ブログ内スクリプトが Firefox 3 でも動くようになったー2008年12月06日 19時25分19秒

Firebug でエラーが出てる正確な場所を突き止めることができたので追ってみたら、スタイルシートにスタイルを追加している部分で複数あるスタイルシートすべてに同じスタイルを追加しようとしていて、それでこけてたらしい。最初に見つけたスタイルシートにだけ書き込むようにしたら動くようになった。よかったよかった。

軽い気持ちで「食」に向き合えばいい。2008年12月12日 08時07分48秒

おお。これは美味そうですな。

個人的にはこの手の食い散らかしネタというのは嫌いではないのですが、対象が生きたままの姿をした畜生であったが為に、幾人かのナイーブなはてなーからはモラリズムに基づく発言がいくつか見られました。

この手の「急ごしらえの現実」を見せつけられて 動物の権利を侵害するな とか言ってしまう人も、それに反応して「偽善潰しの正義感」丸出しで 生きるってことは、殺生を続けるって事だぞ とか言っちゃうのも、思考の次元としてはあんまり大差ないんじゃないかと思うのですよ。実はどっちも正しいし、だけどどっちも陳腐な思考です。考えたって仕方のないことなのですよ。

多くの動物は勝手に生き、勝手に死んでいってる。自分がその手を汚さなくたって、その流れは止めようがありません。

その一方で、人が豊かな生活を営む為に形成された社会の中で、多くの動物が人の都合で育てられ、屠殺され、肉片に解体され、そしてそのほとんどが、スーパーの店先で選り好みされた挙句、古くなり、生肉のまま捨てられている。あのドキュメント然としたネタ記事を根拠にして、「食べ残すのは悪」だと断定されるならば、あれらの肉たちだってすべて買い占めて自分で食べるか、本当は食べたいけど食べずにいる人たちにでも振る舞うべきでしょう。

喰われるものの命になど訴えずとも、人が食べ物を残すべきではない社会的な理由はいくらでもあります。その一方で、完食を強要する教育が、実際のところ、少なくない人々の間で強く不評だったりもします。昼休みを終え、みんなが掃除をしている中で、先生に怒鳴られながら、一人、どうしても食べきれないコッペパンの欠片とにらめっこする。そんな光景が許されるのは 20世紀までだよねー、とおいらなら強く願うわけです。

魚は大丈夫だけど、と言うのも定番のコメントですが、そういう人が、実は鯖ぐらいの大きさの生魚を調理したことがない、みたいな冗談はまさか無いとは思いますが、実際どうなんでしょうね? 個人的には、ワタを抜くときに真っ赤な血反吐がどろりと出てきてまな板を真っ赤に染めてくれたりしてアレはアレでなかなかどうしてグロだったなぁと思わなくもなかったりするわけですが、やっぱり 慣れ、なんですかね?

つくづく、人の想像力なんて、たかが知れているよなぁとか思うわけですよ。「魚の目が怖い」とか言って、頭部をタオルで隠して調理する娘さんとかの方が、そういう意味ではよっぽど可愛げがあって好感持てます。いや、本当に慣れていらっさるんだろうなとは思うんですけどね。

で、食育として体験するのもいいんじゃないか、という意見について結論するならば、まぁ、あくまで「体験」としてはアリだと思います。少なくとも、見せ物で鶏を絞め殺して云々とかやるより、「業」の部分をアウトソースしているだけよっぽどマシだと思う。「厭な仕事」をその場で一人に丸投げさせようという大人たちの醜い魂胆を子どもに見せずに済む分ね。

でも「日常」としては相応しくない。綺麗に食べるのは難しいだろうし、食い散らかすだけ食い散らかして、まだ食べられる部分が汚物のごとく放置されて捨てられるのが目に見えてる。少なくとも、これはお子様のうちに体験させるべき類の物ではないと思う。分別をわきまえた大人たちが大挙して、派手に酒盛りでもするときに、酒の肴と話題の中心にドカッと据えてやる、っていうのが、もっとも正しく、そして楽しい活用法なんじゃないかな。

そう。食事っていうのは、小難しい事を考えるためにするものじゃない。生きるため、そして何より、楽しむためにする「文化」なのだから。

とりあえずビール2008年12月17日 07時19分00秒

武蔵小杉店ですか? 一度は行っておきたいなぁ。

「とりあえずビール」という呪文は、個人的には職場の飲み会で使われることが多いですね。若手中心の職場であっても、ある程度人数が多くなってくるとやっぱり便利に使われているように思います。

氷河期世代ぐらいまでは、少なからず「とりあえずビールシンパ」なる者がいて、そういう人が幹事やそれに近い役割を務めたりすると、身内の飲みであっても率先して「とりあえずビール」を行使したりすることもあります。ゆとり世代にまで突入しちゃうとどうかはわかりません。ビール飲める子も少なからずいるけどそれに固執はしない、という感じですかね? 去年いた職場で高専からバイトにきてくれていた子たちはカクテル好きが多かった気もしますね。自分で作ったりもするようで、おいらもカクテルレシピには興味あったのでちょっと話が盛り上がりましたが。

ビール嫌いな人や、そもそも仕事付き合いの飲みが嫌いな人からは、「とりあえずビール」を唱える行為は人権侵害だとして糾弾されたりもしているようですが…とくにネット上ではそういう声が結構大きいですね。「おっさん=ビール」というイメージを定着させた上で俺はビールじゃないって書いてる人の中には、そうやって書くことで若さをアピールしたいだけのおっさんも混じってるんじゃないかと睨んでいたりもするわけですが…w

まぁ、本来飲み屋というのは憩いの場所であって、くつろぐ場所なわけですから、飲みたい飲み物を選ぶのに費やす時間だってたっぷりあってもいいわけです。もっとも混み合う金曜の夜とかだったりすると時間制限を設けられちゃったりして急かされることもなきにしもあらず、なのですが。少なくとも個人的には、ここ最近の身内での飲みで「とりあえずビール」と言うことは全くなくなってしまって、みんなしてお酒選びからぐだぐだ選ぶのを楽しんで店員さんを困らせたりしています。w

お店にも依る、という側面もあるでしょうか。やっぱり日本酒の銘柄を多く取りそろえているのが売りの店であれば日本酒を飲みたいですし、モツ鍋屋で飲むのであれば芋焼酎が飲みたいですし、フレンチとかイタリアンとかであればワインを飲みたいわけです。せっかく飲み物まで店側がおすすめを紹介してくれているのに「とりあえずビール」って、それはそれで失礼な話でもあります。逆に言えば、「とりあえずビール」ぐらいしか飲むものがないようなお店で飲み会とかあんまりやりたくないって話でもあります。いいお店でも飲み放題コースにすると選べるお酒の種類がものすごく狭まったりして、やっぱり同様にげんなりするので、よっぽど仕事上の付き合いで大人数とかだったりでもしない限り飲み放題コースはまず選びません。

結局、効率が必要な局面において「とりあえずビール」は呪文として便利に用いられている、という話であって、それはある程度歳のいったおっさんたちであってもそんなにずれないんじゃないかなぁと思います。あとは固定観念の問題。確かに自分一人しか飲まないのに最初にビールを飲んでから別のものを飲むという人もいますし。まぁ風呂上がりのビールは美味いんだけれども。

ただ、 id:y_arim さめも指摘されているように、若い世代ではこの呪文が別の呪文に置き換えられつつある可能性は無視できないとは思います。さすがにラッシーはないと思いますが。ラッシー置いてる店ってむしろ少数派だと思うし (チェーンの飲み屋だと普通にあったりするのかしら?)。基本的に、選択肢としてはリーズナブルな酒が選ばれる傾向にあると思うので、口当たりも考慮すると、「とりあえずレモンハイ」辺りに落ち着くことになるのではないでしょうか。酎ハイも、上手に作ればなにげに美味いですからね。上手に作れば。

たかだか事務処理の不便の話を一般化したところで詮無き話2008年12月17日 09時34分52秒

後者は前者の記事に対する文化面での反論として秀逸だと思ったんだけど、その割にあんまり注目されてないっぽいのでリンクしてみた。

でもこれって、所詮は事務処理の不便にまつわる話でしかないのよね。だから池田氏もわざわざガラパゴスや北朝鮮を蔑視するような書き方しなくても、「事務処理上不便なのでそういうシーンではサイン・西暦・横書きで統一しましょうよ」、でとどめときゃよかったんじゃないの? とか思った。

一プログラマーとしても、そういう意味ではありがたい提言なのよ。サインならタブレットで可能だし (電子印鑑ってあるけど単なるビットマップだし…って最近のはそうでもないのか?)、西暦で統一されれば時刻管理は確かに楽だし (っていうか年号変わるたびにプログラム作り直しとかまぢあり得ねーし)、そして縦スクロール UI にマウスまでもが特化されちゃった状況で縦書き文章は扱いづらいし。

でもこれらってあくまで事務処理に限ったお話であるべきで、事務処理の都合のために文化まで捨ててしまえ、というお話になるべきではない。歳とるとその辺面倒なのでひっくるめてしまいがちなんだけど、周囲も周囲でその辺汲んで話し合わせてあげればいいのにwとは思う。

まぁその割には週アスだのだいもやんどだのの紙メディアが引き合いに出されるのは意味不明だし、掲載前の契約締結 (金銭面的なことを考えればとても親切な対応) を「失礼」だと斬って捨てるのはもっと意味不明だけんども。

農作物の顔写真を信用してはいけないw2008年12月17日 12時24分40秒

まぁーいずれはこういう事件も起こるだろうなとは思ってたけどね。むしろイマサラ?

つか、タケノコなんて春にしか生えてこないものなんだから、春に生で泥ついてる奴を買いなさいって話。自分で掘りに行けるならなお良し。タケノコなんて輸入率 9割超えるんだから (参照)、オフシーズンに国産の奴が水煮で出回ってるなんてまず考えない方がいいって。

ま、本質的には産地の問題じゃないはずなんだけどね。

マリーンズにも不況の波か…2008年12月21日 18時55分15秒

寝耳に水とはこのことですわ…。以下、引用中の強調は T.MURACHI による。

  • バレンタイン監督09年限り シーズン前、異例の通告 - 47NEWS(よんななニュース)

    ロッテ球団は昨年も約28億円の赤字に苦しんだ。親会社も金融危機による景気悪化の影響が必至の中、バレンタイン監督の5億円ともされる年俸は懸案だった。同監督はかねて長期契約を希望していたが、16日に重光武雄オーナーら球団首脳が来季退団の方針で一本化。21日には瀬戸山隆三球団社長が外国人選手獲得の協議のために来日中の監督に伝えた。瀬戸山社長は「大改革していく必要がある。世代交代」と語った。後任は未定。

  • 時事ドットコム:バレンタイン監督、来季限り=ロッテ、異例の形でシーズンへ-プロ野球

    球団側の方針について、同監督は「驚いたが、球団の最善になるのであれば賛成する」と従う考えを示した。今オフ、韓国の金東柱内野手の身分照会を球団の承諾を得ずに独断で行ったことも不信を招いたと認め、「(契約を更新しない)要因の一つになったと思う。ルール違反で謝罪したい」と語った。

    瀬戸山隆三球団社長は「これまでの貢献、功績には感謝している。球団を大改革して組織を活性化するには世代交代が必要」などと説明。次期監督については「青写真はない。人選はこれから」と語った。

  • バレンタイン監督は事実上の解任 主導権争い背景に(野球) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース

    一つは高額な年俸。確かにバレンタイン監督はロッテを人気、実力ともリーグ屈指の球団に育てた。だが、近年は停滞感も出てきた。長年巨額の赤字に苦しみ、折からの景気悪化で、費用対効果にはシビアにならざるを得なくなった。

    もう一つは主導権争いだ。3年前にアジア一に輝いたことで、指揮官の力はグラウンド外に及んだ。今季途中には早くも契約延長を求め、12月には球団を通さずに韓国人選手の身分照会をしたことにも端的に表れていた。対応には手を焼いてきただけに、瀬戸山社長の「現在進行形の外国人(獲得交渉)も、こちらで引き継ぐ」との言葉は、勝利宣言にも聞こえた。

主導権争いが球団幹部にとって要因の一つとして重大視されているのだとしたら、それはきわめて残念だと言わざるを得ない。元々、メジャーリーグでは監督はオフシーズン中の選手獲得・放出については直接口出しせず、フロントに要点のみを伝えて (つまり、基本的には既存の選手で絶対にキープすべき人員と、トレードで取得すべき選手像だけを伝えて)、あとは任せる、というのが通例らしい。バレンタインも 2004年の 2期目就任以降、当初はそのようなスタイルでフロントに仕事を任せていたはずだ。

個人的には、日本一に輝いた 2005年のオフでセラフィニ、李承燁、小坂を放出してしまった辺りから、ボビーはフロントに対して不信感を抱き始めていたのではないかと思う。一方、今回の件で時事通信の記事中に出てくる金東柱選手は韓国球界を代表する選手だが、三塁手であり、今江とポジションがかぶる。ボビーが金東柱獲得に慎重であるのは当然であり、実際、インタビューでは獲得交渉・身分証会を行ったとする行動自体を否定している。大いなる誤解が不幸を招いている可能性は、否定できないのではないか。

千葉ロッテファンの間では、ボビー人気はすさまじいものがあり、ここ数年、決して結果が伴っているとは言えない状況の中で、それでも根強い人気と観客動員数を下支えする要素の中核に、ボビーの存在があることは間違いない。金銭面を理由とした経営判断であるというのならば致し方ない面もあるとは思うが、中長期的には彼の放出は早すぎるようにも感じるし、はっきり言ってもったいないと思う。これを機に、離れていってしまうファンも、少なくないのではないかと危惧する。

「勉強」という語が「便利な言葉」化されているようですね。2008年12月25日 13時39分25秒

最後の dankogai さめの記事がもうこれでもかっちゅーほどに叩かれまくっている。元々世間一般的な意味で言うところのいわゆる「勉強ができる子」に対する卑下が蔓延していることへの憤りに対して、最初っから厳密な (? あるいは俺様定義の) 「勉強」を指して「それだけできたって仕方ないだろう」という話に持って行こうとしているわけだから、話が通じるわけがない。

ただ、一方で id:pollyanna さめの体験談に同情された方がその後の dankogai さめのエントリーに腹を立てるのは心情としては理解できるんだけれども、彼が最初から、いや、あるいは昔っから「勉強」という言葉を斯様な意味で捉えていた、そしてそのような意味で「捉えるべき」だと考えていることを鑑みれば、全く読む価値のない記事であると切り捨ててしまうのももったいない話なのではないかと、敢えて擁護してみたく思う。

実際の教育現場において、どこまでを「勉強」と捉え、どこからを「学習」と捉えるべきか。これは、特に義務教育課程においては重要な課題なのではないか。こう持ち出すと、そもそもそれが「勉強」なのか「学習」なのかは個人の気の持ち様の問題であってその基準は千差万別、教育現場において一律の基準など示しようがない、という反論が容易に想定できる。確かに、基準が一律である必要は、無いのかも知れない。

一方で、現場で教えている先生方にせよ、あるいは自分の子どもを学校に通わせている保護者の方々にせよ、最低限、この程度の知識は備わっていなければ、将来社会に出て圧倒的に苦労することになる、という実感というのは、少なからず持ち合わせているのではないかと思うのだ。これは、以前、ふろむださめのところで勉強することの必要性に関する議論が多くの議論を呼んだ際にも、やはり教育現場に近い方々の意見としていくつか出ていたものだ (参考1, 2 と、関連する自演1, 2 / Snail Blog さんとこのはアクセスできなくなっちゃってました…)。ただ、そういう方々においても、その「最低限」がどこにあるのか、という基準は、やはりばらばらなのではないかと思う。義務教育課程に用意されているものはすべて、という人もいるだろうし、せめて読み書きそろばんぐらいは、という人もいると思う。その一方で、先天的な障害故に、周囲が「最低限」というものでさえ、まともに習得できない子を持つ親にしてみれば、口では同情されながら、現実的には我が子を人として認めてもらえない現状を苦々しく思っているかも知れない。

ただ、法によって国の教育を統治する国家の視点で言うならば、義務教育の名の下、「絶対に」とは言わないまでも、できる限り国民全員に習得してもらいたい教養を、その思いを込めて義務教育課程に組み込んでいるのであろうし、そうであればその内容は、好むと好まざるとに関わらず、その教育を受ける国民全員が「勉強」すべきもの、ということになるのだと思う。であれば、「学校で習う、教科書に書かれた内容を習得すること」がすなわち「勉強」として解釈される一般的な用法は、あながち外れてはいないのだと思う。その一方で、「勉強」の規定が国家によって一方的に押しつけられている現状を、純朴にも容認し、受け入れていることにもなる。

個人的には、人が何を学ぶべきであるかを規定することは、本質的には個人に委ねられるべきなのだと思う。その一方で、そうした類の自我、自覚に到達するには、多くは社会的つながりによって補われるものなのであろうが、やはりある程度は知識も必要なのだとも思う。興味の対象が文書に記されたものであるならば、それを読みこなす教養というのも、どうしても必要になってきてしまう (これは単純に国語力という意味だけではない。例えば物理学的知識を学ぶには数式に関する知識とそれを読みこなす能力 (センス) が必要になる。)。逆に言えば、多くの場合、社会的つながりがその人の人生における興味の対象をも規定してしまう。かつてはそれは地域社会、地域の産業によってもたらされていた。漁師町では漁師を目指し、商店街では店を継ぐ。学問に目覚めて首都を目指すのは例外的存在で、それは外面的には故郷に錦を飾るという目的で体裁を整えた場合に限り賞揚されていた。

最初の議論、すなわち勉強ができるとバカにされる問題というのは、そういう時代における価値観の名残なのであって、つまりは出る杭を打つだけの村社会意識に過ぎず、それは昔からあるもの (というより、むしろ昔の方が強かったもの) なのであって、今の子たちの頭が良くなったなんて言う話では全然無いのは明らかだ。

じゃあ今の時代はそれよりマシになっているのかというと、少なくとも経済的・産業的側面においてのみ言えば、宮台氏なんかがさんざん言い続けてきたように、一方では地方の産業を衰退に促し過疎化を進め、一方では単一の (すなわち、事務処理が優秀な人間が優れているとする) 価値観における競争ばかりが行われ、技術職・研究職がヒエラルキーの下の方に虐げられるというイマイチな状況が醸成されていってしまった。「学歴志向」が単なる大学名のブランドとして解釈されてしまったのも弊害としては大きいと思う。

さて、dankogai さめは否定するかも知れないけれども、おいらからしてみれば、 dankogai さめはめちゃめちゃ「勉強ができる子」だったのだと思う。これは dankogai さめが「本来的な意味」だと主張する意味ではなく、より一般的な意味での「学校の勉強ができる子」という意味で。16歳で大検をとり、年上の子に「学校の」勉強を教え、日本の大学ではないとはいえ、れっきとした大学 (カリフォルニア大学) に入学もしている。中退したのだってあくまで個人的な事情によるものだ。

だからおいらは、 dankogai さめがこういう話を展開するときには、基本的には「学校の勉強だけできたって仕方がない」という意味で捉えるようにしている。それは、個々の人間に当てはめて考えるならば、正しいといわざるを得ないケースも、少なからずあるのだと思う。ていうか、おいらぐらいまでの世代でプログラマーとかやっている人たちにしてみれば、その職能を学校以外の場で独学で取り入れたという人がほとんどなのではないかと思うし、「プログラミングは独学じゃないと身につかないよ」って本気で思っている人も少なくないと思う。おいらも、プログラミングを学校の授業で教えてマスターさせる、というのは、これはちょっと難しそうだな、という意味では、そうした見解に同意せざるを得ないと思っている。

その一方で、「学校の勉強はつまらないものだ」という価値観が一般に蔓延し、それがいわゆる「勉強ができる子」に対する侮蔑、いや、差別を助長しているのだとすれば、それはゆゆしき問題なんだけど、そうした問題は「学校の勉強」という枠組みにとらわれるまでもなく、差別全般の問題の一つとして捉えるべきなのだろうなとも思う。本質的には、オタク差別や、出身地差別や、金持ちへの僻みなんかと変わらないものだ。子どものうちはある程度は仕方がないものなのかも知れないが、大人になるまでにそうした意識は極力ぬぐい去られるようでなければならない。そのためには何が必要なのかというと、まずは今の大人たちが意識を改め、子どもたちに示していくべきなのだと思うし、そういう意識を持った大人と接する機会が得られるような仕組みが、地域を主体に設けられるべきなのだと思う。どうせ不況なんだから、今、忙しくしている大人たちの仕事を、仕事がない人たちにも分配し、もっと自由に持て余せるだけの時間を持たせて、それを地域に、あるいは自分の子どものために、コミットさせてあげて欲しいと思う。

親や教師が子どもに「勉強しなさい!」「宿題ちゃんとやったの!?」と叱責し続ける限り、「学校の勉強はつまらない」という誤解は蔓延し続け、差別も蔓延し続けるだろう。おいらは昔からぶれずに「勉強をさせるのではなく、学ぶことの価値に気づかせるべきだ」と主張し続ける dankogai さめに、基本線では同意する。そしてそれだけが、こんな下らない差別の蔓延を抑える、唯一の方法なのだと思う。

イマイチまとまらないけど… (おいらも勉強不足だw)

あ…スターにはてブのしっぽが…2008年12月26日 09時17分22秒

先日の記事に id:abekameri さめから頂いたスターの右に、はてなブックマークのコメントへのリンクが表示されちゃってますね…。これはおいらが自分で作ったはてブリンク自動生成スクリプト<h2> タグ内のリンクを一律で処理させているからなのですが、これはさすがに想定外でした…。

抽出フィルタと排除フィルタって併用できるように作ってたかなぁ…? もしかしたらスクリプト自体修正が必要かも…。


2008年 12月 26日 金曜日 09:45:02 JST - 追記

フィルター設定を追加しました。併用できるように作ってありました。よかった。

風邪ひいた。2008年12月28日 10時51分33秒

37.0℃。喉っていうか鼻の奥が痛い。多分インフルエンザとかではないと思うけど…。

この年の瀬に風邪をひくとは…面倒くさいなぁ。

おいらの会社のブログがあまりにも人気無さげな件。2008年12月30日 12時32分18秒

いやまぁなんつーかこんな卑屈なエントリーで情けないことこの上ないのですが。

おいらがひっそりやってる会社、株式会社はらぺこの公式ブログです。会社立ち上げ当初から 10月ぐらいまではなんだか忙しくてほったらかし状態だったのですが、12月ごろから技術的な話題などをちょこちょこと up しています。

アクセス解析とかやっていないので (面倒くさいし) 知らんのですが、サーバー設定や Web 関連の開発の話題など一部のはてなーが喜びそうなネタを書いてる割にはセルクマしかついてないってのはさすがにやばいっつーか寂しいような気がしたので、この場を借りて紹介してみることにしました。

来年の抱負は、こいつも含めて、もっと真剣にブログを書きまくることだ罠。 (あれ?)