感情表明は議論の入口である。2007年01月14日 20時51分48秒

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これはあまり同意できない。
善悪が絶対的指標にならないのは非常に同意できるけど、自分が○○が嫌いである、という主張は反証可能性において、著しく議論のルールを侵している。
例えば「私はAさんが嫌いだと思います!」という主張について、他の人がいかにAさんのすばらしさを挙げてやっても「でも私はAさんが嫌いなんで」で、終わりになっちゃうよね。
感情や個人思想を原点に議論を展開するのは、絶対に反論されない防御を敷くもので、最初から議論の土台にあがっていないのと一緒。
神の有無の議論中に「でも私は信じている」と言い出すのと同じく不毛。
インテリジェントデザイン理論の人も同じようなこと(世界観の違いである、とか)を言う。
それにも関わらず、まるで議論のように話を展開するのであれば、結局、絶対的な正義を持ち出すのと同じだと思う。
不可侵なものを自分の外に作るか、中に作るかの違いしか無い。

好きか嫌いか、っていう部分そのものを、議論しようとしているのかしら? おいらはそういう風には受け取らなかったんだけど。。。

まぁ、議論なんてものに常に有益性ばかりを求めてしまうのも肩がこる話ではあるのですが、議論の目的は人それぞれなので、その議論の入口が個人的な感情 (今回の場合は、「好き / 嫌い」) に端を発すると言うのも、それはそれでありだと思う。例えば、今回の松永氏による感情表明に対して共感を寄せる声が多数寄せられるようであれば、同じように 2ちゃんねる的な「正義感」を嫌っている人は結構多いぞという (それも属性つきで「○○な人にそれを嫌がる人が多い」みたいな) 観測結果が得られることになる。その情報自体は、今後の議論の発展の為には有益と言うことになる。

議論が終始感情論のみで継続するのは有益ではないけれども、議論の起こるきっかけが感情の表明であるというのはダメとは思わないし、むしろその方が議論の展開としてはよっぽど自然なんじゃないかと思う。商品企画などの段階で行われる「何があれば便利か」という議論は、「○○しなきゃならんのが不便で嫌だ」という感情の表明 (と、それに対する多くの共感) が無ければ始まらない。論理が役に立つのは、それが感情に対する正当な対処でありうるからなんじゃないかと思う。多くの人々は私生活において自己の感情こそ重要視する。理屈をこねるのはその感情に対する解決策を求めようとするときだけで良い。

よーするに松永氏は今回の意思表明に関連して、2ちゃんねるをどうしたらよいかという部分についてまでは触れていない。そもそもそこからどういう議論に発展させようというところにまでは踏み込んでいないのだ。彼の発言は所詮、議論の入口に過ぎない。その入口から多くの人々が入り込んで議論として成立し活性化するかもしれないし、入口で散々野次だけ飛ばされて結果議論にまで発展しないかもしれない。

ちなみにおいらが前回書いた記事も、大枠は単なる感情の表明に過ぎません (何で嫌気が差すんだろう、っていう部分に対する分析が多少含まれてはいますが)。松永氏とは微妙に異なる価値観を示すことによって、入口を少し広げてみる、ということを試してみた、って感じです。

コメント

_ 塵芥 ― 2010/11/13 14:29:08

はじめてコメントします。
以前はまさに2ちゃんねらーだった自分も、
ここ数年はすっかり2ちゃんを見ることもなくなり、
さらにはここ数日、2ちゃんねるに対する嫌悪感が増しており、
なぜだろう?といろいろな意見を見て回るうちに、こちらに
たどり着いた次第です。
なので、記事が書かれて大分経っているわけですが、
2ちゃん的正義感なるものは、いまだ2ちゃんねるのいたる所に
充満しているように感じますので、今の問題として考えて問題ないと思います。

さて、今更ではありますが、私が感じたことを述べてみます。

しっぽのブログさんのトラバも読みましたが、その中で

「不可侵なものを自分の外に作るか、中に作るかの違いしか無い。」

という記述を拝見しました。つまり、これを噛み砕いて読みかえ
れば(少々大雑把で、乱暴かもしれませんが)、
自分の外にある不可侵なもの=社会正義
自分の中にある不可侵なもの=感情
ということになると思います。 そして、それらは中にあるか、外に
あるかの違いしかない、と、しっぽのブログさんはいうわけです。

ここに、両者の決定的な齟齬がある、と私には思えます。
こちらの管理人氏は、本来自分の中にあるべき不可侵なもの
(「不可侵なもの」という言い方はしていませんが)を、
外に拡張し、共有し、普遍化しようとするのは無責任であり、
そんなのは嫌いである、と言っているわけです。
つまり、中にあるか、外に作るかの違い「しか」ないのではなく、
その違いこそが最も重要な問題点なのでしょう。

一瞬話が反れますが、
私は宗教なるものが個人的に好きではありません。
なぜなら、こちらの管理人氏と同様、本来自分の中にあるべき
ものを外面化し、大勢で一緒に共有することを、正当性の担保に
しようとするからです。
個人が「信じたい事(もの)」を、外面化し、共有し、複数の人間が
共有するという行為そのものによって、個人の信念を「真理化」
してしまうという、その営みが宗教の営みだからです。
いったん真理化してしまった対象は、簡単に覆すことはできません。
洗脳された人を脱洗脳することの困難さを見れば分かります。
また、真理化してしまえば、それは正当性を持ち、それに沿った
考え方や行動は、その内容にかかわらず保護されてしかるべき、
という展開になっていくのです。
そのことは、多くの宗教戦争の歴史や、宗教テロを見れば分かります。
私はここ数日、とあるコミュニティでの不正行為に対する
2ちゃんねらーの反応を見るにつけ、監視だの晒しだのと騒ぐ
自分たちの姿に疑問ひとつ持たず、まさしく正義面を地で行く
姿に、反吐が出そうになっていました。

なるほど、と思いました。
かつてはシンパシーすら持った彼らに、今なぜ
こんなに嫌悪感を持ってしまったのか・・・

こちらを読ませていただき、そうした感情の発生した理由、
近年の自分の考え方との関係について、改めて考えさせていただき、
感謝しております。
ありがとうございました。

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_ しっぽのブログ - 2007/01/15 21:07:01

引用紹介、補足と反論とかです。 2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ [絵文録ことのは]2007/...