事なかれ主義は良くないよね。でも…2007年12月08日 02時25分36秒

はてぶコメントでは書ききれそうに無かったので。。。

おいらも概ねその通りだとは思うのですが、一方で、本当は決して悪いことではないにも関わらずあまり周囲に知られたくない事柄について、そうした事柄を隠すこと、あるいは隠すと言うほどではないにしてもそれをおおっぴらにはしないということが、「常識」として同意されている社会に所属しているという状態に、一定の安心感を抱く程度の「弱さ」を抱えて生きている人もいる、ということぐらいは、頭の片隅に置いておいたほうが良いのかもしれません。

例えば、人を好きになることは、決して悪いことではありませんが、場合によっては他の一般的な悪いこと以上に、侮蔑の対象として見られてしまわれがちな、好きになっちゃい方と言うのも結構あったりします。

赤信号、みんなで渡れば恐くない、などとは申すものの、それができるだけの心の強さを誰もが持ち合わせているのであれば、こうしたことに気苦労を重ねることも無い、もっと楽な社会が簡単に出来上がるのでしょうが、現実はそうとばかりも言ってはいられず、硬直した価値観に囚われた心の弱い人間に、「不浄の愛なんてものは存在しないよ、もっと自信持って堂々と生きなよ」といくら説いてみせたところで、かえって心理的に追い詰めてしまうばかりなのですよ。悲しいことに。

人間、楽しいことは、本当は人に話したいものです。で、悪いことってのは、大抵やってみると割と面白かったりするわけです。

でも、悪いことだと分かっているから、おおっぴらには言いふらせない。だから、例えば気を許した友達だけに、一杯引っ掛けながらちろっと告白したりする。

誰にも打ち明けられない状態が続くってのは、ストレスです。愚痴とかと同じで、よーするにガス抜きなわけですね。で、ネットって場所はそれを見ている人の顔が見えないから、悪事を打ち明ける場所としては最も適した場所であるかのように感じてしまう人が多い。というのがここ最近の現状なんじゃないかと思う。

結果としてバックラッシュが起こるのは、そこに不文律の存在を信じていた人々に、さまざまな形で「動揺」を与えてしまうから。そういう楽しいことを「やらないように我慢」していた人も、「ばれないように我慢」していた人も、自己の我慢の理由が失われてしまうことに不安や憤りなどといった不快感を覚えるわけです。だから紛糾し、「炎上」する。逆に、その物事に対してもとより興味も関心も抱かない人ほど、そうした悪事の告白を「どうでもいいこと」と意に介さないから、炎上に加担しない第三者の視座に立てる。

そう考えると、テラ豚丼やら揚げ油虫やら授業中に漫画やらの小ざかしい猪口才な悪事の告白などは、まだ第三者的な視点から助け舟を出してくれる人はそれなりにいそうだから、そんなんどうどうとやればいいじゃんって言いやすくもあるけれども、本当は決して悪事ではないにもかかわらず、場合によってはそこいらの悪事よりもよっぽど白い目で見られそうな、その癖人間全般に普遍的な関心事であったりするところの、しかも自分だけでは無しに相手がいるところの、人が人を好きになる感情の告白などというのは、ますます開けっぴろげにはしにくくなってしまうんじゃないかなぁなどと思うと、実名明かして言いたいことも言えないような世の中も辛いし、言いたいことを言い出せない心の弱さに苛まれて生きる人々もまた、辛いよなぁとか思ったりもするわけなのであります。

そんな世の中だからこそ、自分のしている楽しいことの多くをできる限り語り明かそうとする人などを時々見かけたりするたびに、頼もしくも、微笑ましくも思えるわけなのでありますが。。。

民主主義と匿名実名論2007年12月16日 01時18分56秒

賛成できる部分と、できない部分があります。賛成できる部分とは、匿名性の過度の尊重がネット上での言論の敷居を上げてしまっている可能性の指摘です (←こう書いておけば、この記事に対して匿名でいちゃもんをつける連中の行動が、おいらにとっては「してやったり」になるw)。匿名性の需要が衰退していく可能性についても、否定はできないという程度には賛成です。賛成できない部分とは、現状の社会風潮における匿名性の需要を過小評価している点と、Wikipedia 上の記事の質がものによっては低い理由を匿名性に見出している点です。

Wikipedia の記事の質が低い理由

Wikipedia は、民主的な集合知を期待することを前提としたシステムです。これは、例えば誰かが誤った内容 (勘違い、嘘、または出展の伴わないあやふやな情報) を書き込んだとしても、その記事を閲覧する他の多くの人がその間違いを訂正し、その繰り返しが結果として、記事がより正確で質の高い内容を確保するように仕向けられている、ということです。

このシステムは、それに関わる書き手の人間の多くが善良で且つ聡明であることを前提とし、または期待しています。Wikipedia が不幸なのは、実際には多くの人はそれなりに善良かもしれないが、決して聡明ではないという点です。

Wikipedia 上の記事の質が低くなってしまう理由として考えられるものを、以下に列挙して見ます。

  1. あまり閲覧されない記事である。
  2. 真実を知る人よりも、誤解している人のほうが多い記事である。
  3. 出展となる一時情報が少ない記事である。
  4. 企業が Wikipedia 運営元に法を盾に脅しをかけた。

極端なケース (馬鹿が荒らしにきたとか馬鹿がふざけて追加したとか当事者が自身に都合のよいように書き換えたとか) もちらほらと見かけるが、それこそ民主主義的原則で浄化されることが期待できるのでここでは無視するとして。

1. については、これはもうどうしようもないと思う。誰も見ないような記事であれば、誰も内容を気にしようとはしないだろう。それは、執筆者が匿名であるか署名しているかに関わらず、同じことだ。

2. は、編集合戦になればまだいいほうで、誤解されたままの内容がそのまま放置されたり、更に悪いことには Wikipedia が誤解の発信源になってしまうこともしばしばある。こうした記事に対して、当事者が自身のブログなどで指摘し、その指摘を受けて内容が訂正されるという動きも時々見かける。悪意を以って恣意的に記述されるようなケースについては著名を求めることである程度防止できそうだが、そうでないケースも多いのではないかと思う。

3. は、Wikipedia が果たそうとする社会的使命に通ずる問題で、要するに Wikipedai 自身が一時情報となることを放棄しているが故の問題である。Wikipedia 固有の問題であり、この問題に対して、立場を明かした人間による著名付きの記述が得られる仕組みを設けるというアイデアは、割とイケてるのではないかと思う。

Google の knol (ニュース記事とかはすぐ見つかるんだが knol 自身の url がわからん…) はそういう部分を埋め合わせるシステムとして考案されたようだが、一方で、同一トピックに対して多数のユーザーが記事を執筆した場合、レーティングの仕組み、即ち結局は民主的裁量に委ねられることになる。企業に関する内容など、複数の当事者を名乗る人間がまったく違うことを書く記事が乱立するという事態になれば、結局は読み手に高いメディアリテラシーを求められることになるわけで。。。それでも 2ちゃんねる情報を鵜呑みにされるよりはマシか?

4. については、これはもう匿名云々の問題というよりは運営側の裁量の問題。書き手がいくらがんばっても Wikipedia 運営者にヒヨられてはもうどうしようもないというかなんというか。

まだ多くのユーザーが、匿名性の必要性を感じている

プライバシーって言うのは、「知られたくない自分」を隠すことによって、「見せたい自分」を作る権利の事。人間、常にまじめな議論ばかりを繰り返しているわけではなくて、たまには普段見せていない裏の顔を演じてみたくなったりもするわけである。

その裏の顔っていうのは、何も特定のブロガーのコメント欄に「アフォ」だの「氏ね」だの書き込んで憂さを晴らすみたいなネガティブな行動ばかりではなくて、例えば絵や音楽や小説などの作品を作って公開したり、それこそ人によっては糞まじめな議論に参加する、って言うことであったりもするわけだ。

普段は普通の子を装っているのに、実はパソコンでアニメっぽい CG を描いているなんて知れたら友達に敬遠されるかもしれない。でも、せっかく描いた絵を誰にも見せられないのは寂しい。

普段はギターとか弾いて生楽器生演奏マンセーとか言っているのに、実は DTM でシコシコ打ち込みで作曲するのも好きだなんて知れたら友達に敬遠されるかもしれない。でも、せっかく作った楽曲を誰にも聴かせられないのは悔しい。

普段はテキトーで軽い奴で通っているのに、政治の話とかを熱く語ったりしてしまったら同僚に激しく引かれるかもしれない。でも、文化審議会著作権分科会法制問題小委員会で通過しようとしているダウンロード違法化にはどうしても賛成できないし、それ以外にも著作権に関してはいろいろと言いたい事もあるんだ。

匿名ってのは、上記のような (少なくとも日本では) 割とありふれた場面と感情に直面している人間が使うものであり、これを許容しないシステムが広く一般に普及するような状況というのは、まだまだ先のことなんじゃないかと思う。

もちろん、近い将来、IPv6 が普及することで、IP アドレスによる個人の特定が技術的に容易になる世界は訪れるだろうが、上記のような一般的な要求に基づく匿名性としては、そうした個人の特定の可能性まで拒んでいるわけではないと思う。

匿名性が無ければ、民主的な Web 社会は保証されないのか?

以上がおいらができうる限りの匿名擁護論。以下は匿名マンセーな方々には少々厳しいお話。

上記で挙げたいくつかの例は、日本では割とありふれた感情だと書いた。それでも地域や年代などによって程度差はあるのではないかと思う。そして海外ではこの価値観は必ずしも通用するものではないとも思う。

おいらは一部の「匿名性が確保されているからこそ、立場を気にせず言いたいことを言い合える、真の民主的な世界が保証される」とした意見には到底賛成できない。

そもそも、自らの名も、立場も隠さなければ、言いたい事も言えない様な社会が、民主的であるといえるのか!!?? 根底の社会が民主的であるとはいえない状況であることを捨て置き、匿名の傘に隠れて不毛な愚痴や悪口や陰謀論などをぶちまけてガス抜きで満足しているような連中が、「ネットがこの腐った社会を根底から裏返した」などと笑止千万、寝言は寝て言えという話である。

最近、おいらはブログのページ右上辺りに、自らのプロフィールとして、本名と職業を公表するようにした。自分がこのブログ上で行う言論を評価していただくうえで、必要な情報であると (今頃になって) 理解したからだ。

例えば、8月の頭に、おいらは今勤めている職場内で起こった出来事について愚痴を書いた。このとき、おいらは勤め先がどこなのかまでは明かしては居なかったし、当時はプロフィールに本名も晒しては居なかった。

つまり、この時点で、たとえ当事者である職場の某氏がおいらのブログを読んでいたとして、それは彼にとっては知らないどこかの誰かが、別の知らないどこかの誰かのことを指して書いていることだと捉えるわけである。もちろん、会話の内容について事細かに書いているわけで、実際には自分のことだと既に察している可能性もある。しかし、社名が公表されていない以上、おおっぴらに何らかの対処を施す必要性の無い案件である、ということになるわけだ。

ところが、その後、8月下旬に、会社にクジラ飛行机さんがやってきて勉強会が行われ、それに感激したおいらが勉強会の内容をログに起こし、その中で勤め先の社名が OPTiM であることを公表したことで、事態は一変するわけである (しかも概ね時を同じくしておいらはプロフィールに本名を晒し始めた、確か)。これにより、つい先日に愚痴られた当事者の某氏は、その愚痴の内容が、自分の良く知る人間によって、自分に向けられて発せられた言葉であることを理解することを余儀なくされるわけである。しかも社名は公表され、おいらと彼の二人だけの問題では済まなくなってしまった。

民主的社会の議論の場においては、この、当事者を特定し、議論の場に引っ張り出すという過程が、どうしても不可欠なのである。そうでなければ、問題が報告された際、それを正すべき責任の所在が明確でないために、結局誰もその問題を正そうとはせず、状況は何も改善しない。問題解決につながらない議論になど、遊び以上の意味はないのだ。

逆に、自らの立場を明かし、当事者を明かすという行為は、自らの立場を守るためにも必要なことだ。もしも匿名で、自分と当事者にだけ分かるような書き方でしか書かなかった場合、その言論に感づいた当事者が、何らかの圧力をかけ、結果としてその愚痴を書いた人間が職を追われる、という事態にも発展しかねないが、そうなった後になって慌てて名を明かして俺はこんなことを書いたぐらいであの会社を辞めさせられたんだーなんてわめき散らしたところで、その経緯を証明してくれる人は誰一人居ないだろう。しかし、はじめから自らの実名を明かし、自分と当事者の働く会社の社名を明らかにすれば、不当に圧力をかけて辞めさせるようなことをすればそれこそ社名に傷がつく、という状況で、会社としても迂闊な行動には取れないということになる。多くの部外者 (そして潜在的な消費者) の衆目に晒された状態で、概ね対等の、解決に向けた本当に建設的な議論を期待することができる。

もちろん、おいらが書いた愚痴なんて本当に些細なことで、会社にとっても何の痛手にもなっては居ないし、そもそもこんな話に衆目が盛り上がって会社の名が傷つけられるような事態をおいらも望んでいるわけじゃない。何気に大した技術者たちがそこにこぞって集まっているのも事実だし (だからこそ、体は大切にして欲しいと願ったりもするわけだけれども)、そんな技術者たちをいい意味で刺激するイベントも結構あったりして、そういう意味でもとてもいい会社だと思ってる。ってちょっと話が逸れてきたな。

とにかく、実名でものを書いても事態は何も変わらないかもしれないが、少なくとも匿名で書かれたものに比べれば、実名で書かれたものが当事者に与える影響は確実に大きいのは確かだ。実名での言論は事態を変える可能性を孕む。匿名での言論は、本当にガス抜きにしかならないよ。何の解決も生まないよ。

本当の情報革命は本当の民主主義社会にのみ訪れる

池田信夫さんは上記でリンクした記事以外にも、こんな記事を執筆されている。こちらは非常に興味深く読ませていただいたが、氏の言う「本当の情報革命」が将来起こるのだとすれば、その土壌には、堂々と名を明かし、身分を明かしたものが形成する本当の民主主義社会の存在が絶対条件となるのではないかと思う。そうでなければ、共有される情報に対価の認められるような世界は、訪れる余地も無いからだ。

あの病気に2007年12月18日 11時05分13秒

かかってしまったっぽいです。とりあえず今日は仕事はお休みを頂きました。。。

PC の画面見てもゲームとかやってもテレビ観てても音楽聴いてても頭痛かったり腹の底が苦しくなったりするだけなので、しばらく寝て過ごします。ネットからも距離をおきます。申し訳ない。。。

「みんなの幸せ」の為の言論と、「あなたの幸せ」の為の言論2007年12月24日 08時27分17秒

まーそもそも「幸せ」って言葉が個人的には腑に落ちないんだけれども。必ずしも誰もが幸せである必要は無いって今ではかなり本気で思っちゃってるからね。むしろ、「みんなが (ケーザイ的に) 幸せ」な状況に慣れてしまったことが、「皆さん仲良くしましょうね」という道徳を絶対的な善として多くの人に受け入れさせてしまう土壌を作り出していたのだとすれば、社会的にはそれはむしろ不幸なことであるとさえ思う。

思うに、貧乏で食うにも貧窮しているという人が、一番手っ取り早く生活を楽にする為の、「本来」もっとも手っ取り早い方法は、裕福な友人に助けを求めることだと思う。

昨今の現実は、それすらも難しくしてしまっている。つまり、助けを求める相手が居ないという人が、団塊の世代より若い人たちの間ではむしろ一般的になってしまっている。個人的には、それが一番の問題だと思う。そしてそれは、究極的には自己責任なんだけれども、他の多くの要因があったことも、絶対に否めないと思う。

ケータイで「メル友」いっぱい作ったみなさん。mixi で「マイミク」いっぱい作ったみなさん。Twitter で Follow されまくってるみなさん。そして、学校でトモダチいっぱい作ったみなさん。みなさんの中で、「お金に困ったときでも助けてくれる友達がいる」と、本気で言える人は、どれほどいらっさいますか?

薄っぺらい付き合いもそれなりに楽しいし否定はしないけど、それ「だけ」じゃあ、本当に困ったときに助け合える「戦友」には、めぐり合えないと思うぞ。

 最後にインタビュアーが「以前『生まれてこなければよかった』と言ってましたが……」と問う。「今でもそういう気はある」と岩井さんはのべる。全面的に誇りをもてない状態だからだ、というのだ。
 全面的に復帰してから……といって、インタビューの途中でいきなり岩井さんは目をふせて、手で目をおさえた。ようやく立ち直ってカメラに顔をあげ、人間らしい感情がもどってきたからかもしれないと話す。

「前だったら絶対こうはならない。やっぱり人を信じられるようになって……」

といって、また涙を流して顔をふせてしまう。
 岩井さんがカメラを多少意識したにせよ、これは岩井さんが社会的排除から「社会とのつながり」を徐々に回復し、「人間らしい感情」や尊厳がもどってくる瞬間をとらえた見事な映像である。
 終わりに鎌田キャスターが「単に収入を得るだけの問題ではなく、社会に参加するということ」なのだと強調していることが、おそらく番組スタッフが伝えたいテーマと解決方向だったのだろう。

岩井さんの最後のセリフが個人的に最も腑に落ちたのは、結局その個人にとって最も身近な人と人との付き合いが、その人をいろんな意味で救うことになるのだということに、おいら自身が実感を抱いているからなのだと思う。だからこそ、おいらも自分が友と思う人と助け合うことができるぐらいには、経済的にも能力的にも強くありたいと思えるのだと思う。

多くの技術者にとって、知的好奇心はそれ自体がモチベーションだ。だからこそ、自己研鑽の機会が得られないような職場には、本物の技術者は定着しない。ただ、向上心は好奇心のみによって支えられるわけではないと思う。

助け合いたい誰かが居る。強くありたいと思える文脈がそこにある。そういうことが、人を強くするんじゃないかな。

この辺の対立軸を見ていて、一見無責任に見える dankogai さんの発言のほうが、個人的には腑に落ちるのは、上記で述べたようなおいらの考え方に対して、今の社会状況の中で個人が行き抜く方法を示唆する彼の言い分の方が、より現実的だと思えるからなのだと思う。

それに対して、

仮に(何度も書くが仮に)笑いが成功の鍵だとしても、何時の時代も笑える人間もいてうまく笑えない人間もいたはずが、それが団塊の世代ではうまく笑えなくても普通の生活ができありのままの生が肯定されていたのが、今は笑えなければ途端に当たり前の生すら営めない、それを問題としているんじゃないのか?

(中略)

誰も成功したいわけでもなんでもなく、普通にしか笑えなくても、普通に生活する道を探りたいだけなんだと思うんですけどね。

なんかうまく引用できないんだけれども、おそらく意訳すると「能力の乏しい人間でもそれなりに生活できる社会であるべき」という思想が前提にあるように見えるんだけれども、おいらはそういう社会は実際にはその社会の枠組みを大きく捉えてしまうと見失いがちになってしまいそうな「仲間同士の助け合い」という本質の上に成り立つことを理解しているだけに、それを社会的仕組みや構造に求めることにどうしても違和感を払拭できないんだよね。

生活保護が機能していないのは確かに大問題なんだけど、個人的には、その辺のことを一生懸命語っている人の多くは、むしろ自分に戦友と言えるほどの友が居ないことのほうが、あなたにとっては大問題なんじゃないの? と言いたくなる。

能力が無くてもそれなりに生きていける世の中は魅力的だけど、そういう世の中を支えられるのは、結局は能力ある人々なんですよ。そういう人に、まずはあなたがなろうとすべきなのではないですか? と。おいらはそう思う。そう思うからこそ、自らの技術を磨くことに、責任をも伴うプライドを見出すことができる。

それにしても、個人への国家の助けは最小限であるべきなのに、実際には散財しまくっても最小限にすら至らないほど、助けるべき対象が広がってきちゃっているのは、やっぱり教育の失敗という側面が一番大きいんじゃないかと思うんだけどどうだろう? ケータイやネットみたいな便利な道具が人から人との濃い交友関係の機会を奪う可能性は、そもそも仕事の激務で親との接点を奪われた子どもが 40人ずつに分けられて箱型の部屋に押し込められて、絶対に仲良くなんてできっこない奴とかが混じっている教室で、「みんな仲良くしましょうね」が絶対的善と信じ込まされるような、ここ数十年まったく省みられることの無かった「教育」のあり方についてどうにかしてから考えるべきだと思うんだけどね。

blogosphere は「新しい知識人」の代替となりうるか?2007年12月24日 14時37分31秒

 全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。
 バイオの領域でもIT(情報通信)の領域でも、人間であることと人間でないこととの境界線を脅かすような研究が進みつつあります。そうした社会であればこそ、社会的全体性を参照できるような知識人、私の言葉でいえば「新しい知識人」が必要となるわけです。
 新しい知識人は、大衆を導くというかつての課題とは違った課題に取り組む存在です。エキスパートが社会的全体性を弁えないがゆえに「暴走」してしまう可能性を、事前に抑止するような役割を果たす存在です。そうした存在がこれからますます要求されるべきです。
 欧米のノーベル賞級の学者の多くは、大衆向けで分かりやすいものの、極めてレベルの高い啓蒙書を書けます。知識人には専門性を噛み砕いて喋る能力が必須です。そうした能力は公的なものです。日本にそういう学者が数少ないのは、知識人がいないことに関連します。

これを読んでみて思ったのが、blogosphere が、宮台氏の言う「新しい知識人」の代替となりうる可能性についてです。大学に足場を置いた学問の世界では専門外の分野との繋がりが疎遠になりがち (そもそもそれが駄目なんじゃ、という気もしますが。。。) なのに対して、blogosphere には専門の異なるエキスパート同士の交流と議論がありうるからです。

もちろん、そうなるためには、blogosphere に参加する多くの人が、「新しい知識人」を目指すことが前提に無ければならないのかもしれません。今はまだ、専門の異なる者同士の見識の断絶が、有益な議論を阻害しているように感じています。例えば、Winny の違法性を巡る裁判および判決に対しては、専門の違いによって以下のように見識が割れました。

  1. Winny 自体は何ら法に抵触しないとしながら、金子氏のとった態度への評価として実刑が下された判決であり、今後の開発に不安を覚える。(プログラマー)
  2. 金子氏の行動が社会的に及ぼした影響と、氏の態度を考慮すれば、この量刑は妥当な手打ちであると言える。(法学者)
  3. 著作権よりも、ひとたび流出した「秘匿すべき情報」が回収できないような仕組みになっていること自体が重大であり、そのことに対して新たな法的枠組みを早急に作るべきだ。(セキュリティ研究者)

まぁ、3つ目は当の裁判とは直接の関係は無かったわけですが。。。

上記の 1 と 2 は、相容れない意見として最後まで断絶していたように思います。1 の意見に固執するプログラマーには、技術が時としてもたらす無制限の損失の可能性に対して、法的手打ちを欲する (あるいは必要とする) 権利者という社会的構図に対する理解が足りなかったし、2 の意見に固執する法学者には、有益なソフトウェアを発明し、開発する個人プログラマーが、法的リスクに尻込みすることで技術的発展が損なわれる可能性に対する理解が足りなかった。

これらの双方が歩み寄って足りない理解を補い合うことで、より有益な議論を導き出すことができたのではないかと思うんですよね。個人的なソフトウェア開発が法的リスクに晒されるのは恐い。でも、なんでもありの個人開発を法的に放置することによって、具体的な損害を蒙る人が出るような事態は避けるべきだ。ならば、双方を満足するようなより高度な解決策は何なのか。そこに法的不備の可能性は無いのか? かといって、ad hoc な法の調整で事足りる問題なのか? 等々。

こんな感じで、今はオタクでしかない各分野のエキスパートたちが、議論の場としての blogosphere を通じて、「新しい知識人」的な、即ち横断的な知識の共有と蓄積を繰り返していけると良いのではないか、と思いました。