みんな表向きテレビを嫌っておきながら、テレビ的手法に慣れきっちゃってる。2007年09月29日 15時07分33秒

実は今週いっぱい風邪で寝込んでました。急に涼しくなりやがって。。。相変わらず季節変わりは身悶える弱いなぁ>ヲレ。

んで、鳩山法相 (弟くん) の死刑執行自動化発言、というよりはむしろキモは法相一人に死刑執行実施の判断を委ねちゃうのはまずくねっていう部分なんだと思う (というより信じたい) んだけど、そのニュースがらみではてぶとか漁ってたらこんな記事に出くわした。

引用のほうが長くて、結局のところ「こんなこと言うやつ馬鹿だね」、みたいなのって何に似てるって、ワイドショーのコメンテーターと大して変わらんのじゃないか。


実際は、ほんの少数の直接利害関係にある人間だけが問題についてこしこし調べなきゃいけなくて、大多数は関係ないわけだからワイドショー的なダメなヤツ、良いやつって分け方でも十分成り立つんだよなあ。

で、どの意見が表層に出るのかっていうと、ダメなやつ、良いやつレベルの大多数の人間の意見なわけで。

似たようなことを以前この辺の記事にも書いたのですが、ネット上で発信されている情報の多くは既に報じられたニュース記事に対する言及であり、それも予備知識や追加調査をほとんど含まない一言感想文程度のものがほとんどだったりします。急先鋒はもちろん今でも 2ちゃんねるだし、今でも多くのブログがそうなんでしょうが、最近ではそうした内容の軽いテキストは、はてぶのようなソーシャルブックマークや、Twitter のようないわゆるライトブログ、それから mixi のような SNS などへと移っていっているようにも思います。

もっとも、それではブログはメディアとして全然役に立っていないのかというとそういうわけでもなくて、例えばインタビュー報道で誤った内容が報じられた際に、その誤りを指摘し、訂正するためのカウンターメディアとして利用されたりしています (高木浩光氏とか、最近だと津田大介氏とか)。その他、有識者が記者を介さない生の声を一般に届けるためのメディアとしても利用されていますし、一方的な報道が行われている事柄に対して一部の注目されているブロガーが対立意見を表明することによって、ネット上の世論が踏みとどまるというケースもしばし見受けられます (最近だと essa さんによるナベツネが麻生を潰そうとしてるよってやつとか)。

もっとも、カウンターメディア的な役割や、対立意見の提示なんかは、主に週刊誌系のメディアを中心に機能としては存在しなかったわけではないとは思います。それでも、細かいことに対して言及する機会が得られにくかったのが解消されたのは確かだし、そういう情報がよりすばやく出せるようになったというのも重要なことだとも思います。

いずれにせよ、カウンターメディアだとか、生の声が、といったような話は、話題となる物事の当事者が享受するメリットであるように思います。そして、当事者間で行われているやり取りに、ブログを介して口を挟めるようになるには、それこそ超一流のアルファブロガー(笑)と呼ばれるぐらいに注目されていないことには、なかなか難しいんじゃないかということになります。

実際のところ、多くの事件、懸案、議論において、当初からそこに参加している当事者以外の人間が、そうした議論に加わること自体、必要なことではなかったりもします。マスコミが外野で騒いで、最終的にはマスコミが悲劇的に報じるような事態に陥ったように見えても、実は当事者の間では十分に議論が尽くされていて、最善の選択がなされている、というケースも少なくないんじゃないかと思う。

裏を返せば、多くの事柄において、マスコミがわざわざ介入して大衆の世論を動員するまでも無く、物事がすんなりと収まるケースというのが大半で、そういった物事についてまでわざわざマスコミがネタとして取り上げなけりゃならないのは、やっぱり情報を「話題」として「消費」するという現状のマスコミのビジネススタイルに端を発しているんではないかと思う。

よーするに、実際には「まじめに議論したい人」というのがそもそも少数派で、周囲の人とのコミュニケーションにおいて共有できる「話題」にニーズが求められているのが実情なんではないか。で、話のネタとして提供すべき話題のために、人件費費やして追跡調査を繰り返すような効率の悪いことをするよりは、とりあえず表層だけをなぞっておいて、質より速さと量で勝負したほうがいいってことになる。さらにそこに、人々が感情移入できるような話題性を盛り込むことさえできれば十分、ってわけだ。事件報道で被害者遺族の悲痛の声ばかりが目立って聞こえてくるのはなぜか? 事件に至るまでの経緯を糞真面目に追ったって、ウケる報道にはならないからだ。それだったら被害者の感情を表に出すような報道のほうが、取材するほうだって楽だし視聴者も感情移入できる。もとよりテレビ的な報道ってのは、ニーズに応える形で醸成されちゃったものなんだよ。

で、似たようなことはブログっつーかネット上でも言えちゃうわけだ。長文なんて読まないってのもそうだけど、長文ばかり書くようなブログでさえ、素っ頓狂で若い世代への偏見に凝り固まった内田樹みたいなのが耳目を集めたりするのは何でかって言えば、実際には言論の説得力以前のもっと表面的で下らない部分にニーズがあるからだ。設計に関する根本的な議論よりも CSS やら Javascript やらによる小手先の技のサンプルを集めたようなののほうがウケるのと同じだっ (嘘、ちょっと違う)。

んで、じゃあそういう現状が果たして好ましい状態なのかどうかって言うと、おいらは一概には結論を出せない。別に全員が真面目である必要なんてこれっぽっちもないと思うし、特定の物事に対して本気で興味・関心を抱いている人ならば、マスコミ・大衆のノイズをいともあっさり掻き分けて本質にまでいたってしまうものだろうし。それはネットのおかげで調べごとが楽になったとか以前の話で、そもそもそういう人間はマスコミ報道なんか頼らないで足使うだろうとかそういうこと。

むしろ、当事者の間で片付ければすむような話をわざわざ報道で取り上げて、さも全国民の問題であるかのように提起して見せることのほうが迷惑なケースも少なくない。光市母子殺害事件の裁判についても、少年法があるから極刑は免れるだろうという弁護側の油断っつーか怠慢が最高裁での逆転を招いたまではよいとしても、極刑を望む遺族の感情ばかりを扇情的に喧伝しまくることが、司法の現場における厳罰化を招いたり陪審員制度の導入につながったりする要因のひとつになっていたのだとすれば、これは果たして国民にとってより幸せな結果であったといえるのか?

逆に、マスコミによって報じられることが無ければ継続し続けることになっていた不幸、マスコミによって救われる不幸というのも無いわけではないとも思う。最近だと時津風部屋で行われていた虐待により力士が死亡に至った事件がそれに該当する可能性がある。「可能性がある」と書くのはその逆もありうるということで、例えばいじめによる自殺がマスコミによって激しく取り扱われ始めたころ、当時の海部首相によるポジショントーク「いじめは絶対にあってはならない」発言があったために、学校現場での隠蔽体質がより強まったというケースもあるため、この手の報道にも本来であれば慎重さが必要であるはずだということだ。

んで、ここでやっとネットというかブログの話に戻ってくるわけなんだけれども、実際のところブロガーはあくまでブロガーなのであって、必ずしもジャーナリストであるっちゅーワケではないと思うし、誰もがジャーナリストのように振舞う必要もこれっぽっちもないと思う。しかしかといって、現状のテレビ的マスコミのまねをして、扇情的話題に辛口コメントで星稼ぎに走る (あ、星ってもちろんはてなスターのことねw) のもどうかと思う。ニーズはあるだろうけど、民意の低いところでポイント稼ぎしていても、それが楽しいって言うんなら別にいいとは思うけど、少なくとも知的収穫は大して得られないんじゃないかなぁと。

で、かといって事あるごとに糞真面目に調べものして得た少ない知識でそれっぽいことを長文にしたためて、結果大した反応も得られなかったりもともと専門でやってる人にやたら恥ずかしい間違いを指摘されちゃったりということを繰り返すくらいなら、いっそのこと、自分が当事者になれるような話題に絞ってブログ書き続けるようにした方が実はいいのかも知れんね、とも思う。

ブログを書くならテーマを決めてやったほうがいい、っていうアドバイスはあっちゃこっちゃで言われているわけだけれども、その理由のひとつとして、上記のようなことまで考えに含めた上でそうアドバイスしているのだとしたら、そいつは頭いいなぁとも思う。確かに、もともと自分が得意なこと、得意じゃなくても興味・関心があることだけしか書かないって決めてしまっておけば、下らないテレビマスコミ的・ワイドショー的な記事に手を染めてしまうようなヘマも少なくてすみそうだし。