RFID で児童の仲良し分布をチェック2006年08月17日 07時26分03秒

とりあえず、紹介されている CE の記事を読んで、ちょっとだけ安心した。今の世も、多くの子どもは至ってまともだ。

正直言って私の感覚では、この発想はクレイジーだと思う。しかし、根拠を持って批判する術はない。主観的な感想でしかない。人々はこれをどのように受け止めるのだろうか。

クレイジーです、間違いなく。

おいらは、すべての人間が友達を持っている必要は無いと思っています。っと、これはやや極端な言い方なのですが、もうちょっと砕くと、人付き合いの形というのは、人それぞれでいい、ということです。

人間、生きていると、人付き合いよりも重要なものを見つけてしまったりすることも多分にあるものです。例えば、本を読むことの楽しさを知ってしまった子が、授業が終わると誰よりも早く教室を飛び出し、家に帰るとすぐ、町の図書館へと足を運ぶようになったとします。RFID システムにより、この子だけが、他のどの子とも連続せずに、真っ先に帰宅していることが把握されます。教職員会議にかけられ、教頭辺りにこの子の交友関係改善を、担任の教師が命ぜられたりします。仕方がないので教師がこの子に掛け合い、説得したりします。さて、この子はどう思うでしょうか? あるいは、この出来事を周囲で見守るクラスメートは、どう思うでしょうか?

人様の交友関係についてとやかく言われることほど、不愉快なものはありません。今の学校教育がそれを実践しているのだとすれば、それは狂っているとしか言いようの無いものです。教師になど言われなくたって、子どもたちは勝手に独自の交友関係を築いています。逆に、交友関係を上手く築くことのできない子は、教師がそこに口を差し挟んだところで改善されるものでもありません。それどころか、「友達がいないのは異常である」というような認識を子どもに植え付けること自体が非常に危険なことです。友達がいない人間は、必ずしも犯罪予備軍なのでしょうか? 友達さえいれば、人間は犯罪を犯すことは無いのでしょうか? 友達がいなくても健やかに日々を過ごすことのできるタイプの人間は確実にいるのです。「友達がいないのは異常」という認識が広まれば、友達を作らないタイプの子どもはますます子ども社会から疎外されてゆくことでしょう。


Thu Aug 17 08:53:34 JST 2006 - 追記

ひとつ批判的な議論が可能なのは、校門を同時に出入りすると仲良しと見なされるようになっていることを、児童たちが知らされるかどうかという点だろう。

(中略)

この考え方の延長だと、校門の出入り記録を仲良しの判定に使うことは児童には知らせないのだろうか。

それを事前に児童たちに知らせた場合は、何が起きるだろうか。あるいは、知らせないで運用したときに、ある日、児童たちがそのことに気づき始めた場合、児童たちはどんなことを思うのだろうか。

知らせるだけじゃ駄目だよ。拒否権を与えて初めて「フェアである」と言える。知らせりゃいいってもんじゃない。「仲良しチェックしますから」っつって、嫌がる子どもがいたって、結局はチェックするんでしょ? それじゃあ意味は無いよ。

NUDA うまいじゃん。2006年08月17日 17時11分04秒

これの続き。散々叩かれまくっていた「NUDA」を見かけたので飲んでみましたよ。

いわゆる炭酸入り高硬度ミネラルウォーターを想像していたんだが、全然違った。多少はミネラルはいってるみたいだけど全然硬くない普通の水に、炭酸、そしてステビアのほのかな甘み。いや、めちゃめちゃ美味いんですけど。なにより甘味料にステビアをこの薄さで使用するというセンスがすばらしい。ステビアは甘味料だが、その実体はハーブだ。こいつは砂糖や、他の甘味料、キシリトール、アスパルテーム、スクラロースなどに感じられるべとつき感がまったく無く、非常にすっきりとした後味が特徴だ。ハーブティーに飲みなれている人なら、ガムシロップを入れなくてもほのかな甘みのあるカモミールのような、飲み口も後味も非常にすっきりとした清涼感のある飲み物に仕上がっている。

一般的な清涼飲料水は甘さが爽やかなわけだが、その甘さゆえに後味に変な酸味がどうしても残ってしまい、それが喉の渇きを助長する。実際糖分を取りすぎると水分が体内に蓄積されにくくなるとかですぐに喉が乾いてしまう。夏場はお茶に逃れる人が多いのはそれが原因なんではないかと思う。NUDA は夏場の飲み物としては非常によい選択肢だ。

NUDA は味が無いとか言って嫌がってる連中はもちっと味覚を鍛えた方が良いと思うぞ。健康のためにも。

「友達がいない」で検索された件2006年08月20日 22時29分01秒

FC2 のアクセス解析サービスを利用させてもらっているのですが、サーチワードをチェックしていたら「友達がいない」というフレーズで検索してきた来訪者がいらっさることを知り、ちょっと「どきり」としてしまいますた。

もちろん引っかかったのはこの記事で、“「友達がいないのは異常である」というような認識を子どもに植え付けること自体が非常に危険”なんてことを折に触れて書いています。2006/8/20 執筆現在このフレーズによる先の記事の (Google における) 検索順位は 71 位なのですが、こんな奥底まで掘り起こして来訪されるということは、よっぽどこのことについて悩んでいらっさるのか、もしくはこの問題について悩んでいる人や考えている人の言動が面白くて仕方が無いのかのどちらかなのでしょう (後者だったらひでぇ)。

おいらとしては、この手の問題はさして深く考えるようなものではないと思っているほうだったりするので、あんまりつべこべ書くのは一応避けておこうかと思うのですが、その代わり、このフレーズによる検索結果で現在上位に表示されるサイトを 1 位から順にいくつか取り上げ、突っ込みだけ入れてみようかと思いまする。

友達がいないという状態に特別なイデオロギーを感じちゃっている人々が仮面をかぶり、お互いの顔を見せ合わない状態で同盟を組みましょう、って感じなのかしら? なんだか顔色を窺いあいながらの付き合いは嫌だけどけんかとかしていがみ合うのも嫌なんですみたいな一件殺伐風味のぬる~い空気を感じるワケですが、それやりたいんだったら 2ちゃんねるとかで十分じゃんとか思っちゃうのはおいらだけ? 招待状要らないし (とか言ってさりげに mixi を牽制してみるテストw)。

ワロタ

あーあかんなぁ、こりゃ。非常に有害。頼むからこういう有害情報をネット上で垂れ流さないでくれよ。

“所謂「良い子」”という括りを好んで使用する人というのは教育系リベラルな方に少なくないような気がするのですが、はっきり言って危険です。別に人の顔色を窺うわけでもなく純粋にごくごく自然に「良い子」しちゃっている子も決していないわけではないのに、そういう子どもに対しても (あるいはそういう子どもを育む環境を提供した家庭などに対しても) 偏見の眼差しを与えかねない勢いです。「良い子」と「本当に明るい子」は同一直線上の概念なのですか? おいらは直行すらしないまったく別の概念であると認識しています。それに、権威に取り入るタイプの人間と、仲間に取り入るタイプの人間との間に、本質的にどれほどの差異があるのでしょう? おいらには、どちらが付き合う上で重要であるかという「考え方の違い」程度にしか見えません。重要なのはそんなことではなく、「自分の意思で考えて行動/表現することができる」か否かという、「個の発現」であると思いますよ。

6位のサイトの移転前跡地。

書かれていることは大体正しいとは思うのですが、なんだかあんまり好きになれない文章です。なんというか、所詮は「友達を作ることができる人の見解」に過ぎないように見えてしまう、というか。例えるなら、「シューティングゲームができる人の理論」みたいな (「そこで弾をよければいいんだよ」っていう概念)。

「努力」という言葉を使い過ぎている印象もあります。実際には努力をした経験・記憶の薄い人ほど「努力」という言葉を簡単に使いがちなように思います (なんでもない日常を「努力」であるとして自己を過剰に評価する人のなんと多いことか…ってこれはさすがに言い過ぎかな)。もっとも、おいらの場合「がんばる」とか「努力」とかいった概念に対して嫌悪感を抱いているところが少なからずあるので、その辺で読解にフィルターがかかっている可能性も低くは無いのですが。

1位のサイトと似たようなものっぽいですが、1位のサイトほどイデオロギーを感じないという面においてまだこちらの方が好感が持てる気がします。ゆるーいながらも付き合いが生まれてそこから友情が育まれてもいいんじゃね的な生暖かさが許されている感じがします。まぁ、特別感心もお勧めもしないし興味も抱かないですけどね。

「重要なことではない」などと嘯きながら、こういう実例を目の当たりにしてしまうと、なんとなくいたたまれない気持ちになってしまう自分に腹が立ちます。真剣に相談に応じているコメンテーターの方々には敬服するばかりです。子どもにとってこの手の悩みは実に深刻なものです。だからこそ、各自がおのおのの経験の中で感じた正直な気持ちを明かしてあげることは、とても大切なことであるし、同時に勇気の要ることでもあると思います。

個人的には、No.4 と No.7 と No.10 のコメントに共感を覚えます。もっとも、No.7 のコメントについては「一生懸命」ではなく「一懸命」と書いて欲しかった、というのはありますが。No.9 のコメントについては、書いている方の「真剣さ」には感服しますが、書いている内容については、「友達を作る方法」論になってしまっているという点において賛成できません。軍隊が兵隊を養成するとか、会社が人材を育成するとかというのと並行するような感覚で「友達を作る」という概念を捉えるべきではないのです。意図して作るものではなく、自然発生的に出来てゆくものでなければ意味は無いのです。だからこそ、No.4 のコメントのような体験談は必要だし、No.7 や No.10 のような、発想の転換、本質的な重要性への誘導、といったこともまた、必要なことだと思うのです。

てゆーかタイトル長ぇよ>はてな

7位のサイトと似たような展開です。全体長くてさすがに読むのがだるくなってきたのでさらっとしか読み流して無いのですが、、、先ほど「方法論」を否定するようなことを書きましたが、反面、方法論というものが許されるとするならば、9 番のコメントはなかなか興味深いものがあるなとか思ったりしました。自己を知るってのは結構難しいものですが、丁寧に分析すれば意外と見えてくる部分も多かったりします。友達のいる・いないに関わらず、この作業はそれなりに重要なものではあります。

乳児を持つ 33 歳の若奥様のお悩みです。なかなか良いやり取りです。このやり取りの中で、本質的に重要なのは何なのかがぼんやりとでも見える方は、将来的にそれ程心配は無いんじゃないかと思います。

読んでいてはぐらかされたような気分になる、イマイチまとまりの無い文章です。ところどころ共鳴できる部分もあるにはあるのですが。。。

真面目な教師が問題を抱え込む時代2006年08月21日 11時58分32秒

先日、こちらの記事にて、RFID を用いたセキュリティーシステムが子どもの仲良し分布を調査する目的で利用される可能性が示唆されている件を取り上げた際、コメント欄におけるやり取りにて、担当教師のブログ記事から読み取ったこととして、「どうやらいじめ問題などは教師ががんばって防がなきゃあかんもんだと考えているよう」だと書きました。そして、おいらの意見として、子どもの交友関係や生活実態を把握することは教師の仕事では無いとした上で、児童・生徒間で起こった交友関係上のトラブルについてまで、教師や学校が必ずしも責任を負うべきではない、ということを書きました。

タイミングよくして、こうしたことについて関係の深いニュースを見つけましたので、以下に紹介します。

おいらが中高生だった 90 年代初頭、いや、もうちょっと前からだったかもしれませんが、「サラリーマン教師」という言葉が取り沙汰され、廃止されてゆくクラブ活動の実態や、週休二日制の発足などに対して批判的な声が少なくない時代がありました。当時のメディア、そしてそのメディアを見てきた保護者の皆さんは、口をそろえて「今の学校・教師には常識が無い」と叫んでいた、そんな記憶があります。

上記の記事については、今朝、テレ朝の「スパモニ」にて、上記記事と同様のニュースを取り上げていたのを見て知ったのですが、この中で取り上げられている「保護者の声」とやらの例を見るにつけ、そもそも「常識」ってのは誰のためにあるんだろうなぁ、などと思ってしまうわけであります。

「常識」という言葉が通用するのは、そこに「密接した社会」が存在することを前提とするものである、とおいらは思います。実際には、「常識」などというのは個人が各々において、ごく個性的に持っているものであり、万人どころか、ほんの少し社会の枠組みを広げただけでも簡単に食い違ったりするものです。家庭での常識は地域の常識にあらず、地域の常識もまた、国の常識、世界の常識ではない、といった按配です。そして、例えば「地域の常識」というものが存在するのだとすれば、それは、その地域社会にコミットしているいくつもの家族が寄り合い、折り合いを合わせて醸成するものであり、その範囲は家庭内で醸成されるものよりも、ずっと狭い、ごくごく限定されたものであるべきです。

生っぽくて俗っぽい言い方をするならば、家庭には家庭の事情があり、地域にもまた地域の事情というものがあったりするわけです。時にこれらに対してマスメディアが干渉し、場合によっては社会現象やスクープとして取り上げられてしまう場合さえあったりします。毒カレー事件を通して取り沙汰された新興住宅地にありがちな対人関係だの、酒鬼薔薇事件を通して取り沙汰された少年犯罪心理だの、ルーズソックスの流行で取り沙汰された都内ガングロ女子高生の夜遊び事情だの、「当事者」の枠組みに押し込められた人々にしてみれば「ほっとけ」と言いたくなるようなことが、メディアによって、さも問題であるかのように取り扱われたりしてきたわけです。

そうした背景を踏まえたうえで、上記の記事を読み返してみると、イマドキの保護者というのは各自において独自の「常識」とやらを、なんだかやたらと社会に対して押し付けようとする世の中になってしまったんだなぁなどと思ってしまうわけです。この点については、おいらも最近結構身近に感じる出来事があったりして、実感として感じている部分も少なからずあったりするわけですが、それでもそういうケースというのはある程度「特別なもの」であるという、性善説に基づきそうな、甘い、願望にも似た気持ちも同時に持ち合わせていたわけです。今後は対人関係において、よりいっそう慎重さを持ち合わせて行動せなあかんなぁなどと、身の引き締まる思いで一杯です (ゴメンさすがにこの辺は棒読みw)。

話を本題へと移しましょう。こうした現状に対して、教師、そして学校はどう、臨むべきなのでしょうか。ここで、先に取り上げた産経新聞の記事の締めくくり部分、「学校保護者関係研究会」メンバーの嶋崎政男・東京都福生市教委参事の提案と、同研究会を発足した小野田正利教授の言葉を、以下に引用しましょう。

このような保護者への対応として、嶋崎参事は(1)複数の教師で対応に当たる(2)専門家のアドバイスを受ける(3)マニュアルを作る(4)事前研修の実施-などを提案する。

その一方で「学校に無理な要求をする保護者は皆何らかの問題を抱えている。その解決のために学校と話したいという意思表示と考えるべきだ」とし、要求を機に保護者を“味方”に変える努力を呼びかける。

小野田教授は「たてつかない弱者をいじめる“言った者勝ち”の傾向が社会に蔓延(まんえん)している」と指摘。社会問題としてとらえ、第三者機関の設置や学校の“守備範囲”の限定を訴えている。

島崎参事の 4つの提案事項については、おいらとしてはちょっと「場当たり的だな」という印象を受けます。しかしその一方で、小野田教授の訴えかける、「第三者機関の設置や学校の“守備範囲”の限定」というのは、非常に重要な課題であると思うのです。

ここでまた、RFID 友達分布調査の話題で渦中にある石井教諭のブログ記事に視点を移すのですが、石井教諭のように、子どもや、子どもを取り巻く環境が織り成す社会問題全体を、自分が教師として、あるいは学校全体として、一定の責任を持って臨まなければならない問題であると認識している教師は、決して少なくは無いと思うのです。そして、そういった教師の方々の苦悩が、結果として、うつ病を患って休職する教師の続出、という現実を招いているのではないかと思うのです。

これは、由々しき事態です。ここまで読んで、多くの方々は、非常識で過保護な保護者たちに怒りの矛先を (一時的に) 向けていらっさるかもしれませんが、その一方で、度重なる教育関係の話題を小耳に挟むたびに、教育者には子どもが見習うべき立場として、もっとしっかりして欲しいという思いを、これまで無責任にも抱いてきた方々というのは決して少なくは無いはずなのです (ここで一息落ち着いて冷静に自己を見直して欲しい)。あまりにも多くのことが学校教育に対して期待され続けた結果、あまりにも多くの問題を、責任問題として、学校、そして教師が抱え込まなければならない現状が醸成されてしまったのだとしたら、それはあまりにも悲しく、寂しい出来事です。学校という場にはより明確な存在意義があって然るべきであり、教師もまた、一人の人間として、その人権が認められて然るべきなのです。保護者が学校を通じて子ども社会に問題を見出したならば、学校や教師にその解決を押し付ける形ではなく、また、国や自治体の方針に乗っかる形で学校が (半ば盲目的に) プロジェクトを推し進めるのでもなく、自分たちの地域における現状を見つめなおした上で、学校側と保護者全体と、そして当事者であるはずの子どもたち自身と (ここが本当は最も重要) がお互いに協力し合って、解決のための方策をつど模索してゆくべきなのです。

そんなわけで、学校側と保護者側との対話というのは重要だという話になるのですが、おいらとしてはそれ以上に、教師の方々の意識のあり方として、様々な問題に対して硬直してしまい、問題意識を抱え込み過ぎるようなことがないようにするのもまた、大切であると思います。これについては、単純に教師の気の持ちようという部分もあるにはありますが、メディアによる報道や、国や自治体などのお上からの要請、そして一部の声のでかい保護者からの強い要望などが、教師が問題意識を抱え込みがちな状況を助長しているという側面もあるのではないかと思われます。そうしたことに対抗できるだけの、教師の職場環境の改善、学校組織の体制のあり方などが問われるときなのではないでしょうか。その、一つの解決案として、小野田教授の訴えかける「第三者機関の設置や学校の“守備範囲”の限定」ということが、今後は重要になってゆくのではないかと、おいらは思うわけであります。

道のり計測 (まだまだ作りかけ)2006年08月23日 02時19分21秒

これの続き。更新しますた

前回からの変更点は以下の通り。

  • 複数の繋がった線分 (ポリライン) を設定し、「道のり」を計測できるようにした。
  • 描画したポリラインは地図の操作に連動して動くようになった。というか、地図にそのまま張り付くようになった。

技術的なことをいうと、前回は完全に自力で描画していた線分を Google Maps API に任せる (GPolyline とかを使用する) ようにした為、結果としてほぼ全部書き直すこととなりますた (((((/;^O^)/

ちなみに (これは本当に個人的なメモなのですが)、GPolyline を用いてポリラインを描画する場合、IE では XHTML の VML 宣言が必要になるんだそうです。HTML 4.01 じゃ駄目なのね。。。むぅ。

もう夜遅いしめんどいから Amazon 広告省略っ

もう眠いからポインタだけ2006年08月27日 23時26分05秒

そして一方で、マスコミ・報道機関側に対しては「情けない」という言葉しか思いつかない。

普段、「公権力を監視し、国民の知る権利に答える」という大儀名分のもとで様々な報道を行っているのに、首相官邸側から「マスコミ報道だけでは首相の発言がつまみ食いされるケースが多く、首相の率直な気持ちが国民に伝わらない」と、事実報道のスキルに対して半ば失格の烙印を押されたのだ。

本来ならば、マスコミ側が公権力側の発言より事実関係を掴み取り、裏取りを行ったうえで、公権力側より公表された内容に対して、別の側面を伝える。これが本来あるべき姿だ。なのに、公権力側から報道内容に対して逆に公開という形で公表される、これをマスコミ側は屈辱的に思うべきだ。

御意。

TRITON の Factory Preload Data Disk がぶっ壊れた2006年08月28日 22時15分15秒

デモディスクなんていらんやんとか言われるとちと辛いわけだが \(^O^)/ 。

KORG の英語サイトのこのへんから探したら見つかりますた。ありがたい。。。

最近の /.-j2006年08月29日 00時48分08秒

/.-j をジャーナリズムだとはこれっぽっちも思っちゃいないし期待しているわけでも無いのですが、こういう記事を見てしまうと、さすがにタレこみに対するモデレーションぐらいはできるようになって欲しいよなぁとか思わざるを得なかったりするわけですが。

判決文のホンの一部分の揚げ足を取って紛糾を煽る表出に対し、まぁコメント寄せる皆さんの実に冷静なことw

もっとひどいのになるとそれなりに著名人とはいえ一小市民に過ぎない人間のブログにおける独り言をあげつらって紛糾を煽るしょーもないタレこみとかあったりして、そもそもこのネタのどの変がアレゲなのかもよーワカランって感じなのですが (「ハッカーの標準的スタイルである…」っていくらなんでも無理なくね?)、こっちはコメント寄せてる連中も平均して結構ノリノリだったりしてよけーに痛々しい。。。おまいらいつから 2ちゃんねるのヲチ板みたいになってんだよ。

なーんてブログで書いたりすると誰かがみつけて「こんなこと書いてやがりますぜ」なんつってタレこんだりするのかしら? はは、まさかな。。。