健康な木々の育つ森を焼き払っておいて「間伐しました」はねーよ。2009年01月16日 08時56分41秒

ここ最近の不況に関する議論で、「派遣村を擁護する人たちは木を見て森を見ていない」と言ったようなことをおっさられる経済屋さんをちらほら見かけます。

そういう人たちは、「雇用を守れと言ったところで、企業が潰れてしまったのでは元も子もない」であるとか、「今製造業の派遣を規制してしまったらかえって大量の失業者が出て官製不況になるぞ」などと言って、企業による派遣切りを正当化する訳です。

なるほど、林業において森を育てるには間伐は不可欠であるとはよく言われます。ましてや天候に恵まれず、痩せてしまった土地に木々をそのまま立たせていたら、森全体が道連れになって砂漠化してしまうぞという訳です。(ってさすがに大げさか? w)

しかし、これまで自動車産業をはじめとする製造業を中心に行われてきた派遣切りの実態は、果たして間伐というのにふさわしいものだったのでしょうか?

本来であれば、経営状況の悪化故に仕方なく労働者を解雇するのであれば、その基準は企業活動にいかに貢献しているかで判断されるべきでしょう。もちろん、成果主義は富士通をはじめとして正しく機能していないことが既に耳にたこができるほど指摘されているところであり、ちゃんと運用しようとしたら非常に高いコストを要するものです。

しかし、今回の派遣切りは経営的にも非常に楽ちんなものでした。別段個々の派遣労働者の能力や勤務状況等を査定し個別に人事を施す訳でもなく、ただ単に、「○○工場は×月△日限りで畳みますので、そこに勤めて頂いていた派遣の皆さん、さようなら」とやっているだけなのですから。そしてそうした実態を以て「雇用の流動化というのは、まぁ、そういうもんだ」と開き直ってなおそれを推し進めようというのですから開いた口がふさがりません。

製造業に従事する企業の多くが、従業員の能力をまともに評価することもできないことが実態として明かされたというのに、それでもなお雇用流動化を訴え続けるというのであれば、そんな言説が労働者に信用される訳がありません。このような経営体質には、一般的に「有能」とされる労働者(よーするに「コミュ力」が高くて仕事の飲み込みが早いタイプのことやね)ほど敏感だったりしますので、いざ正社員も首切りを、といった段階で逃げる体制もしっかり整えていらっさることでしょう。そうして後にはほんの一握りの逃げ遅れた (愛すべき) 技術バカと、保身以外のことは考えられない大量の単なるバカが残るでしょう。仕方ないですよね? 間伐するのに、斧を使わず火炎放射器を使っちゃった訳だから。皆さんの大好きな「効率」を口実にね。

先日、学究社とモンテローザが 3桁単位の臨時雇用を募集した件について、NHK の朝のニュース番組で続報のようなものが特集として報じられていましたが、とりわけ学究社の方にはたくさんあった応募者のほとんどが B ランク以上の 4大卒で、 2割の人が教職員免許も持っていたと言うことで、社長さんが驚きの談話を寄せていました。曰く、「本来であれば企業の中核を担うべき人材が、派遣切りにあって苦しんでおられたのですね…」とのこと。

もうそろそろ、日本的「高学歴指向」も、その信頼を失ってもいい頃なのではないかと思う今日この頃、皆様いかがお過ごしでいらっさいますでしょうか。まぁ、F ランク出のおいらはのほほんと社長業やってたりする訳ですが。w

閑話休題。学歴がその人の職能を決めるなんて事はこれっぽっちも思ってはいませんが、その一方で新卒一斉採用にあぶれてしまえばせっかくの学歴も生かせなくなってしまうような社会では、底辺の底上げは到底期待できないでしょう。雇用流動化も結構ですが、そうであればそれ以前に職が無くとも生きては行けるというレベルでの十分な福祉を充実させ、雇用側と労働側との立場を真に対等にすることこそが優先されるのではないでしょうか? それを実現させるのにどうしても必要とあらば、消費税率引き上げにもやぶさかではないんですけどね。

純資産の蓄えがある大手 SI はこの機に事業を創出するべき。2009年01月13日 10時26分32秒

とりあえず、池田某が流行らせた「ノン・ワーキングリッチ」という用語についての欺瞞は、既に小倉弁護士が喝破しています。しわ寄せの矛先を労働者に向けようなどという前提であるならば、その経営は既に失策であり、破綻していると評価せざるを得ません。

もちろん、 Programming First を訴えるひがさんのことですから、プログラミング経験の薄い技術音痴 SE を「ノン・ワーキングリッチ」だと揶揄したい気持ちは解らないでもないのですが、一方で彼らを技術音痴のままよしとしているという事実があるならば、それこそ個人の責に比べて経営の責は大きく、そうした社員の生活を企業が保証できないのであればこれは筋が通らなくなります。

実際、コの業界ではプログラミング経験はキャリア形成の一側面としてしか捉えられておらず、必ずしも最重要視されている訳ではありません。むしろ、人を動かした経験のない人間が独立起業して余所から仕事を得ようとすると、非常に苦労を強いられることになります。

それでも、会社存続のためには、社員にもある程度の負担を強いる必要があるのだとすれば、それはある程度は致し方ないことです。そのやり方は会社によって様々でしょうし、そういった会社に所属している訳でないおいらが口を挟むべき事ではないのかも知れませんが、少なくともコの業界に、そしてその会社内において通用してきた文脈、過去の経緯に対して、論理的に納得のいく査定に基づき、給与の変更や人事等が執り行われるべきでしょう。その責任に経営が大きく関与しているならば (これはおそらくすべての SI 企業に普遍的に言えること、と断言してしまっても過言ではないでしょう)、まずは経営陣の査定こそ、盛大に行われるべきなのは当然のことです。

そういった意味では、例として上げられている日本電算のような経営手法は最低限のものであると捉えられるべきです。この不況下ではこの程度の態度でも輝いて見えてしまうものなのでしょうが、SI 業界に絞っていうのであればこれだけに話を止めるべきではないのではないでしょうか?

SI 業とはオーダーメイド開発サービスであり、BtoB の業態を前提としたものです。オートメーション化の対象は官公庁から企業会計、金融システムに医療システム、交通機関から機械制御、POS システム等に至るまでさまざまであり、カバーする範囲が広いので、ある業種が廃れても別の業種から仕事をもらえれば、という意味では廃れにくい業種ではあるのですが、本質的には人を動かして下請け的な仕事の取り方をする業種なので、今回のように業種を跨いで全般的な不況ということになると、見ようによっては人材派遣業などと同様の皺寄せが襲ってくる業種である、ということもできます。さらに、ひがさんもご指摘のように、SI 業自体が上流工程と下流工程に分離していて、下流工程はガチで上流工程に対する下請けとして成り立っているので、真っ先に影響を受ける (身も蓋もない言い方をするなら、「切られる」) 対称となりかねない、ということになります。

そうした環境の中で、それでもこうした会社が SI 業のみに拘りつづけるのであれば、それは愚かしいことであると断じざるを得ません。実際問題として事業が打ちきられ、人的資源が余ってきてしまったときに、それを単純に経営圧迫と捉え、人を減らし、あるいは給与を低減することでそれを凌ごうと考えるのであれば、そのような経営を取る経営陣は無能であると言わざるを得ません。

もちろん、会社規模が小さく、利益余剰金の蓄えなど無いような企業が、単体でそうした方策以外の策を採ることは難しいでしょう。そしてそのような企業が、人を動かすことはできるがコンピュータを動かすことはできないというタイプの人材しか抱えていなかったりする場合には、申し訳ないが沈んでいただくより他無いのではないかと言わざるを得ないです。それはあまりにも技術を軽視しすぎた結果であり、危機感が無かったと言わざるを得ません。諦めて次の人生を考えた方がよろしいでしょう。

しかし現実には、会社規模は小さいが、下請けとして下流工程に取り組みつづけ、技術的蓄積がしっかりした企業というのも、少なくないはずです。そうした企業が、今回の不況に煽られ、潰えてしまうということが起こるのであれば、それは非常に忍びないことです。

一方で、上流工程を主戦場とする、大手と呼ばれる SI 企業においては、これまでの有利な立場から多くの利益を上げ、純資産の蓄えもあるはずです。主だった企業として、以下の5社の財務・業績データを参照してみましょう。

もちろん、すべての大手が順調にうまく行ってきた訳ではありません。 2007, 2008 年に関していえば、富士ソフトやトランスコスモスのように、黒字ではあったものの、利益が圧迫され、純資産を減らした企業もあったようです。

おいらは元々富士ソフトの社員だったので、富士ソフトの歴史についても聞かされたことがあります。あんまり覚えてはいないのですが (苦笑)、やはりバブル崩壊時には経営が圧迫され、苦労を強いられたという話もありました。おいらが当時の富士ソフトの経営陣を尊敬できるのは、そうしたときに、仕事が無くなって手の開いた社員に、この際だからと自社内のシステム構築に従事させたという逸話があることです。そういう大変な時期にほぼ重なるように、東証二部上場を果たしてもいる訳ですから、その点に関しては大したものだと評価したい。

しかし心配なのは、その後、就職氷河期にも関わらず多くの新卒・中途採用を行い、大量の人材を抱えた富士ソフトさんもまた、基本的には上流指向の強い会社であったということです。おいらたちの代でも例に漏れず、プログラミング技術を要する仕事に従事する機会をあまり得られないまま、早いうちに設計や管理や保守や窓口の仕事に回される人も少なくなかった。事務雑用 (文書作成) に追われていたと思ったらサブリーダーにさせられていた、とポルナレフ状態だった人も結構いたはずです。適材適所という言葉があり、プログラムを書かせるより早めに管理や交渉の仕事に回した方がいい人というのも確かにいるにはいたでしょうが (実際、プログラマーになりたくてこの業界に入った訳じゃないって人も少なくなかった)、その一方で運に恵まれず機会に恵まれなかったという方も少なくない。そうした人々を大量に抱えたまま今を向かえてしまったというときに、果たしてかつてバブル崩壊時にやったのと同じように、人を使いつづけられるのかというと、確かにそれは難しいでしょう。

それでも富士ソフトの場合はまだ社内に自己研鑚の風潮が根強く残っている部門もあるし、それなりに技術を身につけている人もまぁまぁいるのでマシな方なのかも知れません。一番悲惨なのは…、まぁ、個別の企業について語るのはこの位にしておきましょうか。

何よりこうした企業に早急に求められるのは、犠牲をいとわず技術を重視した方針転換に乗り出すことです。そして可能な限り SI からの脱却を計り、人的資源以外の商品を多くこさえることです。それは、ソフトウェアベンダーとしてパッケージ製品を世に送り出すことであり、あるいはオープンソース開発への取り組みに参入して社の技術力を世にアピールすることであり、さらには Web サービスの展開を通じてメディア市場を開拓することでもあります。他にも様々な可能性を視野に入れた上で、技術開発・研究に投資をしてきた企業こそ、生き残る可能性は高くなるでしょう。

しかし、現実問題として、ひがさんも指摘されている通り、今から技術開発・研究に投資しようにも、そうした人材を育てることをしなかったこれらの大手 SI 企業が、今更そのような方針転換を果たすことなどありえないのではないかという見方もあります。正直な所、おいらも無理だと思っています。彼らだけでは

そう。彼らだけでは無理なのであれば、そういう技術開発・研究に投資し、強い独自商品を抱えている中小の中にも、今回の不況に喘いで資金難に陥っている会社はたくさんあるはずです。そういった企業に手を差し伸べてみてはどうでしょうか? そして、そういった企業に見習い、今からでも、技術を貪欲に吸収し、共有していく。技術を磨くという風土を企業内に広げ、それを主だった評価軸として査定を行い、給与や人事に反映していく。そうやって社内を磨いていくことで、より強靭なソフトウェア・システム開発企業へと育っていくことでしょう。

今こそ、コの業界を代表する企業としての、真価が問われるときなのですから、経営者の方々には、現場とよく協調し、真摯に取り組んでいただきたく存じます。

「10年泥」でもいい。技術を大切に育ててほしい。

「勉強」という語が「便利な言葉」化されているようですね。2008年12月25日 13時39分25秒

最後の dankogai さめの記事がもうこれでもかっちゅーほどに叩かれまくっている。元々世間一般的な意味で言うところのいわゆる「勉強ができる子」に対する卑下が蔓延していることへの憤りに対して、最初っから厳密な (? あるいは俺様定義の) 「勉強」を指して「それだけできたって仕方ないだろう」という話に持って行こうとしているわけだから、話が通じるわけがない。

ただ、一方で id:pollyanna さめの体験談に同情された方がその後の dankogai さめのエントリーに腹を立てるのは心情としては理解できるんだけれども、彼が最初から、いや、あるいは昔っから「勉強」という言葉を斯様な意味で捉えていた、そしてそのような意味で「捉えるべき」だと考えていることを鑑みれば、全く読む価値のない記事であると切り捨ててしまうのももったいない話なのではないかと、敢えて擁護してみたく思う。

実際の教育現場において、どこまでを「勉強」と捉え、どこからを「学習」と捉えるべきか。これは、特に義務教育課程においては重要な課題なのではないか。こう持ち出すと、そもそもそれが「勉強」なのか「学習」なのかは個人の気の持ち様の問題であってその基準は千差万別、教育現場において一律の基準など示しようがない、という反論が容易に想定できる。確かに、基準が一律である必要は、無いのかも知れない。

一方で、現場で教えている先生方にせよ、あるいは自分の子どもを学校に通わせている保護者の方々にせよ、最低限、この程度の知識は備わっていなければ、将来社会に出て圧倒的に苦労することになる、という実感というのは、少なからず持ち合わせているのではないかと思うのだ。これは、以前、ふろむださめのところで勉強することの必要性に関する議論が多くの議論を呼んだ際にも、やはり教育現場に近い方々の意見としていくつか出ていたものだ (参考1, 2 と、関連する自演1, 2 / Snail Blog さんとこのはアクセスできなくなっちゃってました…)。ただ、そういう方々においても、その「最低限」がどこにあるのか、という基準は、やはりばらばらなのではないかと思う。義務教育課程に用意されているものはすべて、という人もいるだろうし、せめて読み書きそろばんぐらいは、という人もいると思う。その一方で、先天的な障害故に、周囲が「最低限」というものでさえ、まともに習得できない子を持つ親にしてみれば、口では同情されながら、現実的には我が子を人として認めてもらえない現状を苦々しく思っているかも知れない。

ただ、法によって国の教育を統治する国家の視点で言うならば、義務教育の名の下、「絶対に」とは言わないまでも、できる限り国民全員に習得してもらいたい教養を、その思いを込めて義務教育課程に組み込んでいるのであろうし、そうであればその内容は、好むと好まざるとに関わらず、その教育を受ける国民全員が「勉強」すべきもの、ということになるのだと思う。であれば、「学校で習う、教科書に書かれた内容を習得すること」がすなわち「勉強」として解釈される一般的な用法は、あながち外れてはいないのだと思う。その一方で、「勉強」の規定が国家によって一方的に押しつけられている現状を、純朴にも容認し、受け入れていることにもなる。

個人的には、人が何を学ぶべきであるかを規定することは、本質的には個人に委ねられるべきなのだと思う。その一方で、そうした類の自我、自覚に到達するには、多くは社会的つながりによって補われるものなのであろうが、やはりある程度は知識も必要なのだとも思う。興味の対象が文書に記されたものであるならば、それを読みこなす教養というのも、どうしても必要になってきてしまう (これは単純に国語力という意味だけではない。例えば物理学的知識を学ぶには数式に関する知識とそれを読みこなす能力 (センス) が必要になる。)。逆に言えば、多くの場合、社会的つながりがその人の人生における興味の対象をも規定してしまう。かつてはそれは地域社会、地域の産業によってもたらされていた。漁師町では漁師を目指し、商店街では店を継ぐ。学問に目覚めて首都を目指すのは例外的存在で、それは外面的には故郷に錦を飾るという目的で体裁を整えた場合に限り賞揚されていた。

最初の議論、すなわち勉強ができるとバカにされる問題というのは、そういう時代における価値観の名残なのであって、つまりは出る杭を打つだけの村社会意識に過ぎず、それは昔からあるもの (というより、むしろ昔の方が強かったもの) なのであって、今の子たちの頭が良くなったなんて言う話では全然無いのは明らかだ。

じゃあ今の時代はそれよりマシになっているのかというと、少なくとも経済的・産業的側面においてのみ言えば、宮台氏なんかがさんざん言い続けてきたように、一方では地方の産業を衰退に促し過疎化を進め、一方では単一の (すなわち、事務処理が優秀な人間が優れているとする) 価値観における競争ばかりが行われ、技術職・研究職がヒエラルキーの下の方に虐げられるというイマイチな状況が醸成されていってしまった。「学歴志向」が単なる大学名のブランドとして解釈されてしまったのも弊害としては大きいと思う。

さて、dankogai さめは否定するかも知れないけれども、おいらからしてみれば、 dankogai さめはめちゃめちゃ「勉強ができる子」だったのだと思う。これは dankogai さめが「本来的な意味」だと主張する意味ではなく、より一般的な意味での「学校の勉強ができる子」という意味で。16歳で大検をとり、年上の子に「学校の」勉強を教え、日本の大学ではないとはいえ、れっきとした大学 (カリフォルニア大学) に入学もしている。中退したのだってあくまで個人的な事情によるものだ。

だからおいらは、 dankogai さめがこういう話を展開するときには、基本的には「学校の勉強だけできたって仕方がない」という意味で捉えるようにしている。それは、個々の人間に当てはめて考えるならば、正しいといわざるを得ないケースも、少なからずあるのだと思う。ていうか、おいらぐらいまでの世代でプログラマーとかやっている人たちにしてみれば、その職能を学校以外の場で独学で取り入れたという人がほとんどなのではないかと思うし、「プログラミングは独学じゃないと身につかないよ」って本気で思っている人も少なくないと思う。おいらも、プログラミングを学校の授業で教えてマスターさせる、というのは、これはちょっと難しそうだな、という意味では、そうした見解に同意せざるを得ないと思っている。

その一方で、「学校の勉強はつまらないものだ」という価値観が一般に蔓延し、それがいわゆる「勉強ができる子」に対する侮蔑、いや、差別を助長しているのだとすれば、それはゆゆしき問題なんだけど、そうした問題は「学校の勉強」という枠組みにとらわれるまでもなく、差別全般の問題の一つとして捉えるべきなのだろうなとも思う。本質的には、オタク差別や、出身地差別や、金持ちへの僻みなんかと変わらないものだ。子どものうちはある程度は仕方がないものなのかも知れないが、大人になるまでにそうした意識は極力ぬぐい去られるようでなければならない。そのためには何が必要なのかというと、まずは今の大人たちが意識を改め、子どもたちに示していくべきなのだと思うし、そういう意識を持った大人と接する機会が得られるような仕組みが、地域を主体に設けられるべきなのだと思う。どうせ不況なんだから、今、忙しくしている大人たちの仕事を、仕事がない人たちにも分配し、もっと自由に持て余せるだけの時間を持たせて、それを地域に、あるいは自分の子どものために、コミットさせてあげて欲しいと思う。

親や教師が子どもに「勉強しなさい!」「宿題ちゃんとやったの!?」と叱責し続ける限り、「学校の勉強はつまらない」という誤解は蔓延し続け、差別も蔓延し続けるだろう。おいらは昔からぶれずに「勉強をさせるのではなく、学ぶことの価値に気づかせるべきだ」と主張し続ける dankogai さめに、基本線では同意する。そしてそれだけが、こんな下らない差別の蔓延を抑える、唯一の方法なのだと思う。

イマイチまとまらないけど… (おいらも勉強不足だw)

軽い気持ちで「食」に向き合えばいい。2008年12月12日 08時07分48秒

おお。これは美味そうですな。

個人的にはこの手の食い散らかしネタというのは嫌いではないのですが、対象が生きたままの姿をした畜生であったが為に、幾人かのナイーブなはてなーからはモラリズムに基づく発言がいくつか見られました。

この手の「急ごしらえの現実」を見せつけられて 動物の権利を侵害するな とか言ってしまう人も、それに反応して「偽善潰しの正義感」丸出しで 生きるってことは、殺生を続けるって事だぞ とか言っちゃうのも、思考の次元としてはあんまり大差ないんじゃないかと思うのですよ。実はどっちも正しいし、だけどどっちも陳腐な思考です。考えたって仕方のないことなのですよ。

多くの動物は勝手に生き、勝手に死んでいってる。自分がその手を汚さなくたって、その流れは止めようがありません。

その一方で、人が豊かな生活を営む為に形成された社会の中で、多くの動物が人の都合で育てられ、屠殺され、肉片に解体され、そしてそのほとんどが、スーパーの店先で選り好みされた挙句、古くなり、生肉のまま捨てられている。あのドキュメント然としたネタ記事を根拠にして、「食べ残すのは悪」だと断定されるならば、あれらの肉たちだってすべて買い占めて自分で食べるか、本当は食べたいけど食べずにいる人たちにでも振る舞うべきでしょう。

喰われるものの命になど訴えずとも、人が食べ物を残すべきではない社会的な理由はいくらでもあります。その一方で、完食を強要する教育が、実際のところ、少なくない人々の間で強く不評だったりもします。昼休みを終え、みんなが掃除をしている中で、先生に怒鳴られながら、一人、どうしても食べきれないコッペパンの欠片とにらめっこする。そんな光景が許されるのは 20世紀までだよねー、とおいらなら強く願うわけです。

魚は大丈夫だけど、と言うのも定番のコメントですが、そういう人が、実は鯖ぐらいの大きさの生魚を調理したことがない、みたいな冗談はまさか無いとは思いますが、実際どうなんでしょうね? 個人的には、ワタを抜くときに真っ赤な血反吐がどろりと出てきてまな板を真っ赤に染めてくれたりしてアレはアレでなかなかどうしてグロだったなぁと思わなくもなかったりするわけですが、やっぱり 慣れ、なんですかね?

つくづく、人の想像力なんて、たかが知れているよなぁとか思うわけですよ。「魚の目が怖い」とか言って、頭部をタオルで隠して調理する娘さんとかの方が、そういう意味ではよっぽど可愛げがあって好感持てます。いや、本当に慣れていらっさるんだろうなとは思うんですけどね。

で、食育として体験するのもいいんじゃないか、という意見について結論するならば、まぁ、あくまで「体験」としてはアリだと思います。少なくとも、見せ物で鶏を絞め殺して云々とかやるより、「業」の部分をアウトソースしているだけよっぽどマシだと思う。「厭な仕事」をその場で一人に丸投げさせようという大人たちの醜い魂胆を子どもに見せずに済む分ね。

でも「日常」としては相応しくない。綺麗に食べるのは難しいだろうし、食い散らかすだけ食い散らかして、まだ食べられる部分が汚物のごとく放置されて捨てられるのが目に見えてる。少なくとも、これはお子様のうちに体験させるべき類の物ではないと思う。分別をわきまえた大人たちが大挙して、派手に酒盛りでもするときに、酒の肴と話題の中心にドカッと据えてやる、っていうのが、もっとも正しく、そして楽しい活用法なんじゃないかな。

そう。食事っていうのは、小難しい事を考えるためにするものじゃない。生きるため、そして何より、楽しむためにする「文化」なのだから。

やじうま的人権論議所感2008年09月17日 08時12分23秒

ホームレス支援に絡む人権論議で面白い議論があったので紹介。

話の流れとしてはこんな感じ。

  1. それ以前に、「そもそも (ホームレスに、あるいはそれに限らず) 人権なんて (概念、思想として、あるいは現実的、運用において) 存在するのか?」という論がぽろぽろ噴出していた。
  2. hokusyu さめ: 「すべての人に (当然ホームレスにも) 人権は自明なのだから、ホームレス支援も自明」
  3. inumash さめ: 「人権が自明だと理解していない人には自明だと断じるだけでなく、人権思想の意味や歴史背景を説明すべきでは?」
  4. hokusyu さめ: 「意味を論じることに応じれば自明性を揺さぶられ、時間稼ぎに乗せられるだけ。自明だと言い張り続けることこそ重要」 ←今ココ!

おいらは inumash さめの意見は教育のお話だと理解した。つまり、現実問題として「人権」という概念が、義務教育課程においても公民の授業で取り扱われているにも関わらず、文化としては未だにちっとも浸透していないという現実がある。現状、ホームレスにおかゆの炊き出しをして食いつなぐことを支える行為は、糞害をもたらす鳩に餌をやるのと同等の迷惑行為として捉える方々が少なくない (人によっては鳩の方がかわいいからむしろ炊き出しのおかゆは鳩に食わせてやれっていう人もいるかも)。で、そういう考えを持っている方々でも、一方では「人権」という言葉を理解しているつもりだったりする。

「すべての人に人権が保障されているわけではない」とか、「そもそも人権なんてものは自明ではない」とか言えちゃう人がいるって言うのは、これはどういう事かと言えば、人権という言葉の意味を正しく理解していないと言うことで、すなわち言葉を辞書に書かれている意味通りに使えていないということ。よく、どんな言葉であっても、「私は○○という言葉は××な△△という意味で使っています」とかって宣言する人がいるけど、まさにそういう行為そのものなんだよね。本当はその言葉にそんな意味はないのに、その程度の意味の改変は許されると思っている。そういうことをしょっちゅうやっちゃう人ってのもいるし、場合によってはやりたくなっちゃうケースってのも確かにある (おいらにもある、って言うか割とよくやってた気もするw)。

おいらがいわゆる「便利な言葉」 (意味を曖昧にさせることによってどんな場面にもいくらでも便利に使えちゃう言葉。「うざい」とか「フツー」とか) に神経を尖らせる理由の一つがここにあって、よく、言葉の歴史は意味の変遷の歴史だとかって言う人がいて、それはひとえに事実なんだろうけど、でもその事実を根拠にそうした言葉の使い方を無碍に許容するばかりでは、「思考」も「議論」も、はたまたまともなコミュニケーションでさえ、成り立たなくなってしまうんじゃないかという危惧がある。今回のケースはまさにそれで、「人権」って言葉の意味論をこねくり回し続けるだけでは、きっと実運用としてのホームレス支援については、議論は一歩も進まないだろうね。これは、むしろホームレス支援をやりたくない人たちにこそ、実害は大きくなるんじゃないかな。大抵の場合、どう転んだって誰かが何らかの形でやらなきゃならないことこそ、後回しにすれば後回しにするほど、そこに手をつけなきゃならないリソースは、人的にも金銭的にも膨らむばかりだよ。だだ捏ねて邪魔をすればするほど、我が身に降りかかる可能性は膨らむばかりだ。

というわけで、薄情で面倒くさがりなやじうまのおいらとしては、ホームレス救済支援が政策として一歩でも二歩でも先に進んでくれることを切に願う。そのためには、 inumash さめ的な深い議論は頭の柔らかいお子様向けに公民の授業に取り入れられることを期待するにとどめ、分からず屋の幼稚な大人向けには hokusyu さめ的な「自明なものは自明なんだ」の一点張りで突き進む、というのを支持することにします。

まぁ、貧困問題ってのはいつ我が身に降りかかるかも分からない問題なわけだから、そこから救済される社会システムがより公正に構築されるっていうんであれば、おいらとしては支持したいけどね。税金の使い道としても、プライオリティ高めで。個人的には、このプライオリティは 1 に教育、 2 に研究、 3、4 がなくて、 5 に福祉だと思ってるけど、うわぁ、どれも実際は…。

非モテは貝になりたい2008年08月07日 08時48分04秒

この話題は一旦待避するつもりでいたんですが、もうちょこっとだけ。

カルチャーの広まりとしては理解しました。

「好きになる」という言葉に、強いニュアンスを持っているように感じました。指摘された部分において、おいらが書いた人を好きになれない人は、人から好かれていることにも、なかなか気づけないの部分の「好きになる」は、前後の文脈とごっちゃになってヒジョーに分かりにくいのですが、告白衝動に繋がるという意味でのそれではなくて、例えば偏見を抱いている部分があるのだとすれば、自分が相手の何に偏見を抱いているのかを見つめ直すとか、相手の振る舞いに腹立たしい部分があるのだとすれば、その腹立たしい理由を自分でちゃんと理論立てて説明できるのかとか、そういう地道な自己分析を通じて、本来忌避する必要のない人を忌避してしまっている可能性を少しずつ潰していく、といった類の物です。

人を好きになるっていうのは、好かれることほどではないにせよ、何気に難しいことなんじゃないかと書いたのも、今書いたような「好きになる」をベースに、ある対象への興味や経緯、魅力などによって培われた感情を、その後も継続的に持続していく、あるいは持続できなかったことによるその後の生活、自身の行動をも受け入れるということも含めて想定しています。「自分の感情をコントロールするのは難しい」というテーマにも通じるもので、こちらは怒りっぽいとか笑い上戸とかを連想されがちですがそっちではなくて、むしろ「うまく怒れない」「うまく笑えない」という類の物です。ものすごく頭の悪い方法で要約してしまうと、加減が難しい、ということになります。

これは、「男女の友情」について指摘した以下のブログ記事においても説明されているような、友情と性愛の接続という概念にも通じるものではないかと思います。おいらはこの記事はあまり好きにはなれなかったのですが…、

この記事では女性はそれを理解しやすいのではないかとしていますが、個人的な経験談で言わせていただければ、少なくとも思春期周辺の内は女性でもそれを理解できない人がそれなりにいるんではないかと思います。で、そういう人に限って声が大きくて、自分が好きになれないタイプの男子 (子どもの内だと見た目もそうだけどそれ以上に清潔感とかの方が大きいんじゃないかな) に対しては強く忌避するものだから、学校のクラスみたいな閉じ込められた空間の中では同調圧力みたいなものが支配的になってしまい、結果としてみんなに避けられるような状態になってしまう。そういう経験はおいらにもあるので、自分が女性に好かれるなんてことは有り得ないんじゃないかという気持ちに限っては痛いほど理解できるんです (そういう意味ではおいらも十分「非モテ」でした) (「うざい」のようなネガティブなニュアンスの「便利な言葉」に嫌悪を覚える理由の一つでもあります)。

ただ、こうした傾向は大人になって行くに従って (少なくとも表面上は) 和らいでいくものであり、大学のサークルなんぞを覗いて見ますと、おまいら小中高校までなら絶対仲良くなること何て有り得なかっただろうって言うくらいかけ離れたタイプの男女がとりあえず一生懸命フツーに接せられるぐらいにはコミュニケーションを図ろうとしている光景を目にすることができたりします。

社会人の場合、戦略面で言えばとりあえず男女が常日頃顔をつきあわせなければならなくなるようなコミュニティに参加してみる (職場以外でね) という手があると思いますが (英会話スクールとかスポーツジムとか)、あんまりその辺まで突っ込んで書くと自己責任厨だのマッチョだのと叩かれそうな気がするのでそれはやめておきますw

で、しろくま先生の記事も読んだのですが、

いろいろとなるほどと思える部分はあったのですが、こちらもこちらでいきなり恋愛なんだなぁと…。ていうか「オーラ」というのは抽象的すぎて説明としてはうまくないような気がします。

実際のところ、よく訓練されたありふれた非モテは、男女混合のコミュニティに参加することになったとしても、基本的に恋愛を前提としたコミュニケーションは絶対とろうとしませんし、そこに発展しそうになったら概ね全力で逃げます。ソースは俺 (笑)。そのくらい、彼らは自信がないんです。そこは理解できる (理解できるだけに、一人でもいいから異性に好かれたいってのは理解できないんよ。おいらは表面上でも異性に好かれるのは刺激が強すぎて恐くて恐くて仕方がなかった)。だから女の子に「村山くんってモテるんでしょ~」なんて言われようものなら全力で否定してた。精神的な安定を求めようとする欲求ってのは誰しも割と自然に働くものなんですが、おいらの場合そのときには、「モテないおいら」というキャラクターを崩したくなかった。そこを崩してしまうことになんとなく恐怖を覚えていたんですな。

で、それが氷解して、「俺も恋をしてもいいのか」って思えるようになるには、割と長い時間をかけての矯正や、何らかのカンフル剤的な出来事が必要になるのだと思います。そういうのをすべての非モテ個人に期待するのは酷だと思うので、非モテが極力少なく済むような社会的な手当が可能なのであれば、それは推進すべきなのでしょうね。

とりあえずそんなところで。

「非モテ」を整理。2008年08月04日 01時41分19秒

まだ考えがまとまらないので、とりあえず言葉の意味だけ整理してみます。

前回の記事では、単純に「モテ=モテる人、非モテ=モテない人」の意味をベースに、「非モテ」という言葉だけが一人歩きしているんではないかという誤解の上で書いていました。そのため、以下のような反論をいただいています。

  • rAdio なんで誰も彼も、この問題における「モテ」の認識をこうも同じように勘違いするんだ?故意なのか?恋なのね。
  • kurokawada 皆さん、「非モテ」という言葉を検索する手間を省きすぎです。
  • kanose 非モテはモテという言葉から生まれたけど、モテは他称で非モテは自称の言葉で…とか歴史を自分がはてなキーワードで書いているので読んでください
  • y_arim 「モテ」の意味からして違う。やりなおし。

もともと「モテ」という言葉から生まれてはいるため、誤解されやすいが、現在の用法としては「非モテ」の対義語として「モテ」が配置されている訳ではないことに注意。「モテ」は第三者による評価だが、「非モテ」は自意識の問題といえる。

「モテる」とは複数の異性から恋愛対象として求められることを指しているが、「非モテ」における「モテ」の意味することは、もっと原始的な、他者(異性だけではなく)から求められるという意味に変化している。他者による承認が得られないという悩みなのだ。

中でも、恋愛経験がないために、一人でもいいから異性に好かれたいという恋愛による承認を求める人が「非モテ」を自称することが多い。「非モテは複数の人にモテたいんでしょ。そんなモテる人なんてごく少数で、一人の人に愛されればいい」というような発言は、非モテという言葉を見かけた時によく見かけるが、これは誤解である。

その一方で、「モテるための努力を回避する」という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人のことを指す場合もある。

後者の非モテはさらに挫折型←→非挫折型、恋愛至上主義そのものからの退却←→恋愛(モテ)資本主義からの退却と大きく4つの型に分類できると思われる。

なるほど。承認欲求込みで初めて「非モテ」になるわけか。ていうことはどちらかというと、ここに差別が見出されることが社会問題だとするよりは、「非モテ」を自認するプレイヤーが続発すること自体が社会問題だと考える方が自然だね。

ただ、これをどういう問題だと考え、どういう対処を施すべきかと考えると、何気に難しい問題なのではないかと思う。まず、「非モテ」を自認する人が続発する原因がどこにあるのか。ストレートに関係性に恵まれない人が増えているとする考えもあると思うし、そこに問題を見出すならば、前回書いたように子育て・教育環境の改善に繋がるような制度設計が功を奏するかも知れない。ただ、それと同時に、ネットを介したコミュニケーションによって、「非モテ」を自認していることを口外しやすくなったために、元々潜在的にたくさん存在したこの手の悩みがおおっぴらに顕在化するようになっただけ、という可能性もある。顕在化したこと自体は、悪いことではないと思う。あるいはその両方であり、関係性に基づく問題はだいぶ前から深刻化していた可能性もある。

価値観の問題もある。この国でも価値観は多様化していっているといわれているし、実際一応はその通りだと思う。でもその一方で、個々人の寛容さが、多様化に追いついていないように思う。そのため、実際には非常に狭い価値観の中で、「憧れ」の偶像が作り上げられがちになる。見た目の良さとか、会話の弾みやすさとか、財力とか。で、その辺のありがちな要素のパラメータ競争に終始する中で、はじめからゲームに参加する意欲が沸かない人々がまず脱落する。これが非モテで、彼らはルールにとらわれない、よりナチュラルな関係性の構築を夢想する。それ何ておいらだw

…まぁ、彼らが夢想する「ナチュラルな関係性」ってのが、果たして本当にナチュラルと言えるかどうかは別として…それこそ個々人の価値観に委ねられるところがあるしなぁ…。閑話休題。

ある程度の統計情報があれば、この時点から特に酷くなった、というのが分かれば、対処方法も導きやすくなると思う。調査すべき情報を洗い出してみる。

  • 結婚年齢

    ある頃から晩婚が多くなったといわれているけれども、そのターニングポイントに何があったかを重ねてみる。見合い結婚の陳腐化や、高学歴社会による影響が大きいはずで、あまり当てにならないかも知れない。

  • 離婚世帯数とその年齢、結婚からの時間

    社会倫理の軟化により、離婚のハードルが下がっているので、これもあまり当てにならないかも知れないが、成田離婚などと呼ばれるような、結婚からの時間が非常に短いケースが若い世代を中心にある時点から急増しているのであれば、その世代を境に異性間のコミュニケーションに何らかの変質が生じている可能性があるかも知れない。

  • 出産年齢

    未婚の内に出産を経験するケースを含めた場合、結婚年齢よりは純度の高い統計が得られるかも知れない。

  • ポルノグラフィーの売上高

    まぁーモテだって買うしアテにはならんけどね。

  • 若年者の自殺者数

    非コミュとの相関性はあると思う。

  • ファッション誌の売り上げ推移

    あーそうか、ポルノよりこっちの方がよっぽどアテになるわ。

あんまり決定打が思い浮かばないなぁ。あとは実際に小中高生や学生、20~30代を対象にアンケートを実施するとか。

とりあえずメモは以上。またそのうち、何か書くかも知れませんです。


ちなみに雑感。これは社会問題としての視点とは無関係であり、蛇足です。

承認欲求については理解はできるんだけれども、正直なところ、実感は薄いです。この辺はまだまだおいら自身に想像力が足りていないところがあるので、何か本を読むなりして学んでおく必要があるのだと思います。

例えば、一人でもいいから異性に好かれたい、という感覚というのが、おいらにはいまいちすんなり体に溶け込んでこないのです。というのも、おいらの場合、「自分が好きになった人には、好かれたい」という思いの方が、より自然だと思うからです。

好かれるとか嫌われるとかっていうのは、もう完全に他者に依存する出来事なので、これが受動的なのは当然なのですが、その一方で、他者を好きになったり嫌いになったりすることでさえ、あまり能動的なこととは思えないのです。もちろん、第一印象レベルで人を好きになったり嫌いになったりすることの多くは、ちゃんと言葉で説明できるような理由があるのですが、その一方で、多くの時間や体験を共有した人との関係においては、そのエネルギーがより強く、根深いものになりがちです。そうなると、何らかの出来事を通じて酷い目に遭い、あるいは裏切られ、そうして絶縁することになったとしても、どこかでそのことに対する負い目を引きずり、深い後悔に苛まれながら日々を暮らすことになったりするし、その一方で、そうやって絶縁してしまったもの同士が、後に仲直りする可能性ってのは、絶縁前の関係性の深さに反比例するんじゃないか、っていう感覚というか不安がある。で、一度そういうことを経験してしまうと、何より自分自身の感情に対して疑心暗鬼になってしまう。おいらが好きになったこの人のことを、自分は本当に好きで居続けることができるのだろうか。裏切らずにいられることができるのだろうか。って。

一人でもいいから異性に好かれたい、という言葉を字面通り真に受けてしまうと、そこに自分が本当に考慮されているのかな? と不安になるのです。人の機嫌には波がありますから (個人差もありますが)、時として必要以上に辛く当たるということはままあります。人を好きで居続けるっていうのは、その手の荒波を、満潮も干潮も、常に受け入れ続けるっていうことでもあります。

…それができなくて、当たり障りのないつきあい方しかできないのに、それでも愛し合っているのだと信じ合っている人も、中にはいるような気もします。

とにかく、人を好きになるっていうのは、好かれることほどではないにせよ、何気に難しいことなんじゃないかと思うのです。そして、人を好きになれない人は、人から好かれていることにも、なかなか気づけないものです

なので、もし仮に、個別にアドバイスする機会があるのだとしたら、とりあえず、人を好きになりたいって思うことから始めたらええんでない? と言うことになると思います。好かれるための仕掛けとしての、ファッションだの鍛錬だのなんて二の次です。そんなのは、おいらみたいな重度の面倒くさがりでもない限り、どうしようもなく好きな人ができちゃった時点で割と誰でも必死になっちゃうものですから。

社会問題としての「非モテ」考2008年08月02日 22時35分43秒

前回の記事は本当にどこにも tb 飛ばさなかったので、誰にも見かけられないままひっそりと沈んでいくんじゃないかと、別に不安になる必要のないことで不安になってしまい、気弱にもついったに URL を載せるなんて恥ずかしい真似をしていたりしたおいらだったわけでつがw、そんなおいらの思いとは裏腹に、過去最高のブクマ数を稼ぐという結果に、少々驚きを隠せません。あの件、みんなそんなに気に障っていたのか。(^_^;

んで、その中で一つ、おいらにとってとても耳の痛い指摘をしてくださった方がいらっさいました。

uumin3 「非モテ」だって社会問題として考えれば侮蔑しなくても…とちょっと思わないでもなかったり。⇒http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20070516#p3 (非モテ論議と格差社会論議は意外に似ている)Add Start-murachikazyamakazyama

これはまさしく先日のこちらのエントリの事を指しているのではないかと思う。一応、差別的な思考であった点については後日のエントリで言い訳させていただいた通りで、誠に反省至極なのであります。

今回のエントリはその、「非モテ」を自称されている方々にとっては、傷に塩を塗り込む物かも知れません。

「モテ」と「非モテ」、特殊なのはどちらか?

で、「非モテ」という言葉について再考してみたいのですが、これが差別的なレッテルとして用いられるに至る以前に、そもそも「モテない」という状態に陥っている人々を十把一絡げに括りたいという意志があったのかどうかという点が、何気に争点になるのではないかと思いました。というのも、これはおいら個人の価値観に過ぎないのかも知れないのですが、そもそも「モテない」という状態よりも、「モテる」という状態の方が、実は特別な状態であると言えるのではないかと思っているからです。

モテるってのは、よーするに「人気があって、ちやほやされる」状態のことを指すわけですが、異性に限らず特定の集団にモテている人がいる場合、その理由として、その人に特別な魅力が備わっているから、ということが言えるのではないでしょうか。dankogai や Matz が一部の (特に Web 系の) プログラマーにモテているのは、彼らがその道に携わる者として、特別な成果を上げ、特別な信念を持ち、それらが特別な魅力を発揮しているからでしょう。

その一方で、モテている人が観測されるときに、その人がモテている理由を理解できない人や、その人の発揮する魅力にそれほどの魅力というか価値を感じない人にとっては、逆に妬みの対象となることが多いのではないでしょうか。子ども社会など、民度が十分に高くない社会においては、ある集団にモテている人間が、そこに接する別の集団からは陰湿ないじめに遭っている、というのはよくあることであるように思います。

モテる人間に対する偏見や差別がそれほど問題視されない理由として、彼らをもてはやす集団の存在が彼の心の支えとなり、救いとなっているという現実、あるいは (実際には救われていないのだとして、それでも) そう見られてしまいがちな現実、というのがあるのかも知れません。元より大衆の嫉妬心が、それを問題視させまいとする空気を醸成している可能性も、少しは鑑みた方がいいのかも知れません。

「モテる」という状態は能動的か?

そんなわけで、実際には「モテない」というのは極めてありふれた状態であり、本来であればそこにレッテルを醸成する余地はないはずでした。多くの人々はモテないなりに個別に交流を見出し、そうした中で個別に深い絆を醸成しながら、社会との繋がりを確立していたわけです。

しかしその一方で、「モテる」という状態を目指すことを奨励する言説も、古くからありました。たとえばそれは、アパレルや化粧品などの方面から多く発信されていました。異性にモテるという承認欲求を促すことが、彼らの商売に繋がっていたからです。

こうしたビジネスは、情報発信の主導権がテレビと出版にあった時代においては効果を発揮しました。きらびやかな芸能界は劇場に足を運ばずとも、お茶の間で見せつけられる物となり、かっこよさへの羨望が、若い子たちの間で共通前提として普及していたからです。そうした前提があってこそ、時代のカリスマが、様々なファッションを作り出していきました。六本木黒服文化、イタカジ、渋谷系、ガングロ、ルーソー、それからえーっと、何だっけ…?

実際にはそういった流行に乗らずともモテちゃっていた人はそれなりにいたし、必死に流行を追ってもやっぱりモテない人はいっぱいいました。しかしその一方で、モテてなかった人が運良く何らかの関係性に恵まれることがあったときに、そうした光景を目にした人々によって、流行を追うことの重要性が信じられるようになっていった、という経緯はあったのかも知れません。

いずれにせよ、「モテる」というのは単なる状態であり、形容詞的に用いられるべき可能動詞です。本来モテようとしてモテることができる訳ではなく、そのための確立された方法論が存在するわけでもありません。実際にモテている人からしてみれば、自分の意志とは無関係に「モテちゃっている」訳で、それはそれで必要以上の関係性が構築されていってしまうことによるリスクの増大という、割と無視できない苦労と同居するものです。

交流のハードル

他者との関係性を構築「できない」人々の存在が問題視されるようになったのは、割と最近のことではないでしょうか。それまでは、そういう人々が存在するという現実について、あまり直視されなかったように思います (直視できない人、直視したがらない人は、今でも恐らくいっぱいいます)。関係性を構築できない要因は様々ですが、その機会が学校や職場に拘束されることで制限されている可能性や、心身障害、精神疾患などにより、能力的に、あるいは社会的に構築が困難になっている可能性、更には家庭内での虐待やネグレクト、学校や職場でのいじめに起因するケースなどが注目されています。

一方で、他者との関係性を構築することへの心理的なハードルが、かつてより上がっている可能性についても、議論する必要があるかも知れません。

例えば核家族化の浸透、それを追うように、共働きが浸透していったこと、それから、かつては「9時から 5時まで」だった労働時間の常識が、休憩時間をカウントしない「実働 8時間」とフレックスタイム制の普及により、都市部の中小企業を中心に「10時から 7時、さらに残業」という常識へとシフトしていったという背景もあり、保護者が忙しすぎて子どもやその教育に関心を持てないという状態が醸成されていってしまいました (モンスターペアレントが問題視されるようになった背景の本質も、ここにあると考えていますが、これについては別の機会で)。

この結果、親同士、家庭同士の交流の機会が、かつてより少なくなっていき、「幼なじみ」という状況が作られる可能性も、子ども同士では解決しきれない揉め事への関与の機会も、子どもたちを安全に遊ばせられる場所、環境の提供も、できなくなってきているのではないか、という点については、まだあまり表だって議論されていないように思います。

こうした地域交流の希薄化が、関係性を構築し、醸成する機会を減らしていった結果、クラスメートに声をかけたり、放課後のお誘いをしたり、気に入らないことを注意したり、各自の趣味を明かしあったりといった行動に、余計な勇気を要するようになっていったのかも知れません。

そんな中、変わらないのは学校というシステムで、クラスという単位に箱詰めされ、班という単位に機械的に振り分けられ、担任教師にはクラス運営の効率化のために「仲良くしなさい」と教えられる。そして、どうしても誰とも仲良くできない子が、他者の互いに仲良くするという目的のためにいじめの対象として利用され、勇気のない多くの子たちがそんな状況を傍観する。

まぁそういう典型的ないじめの構図ってのは割と昔からあったのですが、最近ではケータイの普及などによる別レイヤーでの関係性が交流を複雑化し、共通前提を喪失させるために、場の空気が流動的になっている、とする見方もあるようですね。学校では仲良くしているし、放課後もつるんでいるときは普通に仲良くしているのに、「学校裏サイト」(と呼ばれる単なる Web 掲示板) ではあることないこと触れ回る奴が場を荒らして不安を煽り、疑心暗鬼を募らせるという…。まぁそこまで露骨なケースじゃなくても、顔を見せ合って会話しているときと文字で交流するときとでは心理的障壁の度合いというのは結構違うようで、ネットではなぜかギスギスした論争になってしまうというのは割とよく見かける光景なんじゃないでしょうか (あー草の根 BBS 時代が懐かしい…泣)。

友だちを「作りたい」という欲求が誤用として浮上するのはこの辺に端を発していて、要するに経験的に関係性を築くのは難しいことだという認識を育んでしまっている人というのが、おいらたち前後の世代以降では割と増えてきていることの証なんじゃないかと思います。これは先ほどの「能動的か否か」という話に繋がる要素で、実際には友だちってのも「作る」ものではなくて「できちゃう」ものだ、っていうのが現実です。人ってのは不思議な物で、自分には現状不可能なことほど、「何らかの努力によって可能にできる」ものだと思ってしまうもののようです。あるいはそう思いたいのでしょう。

「非モテ」を自称することの有用性

で、やっと「非モテ」の話になっていくわけですが、おいらの見立てではこの言葉はあくまで「モテない」という状態を指す場合にのみ用いるべき言葉であり、「非モテ」というレッテルを貼るべき集合が存在するわけではないのではないかと考えています。その一方で、自ら「非モテ」を称する人は、少なくともネット上ではそれなりにいらっさるようで、そうした人々の中には、「オタク」や「ヤンキー」、「スイーツ(笑)」などといったレッテルと同列の言葉として、「非モテ」を用いているきらいがあるように思います。

もちろん、「非モテ」がレッテルとして用いられるようになったことと、それを自称する人が出現したことに、直接の相関性はないでしょう。鶏が先か卵が先かを議論することに、あまり意味はありません。しかし、彼らが「非モテ」を自称することに、何らかのメリットを見出している可能性については、検討の余地があるかも知れません。

おいらはそれは、実は承認欲求に基づくものなのではないかと睨んでいます。すなわち、お互いに「非モテ」を自称しあうことによって、彼らの間に共通前提を作り出し、そこに関係性の土台を構築したいという意図です。これは、本来侮蔑の対象として作られたレッテルであるはずの言葉「オタク」を敢えて自称しあうことで、特定のカルチャーについて語り合う、より潤滑な土壌を作ろうとする人々の精神性に共通します。

彼らは「モテ」と「スイーツ(笑)(ここでは「おれたちのカルチャーを理解できない糞女ども」ぐらいの意味) を共通の敵と認識し、敵と見なされる言質に対して苛ついてみせたり、敵意をむき出しにして見せたり、あきれかえって見せたり、反論して優越感ゲームに耽って見せたりします。そうすることで、お互いに共有するはずの精神性を確認し合い、馴れ合い、安心するのです。

もちろん、そういった馴れ合いごっこに荷担しないにも関わらず、「非モテ」を自称されるかたもいらっしゃいます。しかし、そういう方々が「非モテ」を自称する人々の文脈というか空気を読まない発言を試みると、やはり幾人かの自称「非モテ」たちの攻撃の対象となったりします。特に、「非モテだけど一応彼女が居ます」などとネット上で書こうものなら、たちまちの内に燃料となり、非モテ非承認の村八分騒ぎとなるのです。

もちろん、ふとしたきっかけで関係性に恵まれたために「非モテ」を卒業される人というのも一定数居続けるでしょうが、いずれにせよこうしたサイクルは「非モテ」を自称される方々に馴れ合いごっこ的な精神性が介在しているケースの純度を一定以上に保ち続けることとなるのではないでしょうか。

「非モテ」のレッテル化

こうした経緯が、「非モテ」という言葉のレッテルとしての価値性を高めるサイクルになっている可能性については、検討の余地があるかも知れません。というのも、後々になって初めて「非モテ」という用語に触れることになる新参者たちは、かなり純度の高い「非モテ」の精神性を、肌で感じてしまうことになるからです。非モテはキモイ。非モテは恐い。非モテはプライドも向上心もない。

そして、そうした差別的なレッテルによる幻想に対し、それを反面教師として捉えるのです。自分はこうならないよう気をつけよう。非モテにならないように気をつけよう。モテる人であろうとしよう!!

…本来、モテないという状態自体は、これっぽっちも、侮蔑の対象などには、なり得ませんでした。なりようが、ありませんでした。

モテない理由など、無限に存在するのです。むしろ、モテる理由の方が、非常に限られているのです。しかし、「非モテ」たちを見た人々は、彼らのそうした精神性に、モテない理由を見出そうとするでしょう。そして、自分だって大してモテる訳でもないのに、「非モテ」を差別の対象として見なすのです。

とりあえず「非モテ」を自称するのはもうやめないか?

以下はおいら個人の価値観です。こうした状況は、おいらは非常に不毛だと思っています。

もう、非モテを自称するのは、やめにしませんか?

実際のところ、モテないこと自体は、社会問題でも何でもないんです。個人の責任ですらありません。そもそもモテることは義務ではありません。

でも「非モテ」差別は社会問題です。なぜならこの状態は、そこに触れる人々に、「モテなきゃいけない」という固定的な価値観と、「モテても容易に知られてはいけない」という誤った倫理観を、脅迫的に押しつけてしまう可能性があるからです。これは、現状流布しているレッテルとしての「非モテ」の精神性に共感できないにも関わらず、現実問題としてモテていない人々にとっては、社会不安以外の何物でもありません。

そして、モテない人々が、そうした不安から逃れるには、2通りの方法しかありません。一つは、開き直って堂々とすること。もう一つは、自称「非モテ」の精神性に、迎合することです。前者をすべての個人に期待するのは社会学的に不適切です。そして後者の可能性は、すなわち自称「非モテ」の精神性には感染力がある可能性を示唆します。

もちろん、現状「非モテ」を自称されている方々に、それをやめていただくようお願いして回ることも、解決策としてはあまり正しくはないのでしょう。でも、啓蒙することに全く意味がないとは思わないので、おいらは敢えて、啓蒙しておくことにします。「非モテ」を自称するのは、なるべく控えましょう

本質的な解決策

で、実際のところ、この問題の本質というのは、若年者を中心に、各自の承認欲求が満たされにくくなってきているっぽいという背景にあるのだと思います。これを社会的にどうにかしていきたいのであれば、子育てのあり方、教育のあり方、そしてそれらに関わる大人の時間的余裕、詰まるところ労働に関する問題、更には経済に関する問題にまで遡って、いろいろと設計し、検討する必要があるのだと思います。まぁ、一つ二つの政策であっさり解決するような問題じゃない罠。

こういう場合、近いところから修正を試みるのと、根本の方から修正を試みるのと、どっちの方がより有効なんでしょうね? この辺はもう、社会学とかまるで素人のおいらが不勉強なまま頭を捻っても、どーしようもなさそうですね。

さいごに

現状非モテを自称されている方々の中には、この記事を読んで非常に苦々しい、腹立たしい思いをされたかたも少なくないのではないかと思います。

でも、その苛立ちの理由について、今一度、自身を解体して、考えてみて欲しいとも思います。

「非モテ」という名の幻想に、帰属意識を抱いているのではありませんか?

社会問題アレルギーと「バカ」の定義2008年08月01日 08時07分07秒

どこに tb 飛ばすでもなく一言二言。。。

「個人で解決するべき問題を、社会の問題として他人に転嫁する奴はバカだ」という言説がある。なるほど、その通りの文脈で話が発生しているならば、それは確かに馬鹿馬鹿しい行動だと思う。

一方で、身近に起こっていること、あるいは自分自身の身に降りかかっていることであっても、目下彼らの (あるいは自身の) 災厄そのものを問題視する (あるいはその解決を目指す) のではなく (あるいはそれとは別に)、そうした物事に類似する問題が、ある枠内における社会全般に一定量以上共通して存在する問題なのではないかと仮説を出し、その仮説に基づいて調査・行動を深めていくという活動があり得る。それは学術研究レベルでは大いに行われている活動であり、あるいはジャーナリズムとして、あるいは個人・団体の活動家として、あるいは国家政府、シンクタンク、企業によるビジネスリサーチ等々、様々なレイヤーで行われている活動である。

そうした活動の鼻緒として書かれた仮説に対し、「それはあんたの問題なんだからあんたで解決しろ」ということしかできないのだとしたら、彼には決定的に社会学のセンスも、それどころか商売のセンスもないということになるのではないか。

プログラマーが、プライベートで書いたプログラムを一般に公開するのはなぜか。自分のために役に立ったプログラムが、世間の役に立つ可能性を鑑みるからなんじゃないのか? 自分のことを自分事として解決するのがスマートなら、そうやって配布されたプログラムを検索して拾ってインストールするという行為は「バカがやること」だということになるんじゃないのか? 金を出してまでソフトを買う奴は大馬鹿者だというのか? そもそもあなたが作ったプログラムは、他のどのコードにも依存しない物なのか? ライブラリは? 言語は? システムコールは? コンピュータで感じた問題は、すべてマシン語で書いて解決すべきなのか?

あなたが「バカ」だといった人々は、そうやって本来自分事として消化されるべき知識を、社会に還元するという活動だ。そしてそうした活動を通して、社会はお互いを支え合っているのだということに、今一度立ち返るべきではないか。そんなことにも気づけないようでは、あなたこそ「単なるバカ」に堕落することになる。

レッテルに対する差別と、特定の精神性に対する侮蔑とを区別しよう。そして再び「オタク」論2008年07月31日 08時09分11秒

先日のブログ記事に対して、はてブでいくらかのコメントを頂きました。多くは冷静かつ聡明なご指摘でした。思えば先日の記事は冷静さを非常に欠いた、感情的というか感傷的というかそんな感じのものでした。めちゃめちゃ反省至極です。

で、そんな中で、しかし一つだけ、ある程度予想はしていたのですがやっぱり気になるコメントを頂きました。

lakehill , 「オタクやロリコンと同様、完治すべき「心の病」であると結論づけざるを得ない」>これはひどい。オタクやロリコンは病気ではなく趣味趣向の一種。CommentsAdd Star

これはもう完全においらの言葉の使い方が悪いが故に生じた誤解で、これについては弁面が必要だと感じました。見苦しい言い訳ですが書かせていただきたいと思います。

「心の病」は言葉の綾

心の病」という言葉についてまず説明する必要があると思います。一般的には、この言葉はうつ病などの精神疾患を指して使われています。そして、おいらはその意味でこの言葉を使うことは、ニュアンスに誤解を生じさせるため、非常に不適切なのではないかと感じています。

つまり、「心の病」という言葉は、非常にファンタジックな印象を持たせてしまう表現だと思うのです。うつ病の知識のない小学生に対し、不登校になってしまった児童について教師が説明する言葉として、

  • ○○くんは「心の病」にかかってしまったので、しばらくの間、学校をお休みすることになりました。

と言うのと、

  • ○○くんは脳と神経にとても辛い病気にかかってしまったので、学校をお休みして治療に専念することになりました。

と言うのと、どちらが適切か、という話です。あれは立派な「体の病気」であり、精神論や民間療法で容易に矯正できる・治せるものではありませんし、逆に医者にかかって医学的に適切なプロセスでじっくり治療を続ければ、確実に (ある程度は) 治癒できる病気なのだ、ということを啓蒙するに当たって、「心の病気」という表現は、極力避けるべきなのではないかと常々思っておりました。

おいらにとって「心の病」という言葉は、ファンタジックな印象が適切である文脈に使われるべきものだという思いがあるため、実際には病気でも何でもない、人の精神性を揶揄する言葉の類、すなわち「オタク」、「ロリコン」、「非モテ」、さらに付け加えれば「ヤンキー」、「DQN」、「ゲーム脳」などといった言葉に対してこそふさわしいのでは、ということで勢いで使ってしまいましたが、説明不足であった上にいささか乱暴な表現でした。

「オタク」も「ロリコン」も、趣味や嗜好を指す言葉ではないよ

まず説明しやすい「ロリコン」という言葉についてですが、ロリコンとは幼女・少女趣味のことではありません。ロリータ・コンプレックスというからには、その情動の背景に何らかのトラウマや嫌悪感が存在することが前提となります。

ロリコンという言葉が使われる文脈に、子どもに対する性暴力・虐待というイメージが見え隠れすることが多いのはそれが理由です。ていうか、そういう文脈で使われてこそ正しい言葉です。そうでないものはあくまで「ロリータ趣味」と書かれるべきです。もっとも、コンプレックスなくして幼女・少女に性的に興奮するようなことがあり得るのかどうかは別の議論ですが、社会問題として捉えた場合には少女の定義としての法における年齢設定に無理があるとかなんとかで変なところに理論的・定量的であろうとするが故にかえってややこしい話になっていたりはしています。閑話休題。

もっと慎重に説明すべきは「オタク」という言葉でしょう。おいらがこの言葉を使う場合、岡田斗司夫的なポジティブな使われ方に端を発する文化カテゴリの特定性を、敢えて排除していることが多いです。従って、おいら的には「オタク趣味」という言葉は有り得ないことになっています

世の中にはアニメやマンガ、ゲームのオタクにのみならず、様々なオタクが存在するのです。鉄道やカメラ、パソコンといった文化系な物から、アイドルや映画などのマスに絡んでくるもの、果ては野球やサッカー、バレーボールといったスポーツに至るまで、あらゆる分野に「オタク」は少なからず存在するのです。

元来オタクが「差別」の対象となるに至った背景には、元よりこの言葉が侮蔑的なニュアンスとして使われ始めたことに由来します。元はネクラ・ネアカという区別だったのですが、オタクはネクラから派生し、自分の趣味にしか興味を持てない人々を総称するレッテルとして機能しました。おれらが厨房ぐらいのころはそのニュアンスがまだ支配的で、多くのその気のある人々が、「俺はオタクじゃねえ、○○マニアだ」と、今の若い子には (いや、当時の若い子たちでさえ) 理解できない釈明を口にしていたのです。

その後、一時期「オタク=趣味人」という解釈でそれを肯定的に賞揚する言論がマスメディアを中心に一部で普及したことがありましたが、それでも若い人たちの間で「オタク差別」が根強く蔓延り続けていたその根底に、「オタク」とそれ以外との間でその精神性に決定的な差異があったことに原因は求められるべきです。結局のところ、個別の経験における、精神性に基づく侮蔑が、レッテルとしての「オタク」という言葉を通して差別へと転化していた、というのがその実態なのではないでしょうか。

であれば本当はラベルでしかない「オタク」という「便利な言葉」自体、使用を控えるよう啓蒙するのが実は最も正しいのではないかという思いもあるのですが、これだけ普及し定着してしまった言葉を今更「使うな」というのも戦略としては無理があると思います。ただ、個人的に今最も心配しているのは、この言葉がアニメ・マンガやゲームなどのいわゆる「2次元カルチャー」の代名詞として使われているという点です。

元々この言葉が特定の精神性を指す物として使われている限りにおいてはあまり心配する必要のなかった、特定のカルチャーに対する弾圧が、「オタク」という用語の意味の変遷によって強まる可能性が強くなってきました。「オタク道」などと称し、「オタク」であることに矜持を持つ人が増えてきていますが、その一方で「オタク」に対する差別意識が薄らいできたということは全然無さそうですし、今後もそれは有り得ないでしょう。

もしも今後も、「オタク=アキバ系」のようなニュアンスでこの言葉を使い続けるのであれば、オタク差別がいずれ二次元カルチャーの衰退を促すこととなるでしょう。否、既にそうなりつつあるとも言えるのではないでしょうか。侮蔑されるべきはあくまでその精神性なのであり、これに依ってある特定のカルチャーそのものが犠牲になるようなことがあってはならないはずです。

差別と侮蔑を区別しよう。侮蔑するならレッテルの使用は控えよう。

以下は自戒も込めて。

で、拙者がいいたいのは、このおばさんの「ブラクがいてよかったわ!!」というセリフの「ブラク」の部分を、「韓国・朝鮮人」とか「ニート」とか「おたく」とか「非モテ」とかに入れ替えたような意見が、どうも最近*6Webで多いようで悩んでいるということなのである。

この記事で語られている内容については、基本的には賛同するのですが、その一方で、「オタクや非モテに対するそれは、差別というより侮蔑なのではないか」という疑念を抱きました。どちらも似たようなものだと捉えられがちなのですが、侮蔑が個別案件に基づくものであるならば、差別に比べて著しく論理性が高い可能性はあるのです。

しかし、例え個別案件について語っているつもりなのだとしても、そこに「オタク」や「非モテ」といったレッテルを用い、そのレッテルに括られる集合全体を攻撃するような内容で語られてしまう限り、それはやはり差別として捉えられるべきなのでしょう。その差別の結果、思考は省略され、議論は煮詰まらず、言論は地に落ち、民度は下がるのです。

おいらは感情としての差別はある程度致し方ない物なのだとは思っているのですが、その一方で、自身の感情を解体して思考できない人間・社会は成長しないだろうな、という思いもあります。30超えたおいらですが、あー…、まだまだ成長したいです (←なんだこの間はw)。なので、今後はこの手のレッテルの使用は、なるべく控えていきたい。特に、真剣に物事を考えなければならない局面においてはね。