視聴者側のメディアリテラシーの「底上げ」は必要だと思うよ。2007年01月31日 09時35分08秒

先日の「あるある」も今回のNHKの事件もそうだが、視聴者や取材相手にリテラシーがなく、テレビを信用しすぎていることが間違いのもとだ。誤解を恐れずにいえば、あるあるの実験なんて毎回ブログなどで笑いものになっていたネタである。健康にきくすごい食品が、毎週みつかって500回以上も続くわけがない。作る側も、被験者を「出演者」だと思って演技をつけていたのではないか(それがいいと言っているわけではありませんよ、念のため)。

テレビは(報道も含めて)本質的には娯楽であり、そこに出す情報を選ぶ基準は、おもしろいかどうかだ。NHKでも、番組の最大のほめ言葉は「おもしろかったね」であって、「勉強になったよ」というのは半分皮肉である。NHKを叩いた朝日新聞だって、「政治家が介入した」というストーリーにしたほうがおもしろいから、そういう話を捏造したのだろう。

なぜTVの品質が他のメディアより厳しく問われるべきかといえば、それが最も理解しやすく、最も視聴され、それゆえ最も期待されているメディアだから。相対的に地位が下がっているというのは、品質低下の言い訳にならない。日本人がコメをあまり食べなくなったからといって、コメに麻薬や覚醒剤を入れていいということにはならない。メディアの側(池田氏がそうだというつもりはない)が視聴者のリテラシーにケチをつけるのは、牛乳を飲んでいたと思ったらそれが牛乳味のウンコで(食事中の方失礼!)、それを咎めたら「お前の舌がバカだ」というのに等しい無礼ではないか。

私個人は、TVを巡る諸法規は食品衛生法と同程度に厳しくてしかるべきだと考えている。「文句があるなら消せばいい」というのは「文句があるなら食わなきゃいい」というのと同義だ。無料だというのはいいわけにならない。なるなら公園の水道水を子供が飲んで腹を壊したとしても、管理する自治体は免責されなければならない。

世論を作り出す機能は、政府だけでなく、大衆商品を販売する企業にも、有利な世論、商品の購買やブランドイメージを高める装置として活用された。必要とされるのは、リテラシーの高度化ではなく、影響される(操作可能な)大衆だ。もちろん、政府としては、あまりに流れすぎても困るから、何が「正しい」とか、何が「道徳的」であるとかにも、こだわりを残す。つまり、リテラシーがあまりにも無い状態も困る。中間に、リテラシーのちょうど良い加減があるのだ。あまりにもリテラシーが高すぎたら、「占い」コーナーは絶滅するし、根拠のない「不安」が減れば、不安をネタにする商売の大半が立ち行かなくなる。そんな事では、景気を悪くしかねない。

先日紹介した番組を見ていても思ったのですが、現実問題として TV 視聴者であるところの大衆のメディアリテラシーが平均的に決して高くはなくて、その現実に報道関係者が寄りかかっちゃっている部分はあるんじゃないかな、とは思うわけですよ。だからこの問題は、報道関係者の襟を正すだけで解決できることではなくて、視聴者すなわち大衆のメディアリテラシーが底上げされ、大衆から声が上がるような状況も醸成されないといけないんだろうな、とは思う。

重要なのはそのための仕組みで、結局のところ教育の問題になってくるわけだけれども、一方でその教育を学校すなわち教育行政に任せてしまっていたのでは、それが国、すなわち中央から下りてくるものとして機能している限りは期待できないでしょう。その辺の思惑については worldNote の中の人が指摘してくださっているし、なにより記者クラブという仕組みがそのことをまさに象徴しているわけで。

教育行政の地方自治の重要性については週間ミヤダイの「2006年12月08日更新分」でも語られているけれども、国による思惑からの独立、という意味でも重要になってくるんじゃないかと思う。

dankogai さんは iliterate な人でも理解できるメディアとして、TV は視聴者のリテラシーを高める役割も担わなきゃあかんと主張されている。おいらはそういう TV 報道が「あってもいいな」とは思うし、そういう番組があったら是非見てみたいとも思う。ただ、その義務を負う責としては、むしろ義務教育の方にあるんじゃないかと思う。憲法は親が子どもを文盲に育ててはいけないことを義務として定めている。でも、ここで言うところの literacy ってのは、文字が読めて文章が読めて、っていうこと以上のこと、どちらかというと「文脈を読んで理解できる能力」のことを指すんじゃないかと思う。これは確かに高度な技能で、そうそう簡単に誰にでも備わる能力じゃないし、歳をとったりコミュニケーションをある程度疎かにしてみたりするだけで割と簡単に衰えたりもする能力だ。だからこそ、それが弱いことが悪いと一方的に視聴者に責任を負わせるような姿勢はアンフェアだとは思うけれども、だからといってじゃあその能力の醸成を TV が担わなきゃあかんのかというとそれもまた筋違いだと思う。

少なくとも、構図として、いくつかの TV 番組、いや、あるいはほぼ全てと言えてしまうかも知れないけれども、つまりは TV が視聴者を騙す、という構図になっている。その構図が存在する元で、TV に視聴者のメディアリテラシーの底上げを行うような番組が作られたとして、いったいどれだけの人がその番組の内容を視聴し、信用するだろう? 結局、メディアリテラシーが低い多くの人々は、興味がないから視聴しないか、その番組を信用しつつ視聴するかのどちらかだろう。じゃあ、その番組内で語られる「メディアリテラシー」とやらが、実際のところ本当に正当なものであることが果たしてどれほど期待できるのか?

どっちにせよ、TV にせよ何にせよその手の報道メディア以外の第3勢力が、高いリテラシーに基づいて報道を監視するような構図が必要になるんじゃないかとおいらは思う。今のところそういう意味でもっとも有望視できるのは実はインターネット、Web 上でのやり取りなわけだけれど、これこそまさに純然たる「大衆による自衛」の構図だ。本来その担い手は「教育」にあるべきなのではないのか? そして大衆による自衛は、あくまで教育を補完する為のものとして機能すべきものなのではないのか?

おいらが視聴者側におけるメディアリテラシーの底上げ必要だと思うのは、まさにこうした「大衆による自衛」がより有効に機能するためである。一方で、それだけでは到底覆しえない利権構造的な問題も多々ある。記者クラブにおける「16社以外締め出し」の件然り、電波法による規制然り、トヨタや松下みたいなスポンサージャックの問題然り。もちろん報道する側のメディアリテラシーの底上げも重要でしょう。下請け構造の問題然り、報道番組的な内容をバラエティ番組として扱うことの問題然り、CM 出演するみのもんたの件然り。

どちらか一方だけを引き締めればいいという問題じゃあない。大衆いじめ的な視聴者への責任押し付け論がまかり通っていいとは思えないけれども、だからといって自衛を放棄する愚者の大衆に同情の余地があるとも到底思えないです。

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