Microsoft が「気にならない存在」になってしまっている件2007年04月10日 13時23分13秒

邦訳を読んだ後で /. での反応を見ると、いまどきここに集まってくるのは文盲か、あるいは昔を懐かしむことしかできないじじぃばかりなのか、と思えてしまう。そういう意味ではサプライズだった。マジびっくりした。

「死んだ」という表現が誤解を招いている、という意見が多いようだが、例えこれを「脅威ではなくなった」と読み替えたとしても、いまいち何のことを言っているのだかよくわからないという人は多いように思う。この辺のコメントがモデレーションで支持されているのを見るにつけ、つくづくそう思う。

その背景には、少なくともこの国では、今後、多くのアプリケーションが特定の OS のアーキテクチャ上で動作するスタンドアロンソフトウェアから Web サービスへ移行してゆくであろうという実感も危機感も非常に小さい、ということが挙げられるんじゃないかと思う。なんだかんだ言って、たいていの主要なアプリは Windows 上で動いているし、「それで十分だ」と思っている。MS-Office を捨てて OOoGoogle Docs を利用する「理由がない」し、Windows を捨てて Mac OS X や Linux を選択する理由もない。

しかし、Paul Graham はそもそもそんな趣旨のことは一言も言っていない。君たちは以下のセンテンスを理解することもできないのか?

マイクロソフトは80年代後半からおよそ20年にわたり、ソフトウェアの世界に影を落してきた。マイクロソフトの前には IBM がそうだったと言える。私はこの影をほとんど無視した。私はマイクロソフトのソフトウェアを決して使わなかったので、間接的にしか影響を受けなかった――例えば、ボットネットからスパムをもらうとか。つまり私はマイクロソフトに注意を払ってなかったので、その影が消え失せたのに気づかなかったのだ。

Microsoft のソフトウェアを使わずにいた Paul Graham にとって、そもそも Microsoft による脅威は間接的なものでしかなかったのだ。逆に言えば、Microsoft の脅威にさらされるべき人間とは、すなわち Microsoft のソフトウェアに依存する生活を送っている人間のことである

例えば、Windows ユーザーは、Windows に脆弱性があれば、その脆弱性をつく攻撃の脅威にさらされる。もちろんそれは、Windows じゃなくても同じことだが、一方で、そのユーザーにとって Windows 以外の選択肢がありえないのだとしたらどうか? 例えば Windows でしか稼動しないアプリケーションをどうしても使う必要があるならば、彼は Windows に脆弱性があることを知りながら、それでもなお、Windows を使い続けなければならない。

Windows はかつて、独占的な地位を保ち続けてきた。この状況は、少なくとも日本国内の事務処理シーンを見る限りにおいてはあんまり変わっていないようにも見える。しかし一方で、Windows 以外の、あるいは Office 以外の、IE 以外の選択肢が、さまざまに誕生した。Mac OS X が Microsoft を殺した要因のひとつとして数えられているのは、シェアの問題ではなく、Office が稼動し、他の多くの似たようなアプリケーションが稼動し、もちろん Web ブラウザも稼動し、UI もユーザーフレンドリーで、なおかつ UNIX ベースであることから開発者層も取り込んだ、といったことから、多くの人間にとって 「Windows 以外の選択肢」たりうる要件を備えているからなのではないのか?

つまり、実用面で言えば、PC の世界において Windows は多くの人々にとって「唯一の選択肢」であった状況が、崩れてきているということだ。

この状況は、アプリケーションの稼動領域が特定の OS のアーキテクチャから Web へと移行してゆく流れが追い討ちをかけている。Gmail は Outlook の領分を侵食し、Google Docs は将来的には Office の領分を侵食するかもしれない。もちろん、現在 Web でできていることが、デスクトップでできていることのすべてを侵食しているわけではないし、この点について実感がわきにくいのも無理はない。しかし、少なくともシリコンバレーに存在する多くの先鋭的な企業・技術者は、特定の OS アーキテクチャで稼動するアプリケーションを作ることへの関心を失っており、とっくの昔に Web へとその矛先を転換している。

そういう状況で、かつての Microsoft のような、独占的な地位による脅威を持ちうる企業があるとしたら、それは Google かもしれない、というのは納得できる。何故か。

API への依存だ。

もしも今後、多くの企業が Google の提供する多くのサービスや API へ依存してゆくことになれば、それらの仕様は Google の気分次第でどうとでもされてしまうことの危険性に晒されなければならないことになるだろう。

もっとも、個人的には、Google が脅威となる可能性については、あまり心配していなかったりする。インターネットがインターネット足りうる以上、インフラのすべてが Google のみに集約するということは考えにくいし、すでにインフラを持っている企業であれば、いくらでも Google が提供するサービスの代替を提供できるだろうし、Google とはまったく関係のないサービスも、いくらでも出てくるだろうと思う。かつて Windows という OS の上でシステムを組まなければならなかった時代に比べれば、Web への参入障壁は、決して高くはないのだから。

おいらは臆病者で、卑怯者です。2007年04月10日 16時40分51秒

もしも僕がこの地球上に存在する全ての汚点から目をそらし、それら全てを存在せぬものとして扱ったならば、世界もまた同じように僕の汚点から目をそらし、存在せぬものとして扱ってくれるだろう。

それが都合が良いものである事は確かだ。それが居心地の良い生き良い世界であるのは紛れも無い事実である。けれども、そのようなものを僕は決して受け入れはしないのである。

汚さを汚さとして、醜さを醜さとして扱い、全身全霊を注ぎ込み全てを尽くしてその汚さ醜さを語らねば、美しさがが美しさとして全身全霊を注ぎ込み死力を尽くして認められる日は来ないのである。

強いね。おいらには無理です。自らの汚点を許さないまま、それを明らかにしつつ他者と泥を投げあうような生き方は、おいらにはできません。

あなたは人間の汚点を、軽く見すぎてはいませんか? 自分一人が苦しめば、それで済むと思っていませんか?

おいらがおいらの汚点をさらけ出すということは、場合によっては、おいらにこれまで関わってきた、いくらかの大切な人の汚点を晒し、貶めることでもあります。そうでなければ、そうでないことがわかっているのであれば、おいらはいくらでもおいら自身の汚点をさらけ出しましょう。

でも、おいらがおいらの絶対に晒したくない汚点を暴かれ、糾弾されても、真意に向き合い、人として、一人の人間として、まともに対処することなんて、できっこないでしょうね。そういう汚点は、弁明しようにも、弁明のしようがないのです。言い訳にしかならないから。自分で到底許せないようなことを、他人に弁明できるわけがない。

そして、そもそも弁明する気にもならないでしょう。事実を間近で見ていた当事者であるわけでもない人間に。それはすなわち、他人でしかない、歩み寄ってくるわけでもない人間に、心を開けということです。もしも、おいらのコメント欄にコメントを寄せるコミュニティーが、おいらが彼らに完全に心を開くことを求めるならば、おいらはそんなコミュニティーは徹底的に無視し、あるいは逃げるでしょう。誠意なんて糞喰らえだ。何を言ったって到底納得するわけがないとわかってる連中に、何を弁明しろというのか。

オウム信者であったことが暴露されたときの松永氏の行動を見て、おいらは痛々しさを感じずにはいられなかった。彼がどんな出来事に触れて生きてきたかなんて、直近で見ていたわけでもないおいらには到底わからない。だから彼の苦悩なんて、想像することすらできない。でも、触れてほしくない過去であったということは、彼のその後の行動を見ていれば痛いほど感じることはできた。オウムという教団に深いところで関わってしまったことに対する自身への悔恨を、見て取れた。やめておけばいいのに彼は、周囲を納得させるために、自身の過去を整理しながら明かすということに時間を費やした。体を壊したことがこの件と無関係であったとも到底思えない。それでも一部の人たちは「俺が納得するまで説明しろ」と繰り返した。それこそ政治家やジャーナリストであるならば話は別だが、プライベートに踏み込むようなことについて、これ以上何をどう語れというのか?

結局、自らの汚点は、可能な限り「許す」しかないのだ。でも、あまりにも大きく、強く自身の心中に染み付き、深く根を下ろした汚物を、そうそう簡単に「許せる」人はいるだろうか? 許せないからこそ、人はそうした自身の過去から目を背けるのではないのか? 見せたい自分を見せようと、自身を着飾るのではないのか?

ましてや馴れ合いを求めるわけでもない人間が、他人の汚点にしか見えない事柄について、己の深層に深くしまいこんでおきたい事柄について、軽々しく触れるべきではない。触れる当人は触れるだけの強い覚悟を自身に課しているつもりかもしれないが、大抵の場合ははっきり言って軽いよ。そもそも他人を糾弾できてしまう時点でもうどうしようもなく軽い。その青臭さに反吐が出る。ズタズタに引っ掻き回してやりたくなる。


そもそもが論点ずれまくっちゃってるのよね。おいらが敢えて梅田望夫の代わりにこの記事に対して返事を言うならば、「うん、そうだよ。それが?」ってところかしら?

もとより梅田望夫は「(人や物事を) 褒める」という行為を、(自身の) 直感を研ぎ澄ますために利用しろと言っているのであって、眼目がコミュニケーションにあるわけじゃない。重点は褒めるべき箇所を見つけることであって、それを表明することはおまけに過ぎない。でも、そのおまけの部分をやらずに、逆のことをする人ばかりがあまりにも幅を利かせすぎているから、良きを見つけることの有効性に気づくことのできない人間ばかりになってしまう。梅田望夫が危惧していることがあるとすれば、そういうことなんじゃないのか?

自身の優越性を誇示したいがための好評の表明なんてのは、この人にしてみれば「褒める」ってことには含まれないんだよ。そんな下らん権力ごっこに時間をつぶすぐらいなら、今、自分がちっとも良いとは思えないものを、なぜ評価する人間がいるのかってことを研究するのに時間を割いたらどうだ? そうしたことを繰り返すことで、自分は何を好み、何に時間を費やすことが生きがいとなりうるのかについて真剣に考えたらどうだ? 彼が言わんとする「褒める」ってのは、まさにそういうことを言うんじゃないのか?