本当は著作権なんて考えたくないのよ。2006年12月28日 03時31分25秒

駄目だ。やっぱり気になって眠れない。気になって、というよりは、後で書こうと思っていることを忘れてしまいそうで眠れない。完全に Blog ジャンキーだw。年明けたらしばらくネットからは離れていようかなぁ。。。

そんなわけで、遅い朝を迎えてから書くつもりだったけど、やっぱり今書くことにします。但し、ファンヒーターに灯油を給油するのは億劫なので、ベッドの中からノート PC にて。誤字・脱字はご容赦を。それから、究極的に眠い頭なので以前書いたことと矛盾してたりするかもしれません (「眠れない」のに「眠い頭」とか言ってる時点ですでに矛盾)。

コメントどもです。(^^)

とりあえず、記事中で槍玉に挙げていらっさるナガブロさんについては、個人的にはタメになる記事もいっぱい書いているし (これとかこれとか、その他もろもろ…)、指摘されている「暴言」についても、(以下、こちらの記事のコメント欄からの引用、強調は T.MURACHI による)

インターネットなどで権利切れの著作物が活用されるということが強調されることもありますが、最近はやりの再チャレンジ税制などの就職がらみのコラージュにしてもすべて権利保護されている著作物です。権利者にとって保護期間の過ぎた著作物の利用価値はゼロに近いというならば、それは利用者にとっても同じではないでしょうか。

と、あくまで当事者における仮定の話をしているのであって、nagablo 氏本人が「保護期間の切れた著作物は無価値だ」と思っているわけではないのでしょう。

んで、まぁそんなことはどうでも良いのですが。

 著作物の類似性については、非常にグレーゾーンとなっています。音楽や絵画など芸術性の高いもの類似性など凡人には分かりづらい、 感覚的な部分が含まれているからです。
 しかし、だからこそ、どこまでがシロで、どこからがクロかを判断するガイドラインとして法律が必要だと思っています。例えば、 思想は似ててもいい、デザインは似ていちゃダメなど。この問題を避けていると「パクリ」、「盗作」 問題はいつまで経っても解決しません

パクリに対する寛容の範囲規定の必要性については、おいらもこちらの記事の締めくくりで以下のように言及しました。

最近の松本零士とか見てると、著作権の保護が、自由な創作を妨げる可能性について、本当に頭が痛くなってきます。参照できる環境が整っていればよい、という問題ではないでしょう。過去の創作に対する、新たな創作への自由が、どの程度の範囲まで認められるべきか。また、その範囲を、法的に、どの程度明確に定義できるのか。といったあたりが焦点になるのでしょうか。

んが、同じように「明確に定義すべきだ」という人は良く見かけるのですが、具体的に「ここまでは新たな創作として認めるべきだ」と提言してくれる人というのは、トンと見かけないのであります。

で、おいらとしても、やっぱりこの辺のスタンスを曖昧にしておくのは卑怯だよなぁとか思ったりもするので、できることならその線引きを明快に論付で示して見せたいところなのではあるのですが、いかんせん、いくら頭を捻っても、妥当な回答というのがおいらの中では確立し得ないのであります。

例えば漫画の場合、段階的に見れば以下のような要素がありうると思います。

  1. 抽象的な世界観の流用。ex) 「ガンダム」的な世界観を頂いちゃってる「マクロス」。。。嘘、ヲレ、超テキトーなこと書いてるw
  2. シチュエーションの流用。ex) 「サイボーグ009」的な _終わり方_ を頂いちゃってる「炎の転校生」。。。これは某同人誌で本人が明かしていたからたぶん間違いないw
  3. 手段や道具などの流用。ex) 「銀河鉄道の夜」の「銀河鉄道」をまんま頂いちゃってる「銀河鉄道999」。。。ちゃんと許可もらってるらしいです。
  4. キャラクターの外見の流用。ex) 同じ漫画家が過去の作品から流用するケースは腐るほどあるんだけどね。のび太→キテレツとか、神様→亀仙人とか、ケンシロウ→前田慶次とかw
  5. キャラクターそのものを利用、もしくは具体的な世界観の共有。ex) いわゆるパロディー系同人誌とか、勝手にゲスト出演とか。
  6. 実際に使われた画の転写、流用。ex) 最近流行の再チャレンジ税制などの就職がらみのコラージュとかw

もっと細分化できるかもしれないしもっといい例示ができそうな気もするけどw、とりあえず。道義的には何とも言えない所だけれど、法的および実際的な運用においては 1 ~ 4 は白、5 はグレー、6 は黒、って感じなのかなぁ。もっとも、1 ~ 4 でも黒になるケースが絶対に無いとは言えないし、5 は実際に任天堂がポケモンの同人描いた人を親告した前例がある。6 だって実は微妙で、基本的にはいけないことなんだろうけど、例えばトレース紙で体や構図を転写し、それを自分風の絵柄で肉付けしてから、自作のキャラの顔を入れる、ということをやってる漫画家さんは結構いらっさるようで、それがすべからく黒であると言えるのかというと。。。

さらに、漫画だけを考えるのであればまぁ、まだ楽チンだったりするわけだけれども、それじゃあ音楽の場合はどう解釈すりゃいいの? となると、例えば以下のように段階分けできたりするわけではあるのですが、

  1. リズムを流用する。これはもうまんま「音楽ジャンルの選択」と言い換えられます罠。
  2. コード進行を流用する。定番のコード進行ってのはあったりするわけでこれももはやパブリック・ドメイン。
  3. 技法を真似する。じゅでぃまり→ひすぶる、うただ→くらき、みたいな。
  4. メロディーの一部 (ほんの 1 フレーズとか) を流用する。この辺から怪しくなってくる。
  5. 歌詞の一部 (決め台詞っぽい部分とか) を流用する。ex) 「♪もぅ 恋な~ぁんっかぁ したくないぃ~ したくな~いぃ~の~ぅすぁ~」 → 「♪もう恋なんてしないなんてー 言わないよぜぇたいー」とか
  6. 曲全体を流用し、リアレンジする。所謂「カバー」。
  7. 録音を素材として流用する。ex) はんだやレイブとか。

1 ~ 3 は白、6, 7 は許可が必要。4, 5 がグレー。

4 は違法だというのは簡単だけれど、これ、気をつけるのは結構難しい。オクターブ違いの音を同音とみなすならば、西洋音楽の構成する音階は 12 しかなく、この組み合わせでかつ音楽的にまともに聞こえるメロディーラインというのはどうしても限られてきちゃうからだ。だから変なところで転調を入れてみたり、ある音だけをやたらと伸ばしてみたりして回避している人もいる。でも、オリジナリティって、本来そうやって確保するべきものなの? って、おいらは結構本気で悩んでしまう。

歌詞だって、ほんの一言二言が同じだからこれはパクリだとか突然言いだすのは、ある意味言論弾圧にも等しい行為だ。でもその一方で、明らかに意図的に (生産性を上げるための手段として)、あっちゃこっちゃの詩集とかから頂いた言葉を適当に構成して歌詞にしちゃってる人もいたりする。感情的に捉えるならば、これらを一緒くたに語るのは不公平だということになるだろう。

そして、いざこれらを法としてまとめようとする場合に、漫画におけるボーダーラインと、音楽におけるボーダーラインを、どのような言葉を用いて合理的に融合することができるだろうか? あるいは、作品種ごとに別個にボーダーラインを設定するのだろうか? この辺の「法設計」の問題もある。融合しようとして、結局曖昧な表現になってしまうのであれば意味はないし、別個に設定する場合にはどういう分け方をすればいいのかでも一悶着起こることになるだろう (小説と随筆は分けるべきか、とか、歌詞は音楽の要素として含めるべきか、とか、漫画から TV アニメのように、作品種を横切るようなケースは? とか)。

考えれば考えるほど、頭はパンクしてしまうわけなのでありますよ。てゆか、いつのまに「である」調になってんだこの文章は? まぁいいか。

で、おいらの本音をここでやっと明かさせて頂くならば、ぶっちゃけ「全部許せ」なのです。いやほんとに。なぜならその方がどう考えてもすべての創作活動を行う人間にとって公平だから。

なので、おいらとしては「どの程度のパクリなら ok か?」という議論には、実はあまり興味は無いのです。パクリだって面白いぞ? 君はサンサーンスの「動物の謝肉祭」は「白鳥」以外聞いたこと無いのか? と。「亀」なんて、「天国と地獄」の単なる遅回しじゃないかと。まさに同時代に生まれた音楽だよ。よく演奏されていたからこそ、その面白いパロディが作られたわけだ。で、そいつは今でも両方ともそれぞれ演奏もされているし、楽譜も出版されている。今の時代に無断でやったら間違いなくしょっ引かれるような作品が、偉大なる古典として扱われている。現代人のおいらがこれを不公平と言わずして、何を恨めというのか。

実際のところ、経済的な話をすれば、「天国と地獄」に対する「亀」のような作品が現代において作られたところで、「天国と地獄」に相当する作品の著作権者が不利益を被るということはほとんど無いのではないかと思うのです。それどころか、「天国と地獄」を知らなければ、「亀」は楽しめないわけですから、元ネタである「天国と地獄」はますます聴かれるようになる。「亀」が「天国と地獄」の売り上げに貢献する、という構図のほうが、よっぽどリアリティがあるのです。

特に、口コミ効果を世界規模に圧縮するインターネットの時代においては、その傾向は顕著です。のまネコは何故あれだけ売れたのか。ドラえもんを用いた Flash 作品を見て The Offspring の「ALL I WANT」を買ったという人も少なくないと聞きます。

もちろん、二次創作が一次創作およびその作者を侮辱するものである場合、精神的にも経済的にも損害を被ることになることもあるでしょう。しかし (これは以前にも書きましたが)、それは本来著作権ではなく、著作者人格権において問われるべきものです。あるいは、侮辱罪の著作物への適用、などといったアプローチで検討されるべきです。

音楽業界は3%程度、出版業界は5?10%程度の印税率が使われています。使い古された例ですが、Amazonのアフリエイトが3%?5%であることを考えると、本や音楽を作るより、アフリエイトサイトのひとつでも運営した方がマシというのが実情です。

書いてる文字数、割いてる労力、託す情熱の割りに、うちのブログはアフィリエイトで稼げていない気がする。。。てゆか、1 年近く続けていますが、お金が振り込まれた実績はまだありません。(つД`)・。

まぁ、営業努力が足りないんだろうな、きっと。しくしく。。。

# いや、もちろん、「印税が少ない」という意見には諸手をあげて大賛成なのですが (^_^; 。

書籍や音楽のように原価率の低い業界で、...

書籍については知らんのですが、音楽については、またちょっと事情も違うかもしれません。確かに、ここ最近の機材の発達と低価格化により、レコーディング、およびマスタリングにおける機材インフラの格差はかなり縮まりました。しかしコンサートやライブという形態になると、レコード会社の後ろ盾がある人と個人とでは、演出としてできることの幅はやはり大きく違います。Sound Horizon がなかの Zero でスクリーミングマットジョージ演出によるあのすばらしいコンサートを開くことができたのも、彼らがベルウッドレコードでプロデビューを果たすことができたからこそでしょう。広い会場での集客が見込め、ライブの録画 DVD の売り上げが見込めるからこそ、あれだけの規模の演出、バックバンドの動員、オリエンタルな楽器の導入が可能だったのだとすれば、あれと同じものを個人に求めるのはおそらく不可能であり、そういう部分にレコード会社の存在価値を見出すことはできます。

まぁ、彼らの場合は、その後がよろしくなかったわけではありますが。。。

ただ、いずれにせよ、前回も書いたとおり、放送・出版・レコード各社が今後はその存在意義をすり減らしてゆくことは間違いないでしょう。無くなるわけではないでしょうが (有能な技術者・編集者の囲い込みはむしろ激化するかも)、結社すること自体がそれほど重要ではない時代にはなってゆくでしょう。

吉田がこの問題で危惧するのは、著作者が商業ベースで著作物を作るより、同人やネットなどの直販、もっと極端に言えば、著作物そのものを作らなくなる方が文化的な損失が大きいと思っています。保護期間の延長は中間業者の権利を保護するだけで、文化的にはまったく寄与してないと思っています。

まったくその通りだと思います。

思うのですが、しかしそもそも現行の著作権法が (ベルヌ条約含め) 文化的保護ではなく、著作権者の経済的保護を目的として作られちゃっている法律なので、そこを主眼に論理を重ねても、実際の利害関係者や法律やさんとはどうしても話が噛み合わなくなってしまいます。

それだったら、おいらとしては文化的使命を語ることよりも、むしろ相手の土俵で経済的観点に目を向け、梅田望夫的視線でコンテンツ商売の今後を語ることにより、従来の著作権的保護の姿勢が如何に旧時代的で非効率的であるかを割り出してゆくほうが、より建設的で有益な結論へと導けるのではないかと思うしだいなのでございます。

具体的行動としては、レッシグ教授という方法論もあるわけですが。;)

。。。なんだかんだでもう朝じゃないか (T-T)。とりあえず (とりあえず?) ここまで。今から寝るか。。。寝るのか? >ヲレ

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
おいらがやっている会社の名前をひらがな4文字で。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://harapeko.asablo.jp/blog/2006/12/28/1077390/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。