おべんきょおべんきょうれしーなー2007年01月23日 02時09分47秒

やっぱりちゃんと書こうw

さっき書いたはてブのしっぽのサンプルの中で雑感の要約を書いてみたら、なんだか dankogai 氏がおんなじようなことを書いてた。まいったなぁ。。。真似じゃないっすよ? (^_^;

いや、別に「勉強」って言葉には今やそれほどの執着というか拒絶感というか嫌悪みたいなのはもはやないんだけど (かつてはあった時期もあったけど、考えてみれば語彙力からっきしのおいらが言葉選びで云々かんぬん言えるほどヱラくもないなーという…まぁそれなりに一般的に使われちゃってるし、「勉めて強いる」なんて思い入れ込めて「勉強」って言葉使ってる人も稀だろうしみたいな)、そもそも「勉強しなくちゃいけない」が前提事項であること自体、考え方としてはあまりにも狭いし、そういう固定観念が強いられちゃっているのはかわいそうだよなぁという思いはやっぱりあるのですよ。だから何かの間違いで自分に子どもが出来るようなことにでもなったなら、「別にしたくない勉強ならしなくてもいいのよ」と教えてあげたいっておいらは思う。

ただ、そのおかげでまったくの怠け者になってしまうんだとしたらそれはそれでマズイし、なにより (4)騙されてひどい目に合いにくくなる ってのは結構大事なんじゃないかという気もするわけだ。だから、サンプルの方で書いたコメントには以下の一文も加えているわけで。

でも、大抵の人は、自分が「何を」知りたいのかすら、分からないんだ。 学校って場所では、「一般的」だとか「基礎」だとかいわれているようなことの何種類かを、とりあえず教えてくれる。 そういうものの中から、君が「知りたい」と思えるようなことのヒントを拾い上げることができれば、それはそれで幸せかもしれない。

「騙されないように」とかは、別に敢えて言う必要はないと思う。とりあえず、いろいろと吸収してみよう、という気にさせられれば、それで十分なんじゃないかなと。

cover
大人問題

(五味 太郎 / 講談社文庫)

ちなみに教師については、というか、教える立場の人、についての考察としては、「大人問題」で五味氏が結構いいこと言ってると思うので、引用してみます (強調は T.MURACHI による)。ちなみにこの人は今の「何でも教える教育」を真っ向否定していたりするわけですが (^_^; 、おいらはさすがにそこまでは思い切れませんです (^_^;; 。

そもそも「わかった」人間が「わからない」人間に教えていくという今の教育の構造が、全部まちがってるんだと思います。たとえば、文学をやってきた人間が「わたしはもう文学のことがわかった」、絵を描いてきた人間が「絵がわかった」っていうなら、その人、もうおしまいです。

唯一あるのは、「わかりたい」子が「わかっていそうな」大人に聞くという構造です。それならまあ、性教育もなんとか成り立つのではないかと思います。

たとえば、女の子を見てドキッとする、あの男の子が横通っただけでドキッとする、これはいったいなんだろう、四六時中あいつのこと考えてるこの気分、なんかおかしいのかなあ、って。で、その子が耐え切れなくなって大人に聞いたときに、「そういうことって、わたしも昔ありました」という、そのひと言で少し前進できる。そういう苦しさとか不思議さとか、わけのわからない感じというのも、一般的にはあるということを知るのは、それなりにありがたいことです。

その子は、その心のもやもやや、体のもやもやについて意識している。「わかりたいな」と思っている。そういう学びたい、知りたいという、その子の必然ができてきたときに、はじめて「教育」というものが、現象としては成り立つのだろうと思います。

そのときにいちばん必要なのは「わかっている」人ではなくて、現役でやっている人、つまり今でも「わかろうとしている人」です。「人生、そこらあたりが問題なんだよね」と問題を世代を超えて共有できる人。そのことをいまだそれなりにやってる人間、音楽やってる人間、絵やってる人間、文芸やってる人間、そして人生やってる人間が、学びたいと思った子どもには教材になるなと思います。教材は常に「いい教材」ばかりの必要もありません。

あ、もう一つ引用しとこ。これも強調は T.MURACHI による。。。

ぼくが中学校のころ、西部劇の漫画雑誌みたいなものをパラパラ見てたら、よくわからない英語があって、親父に聞いたことがありました。ぼくの父親は一応大学で英語を教えていた人でしたから、英語のことならなんでも知ってると思っていたわけです。ところが、「おれ、知らないな」と言われて、ちょっと唖然とした。ネイティブの人にもわからないスラングのようなものだったらしいのです。

でも、とってもうれしかった。親父にも知らない英語があるんだ、というのが新鮮でした。しかも、翌日の朝、食卓の上にメモが載っていて、ちょっとびっくりしました。夜中に調べておいてくれたらしいのです。そのとき、彼にとって英語というものが常に新たなんだということがよくわかりました。

高校のときにも、そういう「現役」の教師がいました。ぼくが変な質問をしたら、その先生もわざわざ調べてきてくれたんです。廊下で呼び止められて──そのときにはぼくは質問したことすら忘れてたんですが、一所懸命説明してくれて、参考文献まで貸してくれました。そのとき、彼がとってもうれしそうだったのを覚えています。ぼくもつき合いがいいから、大変ためになったみたいな顔しながら、「やだな、こんな分厚い本読むの」と思ってたけど、その人のことはずうっと好きだったし、一目置いていました。

後者の引用に関して、じつはおいら自身も似たような経験があります。大分昔に書いた文章なので今紹介するのは極めて恥ずかしいのですが。。。(^_^;

たった一人だけ、多数決に囚われなくても良いんだということを知らしめてくれた先生がいた。小学校 3、4 年のときの担任の先生である。名前も顔も、今でもはっきり覚えている。
 その先生は国語がとても好きで、どの授業も熱心だったが、国語は特に熱心に教えていた。だから、多くのクラスメイトが、その先生の国語の授業に至っては絶対的な信頼を抱いていた。
 そんな先生が、あるとき、その国語の授業の中で、黒板に「えばる」と書いた。
 おいらはそのとき、どういうわけか、懲りているはずなのに手を挙げて、こんなことを口走っていた。「先生! えばるじゃなくて、ばるです!!」
 このときのクラスメイトのブーイングは尋常ではなかった。当然だ。国語に関しては絶対の自信を以って授業をしてくださる先生であるということはクラスの全員が認識していることだった。当然、おいらだってそれは認識していた。だから、クラスの誰もが、この先生がまさかそんな基本的なミスを犯すわけが無いと信じていた。きっと、「えばる」だって正しい国語なんだ。誰もがそう、信じて疑わなかったのだ。
 しかしそんな中、先生は至って冷静だった。いや、むしろはっとしたような顔になっていた。いつも以上に真剣な顔だった。そして、傍らにある国語辞典をとっさに開き、ページをめくっていた。そして、辞書を閉じると黒板へ向かい、赤いチョークで「えばる」をバツで打ち消し、「いばる」に訂正したのである。

実は、「えばる」は必ずしも間違った日本語ではない。しかし、それはあくまでも「いばる」の転であり、より正確には、やはり「威張る (いばる)」なのだ。先生はそういうところまでしっかり解説してくださった上で、生意気なことを言い出したおいらに感謝の礼までしてくださったのである。
 このとき、例え周囲の誰に否定されようとも、絶対に正しいと言い切れることを主張し続けることの意義を、おいらは学んだのである。

とりあえずそんなところで。。。

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_ 国民宿舎はらぺこ 大浴場 - 2007/01/23 13:41:04

とりあえず、前回書いた内容に対する補足。


ただ、そのおかげでまったくの怠け者になってしまうんだとしたらそれはそれでマズイし、なにより (4)騙されてひどい目に合いにくくな

_ BUILDING AND DEBUG ERROR - 2007/07/28 08:47:24

「なぜ勉強するの?」と子どもに聞かれたらにいまさら答えてみるに補足。