読書感想文の宿題なんてなくなっちまえばいい2006年08月17日 05時42分41秒

亀レスごめんちょw

1日 2桁アクセスぐらいふつーだろうとかいう話はまぁ置いておくとして。

子どもの頃、おいらはこの、夏休みに出される読書感想文の宿題という奴が大ッ嫌いだった。理由は、書き方がよく分からなかったから。

大人のブロガーが好きで書く読書感想文と、義務教育のお子様が宿題として書かされる読書感想文とでは、書き方は大きく異なるように思う。後者は大概、読んだ本のあらすじをだらだらと書いているうちに終わってしまう。で、親とか教師とかに、「一番印象に残った部分について書け」とか言われたりするわけなんだけれども、良書ならば全体的に「いいなぁ」と思うわけだし、そうでなければ全体的に退屈だったりするわけで、なかなかそんなに都合よくいい部分だけ抜き出して書けるものでもない。

今の子どもたちが羨ましいなぁと思うのは、大人のブロガーが自由気ままに書く読書感想文に触れ、読書感想文の書き方、というよりは、本の読み方を知ることができることにあると思う。物の本の何が面白いかなんてのは、当然個人差があってもいい。が、着眼点のヒントを得られる媒体があってもいいとおいらは思うわけだ。で、それらのヒントを元に本を読み返してみたりすると、また新たな面白さを実感することができたりする。

大人問題ではないが、たとえば「課題図書」とやらの選定が、出版社と広告代理店が書籍の売り上げを上げるために始まったものだったりするわけで、そう考えると、読書感想文なんてものを半ば強制的に書かされる子どもというのは、まさに被害者なわけだ。このままではね。本を読むのは楽しい。そうかもしれない。でも、だからって、「この本を読め。そして感想文を原稿用紙 2枚で書け」なんてことをやってたら、本を読むのが嫌いな子どもが量産されても仕方が無いことだと思う。なにより、「実につまらない本で、読んでいて退屈だった」みたいな正直な感想を、書いてはいけなさそうな空気が作り出されているのがよくない!w

だから、確かに宿題を手抜きする目的で、なすのブログを発見して、書かれた内容をほぼ丸写しにしようと考える子どもはそれなりにいるんだろうが、そのうち、幾人かでも、書かれた内容に感心して、思い直して本を読み返すこともあるかもしれない、と考えれば、むしろなすが書いた文章が、読書を食わず嫌いする子どもに本を読む楽しさを学ぶ機会を与えている可能性もあるわけで、漏れらがそれ程ジジィのごとく悲観的になる必要も無いんではないかなぁとか思ったりするわけなのよ。

そもそも、過去の読書感想文コンクール入賞作品なんてのは昔から公開されて配布されていたわけで、他人の読書感想文の盗用みたいなことはやろうと思えばできていたわけだ。ネットと図書館の違いなんてせいぜいテキスト検索の利便性ぐらいだったりするわけで、状況は 20年前と大して変わってないと思うけどね。

# つか、読書感想文の書き方本ってたくさんあるのね。何が楽しくてもう一冊本読まなあかんねんとかガキに突っ込まれそうな気もするがw

RFID で児童の仲良し分布をチェック2006年08月17日 07時26分03秒

とりあえず、紹介されている CE の記事を読んで、ちょっとだけ安心した。今の世も、多くの子どもは至ってまともだ。

正直言って私の感覚では、この発想はクレイジーだと思う。しかし、根拠を持って批判する術はない。主観的な感想でしかない。人々はこれをどのように受け止めるのだろうか。

クレイジーです、間違いなく。

おいらは、すべての人間が友達を持っている必要は無いと思っています。っと、これはやや極端な言い方なのですが、もうちょっと砕くと、人付き合いの形というのは、人それぞれでいい、ということです。

人間、生きていると、人付き合いよりも重要なものを見つけてしまったりすることも多分にあるものです。例えば、本を読むことの楽しさを知ってしまった子が、授業が終わると誰よりも早く教室を飛び出し、家に帰るとすぐ、町の図書館へと足を運ぶようになったとします。RFID システムにより、この子だけが、他のどの子とも連続せずに、真っ先に帰宅していることが把握されます。教職員会議にかけられ、教頭辺りにこの子の交友関係改善を、担任の教師が命ぜられたりします。仕方がないので教師がこの子に掛け合い、説得したりします。さて、この子はどう思うでしょうか? あるいは、この出来事を周囲で見守るクラスメートは、どう思うでしょうか?

人様の交友関係についてとやかく言われることほど、不愉快なものはありません。今の学校教育がそれを実践しているのだとすれば、それは狂っているとしか言いようの無いものです。教師になど言われなくたって、子どもたちは勝手に独自の交友関係を築いています。逆に、交友関係を上手く築くことのできない子は、教師がそこに口を差し挟んだところで改善されるものでもありません。それどころか、「友達がいないのは異常である」というような認識を子どもに植え付けること自体が非常に危険なことです。友達がいない人間は、必ずしも犯罪予備軍なのでしょうか? 友達さえいれば、人間は犯罪を犯すことは無いのでしょうか? 友達がいなくても健やかに日々を過ごすことのできるタイプの人間は確実にいるのです。「友達がいないのは異常」という認識が広まれば、友達を作らないタイプの子どもはますます子ども社会から疎外されてゆくことでしょう。


Thu Aug 17 08:53:34 JST 2006 - 追記

ひとつ批判的な議論が可能なのは、校門を同時に出入りすると仲良しと見なされるようになっていることを、児童たちが知らされるかどうかという点だろう。

(中略)

この考え方の延長だと、校門の出入り記録を仲良しの判定に使うことは児童には知らせないのだろうか。

それを事前に児童たちに知らせた場合は、何が起きるだろうか。あるいは、知らせないで運用したときに、ある日、児童たちがそのことに気づき始めた場合、児童たちはどんなことを思うのだろうか。

知らせるだけじゃ駄目だよ。拒否権を与えて初めて「フェアである」と言える。知らせりゃいいってもんじゃない。「仲良しチェックしますから」っつって、嫌がる子どもがいたって、結局はチェックするんでしょ? それじゃあ意味は無いよ。

NUDA うまいじゃん。2006年08月17日 17時11分04秒

これの続き。散々叩かれまくっていた「NUDA」を見かけたので飲んでみましたよ。

いわゆる炭酸入り高硬度ミネラルウォーターを想像していたんだが、全然違った。多少はミネラルはいってるみたいだけど全然硬くない普通の水に、炭酸、そしてステビアのほのかな甘み。いや、めちゃめちゃ美味いんですけど。なにより甘味料にステビアをこの薄さで使用するというセンスがすばらしい。ステビアは甘味料だが、その実体はハーブだ。こいつは砂糖や、他の甘味料、キシリトール、アスパルテーム、スクラロースなどに感じられるべとつき感がまったく無く、非常にすっきりとした後味が特徴だ。ハーブティーに飲みなれている人なら、ガムシロップを入れなくてもほのかな甘みのあるカモミールのような、飲み口も後味も非常にすっきりとした清涼感のある飲み物に仕上がっている。

一般的な清涼飲料水は甘さが爽やかなわけだが、その甘さゆえに後味に変な酸味がどうしても残ってしまい、それが喉の渇きを助長する。実際糖分を取りすぎると水分が体内に蓄積されにくくなるとかですぐに喉が乾いてしまう。夏場はお茶に逃れる人が多いのはそれが原因なんではないかと思う。NUDA は夏場の飲み物としては非常によい選択肢だ。

NUDA は味が無いとか言って嫌がってる連中はもちっと味覚を鍛えた方が良いと思うぞ。健康のためにも。