健康に悪い思考2006年01月26日 11時31分48秒

subject に意味なし。

風邪を引いたわけでもなく布団にうずくまっている漏れがいる。有給残日数はこれであと一日。わかってる。無理はしないよ。

G のブログの古い記事などを漁っていた。なんとなく。そしたらこんな記事を見つけた。なすとKが一生懸命コメントしているが、おいらのコメントはない。そういえばコメントしていなかった。当時はおいらも答えられるような回答を持っていなかったし、二人が大体のことは代弁してくれているとか思っていたのかな。正直よく覚えてないや。

こっそり今からコメントをくっつけようかと思ったんだけど、長くなりそうなので、トラックバックを飛ばすよ。いくつか書きたいことがあるので、かいつまんで取り上げていこうと思う。

ナンバーワンより、オンリーワン?

以前、/.-j あたりで書いた気がするし、それに対して誰だったかが的確なフォローをつなげてくれたりもしたんだけど (なんて書いたってそのコメントを見つけることなんざできねーだろw)、おいらは正直こいつは間違いだと思っている。もちろん、捉え方は人それぞれだし、「自分なりのオンリーワン」と割り切って考えられる人にとっては紛れもなく正解だ。でもこの言葉を、「自分ならではのオンリーワン」と捉えている人間は、その「オンリーワン」が、結局は「ナンバーワン」と同義であることを認識しているだろうか?

個性は、その人を幸せにするためにあるものではない。それどころか、何十億と人間が住み、生まれ、死んでゆくこの世界で、曖昧な「個性」などという概念で個人を識別することさえ、不可能だろう。所詮、馬は馬、ねずみはねずみ、桜の花は桜の花であるが如く、人もまた、人でしかないのだ。

「ナンバーワン」という考え方にも、「オンリーワン」という考え方にも、その根底に、「注目されたい」という願望が疼いている。たくさん努力して、たくさん我慢して、たくさん苦労して、その見返りを何らかの形で得たいという想いが透けて見えてしまう。

そういった願望を、それも人だといって受け入れられるのであれば、ナンバーワンでもオンリーワンでも好きなようにすればいい。若くて力のある人間が、人に認められたいと思いながら突っ走るのは悪いことではない。若いんだから。

そもそも、ナンバーワンという言葉は「何かにおいて」という言葉につながる概念だ。雑学ナンバーワンとか、100m走ナンバーワンとか、ひよこの性別調べさせたら右に出るものはいない、とか。そして、オンリーワンという言葉は、その「何か」を自力で創出することが前提となる。この概念、何かに似ていると思わないか?

ギネスブックだ。

今、ギネスブックへのランクインを目指す人間は、その多くが、ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指そうとしている。誰もギネスに載せようとしなかった「何か」を見つけ出し、それに逐一挑戦しては、でっちあがった記録をせっせとギネスに登録しているのだ。

彼らは楽しんでそんなことをやっているし、実際面白いと思う。いい意味で最高のバカだと思う。でも、じゃあおいらも同じことをやりたいと思うのかといえば、まったくもってそんなことはないのだ。そんな下らんことに時間を割くくらいなら他にもやりたいことはいくらでもある、と思ってしまうのだ。

そんなわけで、おいらは敢えて、「ナンバーワンよりオンリーワン」という考え方を否定する。もっともそれは、おいらが特別目立ちたいとも、見返りがほしいとも思わなくなってしまったからなのであって、そういうものが欲しい人が、方法論としてどちらか一方をより自分に向いていると考え、選ぶ分にはまったく問題ないと思う。 G が、努力に対する見返りが欲しくて、ナンバーワンになるよりも自分ならではの何かを創りだすことの方が自分には向いている、と思うのなら、「ナンバーワンよりオンリーワン」でもいいんじゃないかな。

でもね。

生きるのに疲れて病に付している一番の原因は、ナンバーワンでもオンリーワンでもなくて、努力や我慢や苦労の結果、見返りが得られると思う期待が、ことごとく裏切られてきたことにあるんじゃないかな?

いずれにせよ、G はまだまだ休息が足りないのだと思う。この病に打ち勝ちたいなら、この苦しみから脱したいなら、ナンバーワンを諦めてオンリーワンに、ではなくて、まずはそうした自分の中の「慢心」を、取り除くことから始めるべきだ。そうすれば、そんな自分の為に「我慢」する必要などないことに、いずれは気付くことができるのだから。

楽園とか天国とか

なんとなく、良さそうな場所。人は得てしてそういうものを求めたがるものなのだと思う。だから疲れるんだよって事に気付いてしまえばそれほど楽なことはないと思うんだけどね。

楽園を求める背景には、今、自分が生きている世の中に対する、とてつもなく大きな不満が隠れているのだと思う。これといって不満などない人にしてみれば、今の世の中こそ楽園なわけだからね。

例えば、競争が多いことに苦痛を感じ、競争から逃れられるという願望に楽園を求めるのならば、この地球上には競争という概念などない社会が実は結構たくさんある。

ならば、そういう社会へ行けば、その人にとってそこが楽園なのだろうか?

おいらはそうは思わない。競争に参加することが身に染み付いている人間は、たとえ競争がない国へ行っても、結局は自分で競争を創り出そうとするだろう。そして、その国で生きてゆく術を知らないその人は、「俺は彼らよりも物を知らなさ過ぎる」「俺は彼らのような優れた身体能力を持っていない」「俺には彼らの陽気なダンスに勝る芸がない」などといって塞ぎ込むのだ。

だから彼は結局そんな周囲の人間に負けじとたくさんの努力を繰り返す。彼がそうやって生きている限り、彼に安住の地などない。楽園なんぞには、巡り合えないのだ。

場所の問題ではない。環境の問題ですらない。もちろん、今の自分を作り上げてしまったものが環境であるならば、そういった環境から離れることによって、自分の考え方を改められる可能性は高くなると思う。そこまで分かっていて新たな環境としての「楽園」を求めるのであれば、そのほうがよっぽど建設的だと思う。

結局は、現世が楽園になるか否かは、その人の生き方、考え方次第なのだ。

魂について

科学は魂を否定してはいない。ただ、証明できないだけだ。

おいらは魂とは思考そのものだと思っている。思考というと理性的なものをどうしても想像してしまいがちだが、本能的、生理的なものも含めてだ。それらは虫けらにだって植物にだって備わっているものだ。向日葵が日の当たる方向に花を向けようとするのも、魂の成せる業だ。

思考のメカニズムはまだまだ明らかにされていない。その中枢が脳にあることは分かっているのに、ほんのちょっとした時間だけでも血流が止められてしまうだけで、再び同じように血を流しても、思考は戻ってこない。

ただ、魂という言葉が論じられると、どうしても宗教的な概念が間に挟まってきてしまって、まるでそれだけでエネルギーを持つものであるように捉えられてしまいがちだ。だから、死んで肉体から解き放たれれば楽になれる、みたいな話になっていってしまう。

確かに、人は目がなくても物を見れるし、耳がなくても音を聞くことができる。夢の中ではね。だから、死後に待っているのは夢の中と同じような体験なのではないかと考えているのであれば、まぁそう考えたいのも分かるような気がする。

しかし死によって待っている眠りは普段体験しているよりもよっぽど深い眠りだ。夢を見ることのできないノンレム睡眠よりもずっと深い。なんたって心臓すら動いていないのだ。そこには体験など何もない。苦ではないかもしれないが楽でもない。それどころか思い起こせるべき記憶すら、肉体としての脳の中に置いてきてしまうのだ。そこには君を見てくれる人も、愛すべき人もいない。何にもない。何にもだ。

何もないことを受け入れられるのだとすれば、それはよっぽど老獪な思考の持ち主なのだと思う。彼はおそらくどのような繋がりさえも、もはや求めてはいないのだろうと思う。

おいらもいずれそうなるのだろう。そして、死だけは誰にも平等に訪れる。でも、少なくとも今はそうではない。

君は繋がりを求めている。こんな自分を見られたくないと思いながら、それでも誰かに見ていて欲しいと、声をかけて欲しいと思っている。だから君は、本質的には生きたいのだと思う。

魂の前提には紛れもなく「生」があるのだ。死してなお宿る魂などなし。


以下は私信。

仕事に復帰するのであれば、父親に言って、禁酒を手伝ってもらったほうがいいと思う。父親が飲んでいるのに自分だけ飲まないのはつらいだろう。かといって、会社に酒を持ち込むわけにも行かないだろうし。

正直に言わせてもらえば、可能ならば休職期間を延ばしてもらうべきだと思う。もともと辞めるつもりでいて、それでも引き止められたのだから、休職延長を求めること自体はそんなに難しくはないんじゃないかな。

以上。なんだか眠くなってきたので、おいらはもう一眠りします。おやすみ。。。