「世界はだんだんよくなっている 」がジャーナリズム批判としてはダメな理由2010年01月26日 14時40分25秒

t-murachi 社会形成, 歴史, 思考, hoge, 下らん, 時間の無駄, メタブもあるでよ 中身のないポジティブ論に賛同はできないな。今こうしている間にも、失業者は着実に増えている。悲観、無力感への処方箋は解決策と試行であるべきであって、無関係な代替概念を持ちだして納得させる事じゃない。 2010/01/25

リンク先記事については同意し、あるいは励みになったとする意見が多数見受けられた。そのこと自体は悪いことではないと思う。各自の個人的な人生において励みになる概念が少なからず存在することは、悪いことではない。

おいら個人の人生としては、現状、メディアが喧伝する閉塞感の中において、割と幸せなものだと自覚している。なので例えば生活に窮する状況に追い込まれている方々 (working poor 然り、失業者然り) や、旧来的・現代的を問わず差別の憂い目に遭っている方々などを代弁して何かを言うことは難しい (してはいけないわけではないとは思うが、多分実感がこもらないんじゃないかと思う) し、実際それをする気もさほど無かったりする。

ただ、ブックマークコメントで書いたことについては、まぁ、それはそれとして、この記事が、メディアが閉塞感を喧伝することに対する批判として書かれているのであれば、その批判に伴う提案としてのポジティブシンキングには、やはり同意することはできない。これは、メディアが行っているとされる、この国の社会に対する漠然としたネガティブキャンペーンを一つの極と定め、対立する概念としての (やはり漠然とした) ポジティブシンキングをもう一方の極に配した二項対立の図式に落とし込もうという、自縄自縛の議論であるように思うからだ。

「この国の社会に対する漠然としたネガティブキャンペーン」が何故ダメなのかと言えば、それは個々の議論が突発的な井戸端会議のネタに終わってしまうからだ。事業仕分けがメディアに取り上げられ、国民の間で議論を呼んだ。それ自体は悪いことではない。しかし京速スパコンに対する蓮舫議員の「二番ではダメなんですか」発言ばかりがクローズアップされ、「頭の悪い素人が仕分けに口出ししている」という負の側面ばかりが目立つような報道になってしまった。その後も事業仕分けに関してはスパコンのことばかりが取り上げられ、本当に必要な議論 (大幅削減が決まった spring-8 や海洋研究、逆に仕分けの対象から結果的に外された核燃料再処理工場の是非、etc...) にあまり耳目が集まらなかった。本来批判されるべきはこうした政策論議に関する報道の網羅性のなさや、ウケ狙いの報道姿勢、そしてそうした報道をネタとして消費する読み手の姿勢にあるのではないか。

ネガティブな報道ばかりだから閉塞感が広がる、もっとポジティブなニュースだってたくさんあるはずだし、そういうのをどんどん報じるべきだ、とする意見をよく耳にする。同意される方も多くいらっさると思う。

おいらがそうした考え方にどうしても同意できないのは、結局の所、その考え方というのは、現状の、報道をネタとして消費するという、読み手、聞き手の姿勢を前提とした考え方だからだ。そうした姿勢が正されることがない限り、即ち大勢が個々に社会に参加しようという意欲を持たない限り、メディアは成熟しないだろうし、デモクラシーは成就されないだろう。雰囲気だけで政権交代し、雰囲気だけでそれを悲観し後悔するなら、そもそも民主制である必要など無いのだ。

昨今のメディアによるネガティブ報道にはもう一つ問題点があって、それは極めて個人的な事情により起こってしまった事件について、容疑者 (未だ裁判で犯人だと確定したわけでもない) の属性情報ばかりを取り上げた挙げ句、それがいかにも社会的な現象であるかのように報じてしまう点だ。こうした報道は偏見・差別を好む低俗な耳目をよく集める。しかしメディアリテラシーを高める存在であるべき新聞・テレビ報道が、結果的に民度を失墜させることに手助けしているというのは実に皮肉なものだ。

最近では個別の新聞・テレビ報道に対し、関係者がネット上でブログなどを用いて認識の齟齬や報道上の問題点等を指摘すると言うことがたびたび行われている。これはよいことだと思う (そういう意味では、元記事に同意するものである)。そして、そうしたことの一つ一つが、テレビや新聞のネットに対する相対的な信頼感を、着実に貶めていっているのだと思う。その効果は新聞の販売数やテレビの平均視聴時間、広告・CM枠の売り上げなどといった数字にもろに影響しているし、大手の新聞社、放送局が軒並み赤字を出していたりする。

しかし彼らは反省しない。それどころか、彼らが手にしている特権的利権 (記者クラブ然り、電波利権然り) を手放すまいと躍起になっている。このことこそ、最も悲観されるべきなのだ (特に我々世代にとっては)。元記事はテクノロジーが社会を少しずつ、着実によりよくして行っていると書いている。しかし、テクノロジーを活用するのは人だ。情報コントロールは権力そのものだ。テクノロジーが変わってゆくなら、人も変わってゆかなければ社会はよくならない。テクノロジーに取り残されたはずのメディアがテクノロジーそのものへのネガティブキャンペーンを展開し、それに多くの人が踊らされて差別に勤しむような社会は成長しない。インターネットをメインステージに育まれるこれからの時代において、誰もがそのことを肝に銘じなければならない。