そんなに差し迫った状況でもないでしょう。2007年01月15日 10時36分09秒

なんかおいら、寄せてくださってる TB 元の記事にことごとく水を差してるよーな気がするなぁ (^_^; 。

まず、勘違いしないで欲しいのは、リンク先記事で引用されているおいらの文章ではたまたま「モヒカン族」とか「Winny擁護」とかいったネット上での人々や出来事のことばかり書いているわけだけれども、言っている事自体は何もネット上での人々や出来事に限ったことではない、っていうこと。更に言えば、ネットだから、匿名だから、こういう状況が広まっている、ということも必ずしも言い切れるわけではないかもしれないってこと。

例えば古くから存在する例を挙げるならば、男社会に帰属する人間と女社会に帰属する人間との対立とか、旅先の国の文化を知らずに恥をかく観光者とか、学校社会との勝手の違いに戸惑う新入社員とか、ノミニケーションしか知らないおっさんたち (「一緒に酒酌み交わせば仲良しさ」だけでもお酒が苦手な人にしてみれば十分迷惑だが、それ以前に「仲良くなれば仕事も円滑」とか本気で思っちゃっている辺りが非常に痛い、痛すぎる) とか。何れも単に「知識がない」というだけのことが、後のトラブルの遠因になったりするわけなのですが、じゃあ何で知識がないのかといえば、それは自分達が普段生活している場所とは関わりのない世界であって、興味がなく、必要性も感じないからです。

つまり、おいらが「盲目性」と書いたのは、これは「知性」とか「リテラシー」とかいった言葉の裏返しなのであり、こいつを補填するには、個人レベルならば「人生経験を積む」こと、集団レベルならば「調査と議論を繰り返し、知の共有を図る」ことがどうしても必要になる。

そこで、その後に紹介した「民度の低さ」が「盲目性にも関連する」と繋がっている。そして、「有益な議論」の起こりやすさについて、ブログのようなシステムと、2ちゃんねるのような匿名掲示板との比較論へと繋げているわけです (ここでようやくネットでの話となる)。

おいらとしては、民度の低さは何も 2ちゃんねるにもインターネットにも限った話ではなく、そもそも日本と言う国自体の民度が決して高いものじゃない、どちらかといえば「村社会」的な風土が根強く、社会的に成熟しているとはとても言えないにも関わらず、何でインターネットで起こる、ひいては 2ちゃんねらー的なノリが引き起こす出来事ばかりがこうも目立つのか、という部分にこそ着目すべきであって、その性質の根底にあるもの自体をどうにかしようという議論は、少なくともネット上のサービスにおけるシステムに関連する議論としてはあんまり相応しくないんじゃないかと思うわけです。だから、2ちゃんねる界隈での民度が特に低くなる現象に対して、その原因をシステム絡みで推論するのは、アリだと思うけれども、こうした民度の低さを「毒」と捉えて、「このまま放っておいたらインターネット全体を蝕むよ」とか煽ってみたところで、土台日本人の国民性がそういう傾向なんだから言っても仕方ないじゃんとか思ってしまうわけですよ。

ちなみに。

普通、私達はインターネット上で誹謗中傷を受けたり、自分の嫌なことをされれば、怒り、そして傷つく。それは「私」の痛みだ。何故痛みを感じるか?自分が全く正しいと感じており、自分の中で全ての思考回路が完結していれば何も痛みは感じる必要はない。だって相手が完全に間違っており、自分は何も悪くないのだから。でも私達は痛みを感じる。何故か?それは、私達が心のどこかで、他者への回路を持っているからだ。「もしかしたら敵の方が正しいかもしれない」、または、「自分は自分が正しいと信じる価値観において自分を正義であるとする。でも敵にも正義はあって、そして彼らはその正義に則って行動している。つまり、敵の見方に立てば、敵は正義であり、自分は悪だ!」と。そういう風に、幾ら相手を憎んでいても、相手が極悪非道な人間でも、考えてしまう。

もちろんこれは、ある意味では危なくもある。この様な「相手の意志を思う」態度が行きすぎると、それは自己否定となり、「私」の生存の否定と繋がる。昨今流行る「メンヘル系」などというのはまさにこれだ。

「メンヘル系」と「気分障害患者」を別個に捉えているのかもしれないので何とも言えないのですが、もし同じものとして捉えているのであれば、この認識は必ずしも正しくないように思います。

それから、喧嘩したり戦争やったりしているわけではないんですから、対話する相手を「敵」と書いてしまうのもどうかと思いますし (確かに、ブログを炎上させに行っている匿名の人たちの何人かは、当該ブロガーを「敵」と思っているのかもしれませんが)、「相手と自分のどちらが悪なのか」という意味合いでバランスを取ることではなくて、重要なのは「物事はあくまで物事として、的確に捉えようと努める」ことなのではないでしょうか。その結果として、やっぱり自分が正しいと判断したならばそれでよいと思うし、相手の言うことにも一理あると思う部分については、自分の考えや調べなおした事実などと照らし合わせて、検討し、昇華した上で、新たな見解を表明しあってすり合わせていけばいい。

問題になるのは、そういう努力を怠って、扇動に簡単に流されるままにしちゃっているのを楽しんでいる、「あんまりモノを知らないし考えない人々」なのですから。。。もちろん、そういう人々を指して「これだから 2ちゃんねらーは」などと、全体を括るつもりはさらさら無いのですが。

スペースがないなら script 書けばいいじゃない2007年01月15日 20時49分05秒

HTML で日本語と ASCII 文字の間に半角スペースを入れるべきか否か、というお話。見ての通り、おいらは入れちゃう派です。

考え方とかは後回しにして、とりあえず 30分ぐらいで作っちゃったスクリプトの紹介からw

ASCII 文字とそれ以外との間に余白が見えるようにするスクリプト

semantic でない「見た目の為」だけの空白文字は使うべきではない、と言いたくなる人の気持ちもわからなくは無いのですが、「本来ブラウザがその辺の見た目の面倒を見るべきだ」とか言っちゃうのは流石に傲慢に過ぎると思う。Gecko のパッチを作るのもいいけれども、とりあえず Javascript でまかなえそうなことは Javascript でまかなってしまうというのも手では無いだろうか。

と、いうわけで、作ってみた。w

使い方もサンプルの中で書いてるから参照してちょ。あと、スクリプトはできれば直リンクではなくダウンロードして各自が管理するサーバー上に置いて使って欲しい。

ブラウザ上でテキストを反転してみると分かると思うけれど (さらにコピペしてみたりするとなおよく分かると思う)、スペースを直接挿入しているわけではなくて、クラス名付きの <span> タグを挿入し、スタイルシートでマージンを空けるという方法を採っている。表面上の動作としては、アクセス性原理主義的な要望にブラウザが応える場合に、行うべき動作をシミュレートしてみた、という感じ。

スペース入れる派の主張

おいらの場合、理由は 3 つある。

  • 閲覧者がコピペしてテキストエディタに貼り付けたときの見た目を考慮

こういう使い方を想定すること自体おかしいだろうとか言われちゃうとちょっと辛いのですが (^_^; 。

逆に、テキストエディタ上で HTML 編集するときに自分が見づらいから、という理由でもあったりする。ちょー傲慢>ヲレw

  • どーせ改行とか入れちゃうんでしょ?

ブログで HTML 書く時はあんまり気にしないんだけど、テキストエディタで HTML 書く時は、文章の、というかパラグラフの途中でも、適当なところで改行を入れてしまう。HTML では改行も空白として扱われる為、結局のところ、余計な空白がぽつぽつ入り込んでしまうことになる。実用的なことを言えば、これをいちいち気に止めていても仕方ないんじゃん? という思いがあったりする。

まぁでも、最近は「HTML はあくまでメタデータというかプロトコルなのであって、人間が直接書くべきものじゃない」っていう考え方の方が主流になりつつあるから、この主張も次第に形骸化していったりもするのかな。なんだかんだで Wiki 文法的なものの方が受け容れられやすくなっているようだし。

  • そもそも HTML/CSS が日本語と英語が混在することを想定した仕様になっていない

縦書きにすら対応できてないくせにえらそうに言うな、という話。アラビアンのために右から左へ書いていくスタイルはサポートされているのに。

考えてもみて欲しい。英語は確かに単語単位でスペースを挟む仕様になっているし、日本語も確かに単語単位でスペースをわざわざ挟まない仕様になっている。しかし日本語と英語が混ざるような文章において、日本語部分と英語部分の境目はどうあるべきなのかということについて、確たることが言える人間などこの世にいるのだろうか? 定義のないことに関しては、「何もしない」のが正しい動作である。違うか?

ブラウザ開発者の誰一人として、あるいは HTML/CSS の仕様策定に関わる人間の誰一人として、この件に関する「真実のあり方」を知る者はいないし、そしてそれに「触れようとする者」も現れなかった。それだけのことなんじゃないのか? そうでなければ DOM の Node.TEXT_NODE はもっと種類が細分化されるべきだし、ラテン文字や CJK 文字などのテキスト要素カテゴリを CSS からアクセスできて、例えば

body:text<latin:cjk> {
    word-spacing:   0.3em;
}

みたいな感じでテキスト要素カテゴリごとの境目に対する余白の微調整ができて然るべきだ。なぜならブラウザの標準の実装による余白の大きさを気に入らない人はいるかもしれないし、何よりブラウザごとに余白の大きさが異なるなんてことにでもなれば、このお方のように、フォントの違いでさえ気にかけるようなギリギリのチューニングを施す Web デザイナー達にしてみれば、たまったもんじゃないという話になってしまう。

重要なのは、「コントロール可能」であることであり、「余計なことはしない」ということでもある。そういう意味でも、self spacing はとても reasonable な選択だと言えるのではないだろうか。

そもそも、この空白って、あっちゃいけないものなの?

見た目だけの為に文字を挿入するべきではない、という意見はごもっともだと思う。恐らく、日本国内での言いだしっぺはこの辺だと思うのだが (「実際にやってみよう」のリンク先のサンプルは IE7 でもやっぱり正しくレンダリングできないのね ^_^;)、これに関して言えば、少々こだわりすぎかとは思われるものの、それでも一応理に適った、筋の通った話ではあると思うし、理解は出来る。

しかし今回の話の場合、単語と単語を区切る空白文字までもを、「見た目の為の文字」とみなしてしまうという事は、そもそも英単語を普通に区切る空白でさえも、「見た目の為に空白文字を使っている! セパレータであることを表す適切な文字を使うべきだ!」という話になってしまわないのか? そうならないのは、空白文字が「単語間のセパレータ」を意味する文字として適切だと一般に認められているからなんじゃないのか?

そうなのだとしたら、英単語同士を区切るセパレータに使用する文字として、空白文字が適切であるのに対して、英単語と日本語を区切るセパレータに使用する文字として、空白文字が適切ではない理由はあるのか?

思うに、日本語と英単語の間に入れる空白文字を「余計なもの」だと考える人は、そもそも、日本語と英単語の間に区切り文字を入れる必要などない、と考えているのではないかと思う。あるいは、なんとなーく見た目の為に空白を入れている人の中にも、その空白を、「単語間のセパレータ」を意味する文字であることを意識して使っている人は、案外少ないのかもしれない。

しかしながら、「日本語と英単語の間に区切り文字は必要だ」と考え、そのための区切り文字として空白文字を選択しているのであれば、それはそれでアリなんじゃないかと思う。そして、その必要性を定義できる人間が、HTML/CSS 仕様策定に関わる人間の中に存在しない以上、どちら側に捉えようとも、それは HTML を書く人間の勝手である、と考えるのが、現状では妥当であるように思えるのである。

ちなみに。

単位が日本語の場合、数字と単位の間はスペースを空けずに書くようにしています。ex) 1個、2個、3個、...

あ、あと、句読点の後は、スペース入れてません。ってことはそれって思いっきり見た目重視じゃねーか>ヲレ ((((((/;^^)/