2009年02月22日 09時54分24秒

知らんかった…。トップの画像に思いっきり「衆議院」って明記されてるし…なかなか解散してくれなくってやきもきしてるんだろうなぁー (^_^;。しかしステキな眼鏡っ漢だw

この人以前はブログも書いていたんだけど、一番最後の、自分の本を紹介するエントリーのみを残して、他すべてのエントリーをばっさり削除してしまった模様。拙ブログからも度々参照させて いただいたりしていただけに、激しく残念。民営化への舞台裏とか、めちゃめちゃ興味深い記事だったのよ。

ただ、氏の逗子市長としての取り組み実績についてよくまとめられた冊子が PDF で公開されているので、政治、特に地方自治や行財政改革に興味のある人は、橋本知事をベタほめする前に、一度目を通してみる事をオススメします。まぁ、市町村長と都道府県知事とでは事情も環境も全く違うんでしょうから単純に比較はできませんが…。

例えば職員の雇用に関わる費用の削減においても、給与カットや首切りではなく、新規雇用の削減による 20年計画での半減を主軸に、非常勤職員の増員、業務の民間委託などでカバーするという政策を打ち出し、実践しています。こうした取り組みは、任期一年目でいきなり黒字化するような短期的な成果が見込めるものではありませんが、そもそも将来的に財政が回復する見通しを「仕組みとして」導入し、その説明責任を果たす事が可能であるなら、短期的に数字として表れるわかりやすい成果など、そもそも不要なのではないでしょうか?

地方自治の事例については、成功例にせよ失敗例にせよ、もっともっと情報共有されるべきなのではないかと思います。歴史教育と言うよりは、社会の共有認識を高めるという事が重要です。

しかし民主党かぁ…。衆院選、早く始まってくれると良いですね。(^_^;A

ベーシックインカム設計論2009年02月12日 00時18分44秒

本論の思考実験についての批評はさておき、一つだけ。

金額設定をざっくり 15万、と言ってしまうのは、あまりにも乱暴だ、とは思う。本当にそれで導入してしまうのであれば、確かにいろいろと歪みも生じるでしょうね。

ベーシックインカム (以下、BI) 導入による政策上の目的、狙いを何に置くか、にもよるのだと思うのですが、それによる結果を思考実験したいのであれば、BI で個々人に支払う金額と支給方法、そして財源を前提として考慮することは必須であると思います。

金額固定では地域格差や物価変動などを吸収できない

どこに住んでいるのかによって、生活に必要な金額というのも変わってくるでしょう。特に住居。アルバイトの求人一つ並べてみたって都内と郊外とで時給はがらっと変わるわけですから、全国一律金額固定では地域格差を吸収できません。

また、ブコメでも指摘されていますが、BI という制度そのものが物価や貨幣価値に与える影響についても考慮する必要があります。BI が保障する生活価値以上の価値創造を利潤に求めれば、物価は比較的早く上がってしまう可能性があります。こうした側面も考慮した上での工夫が必要になるはずです。

国家という信用を担保にするならば、後払い方式も可能ではないか?

で、これは若干安直な思いつきですが、実際に生活する上で必要だった金額を「生活経費」として計上してもらい、それを国家に請求して支払いに応じる、という運用もありなのではないかと考えてみます。もちろん、そんな運用では事務費用が馬鹿にならないので、そういう部分もいろいろと工夫が必要になりますが、基本理念としてこれがアリになれば、「生活経費」として認められる分野については「ツケ」が可能になります。「ツケ」であれば、使った金額を管理するのは商売する小売店や飲食店などになりますから、確定申告などの際に同時に処理すればよいわけで、おおなんだ、事務費用もそれほどかさまないかも知れないじゃないか。ってそんなうまくは回らんかも知れんけど。

「生活経費」の定義

さてここで問題になるのがこれ。

まずは住居。賃貸にせよローンにせよ、「これだけ支払いが生じたので、その分全部補填して下しあ」をすべて通すわけにはいかないかも知れません。住むこと自体が贅沢な家やマンションが無いわけではないですからね。そこで、上限金額などを設定することになるわけですが、この金額の設定は、原則的には最小単位の地方自治体、即ち市町村に任せるべきでしょう。金額設定の妥当性を検証する司法系の第三者機関があっても良いかも知れませんが。

次に食事。ざっくりとした提案としては、食材購入費すべて (調理済み総菜や弁当なども含めるとしましょう) と、国または自治体が認可する食堂のみを対象とする。酒類は (調理酒、味醂などを除いて) 対象外。

あ、やるならツケは電子化した方が良いかもしれませんね。それこそ住基カードの出番です。BI 対象商品をツケで購入すると、翌月末にツケの分の金額が国または自治体からお店に振り込まる、みたいな。

次にインフラ類ですが、水道光熱費は上限はあっても良いかもしれませんが (但し季節に応じて上限金額を上下すべきかも知れませんが) 基本的には対象内として、悩ましいのが通信費とテレビ受信料でしょう。まず、電話代、インターネット接続利用料についてはどこまでを対象とすべきかは議論の分かれるところでしょう。例えば電話については、110/119/117/177 のみが可能な最低限のサービスコースを用意すべきかも知れませんし、通話料抜きの基本料金までを対象とすると言うのも手かも知れません。ネットについては、国が独自のネットワークサービスを提供し、官公庁や各自治体のサービス、ハローワークなどのみが無料で利用可能、とすることはできるかも知れません。また、NHK の受信を「公共放送であり必須インフラ」と考慮するなら、そもそも受信料方式は廃止して、税金のみで運営するべきなのかも知れません。

交通費についても悩みどころです。交通費が BI の対象になるのであれば、これまでは一般的であった会社からの交通費手当は一般的ではなくなるでしょう。その一方で、生活に必要な交通とそうでない交通との切り分けという問題も発生します。

「生活経費」は全額支給? それとも一部支給?

さて、これらの生活経費をすべてツケに回したとして、国はこのツケを全額補填すべきでしょうか? それとも一部補填とすべきでしょうか? 一部補填にする場合、何割程度を補填すべきでしょうか?

8割補填とかの場合であれば、年末調整や確定申告時に残りの 2割を税金として支払っていただくようなイメージになるでしょうか。ただし、失職中などで支払い能力がない場合には、先延ばしできるようにするか、もしくは申請に応じて免除する、といった運用もアリでしょう。

逆に 3割程度の補填とかの場合、そもそも「ツケ」というやり方自体に無理があるかも知れません。その場合は、領収書を集めてもらって、個別に申請して受け取りに行く、というような運用になるでしょうか。その場合、事務費用がかさむので、あまり厳密な審査はしにくくなるでしょうね。

「生活経費」以外にも BI の対象とすべき費用はあるのではないか?

さて、ここまではちきりんさめが提示されていた BI に対する説明としての、すべての成人に無条件に(=働いていなくても、多額の資産をもっていても)最低限の生活費を支給する制度 というのを純朴に信用した上での議論だったわけですが、そもそも BI の前提というのは、本当に 最低限の生活費を支給する制度 で間違いないのでしょうか?

いつだったか、マッチョなあの人なんかは BI は支給されたお金の使い道については個々人の責任において自由に選択されるべきで、それが故に BI はいい、 BI は美しいみたいな話を書いていたよーな気もします。探すの面倒くさいので別にリンクとかしませんが。

まぁ、個人的には富の再配分が効率よく行われるんであれば、そういう感じの制度案には割と好意的ではありますが。それが「最低限の生活」とやらを保証する必要まであるのかどうかは別として。

つか、最低限の生活保障したいなら、BI 云々より先にやるべき事はいくらでもあるだろう…。賃貸が保証人のサインを求める事への規制、とかな。


2009年 2月 12日 木曜日 01:42:11 JST - 追記

財源について

めっさ抜けてましたw

まぁ、当初の前提で考えるなら、年金やら生活保護やらを取り崩して、というやり方になるんでしょうかね。で、足りない分を増税などによって賄う、と。

そうではなくて、富の再配分であることを強調し、個々の責任で自由に使う国からのお小遣い的なものをイメージするのであれば、年金や生活保護は完全に取り崩すのではなく、BI での支給分を加味して調整するようにし、基本的には高所得者と資産家を軸とした全体的な増税で賄うべきなんでしょうね。

「どうせ破綻するだろう」とおっさられる方々にこそ、破綻しない BI の形なんてものも考案してみていただきたいものですが…。きっとおいらなんかよりも経済も財政もお詳しいんでしょうから…。

職業への貴賎の意識をお持ちでなければ、職業を選択する自由を尊重すべき理由も理解できる筈ですが。2009年01月22日 09時00分39秒

派遣切りされた人を一括りにして批判している方がいらっさるようですが、「仕事を選んでいられる場合じゃないだろう」とおっさられる方に限って、そういう仕事のことを「3K」などと言った蔑称で呼んだりするんですね。

別に「きつい」「汚い」「危険」な仕事を「3K」と呼ぶこと自体を今更批判するつもりはないのですが、この文脈でそういう言い方をされてしまうと、まるでそれらの仕事が食うに困った労働者の最底辺層が已むに已まれず選択する最終手段であるかのように捉えられてしまう訳で、そういった仕事に従事しておられる方々に対して大変失礼な物言いであると指摘せざるを得ません。

自分の人生に誇りを持てるのは、自分で選んだ仕事に誇りを持てるからです。もちろん、その経緯においては、妥協に妥協を重ねた結果であったという方の方が多いのかも分かりませんが (そうそう能力に恵まれる人ばかりではないのでこれはある程度は致し方ないことです)、仕事に従事していく中で、その仕事に、あるいはその仕事をして生きる自分に納得できるようになった時点で、やはりそれも「自分で仕事を選んだ」の内に含まれると考えるべきです。この考え方に異議を唱えたく、「俺は好きで今の仕事をしている訳じゃない!! それでも懸命に生きる俺は自分に誇りを持てている!!」とか言っちゃう人は、無自覚の内に自分が奴隷根性に囚われていることに気付くべきですし、自己の半生をもっとちゃんと直視して考える時間を持った方が良いと思います。

派遣切り等に遭われてこの不況により失職し、生活においても窮地に立たされている方々に対して、「選り好みしている場合じゃない、何でもいいから職に就け」としか言えない状況が既にそこにあるのだとしたら、これはもう人が労働を通じて健康で文化的な生活を送ることが不可能な状況であると判断せざるを得ないので、国は憲法の精神に則り、こうした方々を保護するべく、緊急に福祉を整備しなければなりませんし、雇用創出の手立ても考えなければなりません。そうして彼らに職を選ぶ余裕を与えることによって、不況を利用して労働者を買い叩こうとする悪徳経営がはびこる余地を極力小さくする必要があります。

もっとも、雇用創出、といっても、これは単に国が事業を作ればいいという話ではなくて、現に人的リソースが不足している業種に対して、制度設計の見直しや税制優遇などを通じて担い手が集まりやすくするような政策を尽くすということも含む、というかむしろそっちの方が重要で、例えば箱作ってジジババとガキんちょ押し込めて失業者に介護の仕事を押しつけようなんてのは以ての外なのであります。

実際問題として、職安で紹介される仕事が応募資格が満たなかったり直近の生活を支えられないものであったりするために応募しようにもできなかったりするわけで 、必ずしも 3K だから嫌っているという訳ではない、というかそもそも自動車関連工場の期間工として派遣されていた方々はそれまでの仕事も立派に 3K だったわけですが、そういった事情の有無に係わらず、どんな社会状況であれ、人が仕事を選ぶ権利は尊重されなければなりません。雇用関係を、事実上の隷属関係にしてはならないのです。