おいらは臆病者で、卑怯者です。2007年04月10日 16時40分51秒

もしも僕がこの地球上に存在する全ての汚点から目をそらし、それら全てを存在せぬものとして扱ったならば、世界もまた同じように僕の汚点から目をそらし、存在せぬものとして扱ってくれるだろう。

それが都合が良いものである事は確かだ。それが居心地の良い生き良い世界であるのは紛れも無い事実である。けれども、そのようなものを僕は決して受け入れはしないのである。

汚さを汚さとして、醜さを醜さとして扱い、全身全霊を注ぎ込み全てを尽くしてその汚さ醜さを語らねば、美しさがが美しさとして全身全霊を注ぎ込み死力を尽くして認められる日は来ないのである。

強いね。おいらには無理です。自らの汚点を許さないまま、それを明らかにしつつ他者と泥を投げあうような生き方は、おいらにはできません。

あなたは人間の汚点を、軽く見すぎてはいませんか? 自分一人が苦しめば、それで済むと思っていませんか?

おいらがおいらの汚点をさらけ出すということは、場合によっては、おいらにこれまで関わってきた、いくらかの大切な人の汚点を晒し、貶めることでもあります。そうでなければ、そうでないことがわかっているのであれば、おいらはいくらでもおいら自身の汚点をさらけ出しましょう。

でも、おいらがおいらの絶対に晒したくない汚点を暴かれ、糾弾されても、真意に向き合い、人として、一人の人間として、まともに対処することなんて、できっこないでしょうね。そういう汚点は、弁明しようにも、弁明のしようがないのです。言い訳にしかならないから。自分で到底許せないようなことを、他人に弁明できるわけがない。

そして、そもそも弁明する気にもならないでしょう。事実を間近で見ていた当事者であるわけでもない人間に。それはすなわち、他人でしかない、歩み寄ってくるわけでもない人間に、心を開けということです。もしも、おいらのコメント欄にコメントを寄せるコミュニティーが、おいらが彼らに完全に心を開くことを求めるならば、おいらはそんなコミュニティーは徹底的に無視し、あるいは逃げるでしょう。誠意なんて糞喰らえだ。何を言ったって到底納得するわけがないとわかってる連中に、何を弁明しろというのか。

オウム信者であったことが暴露されたときの松永氏の行動を見て、おいらは痛々しさを感じずにはいられなかった。彼がどんな出来事に触れて生きてきたかなんて、直近で見ていたわけでもないおいらには到底わからない。だから彼の苦悩なんて、想像することすらできない。でも、触れてほしくない過去であったということは、彼のその後の行動を見ていれば痛いほど感じることはできた。オウムという教団に深いところで関わってしまったことに対する自身への悔恨を、見て取れた。やめておけばいいのに彼は、周囲を納得させるために、自身の過去を整理しながら明かすということに時間を費やした。体を壊したことがこの件と無関係であったとも到底思えない。それでも一部の人たちは「俺が納得するまで説明しろ」と繰り返した。それこそ政治家やジャーナリストであるならば話は別だが、プライベートに踏み込むようなことについて、これ以上何をどう語れというのか?

結局、自らの汚点は、可能な限り「許す」しかないのだ。でも、あまりにも大きく、強く自身の心中に染み付き、深く根を下ろした汚物を、そうそう簡単に「許せる」人はいるだろうか? 許せないからこそ、人はそうした自身の過去から目を背けるのではないのか? 見せたい自分を見せようと、自身を着飾るのではないのか?

ましてや馴れ合いを求めるわけでもない人間が、他人の汚点にしか見えない事柄について、己の深層に深くしまいこんでおきたい事柄について、軽々しく触れるべきではない。触れる当人は触れるだけの強い覚悟を自身に課しているつもりかもしれないが、大抵の場合ははっきり言って軽いよ。そもそも他人を糾弾できてしまう時点でもうどうしようもなく軽い。その青臭さに反吐が出る。ズタズタに引っ掻き回してやりたくなる。


そもそもが論点ずれまくっちゃってるのよね。おいらが敢えて梅田望夫の代わりにこの記事に対して返事を言うならば、「うん、そうだよ。それが?」ってところかしら?

もとより梅田望夫は「(人や物事を) 褒める」という行為を、(自身の) 直感を研ぎ澄ますために利用しろと言っているのであって、眼目がコミュニケーションにあるわけじゃない。重点は褒めるべき箇所を見つけることであって、それを表明することはおまけに過ぎない。でも、そのおまけの部分をやらずに、逆のことをする人ばかりがあまりにも幅を利かせすぎているから、良きを見つけることの有効性に気づくことのできない人間ばかりになってしまう。梅田望夫が危惧していることがあるとすれば、そういうことなんじゃないのか?

自身の優越性を誇示したいがための好評の表明なんてのは、この人にしてみれば「褒める」ってことには含まれないんだよ。そんな下らん権力ごっこに時間をつぶすぐらいなら、今、自分がちっとも良いとは思えないものを、なぜ評価する人間がいるのかってことを研究するのに時間を割いたらどうだ? そうしたことを繰り返すことで、自分は何を好み、何に時間を費やすことが生きがいとなりうるのかについて真剣に考えたらどうだ? 彼が言わんとする「褒める」ってのは、まさにそういうことを言うんじゃないのか?

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