「みんなの幸せ」の為の言論と、「あなたの幸せ」の為の言論2007年12月24日 08時27分17秒

まーそもそも「幸せ」って言葉が個人的には腑に落ちないんだけれども。必ずしも誰もが幸せである必要は無いって今ではかなり本気で思っちゃってるからね。むしろ、「みんなが (ケーザイ的に) 幸せ」な状況に慣れてしまったことが、「皆さん仲良くしましょうね」という道徳を絶対的な善として多くの人に受け入れさせてしまう土壌を作り出していたのだとすれば、社会的にはそれはむしろ不幸なことであるとさえ思う。

思うに、貧乏で食うにも貧窮しているという人が、一番手っ取り早く生活を楽にする為の、「本来」もっとも手っ取り早い方法は、裕福な友人に助けを求めることだと思う。

昨今の現実は、それすらも難しくしてしまっている。つまり、助けを求める相手が居ないという人が、団塊の世代より若い人たちの間ではむしろ一般的になってしまっている。個人的には、それが一番の問題だと思う。そしてそれは、究極的には自己責任なんだけれども、他の多くの要因があったことも、絶対に否めないと思う。

ケータイで「メル友」いっぱい作ったみなさん。mixi で「マイミク」いっぱい作ったみなさん。Twitter で Follow されまくってるみなさん。そして、学校でトモダチいっぱい作ったみなさん。みなさんの中で、「お金に困ったときでも助けてくれる友達がいる」と、本気で言える人は、どれほどいらっさいますか?

薄っぺらい付き合いもそれなりに楽しいし否定はしないけど、それ「だけ」じゃあ、本当に困ったときに助け合える「戦友」には、めぐり合えないと思うぞ。

 最後にインタビュアーが「以前『生まれてこなければよかった』と言ってましたが……」と問う。「今でもそういう気はある」と岩井さんはのべる。全面的に誇りをもてない状態だからだ、というのだ。
 全面的に復帰してから……といって、インタビューの途中でいきなり岩井さんは目をふせて、手で目をおさえた。ようやく立ち直ってカメラに顔をあげ、人間らしい感情がもどってきたからかもしれないと話す。

「前だったら絶対こうはならない。やっぱり人を信じられるようになって……」

といって、また涙を流して顔をふせてしまう。
 岩井さんがカメラを多少意識したにせよ、これは岩井さんが社会的排除から「社会とのつながり」を徐々に回復し、「人間らしい感情」や尊厳がもどってくる瞬間をとらえた見事な映像である。
 終わりに鎌田キャスターが「単に収入を得るだけの問題ではなく、社会に参加するということ」なのだと強調していることが、おそらく番組スタッフが伝えたいテーマと解決方向だったのだろう。

岩井さんの最後のセリフが個人的に最も腑に落ちたのは、結局その個人にとって最も身近な人と人との付き合いが、その人をいろんな意味で救うことになるのだということに、おいら自身が実感を抱いているからなのだと思う。だからこそ、おいらも自分が友と思う人と助け合うことができるぐらいには、経済的にも能力的にも強くありたいと思えるのだと思う。

多くの技術者にとって、知的好奇心はそれ自体がモチベーションだ。だからこそ、自己研鑽の機会が得られないような職場には、本物の技術者は定着しない。ただ、向上心は好奇心のみによって支えられるわけではないと思う。

助け合いたい誰かが居る。強くありたいと思える文脈がそこにある。そういうことが、人を強くするんじゃないかな。

この辺の対立軸を見ていて、一見無責任に見える dankogai さんの発言のほうが、個人的には腑に落ちるのは、上記で述べたようなおいらの考え方に対して、今の社会状況の中で個人が行き抜く方法を示唆する彼の言い分の方が、より現実的だと思えるからなのだと思う。

それに対して、

仮に(何度も書くが仮に)笑いが成功の鍵だとしても、何時の時代も笑える人間もいてうまく笑えない人間もいたはずが、それが団塊の世代ではうまく笑えなくても普通の生活ができありのままの生が肯定されていたのが、今は笑えなければ途端に当たり前の生すら営めない、それを問題としているんじゃないのか?

(中略)

誰も成功したいわけでもなんでもなく、普通にしか笑えなくても、普通に生活する道を探りたいだけなんだと思うんですけどね。

なんかうまく引用できないんだけれども、おそらく意訳すると「能力の乏しい人間でもそれなりに生活できる社会であるべき」という思想が前提にあるように見えるんだけれども、おいらはそういう社会は実際にはその社会の枠組みを大きく捉えてしまうと見失いがちになってしまいそうな「仲間同士の助け合い」という本質の上に成り立つことを理解しているだけに、それを社会的仕組みや構造に求めることにどうしても違和感を払拭できないんだよね。

生活保護が機能していないのは確かに大問題なんだけど、個人的には、その辺のことを一生懸命語っている人の多くは、むしろ自分に戦友と言えるほどの友が居ないことのほうが、あなたにとっては大問題なんじゃないの? と言いたくなる。

能力が無くてもそれなりに生きていける世の中は魅力的だけど、そういう世の中を支えられるのは、結局は能力ある人々なんですよ。そういう人に、まずはあなたがなろうとすべきなのではないですか? と。おいらはそう思う。そう思うからこそ、自らの技術を磨くことに、責任をも伴うプライドを見出すことができる。

それにしても、個人への国家の助けは最小限であるべきなのに、実際には散財しまくっても最小限にすら至らないほど、助けるべき対象が広がってきちゃっているのは、やっぱり教育の失敗という側面が一番大きいんじゃないかと思うんだけどどうだろう? ケータイやネットみたいな便利な道具が人から人との濃い交友関係の機会を奪う可能性は、そもそも仕事の激務で親との接点を奪われた子どもが 40人ずつに分けられて箱型の部屋に押し込められて、絶対に仲良くなんてできっこない奴とかが混じっている教室で、「みんな仲良くしましょうね」が絶対的善と信じ込まされるような、ここ数十年まったく省みられることの無かった「教育」のあり方についてどうにかしてから考えるべきだと思うんだけどね。

blogosphere は「新しい知識人」の代替となりうるか?2007年12月24日 14時37分31秒

 全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。
 バイオの領域でもIT(情報通信)の領域でも、人間であることと人間でないこととの境界線を脅かすような研究が進みつつあります。そうした社会であればこそ、社会的全体性を参照できるような知識人、私の言葉でいえば「新しい知識人」が必要となるわけです。
 新しい知識人は、大衆を導くというかつての課題とは違った課題に取り組む存在です。エキスパートが社会的全体性を弁えないがゆえに「暴走」してしまう可能性を、事前に抑止するような役割を果たす存在です。そうした存在がこれからますます要求されるべきです。
 欧米のノーベル賞級の学者の多くは、大衆向けで分かりやすいものの、極めてレベルの高い啓蒙書を書けます。知識人には専門性を噛み砕いて喋る能力が必須です。そうした能力は公的なものです。日本にそういう学者が数少ないのは、知識人がいないことに関連します。

これを読んでみて思ったのが、blogosphere が、宮台氏の言う「新しい知識人」の代替となりうる可能性についてです。大学に足場を置いた学問の世界では専門外の分野との繋がりが疎遠になりがち (そもそもそれが駄目なんじゃ、という気もしますが。。。) なのに対して、blogosphere には専門の異なるエキスパート同士の交流と議論がありうるからです。

もちろん、そうなるためには、blogosphere に参加する多くの人が、「新しい知識人」を目指すことが前提に無ければならないのかもしれません。今はまだ、専門の異なる者同士の見識の断絶が、有益な議論を阻害しているように感じています。例えば、Winny の違法性を巡る裁判および判決に対しては、専門の違いによって以下のように見識が割れました。

  1. Winny 自体は何ら法に抵触しないとしながら、金子氏のとった態度への評価として実刑が下された判決であり、今後の開発に不安を覚える。(プログラマー)
  2. 金子氏の行動が社会的に及ぼした影響と、氏の態度を考慮すれば、この量刑は妥当な手打ちであると言える。(法学者)
  3. 著作権よりも、ひとたび流出した「秘匿すべき情報」が回収できないような仕組みになっていること自体が重大であり、そのことに対して新たな法的枠組みを早急に作るべきだ。(セキュリティ研究者)

まぁ、3つ目は当の裁判とは直接の関係は無かったわけですが。。。

上記の 1 と 2 は、相容れない意見として最後まで断絶していたように思います。1 の意見に固執するプログラマーには、技術が時としてもたらす無制限の損失の可能性に対して、法的手打ちを欲する (あるいは必要とする) 権利者という社会的構図に対する理解が足りなかったし、2 の意見に固執する法学者には、有益なソフトウェアを発明し、開発する個人プログラマーが、法的リスクに尻込みすることで技術的発展が損なわれる可能性に対する理解が足りなかった。

これらの双方が歩み寄って足りない理解を補い合うことで、より有益な議論を導き出すことができたのではないかと思うんですよね。個人的なソフトウェア開発が法的リスクに晒されるのは恐い。でも、なんでもありの個人開発を法的に放置することによって、具体的な損害を蒙る人が出るような事態は避けるべきだ。ならば、双方を満足するようなより高度な解決策は何なのか。そこに法的不備の可能性は無いのか? かといって、ad hoc な法の調整で事足りる問題なのか? 等々。

こんな感じで、今はオタクでしかない各分野のエキスパートたちが、議論の場としての blogosphere を通じて、「新しい知識人」的な、即ち横断的な知識の共有と蓄積を繰り返していけると良いのではないか、と思いました。