片腹が激痛2006年11月30日 18時18分26秒

以下、強調は T.MURACHI による。

安倍首相直属の教育再生会議の「規範意識・家族・地域教育再生分科会」(第2分科会)は29日、来年1月に打ち出す第1次報告の素案をまとめた。「子どもの『心の成長』のために」と題し、「家族の日」を創設し、家族一緒に夕食を取ることや、協力・助け合いの重要性を実感してもらうため体育の時間に「30人31脚」を行うことなどを提唱している。

(中略)

また、二人三脚を30人で行う「30人31脚」のほか、全国の小中学生が最高レベルの芸術を鑑賞する機会を与えること、いじめなどを題材とした演劇の鑑賞や演技を通じて「お互いの心の闇や過ち」を理解させることを提唱している。一方で、子どもに悪影響を与える番組を通報する窓口組織の新設も求めている。

    _, ._
  ( ゚ Д゚)
  ( つ旦O
  と_)_)

    _, ._
  ( ゚ Д゚)   ガシャ
  ( つ O. __
  と_)_) (__()、;.o:。
          ゚*・:.。

参った。ホンの一時でも安倍氏の教育改革路線に期待したおいらが馬鹿だったよ。

cover
大人問題
(五味太郎 / 講談社文庫)

いつだったか、「大人問題」から以下のセンテンスを引用したことがあったような気がするんだけれど、もう一度引用しておこうと思う。大なわとび教育がいかに間違っちゃった手段であるかということをよく認識して頂きたい。

■ いつだったか「大なわとびでギネスブックに挑戦」というテレビ番組がありました。学校の先生が生徒百何人を使って、記録に挑戦していました。いや、そうじゃない、生徒からの発案だ、自主性だ、と言うでしょうけど、それは甘い。見ているうちに、重たくなってきました。まあ、半分ぐらいはそういう馬鹿騒ぎが好きな、はしゃいじゃうタイプの子もいるんでしょうが、その一方には必ず、必死な、悲壮な子がいるわけです。
 結果的には成功しましたが、記録達成の瞬間にそういう必死な子たちが泣き出しました。それを、カメラで映してる大人は「成功したから感激して泣いている」と実に脳天気に見るわけです。
 冗談ではありません。ぼくにはその子たちがどんな気持ちだったのか、九割ぐらいはわかる。もう命がけです。失敗したら「おまえの足が引っかかったからだ、お前が真剣にやらなかったからだ」という形で村八分だったに違いないのです。だから、もし失敗するなら、みんなでいっぺんに引っかかってほしいぐらいのことを本気で思っていたんです。
 たかがなわとび、たかが遊びだからこそこわい。そういう教師はたぶん、みんなが心を合わせて一つのことを成し遂げた、それを自分がリードした、いい思い出ができた、ぐらいにしか思ってないんだろうなと思います。

そして氏は、そういった全体主義的な考えをよしとする姿勢を、戦争体制下の教育になぞらえて批判を展開していくわけですが、続きは是非本を買って読んでみて頂きたく。。。

大体ね、体育の授業で教えることじゃないですよ。そもそも道徳自体が授業として教授されるべきこととは思ってないですが、それでも何が悪で、どうあるべきかってことは、回りくどい方法で体験してもらおうなんて形ではなくて、はっきりと口で、言葉で伝えるべきです。定義どおりに。で、その言葉 (教え) の本質については、各自が各自の生活の中で、各自のコミュニケーションの中で、学んでゆくべきです。だから、子どもの周辺のコミュニケーションを改善する為に、街ぐるみ、地域ぐるみでの、人間の「見える化」を推進するような政策であれば、おいらも期待します。でも、「助け合いの気持ち」とやらは、「全体主義」を奨励するような授業内容では到底培われません。こんな小手先の、しかも間違った政策内容を以って、「教育改革路線」とか言ってるようでは、片腹痛いです。

「子どもに悪影響を与える番組を通報」ってのも、ドリフターズが全盛だった、かれこれ 20 ~ 30 年も昔の発想じゃないですか。。。orz

以下、参考サイト。

学力ってなんじゃらほい2006年11月24日 01時12分10秒

こりゃまた、随分とかっとんだ意見だなぁ。。。同意できる部分もあるっちゃあるけど、必要な知識を求める為に Web 上を検索して、実際見つけることはできたけれども、じゃあそうやって見つけた知識を理解することができるかどうか、ってのが、現状の学校教育において「学力の低下」が問題視されるところの最大の視点なんじゃないかと思うんだけどどうなんざんしょ?

例えばうちではいつだったかこんなもんをこさえているわけなんだけんども (あぁ、中途半端だ・苦笑)、こいつを作るに当たって、緯度と軽度から距離を求める方法を知る必要があって、その際この辺のサイトが役に立ったわけなんだけれども、その際、球面三角法より導き出されていた公式の正当性を確認するためには、この辺のサイトを参照する必要があった。とまぁ、このくらいの二重引用なら仕事効率的にはそれほど問題にはならんのかも知れんのだけれど、もしもおいらが三角関数の基礎的な定理を知らなかったら、後者サイトに記述された公式から、前者サイトの公式の正当性を導き出すことはできなかったわけで、そうなると今度は三角関数の基礎を学ぶ為にこの辺とかを参照しなきゃならなくなる。つか、そもそも「三角関数」って言葉を知らない人はどうなるの? とか、まぁそこまでいっちゃうとそもそもこんな仕事はやらんだろうとかいう話になりそうなんだけれども、結局のところ、学力のない人ってのは、例え世の中において知りたいこと (知識のソース) へのアクセス性が向上したところで、そのソースへたどり着くための術を知らないし、知ろうともしない人のことを言うのだと思うのよね。

で、実際問題としてそういう人ってのは増えているのかっちゅーと、それはおいらも正直知らない。でも教育の現場にいる人はきっと「増えた」って言うんだろうなぁ。ただ、教育のカリキュラムがいくら改悪されたところで、真に知識に対して好奇心旺盛で積極的なタイプの人にとってはあんまり関係のない話であるようにも思うし、逆に底辺は所詮底辺だと思うので、宙ぶらりんの、中庸な部分に散らばる平均的な人々の間でどうか、みたいな話になるのかなぁ。そういう意味ではもはや今に始まった話ではない気もしなくもないんだけれどね。


Fri Nov 24 02:17:56 JST 2006 - 追記

全体において大いに賛同 ;) 。すばらすぃ。

つか、個人的には大学は入学楽チン、卒業難儀な機関になってしまうべきだと思うけどね。で、留年野郎の学費せしめまくる分、全体の学費を下げるとか。

なるほど。2006年11月03日 01時21分42秒

「生徒に瑕疵はない」とする理屈がまかり通っているようだが、はたして、「全くない」といえるであろうか。

経済的スポンサーである親と、子と教師が協議し、受験科目を勘案し、進学校を決断した子にも責任はあるはずだ。

学校が、通知表を操作していることを、不思議に思ったり、疑問を感じたりしている子が、かなりいたことも事実だ。

個人と社会との関係づくりについては、幼児教育から積み上げていかなければ、利己主義を優先する社会を築いてしまうことになる。

「お受験」の手段を優先し、「教育」の目的をスポイルする、学校社会の「情けない」「悲しむべき」事情に、しっかりと目を向ける必要がある。

「競争原理」「勝ち負け」「格差」、こうした問題の存在を議論するとき、現在の教育システムの見直しは、避けて通れない課題のはずだ。

御意。

TV 報道ではまるで高等教育の目的が大学進学にあるという前提がまかり通っているかのようになってしまっている気がするが (とくにフジ系列)、問題の本質を履き違えるべきではない。今回の措置で「これでおしまい、めでたしめでたし」とするのではなく、また現場のみの問題として防止策ばかりを検討するのでもなく、指導要領の範囲 (高校のみならず小・中含めて) から指導体制、センター試験の内容、大学受験制度そのものに至るまで、見直すべき影響範囲は広いはずの問題であるという認識を持つことが、まず必要なのではないか。

もっとも、今回に限っては履修時間軽減に反対ではないんだけどね。むしろ「仮卒業」扱いにして後日テストを受けた人間に正式な卒業証書を渡す、とかでもいいんじゃね? とか思ったりもする。本音を言えば過去に遡って調査した上で、OB に対しても同様に対処して頂きたいところだけどね。漏れも高校で授業うけてーよwwwww

高校生の通学かばんは15kg2006年10月29日 23時21分08秒

特定の高校での話らしいので、「一般的な高校生のかばんの重さ」ということでは無いらしいのですが。。。

しかしあれだけ高校の必修逃れが話題になっているのに、その辺のことに触れてるコメントがほとんど見当たらない。。。タレこみ人が紹介しているコラムもろとも「電子化すればいんじゃね?」とか言い出しちゃっているのを真に受けて、指導要領のことにまで頭が回らんのだろうか。

ワイドショーを見るオバサマ方にしてみれば、いじめは他人事に過ぎないのよね2006年10月18日 23時26分54秒

読んでいて、「何をいまさら当たり前のことを。。。」と思ったわけだが、翻って、こんな当たり前のことを敢えておさらいしなければならないわが国の報道の質の低さを嘆くばかりだったりもするわけで。。。orz

ところで阿部ちゃんは教員免許は更新制にするべきじゃねみたいなことを確か言っていたような気がするんだけど、それに直接関連はしないけど五味太郎が「大人問題」で「学校がクラス替えで担当教師の割り当てを決めるんじゃなくて子どもに教師を選ばせろよ、学校が寿司屋なら教師は板前、子どもが客。客が店や板前を選ぶのは当然の権利だろう?」みたいなことを書いていたのを思い出したりしたわけだけれども。

とはいえ重要なのはバランスなのであって、確かに今の学校制度は学校主導で保護者が我侭、子どもは勝手で教師はリーマン、みたいな感じになっているわけだけれども、児童生徒が教師や学校を選べるようになったりするとそれが教師の査定に響いたり免許更新時の評価対象になったりすることになるんだろうけど、一方で怠けさせてくれる教師が人気出ちゃったりして全体として学力低下しちゃったり (現状大学にありがちw) 逆に学力というか数字で量れる成績ばかりを重視しちゃって一人の大人として・人としての付き合いとしてはどうなのよみたいな良くある展開みたいなのも考慮すると、いろんな角度から教師の実力・実績を評価してあげないといかんのではないかなぁとか思ってみちゃったりもするわけなんだけれども、その辺運用的にどうしようかみたいなことまで構想はできあがっていたりするものなんでしょうかね? なんて当たり前のことを考えてみたりするわけですけれどもw

真面目な教師が問題を抱え込む時代2006年08月21日 11時58分32秒

先日、こちらの記事にて、RFID を用いたセキュリティーシステムが子どもの仲良し分布を調査する目的で利用される可能性が示唆されている件を取り上げた際、コメント欄におけるやり取りにて、担当教師のブログ記事から読み取ったこととして、「どうやらいじめ問題などは教師ががんばって防がなきゃあかんもんだと考えているよう」だと書きました。そして、おいらの意見として、子どもの交友関係や生活実態を把握することは教師の仕事では無いとした上で、児童・生徒間で起こった交友関係上のトラブルについてまで、教師や学校が必ずしも責任を負うべきではない、ということを書きました。

タイミングよくして、こうしたことについて関係の深いニュースを見つけましたので、以下に紹介します。

おいらが中高生だった 90 年代初頭、いや、もうちょっと前からだったかもしれませんが、「サラリーマン教師」という言葉が取り沙汰され、廃止されてゆくクラブ活動の実態や、週休二日制の発足などに対して批判的な声が少なくない時代がありました。当時のメディア、そしてそのメディアを見てきた保護者の皆さんは、口をそろえて「今の学校・教師には常識が無い」と叫んでいた、そんな記憶があります。

上記の記事については、今朝、テレ朝の「スパモニ」にて、上記記事と同様のニュースを取り上げていたのを見て知ったのですが、この中で取り上げられている「保護者の声」とやらの例を見るにつけ、そもそも「常識」ってのは誰のためにあるんだろうなぁ、などと思ってしまうわけであります。

「常識」という言葉が通用するのは、そこに「密接した社会」が存在することを前提とするものである、とおいらは思います。実際には、「常識」などというのは個人が各々において、ごく個性的に持っているものであり、万人どころか、ほんの少し社会の枠組みを広げただけでも簡単に食い違ったりするものです。家庭での常識は地域の常識にあらず、地域の常識もまた、国の常識、世界の常識ではない、といった按配です。そして、例えば「地域の常識」というものが存在するのだとすれば、それは、その地域社会にコミットしているいくつもの家族が寄り合い、折り合いを合わせて醸成するものであり、その範囲は家庭内で醸成されるものよりも、ずっと狭い、ごくごく限定されたものであるべきです。

生っぽくて俗っぽい言い方をするならば、家庭には家庭の事情があり、地域にもまた地域の事情というものがあったりするわけです。時にこれらに対してマスメディアが干渉し、場合によっては社会現象やスクープとして取り上げられてしまう場合さえあったりします。毒カレー事件を通して取り沙汰された新興住宅地にありがちな対人関係だの、酒鬼薔薇事件を通して取り沙汰された少年犯罪心理だの、ルーズソックスの流行で取り沙汰された都内ガングロ女子高生の夜遊び事情だの、「当事者」の枠組みに押し込められた人々にしてみれば「ほっとけ」と言いたくなるようなことが、メディアによって、さも問題であるかのように取り扱われたりしてきたわけです。

そうした背景を踏まえたうえで、上記の記事を読み返してみると、イマドキの保護者というのは各自において独自の「常識」とやらを、なんだかやたらと社会に対して押し付けようとする世の中になってしまったんだなぁなどと思ってしまうわけです。この点については、おいらも最近結構身近に感じる出来事があったりして、実感として感じている部分も少なからずあったりするわけですが、それでもそういうケースというのはある程度「特別なもの」であるという、性善説に基づきそうな、甘い、願望にも似た気持ちも同時に持ち合わせていたわけです。今後は対人関係において、よりいっそう慎重さを持ち合わせて行動せなあかんなぁなどと、身の引き締まる思いで一杯です (ゴメンさすがにこの辺は棒読みw)。

話を本題へと移しましょう。こうした現状に対して、教師、そして学校はどう、臨むべきなのでしょうか。ここで、先に取り上げた産経新聞の記事の締めくくり部分、「学校保護者関係研究会」メンバーの嶋崎政男・東京都福生市教委参事の提案と、同研究会を発足した小野田正利教授の言葉を、以下に引用しましょう。

このような保護者への対応として、嶋崎参事は(1)複数の教師で対応に当たる(2)専門家のアドバイスを受ける(3)マニュアルを作る(4)事前研修の実施-などを提案する。

その一方で「学校に無理な要求をする保護者は皆何らかの問題を抱えている。その解決のために学校と話したいという意思表示と考えるべきだ」とし、要求を機に保護者を“味方”に変える努力を呼びかける。

小野田教授は「たてつかない弱者をいじめる“言った者勝ち”の傾向が社会に蔓延(まんえん)している」と指摘。社会問題としてとらえ、第三者機関の設置や学校の“守備範囲”の限定を訴えている。

島崎参事の 4つの提案事項については、おいらとしてはちょっと「場当たり的だな」という印象を受けます。しかしその一方で、小野田教授の訴えかける、「第三者機関の設置や学校の“守備範囲”の限定」というのは、非常に重要な課題であると思うのです。

ここでまた、RFID 友達分布調査の話題で渦中にある石井教諭のブログ記事に視点を移すのですが、石井教諭のように、子どもや、子どもを取り巻く環境が織り成す社会問題全体を、自分が教師として、あるいは学校全体として、一定の責任を持って臨まなければならない問題であると認識している教師は、決して少なくは無いと思うのです。そして、そういった教師の方々の苦悩が、結果として、うつ病を患って休職する教師の続出、という現実を招いているのではないかと思うのです。

これは、由々しき事態です。ここまで読んで、多くの方々は、非常識で過保護な保護者たちに怒りの矛先を (一時的に) 向けていらっさるかもしれませんが、その一方で、度重なる教育関係の話題を小耳に挟むたびに、教育者には子どもが見習うべき立場として、もっとしっかりして欲しいという思いを、これまで無責任にも抱いてきた方々というのは決して少なくは無いはずなのです (ここで一息落ち着いて冷静に自己を見直して欲しい)。あまりにも多くのことが学校教育に対して期待され続けた結果、あまりにも多くの問題を、責任問題として、学校、そして教師が抱え込まなければならない現状が醸成されてしまったのだとしたら、それはあまりにも悲しく、寂しい出来事です。学校という場にはより明確な存在意義があって然るべきであり、教師もまた、一人の人間として、その人権が認められて然るべきなのです。保護者が学校を通じて子ども社会に問題を見出したならば、学校や教師にその解決を押し付ける形ではなく、また、国や自治体の方針に乗っかる形で学校が (半ば盲目的に) プロジェクトを推し進めるのでもなく、自分たちの地域における現状を見つめなおした上で、学校側と保護者全体と、そして当事者であるはずの子どもたち自身と (ここが本当は最も重要) がお互いに協力し合って、解決のための方策をつど模索してゆくべきなのです。

そんなわけで、学校側と保護者側との対話というのは重要だという話になるのですが、おいらとしてはそれ以上に、教師の方々の意識のあり方として、様々な問題に対して硬直してしまい、問題意識を抱え込み過ぎるようなことがないようにするのもまた、大切であると思います。これについては、単純に教師の気の持ちようという部分もあるにはありますが、メディアによる報道や、国や自治体などのお上からの要請、そして一部の声のでかい保護者からの強い要望などが、教師が問題意識を抱え込みがちな状況を助長しているという側面もあるのではないかと思われます。そうしたことに対抗できるだけの、教師の職場環境の改善、学校組織の体制のあり方などが問われるときなのではないでしょうか。その、一つの解決案として、小野田教授の訴えかける「第三者機関の設置や学校の“守備範囲”の限定」ということが、今後は重要になってゆくのではないかと、おいらは思うわけであります。

大人問題2006年07月12日 11時27分09秒

これ以上カテゴリが増やせないのが悔しい。。。「読書」カテゴリ作りたいんだけどなー。

「大人問題」 (五味太郎 / 講談社)。文庫じゃない方は 1996 年 (97 年?) に出ているので内容的には若干古いのですが、社会を取り巻く状況は大して変わっていなさそうなので今でも十分通用する内容ではあると思います (残念ながら)。

散文集です。どんな内容なのかをおいらがいちいち説明するより、一部を抜粋して引用してしまった方が早いように思います。例えば以下のようなことがつらつらと書かれています。

■ この国は「努力」というものを過大評価する国です。人様のために働いてきた歴史が長いからだろうと思われます。お代官様に「こんなに汗水たらして働いてるんですよ」と見せなくてはならなかった歴史がかなり続いてきたんだろうと思います。もし自分のために働くという単純な行為がそのまま行われていたら、努力は決して評価の対象にはならなかっただろうし、「努力」なんて墨で書いて貼る必要も無かったと思います。

■ 生まれつき車椅子に乗っている女の子が書いた文章を読んだことがあります。「わたしははじめっからこれだし、これに慣れてるし、これ以外味わったことがないから、十分普通に暮らしている。なのに、会う人ごとにみんなが『がんばってね』と言う。もうやめてよ。それさえやめてくれたら、明るいのに。いったい何をがんばるの?」というような意見、感想文です。

■ どうやら、大人の普通の暮らしが、朝から晩までがんばっているらしい。がんばって駅行って、がんばって電車乗って、がんばって会社行って、がんばって挨拶する。そして「がんばり料」という感じで給料をいただいているらしいのです。

その大人の暮らしの反映があまりにもナマのまま、子どもにきてしまうのかしら。学校も「がんばりましょう」「がんばりました」で子どもを評価する。でも、子どもはまだそんなに帳尻合わせるような人生の時期ではないのです。「がんばりましょう」「がんばりました」では色気がなさすぎます。

■ いつだったか「大なわとびでギネスブックに挑戦」というテレビ番組がありました。学校の先生が生徒百何人を使って、記録に挑戦していました。いや、そうじゃない、生徒からの発案だ、自主性だ、と言うでしょうけど、それは甘い。見ているうちに、重たくなってきました。まあ、半分ぐらいはそういう馬鹿騒ぎが好きな、はしゃいじゃうタイプの子もいるんでしょうが、その一方には必ず、必死な、悲壮な子がいるわけです。

結果的には成功しましたが、記録達成の瞬間にそういう必死な子たちが泣き出しました。それを、カメラで映してる大人は「成功したから感激して泣いている」と実に能天気に見るわけです。

冗談ではありません。ぼくにはその子たちがどんな気持ちだったのか、九割ぐらいは分かる。もう命がけです。失敗したら「お前の足が引っかかったからだ、お前が真剣にやらなかったからだ」という形で村八分だったに違いないのです。だから、もし失敗するなら、みんなでいっぺんに引っかかってほしいぐらいのことを本気で思っていたんです。

たかがなわとび、たかが遊びだからこそこわい。そういう教師はたぶん、みんなが心を合わせて一つのことを成し遂げた、それを自分がリードした、いい思い出ができた、ぐらいにしか思ってないんだろうなと思います。

■ 戦争のころもこうやってたんでしょう、たぶん。みんなが非国民と言われぬよう、ひたすら耐えていた。「戦争に挑戦!」というイベントのような形で。そういう大きなイベントのために命令一つで機械的に動く人間を育てておきたいという亡霊のような文化が、いまだにあるんだなとつくづくいやになります。

その手の時代錯誤な人々が、かつての軍部や政府にいるならともかく、あろうことか学校に、幼稚園にいるんですからね。それこそ昔の言い方で言うなら、小国民の現場にいるのです。恐ろしい話です。そういう「全体が動くことが大事だろ」と言われたら反論できないような、重たい重たい文化の中で、「個」がとってもしんどい思いをしているのを感じます。

給食を残すなと先生に言われ、昼休みに一人残って給食を食べさせられていたという記憶、ありませんか? おいらは好き嫌いはほとんどなかったのですが (それでも昔はなめこやとろろ昆布など、苦手な食べ物もありました)、それ以上にとにかく食べるのが遅かったため、低学年の頃は昼休みどころか掃除の時間まで返上して一人で給食と格闘していたものです。当然、掃除は事実上免除されるわけで、同じクラスの人間には煙たがられたものの、まぁ気楽なものでした。

給食居残りなんてのはそのクラスの教師が勝手に敷いている俺様ルールなわけです。子どもはそうした大人が作るルールに常に翻弄されながら生きています。子どもと接する機会がある大人ならば、子どもを制することを考える前に、まず、自分がかつては子供であったことを思い出してみてはどうでしょうか。

この本を読んでいると、かつて自分も子供であったことを思い出し、共感することが多々あるように思います (半ば決め付けに過ぎるところも多いし、すべてに共感できるわけではないけどね)。

ほっとけない in 千葉大学2006年04月30日 00時40分10秒

本題に触れる前に一応おいらの立ち位置について再確認。おいらはこのキャンペーンに賛同する意思を持って、白いものを体に身につけたことはないし、今のところ、自分がそのような意思を持つ可能性は低いと思っています。

しかしながら、そんじょそこらのホワイトバンド賛同者などよりは、よっぽどこの市民活動に対して関心を寄せている自信はあります。いや、ごめんなさい。ぜんぜん不勉強なんですけどね。(←弱っ)

さて、千葉大にて講義という形で行われているこの活動、なかなか興味深いので取り上げさせて頂きました。次回お忍びで見に行ってこようかなぁ(とかゆ)。

以下は第3回の講義内容より引用。

「(中略…)エイズは、新薬の登場で、死ぬ病気ではなくなってきたが、高い薬を買えない途上国の子どもたちは死んでいる。薬が高いのは特許、知的所有権によって発明者が特別な利益を得るしくみのため。命を尊重するのか、知的所有権という経済的な権利を尊重するのか。この問題が裁判になったとき、日本は知的所有権を重視した国のひとつだった。この裁判は、初めほとんどの関心を持たれなかったが、エイズ患者みずからが法廷に立ったことや、命の尊重を選ぶことを意志表示した人々がたくさん現れたことで国際的な関心が高まった。そして、裁判官は命の尊重を選ぶ判決をくだした。(…中略)」

背景については、例えばこの辺なんかを当たってみるとわかりやすいかも。情報量ではこの辺が多いけど、これを全部追っていくのはさすがに大変かな。キーワードは、「ドーハ宣言」と「TRIPS」。より関心を高めたいのであれば、これとかこれなんかも目を通してみると良いかと。

しかし知的財産権が人命保護への足枷になるという観点はなかなか重要なものだと思う。個人的には、関連して容易に思い出されるのが、著作権とデジタルメディアの関係だったり、特許とソフトウェア技術の関係だったりするわけですが。知的財産権の多くは、本来弱者に保障されるべき権利の一部ないし全てを犠牲にして成り立っているんだなぁなんて。


さて。以下は単なるイヤミだ。

まずは、第2回の講義内容より引用してみる。

ホワイトバンドはつけるだけで終わりじゃない。

前振りは前振りでしかないと思うのでばっさりカット \(^O^)/

おいらが白いものを (ホワイトバンドキャンペーンへの賛同の意を示す目的で) 身に着けることをしない理由について、ここで一度述べておこうと思う。

市民活動と言うものは、本来、立ち上げの意思に対する賛否を問う前に、先ず参加の意思を示し、その上で、各自が意見をぶつけ合うことによって、活動全体が成熟してゆくものであるべきだ。重要なのは以下の 3 つ。

  1. テーマが明確であること。
  2. 参加者がテーマに関心を寄せていること。
  3. 参加者がテーマに関して積極的に議論を交わすこと。

1 は達成されている。日本では不明確だったのはお金の流れの話であって、テーマ自体は決して不明瞭だったわけではない。あくまでテーマは「貧困問題」である。もっとも、Live8 がキャンペーンの大元であり、関心の対象が主にアフリカであると言う点が十分周知されていたかは確かに微妙なところではあるが。

そして、問題は 2 と 3 にある。確かに、キャンペーンの存在自体については、一時的にではあるが関心が寄せられたのは事実である。しかしその関心は、あくまでキャンペーンの華やかさ、ファッション性に対するものが中心で、もちろん、「1秒に 3 人の子供が死んでいる」→「かわいそう」という思考論理で関心を寄せた方も多くいらっさったのも事実だが、それはあくまで「1秒に 3 人の子供が死んでいる」という出来事に対する関心でしかなく、キャンペーン自体の方向性や、関係する事務局、代理店、NGO の活動や、その後の社会的な動向に対する関心にまでは繋がっていないのが現状ではないか。

そして、こうした肝心の「関心」と「議論」について、ホワイトバンドキャンペーンの (特に、日本の「ほっとけない」キャンペーンの) やり方では、市民活動として定着してゆくことはなさそうだ、という空気を感じ続ける限り、おいらはどうしてもこのキャンペーンに賛同の意を示す気にはなれないのである。

活動の趣旨、具体的な方向性に対して、賛同できるか否かは、この市民活動に参加すべきか否かを決める基準としては、実は重要ではない。何故なら、その方向性に問題があると思うならば、むしろ参加して、自分が声を上げることによって、その方向性を修正するよう努めるべきだからだ。でも、そもそもキャンペーン自体が市民活動としての成熟を望んでいるように見えない状況で、そこに市民としてどうコミットのしようがあるのだろうか。

以前、ザンビア政府の対応がホワイトバンドを支持するブロガーの間でちっとも話題にされていないということを書いたが、今回千葉大学にて行われている講義についても、ご多分に漏れず、ほとんど話題にされていないようである。今回はテクノラティに限らず、ブログ検索に対応したいくつかの検索サイトにて、「ホワイトバンド 千葉大」で検索した現時点の結果を ウェブ魚拓にしたものを、以下に示す。

関連する記事として引っ掛かるのは、あたしのき・も・ち さまと、coccoloのdiary さま、そして紹介している大本営記事だけなのである。あまりにも語られなさ過ぎだ

ただ、そうした中で、とりわけ今回の千葉大での講義については、珍しくまともな活動、すなわち光明なのではないかと思うのだ。

「ほっとけない」のこれまでのキャンペーン行動は、ファッション性や派手さ、著名人を利用した抜群の広告力によって、力ずくで効率的に多くの人に周知する方法を採ってきた。その結果として、本質的な問題への関心は一過性に終わり、キャンペーンは現在、振り出しに戻っている状態、と言えるのではないかと思う。

今回、大学での講義という形を取ることによって、限られた人数ではあるが、本質的な内容について、十分に時間をかけて語り合う場を設けている。これは、キャンペーンを推進する事務局において、大きな進歩であると思う。

願わくば、同様の進歩を、参加 NGO も、それからホワイトバンドを身に着けるという形で支持し、参加している市民たちも、遂げるべきだ。それが為されるのであれば、キャンペーン立ち上げ時の、カネに関する疑惑など、些細な問題と言い切ってしまってもさしたる問題ではあるまい。

更に言うならば、かつて「ほっとけない」キャンペーンに対して強い疑惑や不支持を示していた方々 (敢えて名指しをするならば、まとめサイトなどを作っていた 2 ちゃんねる界隈の方々とか、かつて「ホワイトバンド撲滅キャンペーン」を敷いていたはずの毒電波TV さま、それからうちにも tb を送ってくださっていた、かなり詳細に突っ込み入れまくっていらっさったハズの水谷まちこのSPAM大好き! さま、他にも有名どころの blog で疑惑を展開させていたところは相当あったハズだし、一部マスコミも当然含む) についても、同様のことが言えると思うのだ。本気で疑惑を追いかけるつもりがあるならば、彼らは今でも疑惑を追い続けているべきだし、その為には現在の「ほっとけない」周辺の動きについては注目し、話題として積極的に取り上げてゆくべきだった。

結局、キャンペーンそのものがファッションならば、それに対する批判でさえもまた、ファッションに過ぎなかったのだ。こういうことが繰り返されるにつれ、つくづく、この国にはジャーナリズムは存在しないのだと嘆いてしまうのである。

ケータイが必要な世の中にしたのは誰だ。2006年04月19日 15時19分57秒

中学や高校になると、都市部では電車による通学が有り得る。ここまで年齢が進むと、携帯電話を持たせるかどうかは本人の自主性に負うところが大きくなるのだが、逆にそれだけ多くの人に囲まれている状態で、携帯電話が安全を確保する装置として機能するかというと、そこは疑問の余地があろう。

痴漢にあったら、携帯で親にメールしてもしょうがあるまい。また事故などで電車が止まるようなことがあったとしても、果たして携帯電話で親に連絡してどうにかなるものなのか。

そういう時こそ、勇気を持って見ず知らずの他人に助けを求めたり、あるいは事故に対して何もできない自分に対して無力感を感じたりというほうが、社会生活に対する学習効果としては正しいような気がする。携帯電話のおかげで、自分だけが一本釣りで助かったような状況というのは、都市型社会では考えにくいのではないか。それよりも、見知らぬ他人とコミュニケーションをするという状況に強制的に身を置くというのも、一つの教育の考え方としてはアリかもしれない。

違う違う。使い方が間違ってますよ。連絡ってのは、非常時に使うものではなくて、無事であることを確認しあうためにするものです。どういう事件や事故に巻き込まれているか、それを解決するにはどうすべきか、などと言うことはこの際重要ではないんです。親はただ、子供の帰りが遅いことが心配なだけで、その理由を知るための連絡手段が確保されていることに安心を覚えるのです。

駅に掲示板があったり、街中のいたるところに公衆電話が設置されていた頃であれば、「ケータイは必要か不要か?」といった議論には意味がありました。ケータイを持っていなくとも、他に外出先からの連絡手段はいろいろとあったからです。おいらが子供の頃だって、当時はケータイなんて存在しなかったけど、親にテレフォンカードを持たされて、何かあったときにはそれを使って電話を入れるようにと躾けられていたものです。

ケータイの普及により、駅の掲示板はほぼ全廃と言う勢いで撤去され、公衆電話もあまり見かけなくなりました。ケータイを持っていなければ、他に連絡を取る手段があまりない世の中になってしまい、連絡のための生命線がケータイのみに委ねられるようになってしまいました。

これはこれで危険なことです。何故なら機械は、いや、機械を使う人間は、万能ではないからです。電池が切れてしまうかもしれないし、落として壊してしまうかもしれない。家に置きっぱなしで忘れてきてしまったために、待ち合わせていた人に多大なる迷惑をかけてしまったこともあります (ケータイのアドレス帳に慣れてしまうと、いちいち他人の電話番号を覚えなくなってしまう為)。紛失はそのまま関係する人間の個人情報流出に繋がります。連絡手段をケータイに依存すると言うことは、それだけ大きなリスクを背負うことになります。

そうしたリスクを軽減するには、公共の連絡手段が充実していることが絶対条件であるのに、実際にはかつて充実していた公共の連絡手段がどんどん失われてゆこうとしているのです。だから、結果として、ケータイに依存せざるを得ない状況に追いやられているのです。

そういう理由で、おいらは今の時代を生きる子供にケータイを持たせることは、かなり高い優先度で推奨されるべきことであると思います。

情報処理教育の重要性2006年03月17日 18時39分36秒

興味のある方は是非、一次情報をご一読ください。

彼らの主張を要約すると、大体こんな感じでしょうか?

  • 一連の情報システムに関連する事件における共通の原因は、それらの事件に関係する人間が、情報処理技術に関するごく基礎的な技術的背景を持たないことにある。
  • 長期的に根本的に解決するには、全国民に、情報処理技術に対する基礎的な技術的素養を持っていただく必要がある。
  • そのためにも、情報処理教育を小中高からしっかり充実させることが肝要である。
  • なお、従来の場当たり的な「情報教育」とは異なり、「情報処理教育」においては、 コンピュータの本質は「手順的な自動処理」であることを、体感的かつ具体的に理解 されることを目的とするものである。

現時点で上記が、何語でしゃべってんだかすら解からないような人は、将来的に再教育が必要になるのかも解からんね。

んで、おいらとしては、この動きは歓迎したいところであります。アジャイル開発という考え方が議論されるようになり、従来の、「顧客(発注者)」と「システム技術者(受注者)」という対立的な関係から、一歩進んで、「運用の専門家」と、「情報処理技術の専門家」という協力的な関係へと発展し、それぞれの専門的知見から、お互いに協力し合ってシステムを開発してゆこう、という考え方に移行しつつあります。発注者と受注者の、関係的、物理的距離を、もっともっと近づけてゆこう、という流れになりつつあるのです。

そうした中で、発注側と受注側とのディスコミュニケーションは、円滑な仕事を妨げる要因となってしまいます。作るのはシステムなのですから、どうしても情報処理に関する技術的な部分のやりとりが発せざるを得ないわけですが、どう説明されても理解できない発注者、わかりやすく噛み砕いて説明することのできない受注者、という関係では、認識の齟齬が生まれてしまうのも無理はないのであります。

必要なのは、技術的な専門用語を知っているということではありません。海外においてコミュニケーションを交わす際に、英単語や英文法を知っているだけではダメで、相手の国の文化に付いて理解している必要があるのと同様、技術的な会話を成立させるためには、やはりお互いに基礎的な情報技術に対する理解を持ち合わせていることが必要なのです。

今までは、受注者の側に、一方的に「明快な」説明責任が求められましたが、情報処理技術に関する教養が一般的なものになれば、説明も、職務上の会話でさえも、より円滑に行われることが期待できるようになることになります。この国の情報技術の未来のためにも。。。よろしく頼んまっせ!!>文部科学省