新卒入社する趣味グラマのための心得10ヵ条2007年03月08日 17時13分48秒

上記に触発されておいらもちょろっと書いてみる。

  1. コミュニケーションを大切にしよう。

    共に仕事をする人間との意思疎通が行えることは、必要かつ重要な能力です。コミュニケーションという言葉を誤解する人は多いのですが、必ずしも仲良くなる必要はありません。個々人と友達になろうと尽力するのではなく、例え相手が苦手なタイプであったり、生理的に受け入れられないようなタイプの人間であったりしても、必要な会話をこなし、意思疎通を図ることができる、ということが重要です。

    なお、コミュニケーションとは、何も口答での会話に限ったものではありません。メールなどでのやり取りはもちろん、例えば成果物としての各種文書等においても、読み手に内容が伝わることに配慮することも、必要なコミュニケーションスキルの一つです。その為に、文章の論理性、効果的な表現手法の選択 (箇条書き、図、表など)、読み手の技術スキルを想定した上での言葉の選択、などといったことにも、都度、考慮する必要があります。

  2. 分からないことは素直に分からないと表明しよう。

    知ったかぶりは、業務に支障をきたします。絶対にやめましょう。また、分かっているつもりのことでも、実際には知識があやふやであるという事は、職歴の長いベテランでもよくあることです。他者との会話などを通じて、自己の知識のどういった部分があやふやであるのかを自ずから検証し、あるいは他者からの指摘があれば、時としてそれに耳を傾けることも必要です。

  3. 自分の意見を言おう。提案すべきことは提案しよう。

    グループ内の合意事項であっても、それが必ずしも常に正しいとは限りません。もっと適切な方法があることをあなたが知っているのであれば、その知識は提案として明かされるべきです。それらのすべてが必ずしも受け容れられるとは限りませんが、少なくともあなたの責任を和らげる効果と、将来グループの面々に反省を促す可能性は期待できるかもしれません。

    逆に、あなたが信じる方法を提案した結果、元々グループ内で採用されている方法の方が優れていることが判明するならば、それは恥ずかしいことかもしれませんが、あなたの知識を向上させるという結果をもたらすことになります。どちらにせよ、無駄になるということは、あまりありません。

  4. 顧客などの取引先や、その他の外部に影響するような身勝手は慎もう。

    例えば技術的な検証が十分では無い再現情報を、むやみに顧客に公開すべきではありません。発言には責任を伴うことを忘れないでください。それも、あなた個人の責任ではなく、会社の責任になるということを。顧客がその再現情報を信用した結果、関連する副次的な現象が発生した為に損害を被った場合、あなたは責任を取れますか? 機密情報と公開情報の切り分けは、社内またはグループ内で十分に合意が形成されている必要があります。

    また、業務外の場で仕事に関する話をするのは、基本的にはご法度です。もちろん、感情的なわだかまりが、このような話題を生み出してしまう点について、個人的には同情的立場を取りたいと思っています。しかし、それであっても、重大な機密情報を漏らすような行為や、仕事仲間のプライベートを侵害するような行為に至らないことを、十分に配慮する必要があります。自信が無いなら、仕事の話は業務外では避けるべきです。

  5. 頼まれるどんな仕事にも好奇心を抱こう。

    あなたが関わっているプロジェクトに関わるほかの人々の仕事内容を、すべて知っておく必要がある、とは言いません。しかし、概ねどのような作業が存在するのかを知り、それらに関心を抱くことは、とても良いことです。

    もしもあなたが、上司に頼まれた仕事内容が、あなたがやりたいと思っていたものではなかったとしても、その作業に関心を以って従事すべきです。たとえばよりよい仕様書の書き方を知っているプログラマは、仕様書の書き手に的確な文句を言うことができます。テスト作成や不具合管理を通じて QA に精通したプログラマは、バグの混入しにくいプログラムを書く方法について研究することができるようになります。そして顧客とのやり取りを通じて要件定義を行った経験者は、その後の開発を通じて、潜在的な要求事項を洗い出すことの重要性に気付かされることになるでしょう。

  6. 誰でも読めるコードを書こう。

    あなたは趣味のプログラミングを通じて、より効率的で、パズルのように難解なロジックを書くことに、快感を覚えてきたかもしれません。そうでなくても、コーディングにおけるあなたならではの癖やこだわりがある可能性は十分にありますね。

    趣味であれなんであれ、まともなソフトウェア開発会社や事業部であれば、プログラミングの経験者を優遇するはずです。ただし、オタクは嫌われます。この点については、覚悟しておいた方が良いかもしれません。それまであなたが信条としてきた観念が、その職場では受け容れられない可能性は、大いにあります。

    コードの可読性は、その代表例の一つに過ぎません。動作効率としてどんなに優れたロジックを書いても、そのコードが何をするものなのかが理解できないようなものは、恐らく受け容れられません。なぜなら、そのコードをメンテナンスするのは、あなた一人ではないからです。もしもそのロジックにバグがあったら、誰がそれをどうやって直すのか? 機能拡張の要求に応じる必要が生じた場合は?

    基本的には、あなたがそのロジックに対する説明責任を果たしているならば、それほど大きな問題にはならないかもしれません。ソースのコメントに、処理の概要だけではなく、ロジックの詳細についても記述しましょう。必要ならば内部設計文書も残しましょう。数学的ロジックとしてパブリックドメインに公開されているものであるならば、その情報の提供元となる URI または書籍名を書いておくのも手かもしれません (公開されているロジックだからといって、あなたの職場にその知識が浸透している保証はありません)。これらの解決策が取れないのであれば、そのようなロジックの使用は避けるべきです。

  7. 自分の書いたコードが誰にでも読めるものであると過信しないようにしよう。

    6番にも通ずることですが、自分で書いたコードに関しては、説明責任が果たされるべきです。表面的にはコメントや設計文書が充実していることも大事ですが、なによりコードのすべてのステップに対して、あなた自身が言葉で説明できることが重要です。

    ソースコードレビューを実施しているような職場であれば、このようなクセは自然と身についてゆくものですから安心ですが、そうで無いならば、余裕があれば、自分自身で一行一行読み直し、なぜその名前や書き方を選んだのかが分かりにくい箇所を洗い出す、という作業を行ってみると良いかもしれません。

  8. 既にあるものを利用しよう。

    あなたが独自に作り出そうとするアルゴリズムやデータ構造は、多くの場合、恐らく既にライブラリとして提供されています。作ろうとする前に、まずはライブラリ内を探して見ましょう。C/C++ なら標準 C ライブラリや STL に、Java ならクラスライブラリに、Perl なら標準添付のライブラリに、すでに同じことができる信頼性の高い実装が用意されてはいませんか?

    ここで重要なのは、必ずしも工数の削減だけではありません。開発効率も確かに重要ではありますが、最も重要なのは信頼性の担保です。標準規格に則って作られているライブラリや、言語パッケージに標準搭載されたライブラリであれば、信頼性は高いといえます。十分に知られた会社が独自に作成し配布するライブラリは、次いで信頼性が高いといえます。どちらも責任の所在が明確かつ不動であるため、動作に関する疑問点があっても、適切なプロセスを経て解決することが可能です。

  9. ネット上で流れている情報を利用する場合は、信頼性を確認するか、または上司に相談しよう。

    8番に関連しますが、例えば零細企業や個人が作成し配布しているライブラリを組み込むような行為は、あなただけの判断で勝手に行うべきではありません。上司や関係する取引先と十分に相談しあって、使用するかどうかを決断すべきです。このようなライブラリは信頼性は決して高いとは言えず、責任の所在も不明確かもしくは流動的であるため、問題が発生した場合に、解決に向けた適切なプロセスを踏むことができなくなる場合があるかもしれません。

    ライセンスの問題もあります。GPL であれば、それを組み込むプログラムのソースコードも公開せねばならなくなります。プロプライエタリの開発に従事しているのであれば、そのような事態は避けなければなりません。

    業務時間中に、業務とは直接関係の無いオープンソースソフトウェアの機能改善を行ってフィードバック、といった作業を行うと、履行契約違反だということになって怒られたり処罰されたりする可能性があるので注意しましょう。絶対にばれない自信があるならおいらは何も言いませんが。

    それから、ライブラリではなくて、例えば参考情報のようなものであっても、その情報源が信頼のおけるもので無いならば、注意が必要です。特に、調査報告書を記述する際に、参考情報源として、個人のブログ記事や、2ちゃんねるのスレッドなどを挙げるのは避けるべきです。信頼性のボーダーラインは職場ごとに異なると思いますので、その辺は上司と相談することも必要ですが、例えば特定のツールやライブラリに関する情報であれば、そのツールやライブラリの開発元による公式文書であれば、十分に信頼に足ると言えるでしょう。

  10. 効率の悪い作業を自動化する自由は、認められるべき権利だ。

    これは職場の民度によって、推奨されたりされなかったりすることですが、もしも推奨されない場合であっても、作業を自動化するツールを作成した方がより効率的であると判断できる場面であるならば、積極的に自動化を図るべきです。

    この点については、基本的には上司に相談する必要もありません。やっちゃったもん勝ちです。で、やっちゃった後で、実はこういうツールを作った、似たような作業をすることがあれば自由に使っちゃってください、といって職場内で共有するのもアリです。もっとも、共有する場合には、それがどういうツールで、どうやって使うものなのか、ぐらいの説明責任は果たされるべきですが (共有するつもりがなくても、引継ぎの際に困らないような準備をしておくことが望ましいとは思いますが)。

他にも何かあればどんどん追加してあげちゃってください。

ちなみに、個人的には、趣味グラマとしての経験の有無が、職業プログラマとしての能力の高さに大きく関係しているとは、あまり思っていません。学生時代までにプログラミングの経験がほとんど無い人であっても頭角を示すケースは実際にありましたし、教養としてプログラミングはやってたけど実はあんまり好きじゃないしポテンシャルも低い、って人もいないわけではありません。性格に由来するセンスの有無というのも結構大きいです。

「作業量を省略して楽をしよう」と考えることのできない人や、協調性が極端に低い人、論理的な考え方の苦手な人、固定観念に凝り固まる人、利用価値を吟味できずに新しいものであればなんでもかんでも習得しようとする人は、プログラマとしてはあまり幸せになれないかもしれません。

それでは、健闘をお祈りいたします。。。

heading に画像を使いたいならば素直に img タグを使おう2007年03月08日 21時22分09秒

↑このサイト、tb も飛ばせないしコメントも書き込めないので言及するのも正直バカバカしいのだが。←とか書きつつダメモトで tb 飛ばしたらエラーにならなかった。慌てて訂正 ((((((((((((/;^^)/

外枠のh5を画像のサイズにして、中身のテキスト部分の後ろに空のspanを埋め込み、それをblock要素にして背景画像を表示し、position:absoluteで外枠のh5の左上に合わせ、widthとheightを100%にしてh5の要素を被ってしまうというかなりトリッキーなことやってますね。一応ほとんどのブラウザに対応。問題としては、MacのIEだけ文字を拡大すると画像からはみ出てしまうのと、背景が透明な画像は使えないことぐらいかと。後は空のspanが気持ち悪いってところが難点だが、アクセシビリティの問題は解決している。

前回言及したときにも感じたことだが、この人とおいらの HTML に対する基本的なスタンスは、どうやら相容れないようだ。あるいは Web デザイナーという職に属する人というのは得てしてこのような考え方になってしまうものなのだろうか。もちろん、それでも多用なケースでの利便性や SEO 的な観点に関心を寄せられるだけマシだと考えるべきなのかもしれないが。

そもそも、タイトルなどの heading として画像を見せたいのであれば、素直に <img> タグを記述すべきなのだ。それなのに、多くの人が、タイトルに画像を使用するために、スタイルシートを用いて、背景画として設定しようとする。そこがまず間違いなのだ。

なぜ背景画として設定したがるのか?

ブログツールなどでは、ブログタイトルに HTML タグを指定できないのが一般的である。しかし、CSS は自由に弄れることが多いので、CSS を利用して画像を見せちゃおう、ということになった。で、それが流行って広まっていくうちに、気がついたら heading の画像は背景画として設定、が常識になってしまった。

つまり、動機自体がそもそも tricky であり、bad know-how なのである。最初からブログツールがタイトルに代替画像を使用する機能を備えていたならば、こんな回りくどいインチキテクが流行ることなどありえなかったはずだ。

SEO を心配する声もあるかもしれないが、キミタチはそんなに Google を信用できないのか? と問いたい。alt 属性を適切に設定していれば、検索ロボットはそこに記述されたフレーズを適切に扱ってくれるだろう。仮に今はそうでは無いにしても、記述様式として十分に普及すれば Google だってそれに対応せざるを得なくなるはずだ。

heading 要素に <img> 要素を含めることは許されるのか?

まったく問題ない。仕様勧告を見れば分かるとおり、heading 要素は配下に 0 ないし複数の inline 要素を含むとしている (もちろんXHTML においても同様 - DTD を参照せよ)。そして inline 要素には special 要素として <img> 要素も含まれている。

では、どう書くべきなのか?

当然、以下のように書けばよい。

<h1>    <!-- 記事タイトル -->
  <img src="(画像のURI)"
       alt="(記事タイトル)"
       width="(横幅)" height="(高さ)" />
</h1>

超簡素なサンプルと、このサンプルを、画像を表示しない設定にした各種ブラウザで表示した結果の画像を用意した。それぞれに個性が認められるのが面白い。IE ではタイトルの文字自体は小さく表示されてしまうので強調表現としてはいまいちだが、画像が存在する場合の配置レイアウトを忠実に再現してくれると言う利点もある。Gecko (Firefox) は代替テキストをそのままテキストとして表示してくれる。テキストと同様にコピペすることも可能 (ちなみに Firefox では普通に画像が表示されている場合でも、画像を含む文章をコピーしてテキストエディタに貼り付けると、画像があった場所に代替テキストをそのまま挿入してくれる)。Opera は見た目は Firefox に似ているが、操作上はあくまで画像としての扱いになっている。

Firefox や Opera などにおいて配置が崩れるのを心配するならば、それこそ CSS を用いて配置を厳密に設定すればよいのである。

# 他のブラウザでの表示に関するご報告をお待ちしております。。。

転載には問題点もある。2007年03月10日 01時17分59秒

転載問題の記事がじんわり反響を呼んでるっぽいので追記。前回の記事は徳保さんの「大概のブログ記事はパブリックドメインであるべき」的な論調に乗った形のものだったわけですが、一方で Yahoo! Blog の転載機能が提供しているような「まんまコピー記事」を生成するだけの転載行為が内在する問題点についても記述しておくべきかと思ったので、やっぱり書くことにします。徳保さんとこにも tb 送っておきますか。

実際のところ、著作権だのチェーンだのというのは、あんまり問題ではないと思っています。困るのは、読者が情報源を特定したい、もしくは特定する必要がある場合に、それを特定するのが難しくなってしまう可能性があるという点です。

例えば、とある開発ツールにおいて、ある問題を解決する為の情報を、そのツールの開発元企業のサイトにおいて公開していたとします。そして、その情報は、オリジナルの URL へのリンクを示すことを条件に、一部ないし全部を自由に転載可能、としていたとします。

何人かのブロガーが、その情報を転載して、お役立ち情報として記事をでっち上げたとします。その中には、多くの人が参照する、その筋では大手と呼ばれる定番ブログも存在するかもしれません。

さて、あるとき、その情報には一部、重大な誤りがあり、訂正が必要になったとします。そして、訂正された正しい情報の記事が、何らかの事情により、元々掲載していたのとは異なる URI で掲載してしまったとします。

この例はあまり良い例では無いかもしれません。しかし、Microsoft の MSDN Library は、過去に技術情報のページ構成や URI を何度も変更しており、そのことを知っている Windows 系の技術者は、URI をメモする代わりに、記事内容そのものを自身のブログへ転載してしまいたいと考える可能性は大いにあります。しかし、転載したバージョンの記事に、もしも重大な誤りが含まれていたとしたら、間違った情報を延々垂れ流し続けるという結果になります。

参照数の少ないブログであればあまり気にすることではないかもしれませんが、多く参照されているブログには多少なりとも公益性が認められると言えますので注意が必要、ということになります。

しかしいずれにせよ、Microsoft 関連の技術情報は MSDN Library を探せば大体見つかることはそれなりに知られていることですので、多くの場合あまり問題にならないかもしれません。

それでは次のケースではどうでしょうか。A という思想と B という思想が対立する社会において、B 派を自認する人間が、A の思想に不利な感情を想起させる情報をブログ上に公開したとします。

その記事は当初、あまり注目されなかったのですが、数少ない注目した何人かのブロガーがその記事を転載したことをきっかけとして、少しずつ、しかし着実に、鼠算式にその記事が転載されていったとします。

そして転載が繰り返されてゆくうちに、どこがその情報の発信元であったのかが分からなくなってしまったとします。

とあるジャーナリストが、その情報の発信元を検証することによって、その情報の正当性を評価したい、と考えたとします。上記のような状況下において、それは可能なことでしょうか?

「ブログ記事を転載するという行為が当たり前の社会」における常識で考えた場合、特に注記せずそのままの記事を転載してしまうブログも少なく無い、という状況は十分ありうるでしょう。そして A の思想を支持する人であれ、B の思想を支持する人であれ、あるいはどちらの思想にも興味を示さないような人であれ、流布される情報がゴシップ性の強いものであるならば、その記事を「うちのブログにも転載しちゃおう」と考える人は少なく無いかもしれません。「戦争のつくりかた」の全内容が Yahoo! Blog において転載されまくったという事実が、その可能性を裏付けていると言えるかもしれません。

ネット上であれなんであれ、情報を探す人間は、見つけた情報の正当性を評価しようと考えるものでは無いでしょうか。正当性を評価する手段の一つとして、その情報の発信源を特定するというのはとても重要なことであり得ます。例えばセキュリティに関するコメントであれば、T.MURACHI ごときが発するコメントよりも、高木浩光氏が発するコメントの方が、一般には信頼性が高いと評価されています。

転載という行為が一般化し、それが横行されまくるようになった結果、情報源の特定が難しくなるような状況が生まれるのだとすれば、情報の責任の所在を見極められないネット上の情報に、価値を見出す人は少なくなってしまうのでは無いでしょうか。だからこそ、むやみな転載行為は、ネットマナーとして非推奨とされるべき、がネット上の常識として、確立されていったのでは無いでしょうか。

そのような文脈において、Yahoo! Blog が提供する転載機能を考えた場合に、果たして問題があるのか無いのか、といったことを評価するのは、議論としてそれなりに実りがあるのでは無いか、と思う次第です。

それは「口説き能力」なんであって「コミュニケーション能力」では無いです。。。2007年03月12日 11時47分10秒

おいらが仕事の話で「コミュニケーション能力は大切だよ」とか言うときの「コミュニケーション能力」っていうのは、単純に、伝えるべきことを (なるべく) 正確に伝え、相手が伝えようとしていることを (極力) 理解する能力、のことを指します。現場で働いている人も大抵はそっちの意味で解釈しているはずです。

でも、営業や人事や経営者層、その他中途半端に偉い人とかは、そもこの言葉の意味自体を誤解していることが少なくないように思います。まず、口説くことが最優先で、実際に理解されているかどうかは二の次、ということになります。相手の話を理解するということに関してもあまり重要性が問い質されなかったりします。それが行過ぎると接待ドリブンの営業になっちゃうし、意思疎通が不十分であるからこそ、不治痛×凍傷みたいなトラブルにまで発展するわけです。

そういう意味ではこの大学が学生に指導している「コミュニケーション能力」とやらは、おいらの感覚からしてみれば糞の役にもたたん代物ですね。確かにプレゼン能力はあるに越したことはありませんが、そんなものはおまけというかツールであるに過ぎません。ヱライひとにはそれがわからんのです。技術者がプレゼン能力の必要性に迫られる場面なんて限られています。強いて言えば論文に数式のせなきゃあかんから TeX の使い方を習得せにゃならん数学者にとっての TeX みたいなもんです。その人は数学のぷろへっそなるなんであって TeX のぷろへっそなるであるっちゅー訳じゃない。

だいたいコミュニケーション能力なんてもんは大学で習うようなもんじゃないでしょ。いや、もっと前の、例えば小中学校のレベルでそういう科目があってもいいんでないの? って議論ならまだ頷けますよ、そういう能力が必要だと思う合意がその地域にあるんならやればいいと思う。あるいは職業訓練所とか個人セミナーとか? 会社の研修でビジネスマナーとかでも正直反吐が出るけどまぁアリかな? でも大学はそういう場では無いでしょう。そもそも大学って、よりよく就職するために通う施設なのか? あくまで同好の士とともに学問を追究する場なのであって、就職とかはあくまでその結果の一部に過ぎないんじゃないの?

もちろん、仙石氏の言うとおり、こんな本来必要とされているようなものですらない似非コミュニケーション能力をもつ人材を本当に企業が欲しているのだとすれば、それは馬鹿げた話だし、そんな企業に就職しちゃうのは正直どうかと思うけど、一方で大学側が、卒業生が就職もろくにできないような大学では世間的に価値が落ちて受験生が減り、これからの少子化の時代に生き残れないからと、カリキュラムを捻じ曲げてまで企業に日和っているのだとしたら、そんな大学にこそむしろ入学しちゃうのは正直どうかと思ってしまうわけなのですよ。自分がやりたいことのために生きる以前に、そも自分が学びたいことの為に割ける時間がこんなくだらないカリキュラムの為に制限されてしまうんだとしたら、こんなバカバカしいことは無いでしょう。

へっへっへ2007年03月12日 13時00分53秒

実は似たようなギミックを使って、UI の実験をしていたりしますw

今のところ、以下のブラウザにて動作確認済みです。(すべて Windows XP sp2 環境下)

  • Internet Explorer 6 (スクロール時のウィンドウの動きが微妙だったり、右上のトグルボタンの形が微妙だったりします ^_^;)
  • Internet Explorer 7
  • Firefox 2
  • Opera 9 (ウィンドウをドラッグ移動しまくっているとあっさりクラッシュしてしまう模様。原因は不明。。。)

なお、サンプルページに書かれている内容はドラフトというか適当というかかなりデタラメなので現時点では信用しないでください。w

ページの左下に半透明のウィンドウらしきものが表示されると思います。タイトルバーらしきものをドラッグすると、ブラウザ内でドラッグ移動できます。

ウィンドウらしきものの右上のボタンを押すと、ウィンドウが大きくなって不透明化し、フォームが表示されます。この状態で、ウィンドウの右下隅辺りにマウスカーソルをポインタすると、マウスカーソルの形状が変わります。ここを掴んでドラッグすると、ウィンドウのサイズを変更できます。

この、ウィンドウの「移動」と「サイズ変更」に、document.styleSheets[0] への変更を用いています。詳細は、プログラム中の ChatWindowIf オブジェクト、特に ChatWindowIf.prototype.setupStyle メソッドと ChatWindowIf.prototype.updatePosition メソッド、そして ChatWindowIf.prototype.setPosition メソッド辺りを参照してください。

以下、dankogai さんの公開されているサンプルについて。手元の IE7 ではいずれのボタンも動作しません。恐らく以下が原因ではないかと思われます。

  • すべての関数で cssRules を取得する箇所で、以下のように記述されている行を、
          var rules = stylesheets[s].cssRules;
    
    以下のように書き換えてみて下さい。
          var rules = stylesheets[s].rules || stylesheets[s].cssRules;
    
    ややこしいことに、Windows 系 IE のみ、cssRules ではなく、rules となっています。
  • StyleSheet オブジェクトに対して、Windows 系 IE では、deleteRule メソッドは使用できないようです。また、insertRule は、Windows 系 IE では代わりに addRule を使用せねばなりません。CSSRule オブジェクト自体は、cssText プロパティは読み取り専用ですが、style プロパティ下の各プロパティへは書き込み可能ですので、セレクタが既に存在するスタイルへの変更の場合は、現在値との差分を見た上でスタイル要素ごとに分解して設定する、といったような面倒くさい実装になるんではないかと思います。。。(あるいは addRule メソッドがよしなに上書きしてくれるのかもしれませんが、定かではありません…そのうち試して追記するかも)

参考テキストとしては、amachang さんご提供のこちらなんかいかがでしょうか? (ちょっと横に長くて大変だけどw)

おいらが書いているプログラムについても、お気づきの点等あればご指摘いただけると幸いです m(_ _)m 。つか、Mac IE と Safari が試せる環境欲しいなぁ~。。。(おやくそく)

おべんきょ論蒸し返し2007年03月14日 10時45分16秒

上記過去記事についてふと思い出したこと。一度は納得した気になってしまったことなのだけど、やっぱりこのシチュエーションについていまいち納得できないことがあるので、今更だけど書くだけ書いておくことにしようかと思う。

当初の人力検索はてなでのお題に記されていた限りにおいて読み取れる状況は、以下の通り。

  • 自身は、学習塾の助手
  • 相手は、その学習塾に通う、小学校一年生の女の子。
  • 質問内容は、「どうして勉強しなきゃいけないの?」

これらのことから、どのような状況が想定されるのか?

「小学校一年生」ぐらいの子どもに対して、「勉強しなくてもいい」などというのは、想定される常識的な履修範囲からしてみれば、むしろ犯罪的なほど無責任なのではないか? という意見があった。しかし、この想定は、今回のケースにおいて、必ずしも真実ではないのではないか、と思えてきた。もちろん、杞憂であれば良いのだが、以下のような状況であることは、考えられないだろうか?

  1. 小学校一年生から既に学習塾に通わせている。→両親は学歴社会的圧力思考に敏感な可能性が高い。子どもの学習に対して強硬的な態度をとっていた可能性はないか?
  2. 地域的に、教育に対して関心の高い風潮があった可能性、あるいはそのことが地域の家庭に与える圧力を高めていた可能性 (いわゆる「偏差値の高い地域」)。
  3. 地域の親達が学習塾に、戦略的な知育指導を求めていた可能性、または、その潜在的要求を答える形での、学習塾間での競争があった可能性。指導範囲を先取りして予習させる形の「先取り指導」による無理な負担はなかったのか?

はっきり言って、おいらの感覚からすれば、小学校一年生からいきなり学習塾に通わせるなんてのは異常なのですよ。公文式とか子ども英会話とかその他の習い事系、スポーツクラブ系とかなら話は別ですが、よっぽどの強い意思が働いているわけでも無い限り、幼稚園出たばかりの右も左もわからん子どもを学習塾に通わせるという感覚はどうしても理解できない。本来この手の学習塾ってのは、当人にせよ親にせよ、学校での指導だけでは不十分だと判断したから通う/通わせるのであって、これが受験期などであればそういう実感が伴っていても仕方が無いかなとは思うものの、小学校への入学とセットで (あるいはその前からか?) じゃあ塾にも通わせよう、っていうのはあまりにも短絡的に過ぎるというか、学校信じなさ杉というか、思考停止にも程があるだろうとか思ってしまうわけですよ。

つまり、そういう状況があるという時点で、既にその子の親は子供とのまともな対話を図っていない可能性が高いと見ていいのではないかと、おいらなら疑ってしまうわけです。違いますか?

確かに小学校一年生ぐらいの子供というのは、好奇心旺盛で、何に対しても「なんで? どうして?」といろいろと聞いてくるものです。ですから、そうした何気ない質問の一つに、そういう内容のものが出てきてもおかしく無い、と考える人は多いかもしれません。

しかし、それに通じる文脈がなければ、その質問が出てくることは無いのです。その子が何故、「何で勉強しなきゃいけないの?」と聞いたのか。その子がそれまでの、親や、教師や、友達や、その他の大人達とのやり取りを通じて、「勉強」というものを、「しなきゃいけないもの」だと、理解したからなのではないですか? すなわち、その時点で既に、彼女にとって、勉強とは、自ら進んでやるものではなく、命令されるからこなさなきゃいけないものになってしまっていた。

つまり、「なんで勉強しなきゃいけないの?」なんて質問を、小学校一年生に繰り出させてしまうような教育って、なんなのよ? ということです。「勉強ってなに?」とか、「なんで勉強するの?」とかならアリですが、「勉強しなきゃいけないの?」はダメです。ダメダメです。だって、小学校一年生のお勉強なんて、本来苦しさよりも楽しさのほうが圧倒的に上回っているはずなんです。だってそうでしょう? そもそも「お勉強」という概念自体、彼らにとっては初めての体験なんです。家では勉強机なんてものがあてがわれて、もう気分はコーフン大絶頂です。「なんだかわかんねぇけど、オラ、すっげぇワクワクしてきたぞぉ」とか言っちゃうような心境です。そして入学を迎え、いよいよ授業。ひらがなだってカタカナだって、おうちで絵本読んでもう知ってたもんね。へぇぇ、「花」って、「草」が「化ける」って書くんだね。漢字って面白い!足し算? りんごの数ぐらい、見れば分かるよ。二桁の足し算? うわ、筆算ってちょー便利だ!すげぇ!生活? 信号が青になったら渡るんだよね? そういえば、うちのお父さん、どんなお仕事してるんだろう? 体育も音楽も図画工作も、楽しくて楽しくてたまらない!!

もちろん、個人差はあります。誰もがすべての科目を楽しめるわけでは無いでしょう。でも、基本的には、小学校の学習指導は、何れも興味・関心を抱いてもらうところから始めることが、小学校学習指導要領にも盛り込まれているわけです。

小学校一年生が大人に対して、「何で勉強しなくちゃいけないの」なんて聞いてくるような状況というのは、この、「学習に対して子ども自身に興味・関心を抱いてもらう」という基本路線に、大きく逸脱する事態です。そうした状況における子どもを取り巻く社会環境は、子どもを窮迫させる異常な環境であると断ぜざるを得ません。そのような状況下において、誠意ある大人がその子に示すべき態度というのは、本当に、「それでも勉強はしなくちゃいけないものなんだ」で良いのでしょうか? もう一度、その子達が今、置かれている状況について、見つめなおすべき時なのでは無いでしょうか…?

??? この訳おかしくね?2007年03月14日 19時04分00秒

つまり、REPLACE ステートメントでは、以前からあるレコードの値にはアクセスできないことになります。一部の初期バージョンの MySQL では、このアクセスが可能のように見えましたが、これはバグであり、修正されました。

Note that unless the table has a PRIMARY KEY or UNIQUE index, using a REPLACE statement makes no sense. It becomes equivalent to INSERT, because there is no index to be used to determine whether a new row duplicates another.

…どう考えても Excite での自動翻訳結果の方が正しいように思えてならないのだが。

Ikena Copyright2007年03月16日 09時22分50秒

こちらのコメントが興味深い。「どの程度の利用であれば容認するか」といったコントロールも可能であるとのこと。もっともこの技術によって、国境を越えて作品をお目にかけられない地域の人間が幸せになれるわけでは無いし、特に日本のコンテンツホルダーはこういうものがあっても単純に「20秒でも許さん」という運用で倒してしまいそうな気もする。そもそもフェアユースって概念が日本の著作権法には存在しないからなぁー。

大和総研の大学名フィルタリングシステム2007年03月16日 21時55分28秒

個人的には、出身大学名を採用・不採用の参考のひとつにすること自体にそれほど大きな問題があるとは思わない。いや、参考どころか、そこに最低基準を求めるような考え方や、あるいは特定の大学出身者のみをかき集めて青田刈りするようなやり方も、程度如何では白い目で見ることはあっても、例えばそのことに対して罰則規定を設けるべきだとはこれっぽっちも思わないし、そこに拘ることに科学的、統計的、もしくは社会的にでも意味があるというのであるならばそれを論理的に否定する気にもならない。

しかし一方でいわゆる「学歴差別」を批判する声が多くあり、そのような状況下において企業が新卒生採用に際してあからさまに大学名による差別を行っている実態を秘匿したいものとして、あるいはそうした企業が就職情報サイトにおいて

名前やイメージだけで、会社を選ばないでください。
私達も、あなたを表面だけでは判断しません。
お互いに深く理解して、採用活動を行いたいと思うので
まずは、あなたも当社のことを知ってください。

とした誠意の表明まで行っていながら、こんな簡単にばれるようなシステムで大学名による選り分けを行おうとしていたというのは極めてショッキングな出来事である。

モラルだとか誠意だとか言う以前に、あまりにも頭悪いし、学生舐め過ぎという部分が問題なのだ。このようないわゆる「学歴フィルター」を行っている企業というのは、恐らく過去にも同様に大学名による選り分けを実施してきているのであり、すなわちこうした企業に勤める社員の多くを、この選り分けの対象となるようないわゆる有名大学出身者で占めているのではないかと思われるわけだが、そうした本来「頭がいい学生」だったハズの人たちが、このような非常に頭の悪い方法で、学歴フィルターの実態を隠匿しようとしていたと言う事実が何を表すのか。彼らはいったい、大学で何を学び、そして社会に出て何を学んできたのかと、問いたい、問い詰めたい、以下略なのである。(古いな)

就職活動に臨む学生達は、このような企業の実態に直面した際には、危機感を覚えた方が良い。あなた達は今、非常に頭が良いかもしれないが、そんな会社に入社してしまえば、将来は彼らのような、おつむの弱い人間になってしまうかもしれないんだよ。残念ながらそればっかりは、現在の医学を以ってしても、治すことはできないのだから。。。

Rain Note トーク&ライブ行ってきたよ。2007年03月17日 23時08分33秒

これに行ってきますた (すぐに消えちゃうかもしれないので魚拓とっておくなり)。

Gen さんも Aramary たんも、楽しそうに音楽やってるなーって感じで、観ていて安心しました。トークも和やかで楽しかった。サウンドなんちゃらの時みたいなキャラ作ってる感じがなかったのも好印象。。。イベントの性質的に、っていうのもあるんだろうけど、物凄く近い感じがして、ああ、来てよかったなぁ、と心から思えるイベントでしたよ。

音楽的にも、やっぱりとてもいい。Aramary たんの歌声もさることながら。。。Gen さん、彼いいね。トークの間もキーボードでエレピで BGM とイカス (死語) 演出。楽器を自在に操って場の空気を作り上げることができるタイプ。それでいてのんびり屋さん気質が全面に出ていて、物っ凄く和みますw

帰り際、グッズを受け取りつつ 2人と握手ができたのですが、このとき付き添いのみみやんが感激のあまり涙。。。まぁ、いろいろと心配してたからね。ほんと、よかった。おいらも嬉しかったし。これからも、彼らにはずっと、音楽続けていて欲しいなぁ、と、心から願うおいらなのでした。