軽い気持ちで「食」に向き合えばいい。2008年12月12日 08時07分48秒

おお。これは美味そうですな。

個人的にはこの手の食い散らかしネタというのは嫌いではないのですが、対象が生きたままの姿をした畜生であったが為に、幾人かのナイーブなはてなーからはモラリズムに基づく発言がいくつか見られました。

この手の「急ごしらえの現実」を見せつけられて 動物の権利を侵害するな とか言ってしまう人も、それに反応して「偽善潰しの正義感」丸出しで 生きるってことは、殺生を続けるって事だぞ とか言っちゃうのも、思考の次元としてはあんまり大差ないんじゃないかと思うのですよ。実はどっちも正しいし、だけどどっちも陳腐な思考です。考えたって仕方のないことなのですよ。

多くの動物は勝手に生き、勝手に死んでいってる。自分がその手を汚さなくたって、その流れは止めようがありません。

その一方で、人が豊かな生活を営む為に形成された社会の中で、多くの動物が人の都合で育てられ、屠殺され、肉片に解体され、そしてそのほとんどが、スーパーの店先で選り好みされた挙句、古くなり、生肉のまま捨てられている。あのドキュメント然としたネタ記事を根拠にして、「食べ残すのは悪」だと断定されるならば、あれらの肉たちだってすべて買い占めて自分で食べるか、本当は食べたいけど食べずにいる人たちにでも振る舞うべきでしょう。

喰われるものの命になど訴えずとも、人が食べ物を残すべきではない社会的な理由はいくらでもあります。その一方で、完食を強要する教育が、実際のところ、少なくない人々の間で強く不評だったりもします。昼休みを終え、みんなが掃除をしている中で、先生に怒鳴られながら、一人、どうしても食べきれないコッペパンの欠片とにらめっこする。そんな光景が許されるのは 20世紀までだよねー、とおいらなら強く願うわけです。

魚は大丈夫だけど、と言うのも定番のコメントですが、そういう人が、実は鯖ぐらいの大きさの生魚を調理したことがない、みたいな冗談はまさか無いとは思いますが、実際どうなんでしょうね? 個人的には、ワタを抜くときに真っ赤な血反吐がどろりと出てきてまな板を真っ赤に染めてくれたりしてアレはアレでなかなかどうしてグロだったなぁと思わなくもなかったりするわけですが、やっぱり 慣れ、なんですかね?

つくづく、人の想像力なんて、たかが知れているよなぁとか思うわけですよ。「魚の目が怖い」とか言って、頭部をタオルで隠して調理する娘さんとかの方が、そういう意味ではよっぽど可愛げがあって好感持てます。いや、本当に慣れていらっさるんだろうなとは思うんですけどね。

で、食育として体験するのもいいんじゃないか、という意見について結論するならば、まぁ、あくまで「体験」としてはアリだと思います。少なくとも、見せ物で鶏を絞め殺して云々とかやるより、「業」の部分をアウトソースしているだけよっぽどマシだと思う。「厭な仕事」をその場で一人に丸投げさせようという大人たちの醜い魂胆を子どもに見せずに済む分ね。

でも「日常」としては相応しくない。綺麗に食べるのは難しいだろうし、食い散らかすだけ食い散らかして、まだ食べられる部分が汚物のごとく放置されて捨てられるのが目に見えてる。少なくとも、これはお子様のうちに体験させるべき類の物ではないと思う。分別をわきまえた大人たちが大挙して、派手に酒盛りでもするときに、酒の肴と話題の中心にドカッと据えてやる、っていうのが、もっとも正しく、そして楽しい活用法なんじゃないかな。

そう。食事っていうのは、小難しい事を考えるためにするものじゃない。生きるため、そして何より、楽しむためにする「文化」なのだから。