最近のニュースいろいろ ― 2006年10月28日 15時52分33秒
いい加減にしろ松本零士
- 松本零士さん「盗用」で槇原敬之に謝罪要求 (ZAKZAK)
- 槇原敬之が盗作騒動後、初登場も無言で立ち去る (goo 映画 / サンケイスポーツ)
後者の記事から引用。
一方、松本さんはこの日夜、サンケイスポーツに「進展? 私には何も言ってきていない」と説明。「発売直後に(槇原本人が)『もしかしたら刷り込みがあったかもしれない。すいません』と認めているんですが、騒動になると黙っている。(公の場で)1回謝ってくれれば、まだ若いんだから頑張れよと言えるんですけどね」と話していた。
「刷り込み」は「盗作」ではない、という認識なのでしょう。そしてその認識は、盗作であるという勝手な「決め付け」で相手を糾弾する松本零士より圧倒的に正しい。
- アイデアは著作物ではない、歌詞盗用疑惑で (livedoor ニュース / PJニュース)
仮に槇原氏が本当に「銀河鉄道999」を知らず、アイデアだけが偶然に松本氏と同じだった場合には、槇原氏は侵害にはあたりません。ここが、アイデアが同じだけでも侵害としてしまう特許法と違って、著作権法の場合は似た作品が成立してしまう難しい点です。
「銀河鉄道999」を知っていたとして、そのすべてのセリフを必ずしも完全に覚えているものでしょうか? そして、追及されて「刷り込みがあったかもしれない」となんとなく思ってしまって口にした時点で盗作は確定してしまうものなのでしょうか?
それにしても、この記事の以下の段落、
似た作品が成立しやすい著作権の世界では、偶然似た作品になってしまった場合に、マナーとして後の人が先の人に対してどこかで(別の作品中やテレビ出演の場などで)先行作品をリスペクトすることが大事だと思います。芸術の世界では悪意なく似てしまった場合に、もめごとになる前に後の人が先の人を尊敬する業界の慣習ができれば、一般人の芸術に対するイメージが保たれると思います。
芸術世界に社会のしがらみ、上下関係の風習を持ち込むという考え方には正直同意できません。生きている (あるいはつい最近まで生きていた) 先人にはヘコヘコしなきゃいけなくて、昔死んだ偉人の作品は蹂躙してもよい、そんな常識が確立するから、ディズニーみたいな強大な既得権益が蔓延る歪んだ世界が出来上がって、不健全な芸術市場 (芸術への投機) が成り立ってしまうことになるんでは?
- 槇原敬之“盗作騒動”は語らず (スポーツニッポン)
一方、劇場版「銀河鉄道999」の主題歌を担当した5人組ユニット「ゴダイゴ」の全国ツアーが品川のステラボールで開幕。この日も同曲を熱唱したタケカワユキヒデ(54)は「作者同士で話をして、印税を払うなり作者の名前をクレジットするなど、共作とすればよかったのでは」と語った。
これ、本当にタケカワ氏の発言なのかね? がっかり。
高校の必修単位足りねーよ問題
- 高校必修逃れ、286校…文科省調査 (読売新聞)
まぁ、あんまりいくつも参考記事上げても仕方ないので、所感を軽く列挙してみる。
- 学校 5 日制導入+カリキュラム変更が引き金だったようで、「ゆとり教育の弊害」なんて一部では言われていたりしているようですが、これで官僚は如何に現場が見えていないかということが露呈してしまったように思う。
- 本来謝るべきは、無茶なカリキュラムを導入して歪みを誘発した政府、官僚なのでは? 公文書偽造といえば聞こえは悪いが、学校関係者も教育委員会も、現場運営の実態にすり合せるべくこれまで努力してきたと褒められて然るべき。
- もちろん、大学入試主導の学習体制が徹底され、それが常識化されている現場の状況も、またはそればかりを望む消費者としての生徒及び保護者も、それがおかしいこと、マズイことであったという認識を持つべきだと思う。特に学校関係者は、最も重要なことは生徒を大学に合格させることではなく、高等教育履修者としてふさわしい教養を身に付けさせることであるという認識を再確認すべきだ。
- そして最も忌むべきは大学である。まぁ指導要領がセンター試験とすらずれているわけだから突っ込みにくいところではあるかも知れんけれども、少子化のあおりで受験者を多く獲得すべく、選択科目を絞り込んでいる大学は非常に多い。反面、多くの学生が一般教養が身についていないことを問題視して、入学させてから一般教養系の授業を必修として多く受けさせているという矛盾がある。まぁおいらが通ってたへっぽこ大学もどきみたいに情報工学科のクセに微分積分を再履修させていたよーなケースはさすがに特殊と言わざるを得ないのだろうが (講義の初日にテストを行い、規定の点数に満たないもののみ受講、クリアした者はその時点で単位がもらえた)、それでなくても「文章表現法」のような本物の国語 (日本語) の授業を受けさせている大学は (文・理問わず) 少なくない (それだけ高校以前の「国語」の授業が非実用的であることの証左だ罠)。大学としては本来、「高等教育をちゃんと履修した生徒を入学」させるべきところを、「学部の専門分野に関連する教養に特化した生徒を入学させ、その他の高等教養は大学内で履修」させるという、効率の悪い体制を取っている。資金面における学校運営自由競争化の弊害というべきではないか。
まぁ~一般教養としての日本史も世界史も地理も倫理もまったくといっていいほど身についていないおいらが言えた義理じゃあないんですけどね~♪
日公
めでとう。
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