無線LANセキュリティ関連メモ ― 2006年12月28日 00時38分51秒
- 訂正ありご注意→セキュリティのセの字も考えてないライブドアの公衆無線LANサービス (Web屋のネタ帳 さま)
MACアドレスのよくある誤解その2: 「MACアドレスはその機器(PC等)の持ち主しか知りえない」
そんなわけない。Windowsのコマンドプロンプトを開いて「arp -a」とたたいてみよう。
- livedoor Wirelessのラの字も考えてないWeb屋のネタ帳の誤読記事 (最速インターフェース研究会 さま)
実際のところは事前にWEPキー(申込み時にユーザー毎に割り当てられる10文字程度の英数字)を機器にあらかじめ設定しておくことが必要
これも間違い。そういう形態でサービス提供することは不可能だと思う。書いていい話なのかどうかわからないけど自分が知る限りlivedoor WirelessのWEPキーはユーザー毎ではなく全ユーザー共通。これは低価格の公衆無線LANでは(たぶん)一般的なんじゃないかと思う。複数使い分けられるのはあった気がする。 - livedoor Wirelessの話の続き (最速インターフェース研究会 さま)
2. 技術的な抑止力があるかどうか
担当者じゃないんで知りませんが、同じMACアドレスが物理的に離れたアクセスポイントで使われてたら不正利用だってのはわかるよね。あとMACアドレスで製品名わかるはずなのでゲーム機でSPAM送信してたらおかしいとか、そういう。 - HiromitsuTakagiのブックマーク / 2006年12月27日
不正アクセス禁止法2条の定義の「識別符号」。ISBN4-8037-0915-7によると「識別符号は利用権者等に付されるものでなければならない」「機器に付される識別情報は識別符号に該当しない」とあるが、3条2項2号に該当するか?
なるほど。。。いろいろと勉強になりますた。そんだけ。w
そういやおいらの周囲には NDS 持ってる人が結構いるから、このへん↓もついでにリンクしとこう。
- ニンテンドーDS を考慮した無線 LAN のセキュリティ設定 (Landscape - エンジニアのメモ さま)
- 暗号化に WEP しか使えないニンテンドーDS は無線 LAN のセキュリティを弱くする (同上)
不安な方は設定修正いたしまする。>関係者各位
本当は著作権なんて考えたくないのよ。 ― 2006年12月28日 03時31分25秒
駄目だ。やっぱり気になって眠れない。気になって、というよりは、後で書こうと思っていることを忘れてしまいそうで眠れない。完全に Blog ジャンキーだw。年明けたらしばらくネットからは離れていようかなぁ。。。
そんなわけで、遅い朝を迎えてから書くつもりだったけど、やっぱり今書くことにします。但し、ファンヒーターに灯油を給油するのは億劫なので、ベッドの中からノート PC にて。誤字・脱字はご容赦を。それから、究極的に眠い頭なので以前書いたことと矛盾してたりするかもしれません (「眠れない」のに「眠い頭」とか言ってる時点ですでに矛盾)。
コメントどもです。(^^)
とりあえず、記事中で槍玉に挙げていらっさるナガブロさんについては、個人的にはタメになる記事もいっぱい書いているし (これとかこれとか、その他もろもろ…)、指摘されている「暴言」についても、(以下、こちらの記事のコメント欄からの引用、強調は T.MURACHI による)
インターネットなどで権利切れの著作物が活用されるということが強調されることもありますが、最近はやりの再チャレンジ税制などの就職がらみのコラージュにしてもすべて権利保護されている著作物です。権利者にとって保護期間の過ぎた著作物の利用価値はゼロに近いというならば、それは利用者にとっても同じではないでしょうか。
と、あくまで当事者における仮定の話をしているのであって、nagablo 氏本人が「保護期間の切れた著作物は無価値だ」と思っているわけではないのでしょう。
んで、まぁそんなことはどうでも良いのですが。
著作物の類似性については、非常にグレーゾーンとなっています。音楽や絵画など芸術性の高いもの類似性など凡人には分かりづらい、 感覚的な部分が含まれているからです。
しかし、だからこそ、どこまでがシロで、どこからがクロかを判断するガイドラインとして法律が必要だと思っています。例えば、 思想は似ててもいい、デザインは似ていちゃダメなど。この問題を避けていると「パクリ」、「盗作」 問題はいつまで経っても解決しません
パクリに対する寛容の範囲規定の必要性については、おいらもこちらの記事の締めくくりで以下のように言及しました。
最近の松本零士とか見てると、著作権の保護が、自由な創作を妨げる可能性について、本当に頭が痛くなってきます。参照できる環境が整っていればよい、という問題ではないでしょう。過去の創作に対する、新たな創作への自由が、どの程度の範囲まで認められるべきか。また、その範囲を、法的に、どの程度明確に定義できるのか。といったあたりが焦点になるのでしょうか。
んが、同じように「明確に定義すべきだ」という人は良く見かけるのですが、具体的に「ここまでは新たな創作として認めるべきだ」と提言してくれる人というのは、トンと見かけないのであります。
で、おいらとしても、やっぱりこの辺のスタンスを曖昧にしておくのは卑怯だよなぁとか思ったりもするので、できることならその線引きを明快に論付で示して見せたいところなのではあるのですが、いかんせん、いくら頭を捻っても、妥当な回答というのがおいらの中では確立し得ないのであります。
例えば漫画の場合、段階的に見れば以下のような要素がありうると思います。
- 抽象的な世界観の流用。ex) 「ガンダム」的な世界観を頂いちゃってる「マクロス」。。。嘘、ヲレ、超テキトーなこと書いてるw
- シチュエーションの流用。ex) 「サイボーグ009」的な _終わり方_ を頂いちゃってる「炎の転校生」。。。これは某同人誌で本人が明かしていたからたぶん間違いないw
- 手段や道具などの流用。ex) 「銀河鉄道の夜」の「銀河鉄道」をまんま頂いちゃってる「銀河鉄道999」。。。ちゃんと許可もらってるらしいです。
- キャラクターの外見の流用。ex) 同じ漫画家が過去の作品から流用するケースは腐るほどあるんだけどね。のび太→キテレツとか、神様→亀仙人とか、ケンシロウ→前田慶次とかw
- キャラクターそのものを利用、もしくは具体的な世界観の共有。ex) いわゆるパロディー系同人誌とか、勝手にゲスト出演とか。
- 実際に使われた画の転写、流用。ex) 最近流行の再チャレンジ税制などの就職がらみのコラージュとかw
もっと細分化できるかもしれないしもっといい例示ができそうな気もするけどw、とりあえず。道義的には何とも言えない所だけれど、法的および実際的な運用においては 1 ~ 4 は白、5 はグレー、6 は黒、って感じなのかなぁ。もっとも、1 ~ 4 でも黒になるケースが絶対に無いとは言えないし、5 は実際に任天堂がポケモンの同人描いた人を親告した前例がある。6 だって実は微妙で、基本的にはいけないことなんだろうけど、例えばトレース紙で体や構図を転写し、それを自分風の絵柄で肉付けしてから、自作のキャラの顔を入れる、ということをやってる漫画家さんは結構いらっさるようで、それがすべからく黒であると言えるのかというと。。。
さらに、漫画だけを考えるのであればまぁ、まだ楽チンだったりするわけだけれども、それじゃあ音楽の場合はどう解釈すりゃいいの? となると、例えば以下のように段階分けできたりするわけではあるのですが、
- リズムを流用する。これはもうまんま「音楽ジャンルの選択」と言い換えられます罠。
- コード進行を流用する。定番のコード進行ってのはあったりするわけでこれももはやパブリック・ドメイン。
- 技法を真似する。じゅでぃまり→ひすぶる、うただ→くらき、みたいな。
- メロディーの一部 (ほんの 1 フレーズとか) を流用する。この辺から怪しくなってくる。
- 歌詞の一部 (決め台詞っぽい部分とか) を流用する。ex) 「♪もぅ 恋な~ぁんっかぁ したくないぃ~ したくな~いぃ~の~ぅすぁ~」 → 「♪もう恋なんてしないなんてー 言わないよぜぇたいー」とか
- 曲全体を流用し、リアレンジする。所謂「カバー」。
- 録音を素材として流用する。ex) はんだやレイブとか。
1 ~ 3 は白、6, 7 は許可が必要。4, 5 がグレー。
4 は違法だというのは簡単だけれど、これ、気をつけるのは結構難しい。オクターブ違いの音を同音とみなすならば、西洋音楽の構成する音階は 12 しかなく、この組み合わせでかつ音楽的にまともに聞こえるメロディーラインというのはどうしても限られてきちゃうからだ。だから変なところで転調を入れてみたり、ある音だけをやたらと伸ばしてみたりして回避している人もいる。でも、オリジナリティって、本来そうやって確保するべきものなの? って、おいらは結構本気で悩んでしまう。
歌詞だって、ほんの一言二言が同じだからこれはパクリだとか突然言いだすのは、ある意味言論弾圧にも等しい行為だ。でもその一方で、明らかに意図的に (生産性を上げるための手段として)、あっちゃこっちゃの詩集とかから頂いた言葉を適当に構成して歌詞にしちゃってる人もいたりする。感情的に捉えるならば、これらを一緒くたに語るのは不公平だということになるだろう。
そして、いざこれらを法としてまとめようとする場合に、漫画におけるボーダーラインと、音楽におけるボーダーラインを、どのような言葉を用いて合理的に融合することができるだろうか? あるいは、作品種ごとに別個にボーダーラインを設定するのだろうか? この辺の「法設計」の問題もある。融合しようとして、結局曖昧な表現になってしまうのであれば意味はないし、別個に設定する場合にはどういう分け方をすればいいのかでも一悶着起こることになるだろう (小説と随筆は分けるべきか、とか、歌詞は音楽の要素として含めるべきか、とか、漫画から TV アニメのように、作品種を横切るようなケースは? とか)。
考えれば考えるほど、頭はパンクしてしまうわけなのでありますよ。てゆか、いつのまに「である」調になってんだこの文章は? まぁいいか。
で、おいらの本音をここでやっと明かさせて頂くならば、ぶっちゃけ「全部許せ」なのです。いやほんとに。なぜならその方がどう考えてもすべての創作活動を行う人間にとって公平だから。
なので、おいらとしては「どの程度のパクリなら ok か?」という議論には、実はあまり興味は無いのです。パクリだって面白いぞ? 君はサンサーンスの「動物の謝肉祭」は「白鳥」以外聞いたこと無いのか? と。「亀」なんて、「天国と地獄」の単なる遅回しじゃないかと。まさに同時代に生まれた音楽だよ。よく演奏されていたからこそ、その面白いパロディが作られたわけだ。で、そいつは今でも両方ともそれぞれ演奏もされているし、楽譜も出版されている。今の時代に無断でやったら間違いなくしょっ引かれるような作品が、偉大なる古典として扱われている。現代人のおいらがこれを不公平と言わずして、何を恨めというのか。
実際のところ、経済的な話をすれば、「天国と地獄」に対する「亀」のような作品が現代において作られたところで、「天国と地獄」に相当する作品の著作権者が不利益を被るということはほとんど無いのではないかと思うのです。それどころか、「天国と地獄」を知らなければ、「亀」は楽しめないわけですから、元ネタである「天国と地獄」はますます聴かれるようになる。「亀」が「天国と地獄」の売り上げに貢献する、という構図のほうが、よっぽどリアリティがあるのです。
特に、口コミ効果を世界規模に圧縮するインターネットの時代においては、その傾向は顕著です。のまネコは何故あれだけ売れたのか。ドラえもんを用いた Flash 作品を見て The Offspring の「ALL I WANT」を買ったという人も少なくないと聞きます。
もちろん、二次創作が一次創作およびその作者を侮辱するものである場合、精神的にも経済的にも損害を被ることになることもあるでしょう。しかし (これは以前にも書きましたが)、それは本来著作権ではなく、著作者人格権において問われるべきものです。あるいは、侮辱罪の著作物への適用、などといったアプローチで検討されるべきです。
音楽業界は3%程度、出版業界は5?10%程度の印税率が使われています。使い古された例ですが、Amazonのアフリエイトが3%?5%であることを考えると、本や音楽を作るより、アフリエイトサイトのひとつでも運営した方がマシというのが実情です。
書いてる文字数、割いてる労力、託す情熱の割りに、うちのブログはアフィリエイトで稼げていない気がする。。。てゆか、1 年近く続けていますが、お金が振り込まれた実績はまだありません。(つД`)・。
まぁ、営業努力が足りないんだろうな、きっと。しくしく。。。
# いや、もちろん、「印税が少ない」という意見には諸手をあげて大賛成なのですが (^_^; 。
書籍や音楽のように原価率の低い業界で、...
書籍については知らんのですが、音楽については、またちょっと事情も違うかもしれません。確かに、ここ最近の機材の発達と低価格化により、レコーディング、およびマスタリングにおける機材インフラの格差はかなり縮まりました。しかしコンサートやライブという形態になると、レコード会社の後ろ盾がある人と個人とでは、演出としてできることの幅はやはり大きく違います。Sound Horizon がなかの Zero でスクリーミングマットジョージ演出によるあのすばらしいコンサートを開くことができたのも、彼らがベルウッドレコードでプロデビューを果たすことができたからこそでしょう。広い会場での集客が見込め、ライブの録画 DVD の売り上げが見込めるからこそ、あれだけの規模の演出、バックバンドの動員、オリエンタルな楽器の導入が可能だったのだとすれば、あれと同じものを個人に求めるのはおそらく不可能であり、そういう部分にレコード会社の存在価値を見出すことはできます。
まぁ、彼らの場合は、その後がよろしくなかったわけではありますが。。。
ただ、いずれにせよ、前回も書いたとおり、放送・出版・レコード各社が今後はその存在意義をすり減らしてゆくことは間違いないでしょう。無くなるわけではないでしょうが (有能な技術者・編集者の囲い込みはむしろ激化するかも)、結社すること自体がそれほど重要ではない時代にはなってゆくでしょう。
吉田がこの問題で危惧するのは、著作者が商業ベースで著作物を作るより、同人やネットなどの直販、もっと極端に言えば、著作物そのものを作らなくなる方が文化的な損失が大きいと思っています。保護期間の延長は中間業者の権利を保護するだけで、文化的にはまったく寄与してないと思っています。
まったくその通りだと思います。
思うのですが、しかしそもそも現行の著作権法が (ベルヌ条約含め) 文化的保護ではなく、著作権者の経済的保護を目的として作られちゃっている法律なので、そこを主眼に論理を重ねても、実際の利害関係者や法律やさんとはどうしても話が噛み合わなくなってしまいます。
それだったら、おいらとしては文化的使命を語ることよりも、むしろ相手の土俵で経済的観点に目を向け、梅田望夫的視線でコンテンツ商売の今後を語ることにより、従来の著作権的保護の姿勢が如何に旧時代的で非効率的であるかを割り出してゆくほうが、より建設的で有益な結論へと導けるのではないかと思うしだいなのでございます。
具体的行動としては、レッシグ教授という方法論もあるわけですが。;)
。。。なんだかんだでもう朝じゃないか (T-T)。とりあえず (とりあえず?) ここまで。今から寝るか。。。寝るのか? >ヲレ
ほーじょーほーじょーほじょほじょほーじょー ― 2006年12月28日 20時23分08秒
金子裁判 (Winny 開発者裁判) は幇助の有無を問う裁判なのだから、有罪にするにしてもその理由を (高木氏の言うような) Winny の技術に求めるのではなくて、金子氏の 2 ちゃんねるでのやり取りなどと言った行動から論理だてて実証するのが筋じゃね? という話。
思うに、法律関係の人や、法律関係に関心の高い人は、この裁判が幇助の有無を問う裁判である点を重視しているように思う。そうじゃなくて、純粋に技術方面専門で法律関係の理解に乏しい人は、そもそもこの裁判が幇助の有無を問う裁判であること自体はあんまり重視しておらず、その認識の違いが意見を違えさせる原因になっているんじゃないかなぁ。
そう考えると、なんだか幇助罪をつけるのは、凶悪犯罪(felony)だけでいいのではないかとおっさられていた dankogai 氏の意見が一番的確であったようにも思えてくる。そもそもこんな程度のことで幇助罪なんて使って起訴するなよと。
で、法律やさんは「まぁ、そうなんだけど、でも実際問題としてそれで検察が起訴しちまったんだから仕方ねーじゃん」と言いつつその場しのぎの弁護手段を講じたり判決解釈に勤しんだりして、当の「そもそも法整備しようよ」という話には到底行き着かず。。。
…ちょっと気持ちが暗くなってきた。しばらく Winny の話はやめよう。
実名公開時代 ― 2006年12月28日 22時53分01秒
本当はプログラムの構想があってそれ作るつもりでいたんだけど、朝寝しちゃったのと日中出かけてたのとブログ巡回で時間つぶし過ぎちゃったおかげでなーんにもできんかった。仕方がないから戯言でも書いてみるテスト。
ja.wikipedia の品質が悪いのは日本固有の匿名文化のせいじゃね? という話。発言に対する責任をうやむやにできることで、何を書いてもヘーキ的な精神的安堵がいい加減な情報を発信することを加速しているっちゅーワケだわね。
池田氏の記事からリンクされていた以下の記事も紹介。
まずおいらのことについて書いておこうと思う。おいらはこのブログでは本名を明かしていないが、ある程度ネットの技術に詳しい人であれば、探せば見つけられる場所で公開されちゃっている。それをこの場で積極的にリンク貼って示そうとは思わないし、敢えてここに本名を書く気もないんだけど、実際問題としてこのブログの管理主として紐付けられるような場所に本名が公開されちゃっていること自体について、おいら自身は大して気に留めていなかったりもする。
そもそも T.MURACHI ってハンドル自体、本名をそのままもじったようなものだし、普段から周囲では「むらち」で通ってるし、リンクしている兄貴のブログではフツーに本名公開しちゃっているわけだから、まぁ少なくとも苗字が「ムラヤマ」であることはバレバレなワケですが。。。
んで、じゃあ何でわざわざハンドルなんか使っているのかというと、正直、仲間内でパソコン通信やっていたときから使い続けてきたハンドルネームだった故、ネット上で名乗る名前としてはこっちの方がしっくり来ると言うか、使い慣れちゃっているからなのだと思います。いや、「思います」って、自分のことに関して言ってる割には何だか曖昧な意思表明ですが。
で、おいらの所感として、ネットにおける匿名でのやり取りについては、その思いは正直微妙です。概略すると、「ありだけど、最小限に止めて欲しい」といった感じです。で、本音としては、「本名なんか別にいらないけど、同一人物であることが識別できるようにはなっていて欲しい」と思っています。
ネットでのやり取りにおいて、本名にこだわること自体については、あんまり意味を感じません。メディア等を通じて、肩書きとセットで既に著名な人間である場合には話は別ですが (でも芸人は所詮芸名であって本名ではなかったりもしますが)、現実世界においてそれが誰なのかを特定することに興味を抱く人というのは、特殊な事情が絡まない限り小数であると思われるからです。
但し、職業は別です。もちろん、本名を明かさないのであれば、職業の詐称は容易になるわけで、そう言う意味では確かに本名の開示は発言者の責任の所在をより明確なものにすると言えます。何れにせよ、何らかの専門的な分野について語っているのであれば、語っている人がどういう職業のどういう地位につく人なのか、という属性情報は、一定の評価対象となりえます。(ちなみにおいらは現在無職、某独立系ソフトウェアハウスに 6 年間勤めていました)
しかし、本質的には、この辺の情報はそれほど重要じゃないんです。「サニタイズ」って概念に踊らされたり hiden
属性潰しに無意味に躍起になる Web 系開発者が大勢いたことが明かされるようなご時世に、肩書きだけで一定の安心感を担保しようという考え方にはあんまり同調できないからです。結局は、実際に読んで咀嚼して、他の情報と比較するということを繰り返しながら、個々の情報の信憑性を評価してゆくしかないのです。その作業さえ怠らなければ、匿名が発信する情報にも価値のあるものが決して少なくはないと言うことに気がつくはずです。
しかし一方で、匿名が責任の所在を曖昧にするという点については、使い方の難しい諸刃の剣であるように思います。スラッシュドットなんかはその落としどころの提案の一つを示していて、よーするにモデレーションという機構がゴミを (表示上) 排斥してくれるおかげで、Anonymous Coward (以下、AC) によるあまり価値のない投稿が五月蝿くなくなるという、一見それなりにバランスが取れてそうなシステムに出来上がっています。しかし、そもそもモデレーションという行為自体が匿名で行われている為、モデレーションの品質自体がよろしくなく、結果、あんまりモデレーションが当てにされていないという事態を招いてもいます。
しかしそれでもスラッシュドットが AC による投稿を許しているのは、匿名でなければ投稿しにくいような情報をも吸い上げたいというニーズがあるからでしょう。例えば特定の企業に関するストーリーに対して、その企業の関係者が、内部事情について書き込みたい (あるいは逆に、内部事情を知りたいから、関係者に書き込んで欲しい) 場合などです。
しかし、内部事情に関する話題が長続きしてしまう場合、やり取りの間で、その AC とは別の AC が、あたかもその AC であるかのようなフリをして、誤った情報を書き込む荒らし行為が発生しうるというリスクもあります。実は、このリスクについてのみ言えば、「トリップ」をその場で作れる 2ちゃんねるのほうが優れていたりします。まさに、2ちゃんねるは匿名での情報発信に特化されたツールであるといえます (良くも悪くも)。
で、ハンドル名や「トリップ」のような機構は、ある発言と、別の発言が、同一人物によってなされたことを確認することができるという意味で、読者に一定の安心感をもたらすことができます。おいらは、少なくともネット上における日常的なやり取りにおいては、これは最低限必要な要素であると思います。特に、「トリップ」のような、同一人物であることをシステムが保証する機構というのは、情報を閲覧する人間にとっては、非常にありがたいものです。
ブログというツールが普及してありがたいと思うのは、トラックバックによるやり取りを継続する限り、ブログの URI が「トリップ」と同等の役割を果たしてくれるという点にあります。そのおかげで、相手の素性を知れなくとも、普段どういった情報を発信している人間であるかということを知ることはでき、それをわきまえた上でやり取りすることができる。そういう安心感が、ブログというツールにはあるように思うのです。
ネット上での匿名性も実名性 (って変な言葉だなw) も、多くの場合、それで十分であるように思います。
しかし Wikipedia、運用大変そうですね。Wikipedian たちの多大なる功労には、つくづく頭が下がるばかりであります。。。m(_ _)m
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