12月はブログ月間にしてみようと思う。 ― 2006年12月01日 00時53分42秒
具体的には、以下のことをやろうと思う。
- 毎日、最低 2 つ以上の記事を up する。
- 毎日、最低 1 つ以上の track back を送る。
- 毎週木曜日は Perl の日とし、Perl でなにかしょーもないプログラムを書いて up する。
ちなみに、Perl のプログラムは CGI 以外とします。なんだか最近はそっち方面では廃れてきているはずの癖して未だに「Perl ∈ Web アプリ向け言語」として PHP とかと同列に語られちゃうことにいい加減嫌気が差してきたので。
ブログに改造されるヲレ物語 ― 2006年12月01日 12時56分45秒
- ブログで育てる自分戦略 (@IT)
なるほど。ちょっと、自分に照らし合わせて考えてみるかな。
そのほか、ストレス解消効果もあります。やりたくないことが目の前にあるときほど、ほかのことをしたくなるもの。短い時間を自分のために使い、それが蓄積されていくのを見るのは励みになります。
ま、それが理由で会社を首になった話とかもないわけじゃないわけだが。。。(-_-)
。。。いや、おいらの話じゃないよ \(^O^)/ 。
- 「専門家」として主張する。
- 「解説者」として解説する。
- 「研究者」として考察する。
- 「傍観者」として話す。
うちの場合はどうだろ。。。基本的に無責任だからなぁ~。 (専門 : 解説 : 研究 : 傍観) = (1 : 1 : 3 : 500) ぐらいかなぁw
テーマとポジションが見えてきたところで、タイトルを考えてみます。実際にはブログのタイトルは、必ずしもテーマを表す必要はありません。
ただ、前回の記事「これからのITエンジニア像を考える」で書いたように、自分のテーマを短い言葉で考えてみるのは職業観を養うよいトレーニングになります。ですので、現在ブログを持っている方も、タイトルを変えると仮定して考えてみてください。
「『Java屋(志望)のつぶやき』は? 狭いかな?」
「『OO開発方法論の先端を追いかけるブログ』は? 先端である必要はないか……」
「『オブジェクト指向で生産性100倍研究所』は? 技術志向(OO)と実践志向(生産性)が両方あるのがいいな。威勢もいい感じだし……」などなど。自分の城ですので、夢のある名前にされるとよいと思います。
えー。当サイトの名前の由来はこちらでちろっと触れているのですが。。。
もともと、自分のサイトを設置した目的は、ここを作品発表の場として利用することにありました。作品を作らず、何の活動もしないでは、私にとってのはらぺこの存在意義がなくなってしまうのです。自分が面白いと思うことに対して、常にはらぺこ (貪欲) でありたい。それが、当サイトの信念です。
上記の宣言を書いてから、放置すること約 2 年半……。
ほむぺじどうにかしないとなぁ。。。
- 書きたくなるネタを見つけた(ネタ系=情報重視)
- 書きたくなる何かを考えついた(つぶやき系=主張重視)
ネタ系ブログも、情報の切り取り方によって主張が出せます。つぶやき系ブログであっても発端は何かのネタです。ですから客観的な情報のみ、主観的な主張のみという文章は実際にはほとんどありません。ただしブログを見ていると、人によってどちらかに偏ってしまう傾向はあります。ネタ(情報)の蓄積は自分用のデータベースに、つぶやき(主張)は思考トレーニングに、それぞれなります。意識して両者のセットを書くことで、研究も進むと思います。ネタには考察を、つぶやきには根拠を、それぞれ添えてみましょう。
うちはどっちだろう。。。両方のタイプの記事はあるけど、両極端な気もしないでもなく。。。根拠が薄くて説得力に欠ける発言は数知れず。。。orz
2つ目は、何でもテーマに関連付けてみること。これは創造性を養うトレーニングにもなります。個人的には非常にお勧めしたい方法。
例えばテーマがネットワークなら、文芸書の感想を書くときにも「ネットワーキングという観点からいえばこの本は……」と、無理やり書けないか考えてみる、ということです(日記では、無理してまで書く必要はありません。テーマにつなげようと挑戦してみることが重要)。
これはまぁ、時々やるかな。そもそもうちのブログにはテーマなんてものは存在していないのでアレなんだけれどもw、それでも法の不備をシステムの設計ミスになぞらえてみたり、何気ない出来事をネタにゲームのアイデアを考えてみたり、人体の消化器官をデータ構造になぞらえて、飲食を push、排便を shift、嘔吐を pop と言ってみたり。。。いや、すまん、最後のは忘れてくれ。
日記は徐々に「日々雑感」になってしまうかもしれません。しかし時々はコラムを書くつもりでテーマに向き合ってみましょう。ブログのカテゴリに「週末コラム」などのタイトルを付けておくとよいと思います。
これは仕入れた情報を再度眺め、自分なりの見解をまとめる非常に良いトレーニングです。かなり興味があったり、知っているつもりの分野でも、半年くらい(コラム26本)書くと、かなり書き尽くし感を感じると思います。重要なのは、蓄積を吐き出したその先も継続すること。ネタがなくてもとにかく書くことを自分に課していくことで、情報収集や学習への意欲を維持することができます。
なるほど、これからやろうとしている「毎週 1 本 Perl でくだらないプログラムを書く」に通ずるところがありますな。嘘。ありません。まとめじゃないし。
あーでも仕事やめたおかげでここしばらく週報なんてつける習慣無くなっちゃったなぁ。。。アレ関係で週報つけてみようかしら。(独り言)
ただ、今回の目的(経験のなさを補って、仕事を自分の興味のある分野に引き寄せる)を考えれば、細切れでできることなので、努力に見合ったやりがいがあるのではないでしょうか。また、これはわたしの経験でもあるのですが、長く続けられないことによって、実はそれほど強い興味を持っていなかったことが分かるという効果も期待できます。
強調は T.MURACHI による。あるなぁそういうのいっぱい。。。orz
# そもそもおいらの場合、興味があることであっても飽きっぽかったりするわけだが。
しかしそう考えるとこのブログはよくまぁ続いてるもんだよな。やっぱりなんというか、このなんともいえぬダラダラ感がおいらの性分には合っているのかしら。
握力が。。。眠気が。。。 ― 2006年12月01日 17時00分04秒
灯油を買いに行ってきた。いや、他にもいろいろ買ってきたんだけど。一番近いガススタまで、自宅からの道のりは約 700m (自作ツールによる計算だからかなり曖昧だけど)。行きは割と近い場所にあるなぁとか思ったんだけど、帰りはやたらと遠く感じた ('A`) 。帰ってきて、とりあえず椅子に座って、PC つけて、ゲームとかやってみたりしたんだが、明らかに不自然な眠気が襲ってきて集中できん。つか、握力が未だに戻ってこない。そして、やっぱり、いかんともしがたいほど、眠い。思考回路が戻ってこない。いや、その日本語はおかしい。つか、これから銀行行ってお金下ろしたり、買いそびれたいくつかの品物を買いに行ったりしなきゃならないんだが。。。
その問題は Web3.0 では解消されるのかしら? ― 2006年12月01日 20時39分38秒
- WEB2.0時代に沈黙は「悪」である (メディア探究 さま)
とりあえず、小泉さんのおかげで、国民の投票行為でさえコントロールして利用することは可能であることが証明された昨今において、「投票に行かない人は搾取される」も無いだろうとか思ったりもするのですがそれはそれとして。
たしかに、民主主義の原則は発言することにあるのかもしれませんが、翻って、最低限発言しない限り権利が担保されないような状況が簡単に作られてしまう社会に、民意はあるといえるのでしょうか?
Wikipedia における平野啓一郎氏の例が取り上げられていますが (そもそもこんな出来事があったこと自体知らなかったというか、あんまり興味なかったわけではありますが)、そもそも Wikipedia という場所は、中立的な観点でのみ物事を記述することが許されるべき場所です。そうでなければ、百科事典としての Wikipedia 本来の機能が失われるからです。この場合、Wikipedia 本来の機能を守るべく培われるモラリズムのことを民意というのであれば、「内容酷似問題」の記述は「民意のない記述」ということになります。
# 平野氏のブログにおける記述が事実であるならば、「内容酷似問題」に触れる場合、最低限、それが「噂の真相」においてのみ報じられ、佐藤亜紀氏のサイトにおいてのみ語られていることも書かねばならなかったでしょう。「問題」という以上、それがどの程度の範囲において波及し、報じられ、その結果、関係者の立場・行動にどのような影響を及ぼしたのかが明かされなければ、フェアとはいえません。「中立的な観点」についての理解を早めたければ、今回のことについてまとめられたノートもまた、参考になるでしょう。
民主主義は、それを構成するコミュニティーとしての民衆の「民意」によって機能するものです。もしも、現状の Web2.0 が強いる世界が、「沈黙は悪である」というものであるならば、それは「民意」が低い為に、本来望まれるべき民主主義が、正しく機能していないことの証左です。
Web2.0 では、発言のためのインフラは充実したものとなってきました。以前、こちらの記事にて、「発言せざる読み手」という概念について触れましたが、Web3.0 へのバージョンアップに際しては、この辺の考え方がキーになるのではないかと睨んでいます。
いや、正直言うと、Web2.0 だの 3.0 だの、そんな記号的なキーワード自体には興味は無いのですが、仮に、民意の底上げが、システムによって図られ、それがうまく機能するということがありうるのだとするならば、そんな仕組みには結構興味がそそられます。研究課題としては悪くないんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?
ただいま。 ― 2006年12月03日 09時33分06秒
昨日は喰いに行ったり飲みに行ったりで一日中出払っておりますた。ブログ月間はどうなったんだこのやろう>ヲレ。
写真は、昨日の昼に行ってきたうどん屋さん。名前ほど楽しいイベントは無かったwが、味はよかったよ。
便利な言葉と便利な辞書 ― 2006年12月03日 10時19分00秒
- 「普通においしい」 (平野啓一郎公式ブログ さま)
- 「普通においしい」辞書が欲しい (404 Blog Not Found さま)
「普通においしい」って、便利な言葉よね。それが「どう」おいしいのかを具体的に説明することを巧妙に避けている感じ。別にその言葉が悪いとは思わないし、おいらも普通に使っているけど (←まさにこんな感じでなw)、場面や相手によっては、その言葉では気持ちが伝わらないかもしれない可能性ぐらいは、認識しておいた方がいいのではないかとは思う。まさに、「どう」おいしいのかを聞きたい人に対して、「普通においしいです」って説明しても、まぁそれで十分 (なんとなく) 伝わる場合もあるだろうけど、それじゃあわかんないよという人も当然いるだろうし、それどころかその表現自体が失礼に当たる場合もあるかもしれない (例えば自信を持って作った料理に対する感想として「普通においしい」と言われたら、怒る人もいるかもしれない)。
で、こういう便利な言葉って、あまりにも広い意味を持つし、解釈も人によって様々だったりする。さらには、かなり短いスパンで意味が変わったり広がったりする。おいらは言葉の専門家ではないので、この解釈が正しいのかどうかは微妙なんだけれども、例えば恐らくは味 (主に舌触り) を表す言葉として (確か「美味しんぼ」辺りで) 使われ始めた「まったり」という言葉は、いつのまにか、気持ちや雰囲気を表す言葉としても使われるようになった。それから、元々「鬱陶しい」という意味の「うざったい」が縮まってできた「うざい」という言葉も、今では「鬱陶しい」以外にも様々な意味 (全体として、人に対するネガティブな意味合い) で使われるようになってきている。こうした言葉を、例えば「現代用語の××」みたいな書籍で取り上げる分には、まぁいいんだろうけれど、Web 上で誰もが編集できる辞書として収録してしまうと、メンテナンスが大変だったり、解釈の相違で論争になったりして、結局はあんまり実用的ではなくなってしまうんではないかという気がどうしてもしてしまう。
一方で、こういった「便利な言葉」に対して、厳密な意味を定義する辞書が登場することによって、「便利な言葉」にたよったコミュニケーションの取り方しかできない人のコミュニケーション能力を矯正できるのではないかという期待もあるかもしれないけど、個人的には否定しておきたい。例えばそうやって「うざい」って言葉を封じられても、たぶんその手の人は「○○ってうざいし」って言う変わりに「○○ってアレだし」って言うようになるだけだろうし、そう言われて「あーあーあー」とか解ってないくせに納得した素振りを見せる奴も多分そのまんま。結局何にも変わらないと思う。
ただ、ネットを介して利用できる辞書システムの案は、面白いと思うし、それは「普通においしい」的な言葉でなくてもかなり便利なものだと思う。つか、Wikitionary なんてものが存在すること自体知らんかった \(^O^)/ 。
「言葉」と「思考」の関係性 ― 2006年12月04日 00時13分40秒
きっかけは、氏の別の記事に対する、はてなブックマークでの以下のコメント。
ぶっちゃけソースコードと言葉は違う。言葉は見た瞬間自動実行されるバイナリみたいなもの。
おいらとしては、「そう言う側面もある」としながらも、しかし、あえて自動実行させずに、「しかしこの言葉はいったい、どう解釈すべきなのだろう」と踏みとどまって考える (つまり、敢えてソースコード的に捉えて、咀嚼する) ことができるかどうかで、議論の幅は広がるんではないかと思う。
小飼氏の解釈は、らしいなと思った。
ただ、敢えて付け加えると、個人的には、重要なのは実は場面や立場などではなくて、「文脈」なのだと思う。「空気を読む」っていうのは、それまでの経緯を知っている人同士で共有できるはずの「文脈を読む」と言い換えることができるはずだ。
しかし、同時にそうした「文脈」は、個々人の興味によって形成される部分も決して小さくはないため、「自分の文脈」に当てはめて他人の言葉を耳に (あるいは目に) したときに、感情がすこぶる高まってしまうようなケースがあったりすると、それがフレームの引き金になったりする。ここで、視点を切り替え、「相手の文脈」を探ってから、再度その文脈に当てはめて解釈を試みることによって、始めてその言葉の「真意」に気付き、納得を覚えると言うことは、しばしばあるように思う。
しかし、そこへ至るよりも先にフレームに至ってしまうことがある一番の要因は、「自分の文脈」で解釈する方が、それ以外の文脈で解釈するよりも、早くて簡単だからなんじゃないかと思う。
「言葉は見た瞬間自動実行されるバイナリみたいなもの」と感じてしまうのは、言葉を「自分の文脈」で解釈してしまうことに慣れてしまっているからなのではないかと思う。そう言う部分も確かにあるが、でも、それだけではやっぱり駄目なんだとも思う。
それでも、一定の気配りと気遣いはあっても良いと思うけどね。
サイトの横幅問題再び ― 2006年12月04日 12時05分00秒
まーた乗り遅れた。(苦笑)
内容に踏み込むのも面倒なので、以下に雑感をまとめてみます。
- 印刷時のスタイルが悩ましいのは、W3C 勧告の
<img>
タグが、width
、height
各属性の指定を推奨している点、および、PC のブラウザ上で画像を (完全な状態で) 表示させるためには、これらのサイズをピクセル単位で指定する必要があるという点に尽きると思います。例えば、画像のサイズを、実際の画像ファイルにより指定される大きさに対する相対指定で指定可能とし、それが推奨されていたならば、画面表示用と印刷用とで css を使い分けるという対応の方が優れていることになります。 - 印刷を考慮するならば、本来、サイズの類はピクセル単位で考慮するべきではありません。一般的な用紙サイズを「A4・縦」と決め打ちするならば、幅 210mm × 高さ 297mm などとして (つまり、ミリやインチなどの単位で) デザインすべきです (画面表示用と印刷用の CSS を分けるべきだとする意見が多いのはこの辺の事情によるものと思われます)。改ページ位置が指定されることが理想的ですが、ブログなどのテキストサイトでそこまで頑張る必要はないと思います。
- ブラウザや OS の統計を取ることにあまり意味があるとは思いませんが、PC 以外の端末で小さい画面を利用することまで考慮する必要は、必ずしもないと思います。リキッドデザイン至上主義は、歓迎できません。現実問題として、折り返せば読みやすくなると言うものではありません。本当に小さい端末を考慮する場合、そもそも段組によるメニューの表示なども考慮する必要があるでしょう (それで表示が崩れるぐらいなら、横幅固定にしてくれた方がマシ、という意見は、yokoyan.com でこの問題が取り上げられたときにすでに出てきていた筈)。HTML+CSS に、現状そこまでの柔軟性はありません。このような特別な端末のみをサーバー側で認識して、出力すべき HTML を切り分けるという試みは、すでに携帯電話の組み込みブラウザ向けには十分現実的な話です。(MT にそのような仕組みが存在するのかどうかは、実際使っているわけではないので不明ですが)
- 個人的な感情としては、デザインぐらいはサイト製作者側で用意しておいてくれよと思います。サイト側はデザインをまったく提供せず、ユーザーが自由にデザインを適用してください、というサイトは、自分でデザインをいちいち用意して適用するのが面倒なユーザーにとっては、不便か、もしくは (デフォルトのまま見ちゃうので) 無味乾燥です。ユーザーがデザインを用意できるという機構は、サイト製作者が提供するデザインが見るに耐えないほど酷いものである場合の「最後の手段」として用いられるべきです。「絵文録ことのは」は、CSS による指定で 640 px 固定となっていますが、この CSS は、ブラウザが対応していれば、ユーザー側で任意の CSS に変更できるし、改行タグを入れているわけでもないので、その場合にはリキッドデザイン足りえます。サイト側の気配りとしてはこれで十分です。
小さい端末で採用しているフルブラウザって、大抵 Opera でしょ? だったら表示サイズとか気にせんでも、ユーザーが自分で表示を縮小すりゃええやん。それができる、本当に本当に便利なブラウザなんだから。(なんて暴論吐いてみるw)
どういうことだー ― 2006年12月04日 19時06分19秒
こんなものをインストールしてみようかと、以下のようなことを試してみたわけなのですが、
- この辺の作業は既に実施済み。
- 「Visual Studio 2005 コマンドプロンプト」 (VC++ 2005 Express を入れるとスタートメニューから辿って使えるプロンプト) にて、
perl Makefile.PL
してnmake
したら、「windows.h が見つかんねーぞゴルァ」とか言われたので、%PROGRAMFILES%\Microsoft Visual Studio 8\Common7\Tools\vsvars32.bat
を弄くってINCLUDE
とLIB
をセットしなおして再度nmake
→nmake install
。 - Perl にて
use Win32API::MIDI;
してみたら、「msvcp80.dll が見つかりません」とかいう糞なアラートがでてこけちゃったので、%WINDIR%\WinSxS\x86_Microsoft.VC80.CRT_1fc8b3b9a1e18e3b_8.0.50727.42_x-ww_0de06acd
とかいう意味不明なディレクトリ (SDK もしくは再配布可能パッケージとやらをインスコするとそこに保存してくれるらしいことは確認済み) にあったmsvc?80.dll
(? は p と r と m) の類を%WINDIR%\system32
なディレクトリにコピーして再度試した。 - ランタイムエラー「R6034 An application has made an attempt to load the C runtime library incorrectly. Please contact the application's support team for more information.」とかいう内容のアラートが出てこけた。お手上げ。
根性なし>ヲレ。つか、無料配布版の VC++ 2005 Express Edition + MS Platform SDK の組み合わせはまだ未テストなのか? それともそもそも Dev.Studio 2005 全般的に未テストなのか? BCC32 はもう諦めてるからいいんだけど、これだけのために Dev.Studio 2005 購入なんてまっぴらゴメンだ。金ないし。
つか、cygwin で試してみたらあっさりインストールできてしまった訳だが。。。
。。。素直に cygwin で作るかな。。。('A`)
つか、README に書いてありました。Active Perl の環境ではテストしてませんって。('A`)
DEPENDENCIES This module is being developed on Cygwin (http://www.cygwin.com/) environment. It is not tested well on Active Perl environment, since I don't have MS C Compiler. I had a report saying it could be compiled and MIDI output worked well but MIDI input did not. Any feedback from ActiveState Perl users' are welcome.
Mon Dec 4 23:36:12 JST 2006 - 追記
ラクダ本の 21 章にある手順に従って試しにエクステンションを作ってみたら、まったく同じランタイムエラーが出やがったので、たぶん環境の問題。やっぱり MS VC++ のバージョンの問題なんだろうか。。。(T-T)/
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